第三章① 五人組
夕刻。闇がゆっくりと街を覆い始めていた。
「よーし、今日もパァーッと行くか!」
港の水夫たちが群がって歩く様を、マテオは遠目から眺めながら足取りを引き摺るように歩いていた。たまに靴底が石畳に擦れる。やがてバイオリンの音楽が鳴り止まない通りに入ったところで、水夫たちが一軒の建物に吸い込まれていった。バルコニーから派手な化粧した女たちがマテオに手を振り、マテオも軽く振り返した。水夫の一人がマテオを振り返る。
「なあ、兄ちゃん。早く行こうや」
マテオは口角を上げ、光を失った水色の瞳を向けながら水夫に鼻を鳴らして一歩、踏み出した。
——またマテオの料理、食べたいんだ。
革の編み上げブーツの鳴る音が止まる。開け放たれた扉から漏れる四角形の灯りが石畳に落ちている。その灯りの中で、マテオは長い影を伸ばして佇んでいた。騒々しい室内から水夫が「どうした」と声をかけてもマテオから反応はない。やがて、ブーツの靴先が影の方を向いた。
「帰るわ」
「えー?」
水夫が灯りの中で声を張る。
「そんな、せっかく女の子たちと約束したのにー?」
「飽きた」
マテオは四角形の明かりから足を抜け出したところで振り返った。水色の瞳が煌めいているのは、灯りの反射ではない気がした。
「てめらで勝手に楽しんでろ。これで最後な、オレは自分一人で楽しむ」
「あー、はいはい。そうですか。まあ君、潔癖なところあるし」
マテオは軽く手を振るだけに留めて、建物に背を向けて歩き出した。石畳の通りを鳴らすブーツは音も軽快に間も空かずに響いていた。
ルキフェルは外套を纏い、剣帯に下げたカットラスに指を走らせた。留め具、刃の重み、腰への収まり具合。何度目かも分からない確認。それでも指先は落ち着かなかった。
「やっぱりな……今夜は晴れる」
ルキフェルの胸の奥で嫌な確信が形になる。ニールとコリンが戻ってくる前に。できればジャスパーの目も掻い潜って。一人で行くために。ルキフェルは自室の扉に手をかけ、音を殺して開いた。船内はすでに薄暗く、夕暮れと夜の境目に沈み込んでいる。足音を消し、壁に沿って進んだ。息を整え、階段へ。甲板へ続く段に差しかかったところで彼は一瞬足を止める。テーブルに突っ伏したまま、ジャスパーが眠っている。無防備な横顔。荒くも穏やかな寝息。……今だ。そう判断するより早くルキフェルは身体を動かしていた。階段を駆け上がるが、外に飛び出したところに現れた影と声が行く手を塞いだ。
「……ルカ?」
ルキフェルは反射的に立ち止まった。目の前にいたのはマテオだ。夕闇の中でも分かる、整った顔立ち。思いがけず近い距離に一瞬、ルキフェルの思考が真っ白になる。見つかった。しかも、よりによってこいつに。心の中で悪態をつきながら、ルキフェルは視線を逸らさずに低く唸った。
「……なんで、ここにいる。普段なら、夜遅く帰ってくるだろ」
自分が思っていたよりも声は低かった。苛立ちがそのまま滲んでいる。マテオは一瞬きょとんとしたあと肩をすくめた。
「んー、まあ気まぐれだな。今夜も遅くなる予定だったんだけどよ。コリンに『また料理食いたい』なんて言われたら、遅く帰る理由もなくなる」
そう言って、マテオはにかっと笑った。彼の笑顔を見た瞬間、ルキフェルの胸に苛立ちが走る。なんで、そんな顔ができる。だが、マテオにとって自分の笑みは作りものだった。それに気づく余裕は、今のルキフェルにない。相棒の意図も感情も。すでにうまく掴めなくなっていた。
「お前も食えよ。少しは、まともなもん食わないと」
マテオは何事もないように言い、そのままルキフェルの横を通り過ぎようとして足を止めた。外套の隙間から覗く、銀の光。剣帯に下げられた刃。マテオの表情が一瞬で変わる。
「……どこ行くつもりだ?」
二人の間に張りつめた沈黙が落ちる。先に口を開いたのは、ルキフェルだ。
「……散歩」
彼の言葉が素っ気なく終わる前にマテオが即座に切り捨てる。
「嘘つくな。ルカ、正直に言え」
逃げ道は最初から塞がれていた。ルキフェルは舌打ちをひとつして、視線を逸らさずに吐き捨てる。
「……海軍に復讐する」
空気が凍りついた。マテオはすぐには返さず、ルキフェルを見つめていた。その沈黙がかえって重い。やがて、マテオが絞り出すように口を開く。
「……ルカ。船長は復讐なんて——」
「奪われたんだ!」
マテオの言葉は最後まで届かなかった。ルキフェルが怒鳴り、拳が震えて喉の奥から怒りが噴き出す。
「奪われたんだよ……! あいつらは……俺から、フランソワを奪った! だったら、今度は俺が奪う! 同じように、全部だ!」
言葉はもう刃だった。マテオは一歩踏み出しかけて止まる。
「……だったら」
マテオは瞬時に地を蹴って回り込み、ルキフェルの行く手を塞いだ。
「オレが止める」
刹那、マテオが殴りかかった。最初の一撃はルキフェルの頬をかすめるが、次の瞬間には反撃が返ってきた。拳と拳がぶつかる音。甲板に響く、鈍い衝撃。言葉はもうない。あるのは力と怒りだけ。マテオは食らいつく。何度も立ち上がり、何度も殴るが、ルキフェルの動きは容赦がなかった。数合も経たず、勝敗は決まる。マテオは甲板に倒れ伏し、動けない。呼吸が荒く、拳は震えたまま床を掴んでいる。ルキフェルはマテオの姿を見下ろした。
「……悪いな。俺一人で行く。お前らは来るな」
ルキフェルは踵を返し、甲板の縁へ向かった。船を降りる直前、ルキフェルは一度だけ振り返った。
「一緒に復讐したくなったら歓迎する」
それだけ言い残し、彼は小型ガレオン船から飛び降りた。足音が闇の中へ遠ざかっていく。マテオが痛みに喘ぎながら地を張っていると、階段を駆け上がる足音が乱暴に響いた。
「おい、どうした!」
ジャスパーが甲板に飛び出した瞬間、視界に飛び込んできたのは無様に倒れ伏したマテオだった。
「っ、マテオ!」
ジャスパーは慌てて駆け寄り、膝をついてマテオの肩を掴んだ。息はあるが、身体が言うことをきかないらしい。マテオの唇がわずかに動いたが、声にならなかった。その頃、ルキフェルは入江を抜け、一目散に街へと駆けていた。夜気を裂くように前だけを見て。途中、向かいから二つの影が現れる。
「ルキフェル!?」
「待って、どこ行くの!?」
ニールとコリンだった。が、ルキフェルは視線すら向けない。二人の声は背後で霧散した。
「……ルキフェル?」
困惑の残るコリンの声を置き去りにして、彼は走り去った。ニールとコリンは顔を見合わせ、嫌な予感に突き動かされるように入江へ駆け出した。小型ガレオン船に辿り着いた瞬間、目に入った光景に二人は息を呑む。
「……マテオ?」
ジャスパーが必死にマテオの肩を揺すっている。
「おい、しっかりしろ! マテオ!!」
ニールとコリンも駆け寄り、三人がかりで彼の身体を起こした。マテオは喉を鳴らし、荒い息を吐く。
「……っ、あいつ止めろ……」
マテオの掠れた声に三人の背筋が凍る。ジャスパーが顔を寄せた。
「誰だ。ルキフェルか?」
マテオは震える指で甲板を掴みながら、はっきりと頷いた。
「あいつ……海軍の元に行く気だ」
その目はもはや焦点が定まっていなかった。一瞬、言葉に詰まる。マテオにとって、ルキフェルはただの仲間じゃなかった。親友で光で、背中を追い続けた存在だった。だからこそ、その名を口にしたくなかった。
「……あいつは……悪魔だ……! 復讐する気だ!!」
吐き捨てるような叫びだった。ニールが息を呑み、コリンが震えた目でマテオを見る。ジャスパーは何も言えず、ただ唇を噛み締めた。マテオは荒い呼吸のまま低く続ける。
「……だから、オレ……」
言葉はもう続かなかった。光みたいだった相棒はもういない。自分の中で何かが完全に壊れたことをマテオは理解していた。甲板の上には、重たい沈黙だけが落ちる。その夜、残ったのは復讐を選んだ名と、呼ぶことを拒まれた悪魔の名だけだった。
ルキフェルはまず夜を待った。夕陽が完全に沈み、街から色が失われた頃に彼はようやく動き出す。外套のフードを深く被り、剣帯の位置を確かめる。今すぐにでも一人ずつ喉を掻き切ってやりたい衝動が胸の奥で燻っていたが、陸地で捕まるほど愚かではない。今は獲物を選ぶ時間だ。足音を殺し、気配を読む。夜の街は饒舌だ。酒場の笑い声、裏路地の喧騒、すべて避けるように、ルキフェルは倉庫街へと向かう。軋む木箱の影で足を止めた瞬間、船乗りたちの会話が耳に届いた。
「沿岸警備、増えてるらしいぞ」
「この辺りだってさ。面倒なことになったもんだ」
ルキフェルの口角がわずかに歪む。好機だ。彼は迷わず港へ向かった。人気のない寂れた桟橋。月明かりに照らされた小舟が一隻、まるで最初から用意されていたかのように揺れている。
「……しめた」
低く呟き、ロープを解く。誰にも気取られぬよう、小舟は音も立てず桟橋を離れ、暗い海へと滑り出していった。目指すは水夫どもが口にしていた海域。復讐の入口はもうすぐそこ。——だが、その小舟の存在にただ一人だけ気づいた者がいた。ニコラだった。今日も仕事に疲れ、惰性で港を彷徨っていた彼は、ふと海へと視線を向けた。月明かりの下、波間を進む小さな影。
「……ん?」
ニコラが目を凝らすと小舟が進んでいた。しかも一人で漕いでいる。外套を羽織った人物は顔も分からないが、この時間に一人で海へ出るなど正気の沙汰ではない。
「ちょっと、危ないですよー!」
ニコラは思わず声を張り上げたが、小舟は振り返ることもなく港から遠ざかっていく。ニコラはしばらく立ち尽くしたまま、その行方を見送っていた。
「……変だなあ」
ニコラは胸の奥に言葉にできない違和感を残したまま踵を返し、市場通りへ続く道を歩いていった。
一方、市場通り。人の波が夜の街を満たしていた。呼び込みの声、行き交う荷車、酒と汗の匂いを押し分けながら、ジャスパーは前へ進んでいた。彼の視線は常に先へ、赤髪が揺れるたびに人混みを掻き分ける。
「……どこ行きやがった」
彼の背後をニールとコリンが必死についていく。さらに少し遅れて、マテオが痛む体を引き摺りながら歩いていた。殴られた箇所が軋むたび、視界が一瞬白くなる。それでも立ち止まれなかった。止めなきゃならない。その時、市場通りの外れに足を踏み入れたニコラが遠くを見て足を止めた。赤い髪。長身。見間違えるはずがない。
「あ……ジャスパーさんだ」
ニコラは思わず呟き、そのまま声を張り上げる。
「ジャスパーさーん!」
ジャスパーは即座に反応した。ぴたりと足を止め、辺りを見回す。通りの端でこちらに向かって手を振るニコラの姿を見つけるなり、ジャスパーは勢いよく仲間を振り返った。
「お前ら、こっち来い!」
ニールとコリンはマテオを支えながら、急いでジャスパーの後を追う。合流するなり、ジャスパーは間髪入れずにニコラに詰め寄った。
「ルキフェル、見なかったか!? 外套を羽織ってる!」
ジャスパーは荒い息のまま、目だけが必死に答えを求めていた。ニコラは首を横に振って「いやあ、見てないですね」と言いかけたところで、脳裏に月明かりの海が浮かんだ。小舟、外套を纏った一人の影。ニコラの顔から血の気が一気に引く。言葉に詰まった彼の様子に、ジャスパーはすぐ気づくとニコラの肩を掴んで強く揺さぶった。
「頼む、些細なことでいいんだ。教えてくれ!」
「……あの、海に……小舟が……」
ニコラの震える声に、その場にいた全員の空気が凍りついた。
「その人……外套を羽織ってました……でも、顔は見てません……」
ニコラが言い切った瞬間、ジャスパーは荒く息を吐いた。遅かったかもしれない。いや、遅かったのだろう。
「……おい、ニコラ」
マテオだった。全員が振り向くと彼は顔を歪めながらも、まっすぐニコラを見据えていた。
「手頃な船、あるか?」
マテオの唐突な問いにニコラはきょとんしたが、すぐ頷く。
「はい。うちの職場のやつ、あります、けど……?」
ニコラの言葉を待っていたかのように、マテオは一歩前へ出た。
「頼む。オレたちに貸してくれ。ついでに、鉤縄とかあれば助かる」
もはや確認ではない。追う覚悟を決めた者の声だった。
ルキフェルは小舟の上で暗い波間に身を任せていた。櫂を動かす音すら、今はうるさく感じる。彼は視線だけを遠くへ投げ、海に浮かぶ影を選り分けていく。これじゃない。これも違う。やがて、月明かりの縁に小型ガレオン船が浮かび上がった。甲板にはわずかな灯り。揺れるランタンの光に照らされ、紺色の制服を纏った人影がいくつか見える。海軍旗。見えた途端、腹の奥が熱を帯びた。息が浅くなる、喉の奥がひりつく。反射的にカットラスへ手が伸びかけて止めた。まだだ。ここで斬り込めば、ただの自殺だ。小舟を月影から外し、闇に紛れるように漕ぐ。音を殺し、距離を詰めていた。船体の輪郭がはっきりしてくるにつれ、怒りは研がれ、冷たい刃のように澄んでいく。演技しかない。ルキフェルは喉を整え、声色を作る。若さ。怯え。必死さ。
「ああ……兵隊さん! どうか、助けてください!」
流暢なフランス語が夜の海に響く。よく通る声だった。甲板が騒めき、ランタンが増え、船縁から士官たちが身を乗り出す。
「誰だ、遭難者か?」
「まさか、漁師が一人で迷ったんだろ」
冗談交じりの声。それを聞きながら、ルキフェルはフードの奥で口角を吊り上げた。
「ここです!」
ルキフェルは哀れな遭難者の仕草で手を振る。ほどなくして、縄梯子が軋む音を立てて降りてきた。
「それに捕まれ。自力で登れるならな」
頭上から投げられる声。ルキフェルは「ありがとうございます」と素直に応え、縄梯子を掴んだ。軽い。するすると登る。疲労など微塵も感じさせない動きだった。ルキフェルが船縁に足をかけた瞬間、ランタンを持った士官が手を差し出してくる。
「まったく、災難にも程があるぞ。一人で海に出てたなんてさ」
士官の手をルキフェルは一瞥した。周囲を確認する。人数は多くない。ランタンも、先ほどより減っている。——足りる。
「いやあ……情けないです」
そう言って、ルキフェルはフードに指をかけた。ゆっくりと持ち上げ、傷だらけの顔を灯りに晒すと士官の表情が凍りつく。
「お前たちがな」
低く、獣の唸りのような声。悲鳴が上がるより早く、ルキフェルはランタンに息を叩きつけた。灯りが消える。闇。次の瞬間、カットラスが唸りを上げた。刃が肉を裂く音。骨に当たる鈍い感触。喉を断たれた空気が、短い悲鳴となって夜に溶ける。
「ぐっ——!」
「な、何だ……!」
暗闇の中、混乱した足音が交錯するが、ルキフェルは止まらない。獣が獲物を狩るように一人、また一人と逃げ場を塞ぎ、背後を取り、喉を裂き、心臓を穿つ。躊躇も迷いもない。甲板は阿鼻叫喚と化した。恐怖の声、血の匂い、倒れる音。
——殺してる。こいつらを。
復讐心が牙を剥き、理性を喰らい尽くす。今、甲板の上にいるのは人間ではない。狩る者だ。闇の中、甲板は混乱に沈んでいたがルキフェルは一歩、半歩と重心を落とし、足音を消す。視線は走らせない。気配だけを読む。彼の背後に立つ士官の呼吸がわずかに乱れる瞬間、喉元に刃を滑り込ませた。血が噴く前に、身体を支え、甲板に倒れる音すら殺す。刃を振り上げることはない。斬るではなく、通す。腰を捻り、肩を落とし、最短距離で急所を突く。暗闇の向こうで、誰かが仲間の名を呼ぶ。士官が振り返った瞬間、その背中が空く。ルキフェルは滑るように間合いへ入った。肘、喉、心臓。三つの選択肢のうち、最も早いものを選ぶ。感情はもう意識の表層にない。怒りは、熱ではなく、方向になっていた。足音を避け、影に溶ける。ランタンの残光すら踏まない。
「この力で、復讐していく」
刃が再び沈む。抵抗はない。あるいは、あっても意味を成さない。士官の身体が崩れ落ちる。その横を、ルキフェルは何事もなかったかのように通り過ぎた。殺したという意識はない。次に進むだけだった。甲板の端、最後に残った士官が腰を抜かして後退る。
「ひ……っ、来るな……!」
懇願の声が音でしかなかった。ルキフェルは歩みを止めない。躊躇いも、迷いも、慈悲もない。刃が閃き、声が途切れる。
——終わりだ。
甲板に残るのは血の匂いと倒れ伏した身体だけ。ルキフェルはカットラスを軽く振り、刃についた血を落とした。呼吸は乱れていない。心拍も平常と変わらない。復讐心は彼を狂わせてはいなかった。研ぎ澄ましていた。ルキフェルは次の獲物を探すため、闇へと視線を向けた。甲板だけでは足りない。そのまま船内へ降りていく。階段に残る血痕。倒れたまま動かない影。逃げ場を失って息を潜めている気配。一人ずつ、悲鳴が上がる前に刃を通し、声を出した者には声帯ごと沈める。殺しても、殺しても胸の奥にある空洞は埋まらない。
「まだだ」
復讐心は彼を昂らせなかった。渇かせた。喉が乾くように、息が足りないように。何かが足りない。
「こんなものじゃない」
通路を進み、扉を開け、その奥にいる命を止めていく。もはや数は分からない。覚える意味もない。やがて、船内に動く気配はなくなった。静寂だけが残る。ルキフェルは最後に船長室の前へ立った。深呼吸はしない。躊躇いもない。ノックもせず、扉を押し開ける。船長室の中、机の向こうで警備隊長が立ち上がりかけたまま固まっていた。血まみれの外套。顔に付着した赤黒い血。カットラスの刃先から、まだ雫が落ちている。ルキフェルを前に警備隊長は言葉を失い、やがて震える声で口を開いた。
「……さっきまでの騒ぎ。君が原因か」
ルキフェルは何も答えなかった。ゆっくりと一歩踏み出す。警備隊長の視線が刃へと落ちた。唾を飲み込む音がやけに大きく響く。沈黙の中で、ルキフェルの胸の奥ではまだ何かが足りないままだった。
——違う。まだ、終わっていない。
彼は警備隊長を見据えた。警備隊長は何かを言おうとしている。命乞いか言い訳か、それとも命令か。だが、口を開くより早かった。ルキフェルの足が床を蹴る。距離は一瞬で詰まった。警備隊長の喉元に、冷たい感触が触れた瞬間、音もなく刃が走る。叫びは出ない。血が噴き上がる前に、声の通り道が断たれていた。警備隊長の体は、まるで糸を切られた人形のように崩れ落ちる。床に倒れる音。それで、終わり。ルキフェルは一度も相手の目を見なかった。倒れた身体を確認することすらせず、刃についた血を外套の裾で無造作に拭った。
「……違う。こいつじゃない。まだ、足りない」
胸の奥で何かが蠢く。彼はゆっくりと船長室を見回した。地図。航路表。海軍の紋章。どれも、どうでもよかった。この船もこの命も、復讐の途中でしかない。彼は心の中で淡々と結論づけていた。
——俺は、この刃で海軍を削り尽くす。
誰に止められようと関係ない。仲間だろうと。奪われたなら、奪い返す。それだけだ。この船はもう戻らない。命も、名も、記録も。ルキフェルは闇の中で、息を吐く。満たされない。それでも、歩みは止まらない。復讐は今、完全に動き出した。
波の音だけが耳に残る。夜の海は異様なほどに静かだった。ジャスパーは小舟の櫂を一定の速度で操っていた。力は入っているが、焦りはない。水を裂く音だけが規則正しく続く。小舟には他に三人。ニールとコリンは身を低くして周囲を警戒し、マテオは、前方に浮かぶ小型ガレオン船から視線を外さなかった。沿岸警備隊の哨戒船。彼の胸の奥で嫌な予感でざわつく。
……いるな。
マテオは息を吐いた。身体を動かすたび、肋と肩に鈍い痛みが走る。ルキフェルに殴り伏せられた痕がまだ生々しく主張していたが、そんなものはどうでもいい。船影が近づく瞬間、マテオは別のものを見つけた。小舟だ。哨戒船の脇に、ぽつりと浮かぶ一隻。先客を乗せていたらしい。嫌な確信が胃の底に沈む。
「……やっぱりな」
マテオは無言のまま後ろを振り返り、「ここにいろ」と目で仲間に伝えると鍵フックを手に取った。金属を回し、三回目で放るとフックが船縁に噛み合う音がやけに大きく響いた。マテオは歯を食いしばり、身体を引き上げ、船縁を越えると着地の衝撃が全身を打った。静寂。いや、これは静かすぎる。嫌な予感が確信へと変わった。マテオが足元を見ると、甲板一面に広がる血。滑るほどではないが、踏みしめるたびに靴底が粘る。斬り伏せられた兵士たち。銃を抜く暇もなかった者。剣を握ったまま絶命した者。どれも抵抗の形跡がない。マテオは眉一つ動かさなかった。怒りはもう通り過ぎている。その先にある、冷たい確信だけが残っていた。彼はゆっくりと歩く。痛みが走るたび、こめかみが脈打つが、足を止めない。
「……完全に、踏み越えやがったな」
やがて、マテオは船長室の前に立つ。扉は半開き。マテオが軋む音とともに押し開けると、そこにいたのは自分に背を向けて立つ男。ルキフェル。足元には、首を不自然に傾けた警備隊長の死体。刃が走った直後なのだろう。床にも壁にも、赤黒い飛沫が弧を描いていた。それでも、ルキフェルは振り返らない。
「来たか」
ルキフェルの声は驚きも焦りもない。まるで約束通りだと言わんばかりに。マテオは扉に背を預ける。身体の奥で何かが弾けた。
「……あーあ、派手にやったな」
言葉とは裏腹に、マテオの胸の内は煮えたぎっていた。怒り。失望。そして、決定的な喪失感。ルキフェルはようやく振り返った。血に濡れた外套。冷え切った瞳。そこには、復讐を終えた獣の余韻だけが残っていた。その後、二人は船長室を後にする。闇の中、ルキフェルはゆっくりと振り返った。血に濡れた外套の裾が、甲板に落ちた血溜まりを引きずる。彼の顔に一瞬だけ浮かんだのは安堵だった。
「……来てくれたんだな」
マテオの中で何かが完全に切れた。
「ふざけるなッ!!」
怒鳴り声と同時に、短銃が跳ね上がる。マテオは引き金に指をかけ、躊躇なくルキフェルに向けた。
「来た? 来てくれた!? 何言ってんだお前、この船見ろよ!!」
マテオの声は掠れていた。怒りと混乱と、言葉にできない恐怖が混じっている。
「人が……人が何人死んでると思ってんだ!!」
ルキフェルは一歩も引かず。血に濡れた刃を下ろしたまま淡々と告げる。
「だから、何が悪い?」
その温度差がマテオの理性を殴りつけた。
「……は?」
「海軍だ。フランソワを奪った連中だろ」
ルキフェルは本気で理解できていない目をしていた。正義でも悪でもない。ただの事実として言っている。二人の間で張り詰めた空気が漂った瞬間、甲板の端で足音がした。
「……ルキフェル」
ジャスパーだった。ニールとコリンも言葉を失ったまま立ち尽くしている。血の海。死体。そして、その中心に立つ、かつての仲間。ルキフェルは再びマテオへ視線を戻し、ゆっくりと一歩近づいた。
「……殺せるもんなら、殺してみろよ」
マテオの呼吸が乱れ、銃口がわずかに震えた。
「……お前……お前、誰なんだよ……」
怒鳴りたいのにできない。目の前の男が、まだルキフェルであることを、どこかで信じている。
「頼むから……戻ってくれ」
マテオの喉が詰まる。ほんの一瞬、ルキフェルの目が揺れたが、すぐに消える。
「できない」
はっきりとした拒絶。その瞬間、マテオの中で最後の選択が下された。引き金を引かない代わりに身体が動く。距離は近すぎた。ルキフェルが察した時にはもう遅い。銃身が寸分狂いなく急所に叩き込まれる。骨の奥に響く、鈍い衝撃。ルキフェルの目が見開かれ、声にならない息が漏れた。反射すら間に合わず身体が崩れ落ちる。ルキフェルはドサリと音を立てて甲板に伏し、マテオは銃を下ろして震える息を吐いた。
「……悪い」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。殺せなかった。だから、こうするしかなかった。倒れ伏したルキフェルは微動だにしない。胸はわずかに上下している。マテオは銃を握ったまま立ち尽くしていたが、突如として膝が崩れた。
「……くそ……」
声にならない。怒りも後悔も恐怖も、すべてが絡まって何一つ言葉にならない。止めた。止めたはずだった。それなのに、救えていない。甲板に散らばる死体。血の匂い。そして、気絶している相棒。マテオは額を甲板に押し付けるようにして肩を震わせた。
「……オレ、何やってんだよ……」
彼の背後で、足音が一つ前に出た。ジャスパーだった。彼は倒れたルキフェルを見下ろす。無防備な顔。眠っているようにも見えるが、違う。ジャスパーの胸の奥がひやりと冷える。若い男の姿をしているのに、そこに人間を感じない。牙を隠して目を閉じているだけの獣……狼だ。森に返せば、もう戻らない。そんな目をした狼だった。ジャスパーはゆっくりと息を吐いた。
「……嘆くのは後だ」
マテオが顔を上げる。ニールもコリンも息を呑んだ。ジャスパーは視線を逸らさず続ける。
「まず、この犬を連れ出そう。それから……閉じ込めようぜ」
閉じ込める。守ることでもあり、拒絶することでもある。仲間として、すべてを捨ててでも、今は止め続ける。マテオは唇を噛みしめ、視線を伏せた。
「……分かってる。分かってるけど……それでも……」
ジャスパーは慰めもしない。否定もしない。
「ニール。コリン。手ぇ貸せ。こいつは今のままじゃ外に出せねえ。おれたちの仲間に戻すかどうかは、生き延びてから考えよう」
ランタンの火は風に煽られて小さく揺れていた。スザンヌはその灯を見つめながら、胸の奥に仕舞い込んでいた記憶をそっと引き寄せる。海の匂い。冷たい水。必死に掴まれた、見知らぬ誰かの腕。
「……不思議なんです」
彼女は微笑んだまま視線を水面に落とす。あの時の恐怖はもう思い出せない。残っているのは温度だけだ。
「助けてもらったのに……顔も名前も、教えてくれなくて。でも…… 海にいる人だったことだけは、なぜかずっと覚えてるんです」
──その頃。甲板では四人の男が沈黙のまま、ひとつの重さを運んでいた。
「……重いなあ」
ニールが息を吐く。それは体重の話ではない。暴力の残滓、血の匂い、まだ抜けきらない殺意、獣だったものを運ぶ重さだ。
「息はある。……でも、いつ目ぇ覚ますか分からねぇ」
ジャスパーの声は低い。マテオは答えず歯を食いしばっていた。自分の拳が、まだ震えているのが分かる。
「……その人、最後に言ったんです」
スザンヌの声は柔らかい。まるで、昔話をなぞるみたいに。
「『あなたが居ていい場所じゃない』って」
ソフィーは何も言わず、ただ耳を傾けていた。
「……向いてない、って言われた気がして。それが、悔しくて……だから、軍人になりました。見返してやろうって」
──船長室。扉が開き、獣は檻へと放り込まれる。
「……縛れ」
ロープが手首に回され、椅子に固定される。意識のない身体は素直だが、どこか不吉な静けさを湛えていた。
「起きたら、暴れるぞ」
「……分かってる」
誰もそれ以上は言わない。扉が閉まり、鍵がかかる。ガチリと乾いた音。
「……でも」
スザンヌはランタンの灯が消えかけていることにも気づかず、海を見ていた。
「また……会えたら、会いたいなって」
声は波に溶けていく。願いとも、独り言ともつかない言葉。
──その直後。船長室の中で、微かな音がする。
「……チッ」
目を覚ましたルキフェルは即座に状況を理解した。拘束。隔離。閉じ込められた。ロープを引く。椅子を揺らす。無駄だと分かっていても力を込める。
「……クソが」
ルキフェルは吐き捨て、舌打ちした。やがて動きを止めると、彼は窓の外を見た。暗い海。遠く、どこかで揺れる灯り。届かない場所。戻れない場所。翡翠色の瞳にはまだ炎が残っていた。




