第二章② マクシム
ブレスト城の司令室には久しぶりに人が集まっていた。窓から差し込む午前の光の下、長机の上にずらりと並べられた書類の束。その最上段に置かれているのは、マクシミリアン・ブーケ隊からの正式な作戦報告書だった。
「……やっと来ましたか」
「遅いとは思ったが、さすがに詳細が多いんだろう」
「少数精鋭で大海賊を追い詰めたんだ。参考にしない手はないな」
上級士官たちは口々に言いながら、それぞれ椅子を引く。どこか浮き立った空気すらあった。失態続きだった海軍にとって、大海賊フランソワ討伐は久々の朗報だったから。誰かが小さく咳払いをする。
「では……いきますか」
「せーの、で」
誰かの冗談めかした声に数人が苦笑する。
「いっせーのせ」
一斉に報告書の表紙がめくられた。紙を擦る音だけが司令室に広がる。
「ほう。接触時、敵は単独行動中だったと」
「フランソワが、一人?」
「随分大胆だな。あるいは追い詰められていたか」
士官たちの視線が文字を追うにつれ、空気は次第に静まっていく。一人がページを捲る手を止め、眉をひそめた。
「……待て。任務目的は、生け捕りだったはずだな」
「ああ、そうだ」
「だが……この流れだと完全に殲滅戦になっている」
別の士官が報告書を指で叩く。
「ここだ。『フランソワは致命傷を負いながらもなお抵抗を続け——』」
「現場判断、か」
「いや、判断というより……混戦だな。ええと、『大海賊フランソワは、自ら海へと身を投げたため、生け捕りは叶わず』」
その一文を読み終えた瞬間、誰かが息を吐いた。
「王宮がこれを聞いたら、いい顔はしないだろうな」
「英雄譚としては美しいが、政治的には最悪だ」
「生け捕りにして晒す予定だったのに……」
誰もがそこまでだろうと思っていたが、報告書はまだ終わっていなかった。数枚進んだところで一人の士官の手が止まる。
「……ん?」
「おい、どうした?」
士官は報告書の一節を声に出して読み上げる。
「なお、弊部隊にて軍医職にあったマルセロ・ロペス少尉についてだが……」
一瞬、司令室が静まり返る。
「……軍医?」
「マクシミリアン隊の?」
士官は続けた。
「同少尉は、内通者として海賊に情報を売り渡していたことが判明し——」
誰かが椅子を軋ませた。
「……まて」
「聞き間違いか?」
だが、読み上げる声は止まらない。
「我々に対する謀反行為が明白であったため、弊部隊の判断により、その場で処分を実施した」
「…………は?」
次の瞬間、椅子が派手な音を立てて倒れた。
「はあああああああああ!?」
思わず立ち上がった士官たちが机に手をついたまま叫ぶ。
「処分!? 処分って今言ったか!?」
「おい待て、軍医だぞ!? しかも少尉だぞ!?」
「誰の許可でそんなことを!」
報告書を持つ皆の手が震える。
「……書いてある」
「弊部隊の判断によりって……」
「勝手に!? 現場で!?」
「マクシミリアン・ブーケ……」
誰かが呆然とその名を呟く。司令室の空気は一気に変質した。さきほどまでの期待と高揚は消え失せ、残ったのは困惑と理解不能な恐怖だけだった。
「……これは英雄譚じゃない」
「完全に、火種だ」
机の上の報告書は、もはや戦果報告ではなかった。
キール通りの宿舎。マクシムの執務室は昼間だというのに薄暗かった。カーテンは半分だけ閉じられ、外の光は机の端で鈍く折れている。
マクシムは机に肘をつき、両手で頭を抱えていた。考えようとしているわけではない。何も考えられなかった。フランソワ。マルセロ。名前を思い浮かべただけで、胸の奥に空いた穴から冷たい風が吹き抜ける。塞ごうとするほど、広がっていく感覚だった。マクシムの脳裏でマルセロの声が反響する。怒りとも呪詛とも、祈りともつかない声。
「……しっかり届いてる」
マクシムの掠れた声が静かな室内に落ちた。喉の奥で息を詰まらせ、続ける。
「この背に……この背に、全部乗ってる」
背負う覚悟はとうに決めていたはずだったが、覚悟であって重さではなかったのだと今になって思い知らされる。マクシムの視界の端に違和感が引っかかった。机の隅、あからさまに趣味の悪い装飾の手鏡。マクシムは小さく呟いた。
「……ああ。シャルル、忘れていったな」
いつもならさっさと返すか引き出しの奥に押し込んでいたはずだが、今日はなぜか目が離れなかった。マクシムは無意識のまま手を伸ばして鏡を引き寄せ、傾ける。そこに映ったのは、見慣れたはずの自分の顔。
「……あれ」
マクシムの声が思わず漏れた。目の下に薄く影が落ち、頬はわずかに削げている。それよりも、彼の視線を釘付けにしたのは髪。鏡に映る漆黒は、どこか色味が抜けて見えた。
「……なんか、薄くない?」
マクシムは指先で前髪を掬い上げた。光の当たり方のせいだろうか。そう思おうとして、思えなかった。黒だったはずの髪に、微かな灰色が混じっている。それは白髪というほど明確ではないが、小さな変化だった。マクシムはしばらく鏡を見つめたまま乾いた笑いが零れる。
「はは、参ったな」
誰にも見せないように保ってきた仮面の裏側で、身体の方が先に限界を悟ってしまったらしい。彼はそっと鏡を伏せ、深く息を吐いた。背中に乗せたものは重いが、まだ折れてない。やがてマクシムが再び机に向き直ったところで二度、軽やかなノックが響く。やけに間の良い、リズムのある音。マクシムは顔を上げるまでもなく誰だか察した。
「入れ」
マクシムが言い終わるのと同時に扉が勢いよく開く。
「失礼しまーす」
飛び込んできたのは派手なオレンジ色の髪をした男、シャルルだった。相変わらず無駄に明るい声と無駄に目立つ色彩で、重苦しい室内の空気を踏み荒らす。シャルルは一歩入るなり、マクシムの手元に視線を走らせる。
「あ、あったあった。やっぱりここか。いやあ、散々探したんですよ。部屋にもない、廊下にもない、まさかと思ったら隊長の執務室で……」
シャルルはぶつぶつ言いながら近づいてきて、当然のように手を差し出す。
「それ、ぼくのなんで」
マクシムは一瞬、言葉を失った。髪の色。薄くなっていた理由。さっきまで胸を占めていた違和感は、シャルルの声と存在感にあっさり押し流される。今さらそれを口に出す気にもなれず、マクシムは無言のまま手鏡を差し出した。シャルルはそれを受け取り、満足そうに頷く。
「助かります。これ、結構気に入ってるんですよね」
きらきらと装飾のついた、悪趣味極まりない手鏡を掲げてみせる。
「……相変わらず、趣味が悪いな」
「センスですよ、センス。これが分からないから隊長は——」
シャルルはふとマクシムの顔を見た。彼の笑顔がわずかに引っかかる。
「……顔、いつもより疲れてません? まあ、いいですけど」
そう言ってシャルルは手鏡を懐にしまうが、隼のような鋭い眼差しがまっすぐマクシムを射抜く。
「それよりも……ソフィー。あの子は、危険ですよ」
一瞬、マクシムの思考が止まった。思わず声に棘が混じる。
「……危険? どこがだ」
シャルルは感情を挟まない。いつもの軽口も皮肉もない。ただ事実を並べるような声音だった。
「あの子は、正義を信じすぎている。軍人としては、当然です。理想的ですらある。ですが、隊長にとっては……邪魔になります」
マクシムは言葉を失った。否定しようとしてできなかった。いや、心のどこかでは最初から分かっていた。ソフィーの真っ直ぐすぎる正義感。疑うことを知らない眼差し。それは時に自分の選択を、存在そのものを脅かす刃になり得る。沈黙が落ちる中でマクシムはゆっくりとシャルルを見上げた。
「それでも、僕は彼女をこの部隊に置き続けます」
逃げなかった。シャルルは一瞬だけ目を細め、やがて息を吐いた。
「……そうですか」
納得したようでしていない。どこか拗ねたような、諦めきれない表情を浮かべている。
「隊長は、本当に厄介なものばかり抱え込みますね」
刹那、コン、コンと控えめなノック音が響いた。
「入れ」
マクシムが促すと扉が静かに開く。入ってきたのはリラだった。
「隊長、お客様です。なんでも……あなたに会いたいそうで。宿舎の外で待っています」
マクシムは一瞬シャルルの方を見るが、これ以上この空気に留まるつもりはなかった。まるで逃げるように椅子を立つ。
「……分かりました。では、行ってきます」
そう言い残し、彼はリラと共に執務室を後にする。残されたシャルルは閉じた扉をじっと見つめながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……だから危険だって言ってるんですよ」
宿舎の扉を出た瞬間、マクシムは思わず息が止まった。そこに立っていたのは、見間違えようのない男。 イヴォン・ローラン。ずっと医務局の奥で眠っていたはずの人物が昼の光の中にいる。背筋は驚くほどまっすぐで顔色も悪くない。ただ、左手に杖をついていた。その事実だけが、彼が無傷ではないことを静かに主張している。
「……君、久しぶりだな」
イヴォンの声を聞いた瞬間、マクシムの喉が詰まる。言葉が出ない。謝罪も安堵も、問いも何ひとつ形にならなかった。彼の様子を見て、イヴォンは小さく口角を上げた。
「なんだ。そんな顔をされると俺が困る」
揶揄うような笑みだったが、そこに悪意はなかった。むしろ気遣いに近い。
「サン・マロでの話、聞いた。……大したもんだな」
マクシムは反射的に否定しかけて言葉を飲み込んだ。胸の奥で何かが軋む。
「……ありがとうございます」
沈黙の後、マクシムは視線を落として恐る恐る尋ねる。
「怪我の方は……?」
イヴォンは一瞬だけ言葉を選ぶように黙り込み、それから肩をすくめた。
「体調は、まあ万全だな。ただ……足をダメにしてしまった」
そう言ってイヴォンの視線が自身の左足へ落ちる。マクシムの心臓が凍り、耳鳴りがした。
「どうして自分が大怪我を負っていたのか……正直、よく覚えていなくてな。気づいたら医務局で寝ていた。事情を聞いても、断片的で……不思議なもんだ」
マクシムは息をするのを忘れていた。記憶がない。覚えていない。それは救いであり、同時にあまりにも残酷な宣告だった。イヴォンはそんな彼の変化に気づいたのか、ふと視線を上げてマクシムを見た。
「……どうした? 顔色が悪いぞ」
マクシムは立ち尽くし、目の前にいる生きている被害者を見つめるしかなかった。言うべきか、言ってしまっていいのか。喉の奥で何度も言葉が引っかかり、ようやく絞り出す。
「……フランソワに、襲われたって言うのは……」
そこまで言ってマクシムの言葉が止まった。 本当なんですか。続くはずだった問いを口に出せなかった。イヴォンはマクシムの逡巡を察したのか、先に口を開いた。
「なんか、俺がそう言ってたらしいな。それも……よく分かってない。俺の目には確かにフランソワに見えたが……本当に本人だったのかどうかも、分からない」
「どういう、ことですか?」
マクシムの問いにイヴォンは少し考え込み、肩をすくめた。
「まあ……催眠にかけられてたってやつかな」
マクシムが絶句したままでいると、イヴォンは軽く咳払いをして話題を切り替える。
「今日ここに来たのは、その話をしに来たわけじゃねえ」
イヴォンは杖をつき直し、一度姿勢を整える。
「俺は……退役する」
世界が音を立てて崩れた。マクシムの頭が真っ白になる。
「……え」
イヴォンは苦笑した。
「まあ、そんな反応にもなるよな。この足じゃ、もう現役の仕事にはならん。それに……俺は俺で、解明したい謎がある。それにはな。海軍から離れる方が近道だと思ったんだ」
マクシムは胸の奥が締め付けられ、耐えきれなかった。視界が滲んで呼吸が乱れる。気づいた時には涙が溢れていた。
「……っ」
嗚咽を噛み殺そうとしても、どうにもならず肩が震えて声が出ない。イヴォンは目を見開いた。
「……おい」
イヴォンは慌てて一歩踏み出し、困惑したように言う。
「ちょ、待て。泣かせるつもりはなかった」
マクシムは首を振ることしかできなかった。謝罪も引き留める言葉も、感謝も涙に溶けていく。イヴォンはしばらく黙り込み、それから困ったように頭を掻いた。
「……まったく。君は本当に不器用だな」
「待ってください」
マクシムの声は掠れていた。
「退役なんて……急すぎます。まだ、できることが——」
「もう決めた」
イヴォンは遮るように強く言い切る。
「それに、君にもやることがあるだろう」
イヴォンの目はかつての軍人の目をしていた。
「俺一人いなくても大丈夫だ。君は……もう一人で立てる」
彼の言葉が逆に胸を抉った。マクシムは何か言おうとして結局言葉を見つけられず俯いた。涙はまだ止まらない。イヴォンは何も言わず待った。急かさず慰めもせず、時間を与える。やがて、マクシムの呼吸が少しずつ整っていった。
「……すみません」
ようやく絞り出したマクシムの声に、イヴォンは首を振った。
「いい」
彼は少し間を置いてから低く切り出した。
「……一つ、頼みがあるんだが。以前、君に託した書類を覚えているか? あの書類をもらいたい」
マクシムは顔を上げ、イヴォンは視線を逸らして続ける。
「謎を解明するのに必要なんだ」
その瞬間、マクシムは迷わなかった。
「今も手元にあります。持ってきます、すぐに」
マクシムは踵を返し、ほとんど駆けるように宿舎へ戻る。執務室に飛び込み、机の引き出しを開ける。スザンヌが写した、あの書類。一枚。二枚。三枚、全て揃っているか、何度も指でなぞって確認する。息を詰め、封筒に収める。大丈夫だ。全部ある。封を閉じるとマクシムはそれを胸に抱え、再び外へと走り出した。これは、引き留めるためのものじゃない。返すためのものだ。イヴォンの待つ場所へ戻ると、マクシムは、両手で封筒を差し出した。乱れないよう角を揃え、まるで敬礼の代わりのように。イヴォンはそれを受け取り、ひと目だけ中身の重さを確かめるように指先で触れた。
「……ありがとう」
それだけ言って、イヴォンは封筒を鞄へしまう。
「君の今後の活躍を、祈っている」
形式ばった言葉のはずなのに、不思議と嘘はなかった。イヴォンは背を向け、数歩進んでから思い出したように言う。
「またどこかで会おう。個人的にな」
ぎこちない足取りだった。杖が石畳を打つ音がやけに大きく響く。
「僕、支えますよ」
マクシムは思わず口にしていた。イヴォンは立ち止まり、チラリと背後を振り返る。
「いや、いい。ここは一人で行かせてもらう」
第八部隊で内部粛清を担っていた頃の、あの冷たい気配が滲んだ。
「ここから先は……俺の獲物だ。自分で探す」
それ以上は何も言わず、イヴォンは宿舎を後にする。マクシムはイヴォンの背中が見えなくなるまで動けなかった。引き留める資格も追いかける権利も、もうないと分かっていたから。行ってしまった。そう理解した時、胸の奥に空白が残った。




