第一章⑤ ニコラ
ニコラは入江を飛び出したはいいものの、どこへ向かうかなど決めていなかった。気づけば足は港の方へ向かっている。潮の匂いと、船板を打つ波の音。どれも今はやけに重たく胸に残った。過酷な労働の疲れだけじゃない。フランソワの訃報が肩に見えない錘のように乗っている。
「……はあ」
ニコラが無意識に息を吐いた時、場違いなほど軽い声が飛んできた。
「あれ、ニコラじゃーん」
ニコラが反射的に顔を上げると、目の前に立っていたのはブロンドの髪に薄い緑の瞳をした若い男だった。下町の町民然とした服装。どこにでもいそうなのに妙に目につく。人混みの中でも埋もれない種類の男だ。よりにもよって。
「……ティエンか」
ニコラが呟くとティエンと呼ばれた男はにっと笑った。
「お、ちゃんと覚えてくれてた。傷つきやすいから助かるわー」
ニコラは視線を逸らしながら言いかける。
「悪いけど、今日は昼から飲む気分じゃ——」
「なー、そんな浮かない顔すんなって」
最後まで言わせなかった。ティエンは半ば強引にニコラの腕を掴み、ぐいぐいと引っ張る。
「ぱぱっといこうぜ。港の裏、安い酒あるとこ知ってんだ」
「ちょ、待っ……!」
「待たない。今のお前、放っといたらそのまま海に溶けそうだし」
ニコラはぴたりと足を止めた。見抜かれている。自分が今、どれだけ中身の抜けた顔をしているのか何を考え、何を失った気でいるのか。ティエンは振り返り、ニコラの表情をちらりと覗き込んだ。
「あー、やっぱ当たりか。ほら、酒場で喋んなくてもいいからさ。黙って飲むだけでいい日もあるだろ?」
ニコラは一瞬返す言葉を探したが結局、抵抗する力は残っていなかった。
「……一杯だけ」
「はいはい、一杯一杯。どうせ二杯目いくくせに」
そう言って、ティエンはまた歩き出す。彼の背を見ながら、ニコラは胸の奥に小さな違和感を覚えていた。どうして、この男はこんな日に限って現れるんだ。フランソワの死。入江の沈黙。ジャスパーのあの声。すべてが絡まり合っている、この最悪のタイミングで。潮風に紛れて港のざわめきが遠ざかっていく。ニコラは何か大きな流れに足を踏み入れた気がして、無意識のうちに拳を握りしめている。その後、二人は港裏の安い酒場に入った。床は少し湿っていて、酒と潮の匂いが混じっている。カウンターに腰を下ろすなり、ティエンが指を二本立てる。
「とりあえず、いつもの安いやつ」
店主が頷き、ジョッキを用意し始める。ニコラが財布に手を伸ばしかけると、ティエンは何でもない調子で言った。
「今日はオレが出すから。気にすんな」
「……ごめん」
「いいっていいって。こういう日は、財布より気分が軽くなる方が大事」
ほどなくして二人分のジョッキが置かれた。濁った色の酒が泡を立てて揺れている。ティエンは自分のジョッキを掴み、軽く持ち上げた。
「で?」
ティエンは一口飲んでから、ちらりと横目でニコラを見る。
「なんで死んだ魚みたいな顔してんの」
「……言い方」
ニコラは苦笑しかけて、結局ジョッキに口をつけた。喉を焼く感覚。いつもより苦く感じる。
「まあ……みんなが噂してることについて、考えてただけだ」
曖昧な返しだが、ティエンはそれ以上突っ込まなかった。
「大海賊フランソワ、ね」
ティエンはジョッキを仰ぎながら、ぽつりと呟く。
「辛いだろ」
ティエンの一言が思った以上に胸に刺さった。ニコラは視線を落とし、指先でジョッキの縁をなぞる。ティエンは知っている。自分がかつて海賊だったことを。何も持たず行き場もなく彷徨って、路地裏で行き倒れていた自分を拾い上げたのが他でもないこの男だった。仕事を紹介して、名前も過去も深くは聞かなかった。それでも何度か顔を合わせ、酒を飲むうちにニコラの方から口を滑らせた。海賊だったこと。帰る場所がもうよく分からないこと。ティエンは眉一つ動かさない。
「へえ。じゃあ、海はもう懲り懲り?」
ティエンはそれだけ言って笑った。それ以来、こうして交流が続いている。振り回されることの方が多い。軽くて掴みどころがなくて、時々腹も立つ。それでも今、こうして隣に座ってくれているのが妙にありがたかった。
「あの人が死んだって聞いて、やっと実感した」
ニコラはぽつりと零した。
「頭では分かってたんだ。海賊なんて、いつ死んでもおかしくないって」
ティエンは何も言わず、静かに飲む。
「でも……」
ニコラの言葉が続かなかった。ティエンはジョッキを置いた。
「ま、さ。分かってることと納得できることって別物だよな」
ニコラは思わず顔を上げた。
「今日はさ、答え出さなくていい日だと思うよ。悲しいなら悲しいでいいし、ムカつくならムカついてていい」
そう言ってティエンは自分のジョッキをニコラのジョッキに軽く当てる。
「ほら。とりあえず、飲も」
澄ました顔だが、ティエンの横顔はどこか真剣だった。ニコラは息を吐いてジョッキを持ち上げる。酒場の喧騒が少しだけ遠のいた気がした。二人はしばらく取り留めもない話をしていく。港の噂だとか最近酒が薄くなっただとか、どうでもいい話ばかり。ニコラも気づけば何度か笑っていたが、ジョッキが空になりかけた頃にティエンが肘をついて指サックでジョッキを回しながら言った。
「なあ、仲間はどうした?」
ニコラは一瞬、言葉に詰まる。
「……わからない。船乗りやってる連中も、朝から見えないし……」
そう言ってからニコラはぴたりと動きを止める。
「あ」
彼の胸の奥で何かが引っかかった。入江。小型ガレオン船。赤髪の背中。
「ボクの先輩にあたる人たちが困ってて、力になりたいんだけど……どうしたらいいか分からなくて」
一息で言い切ってニコラはようやく顔を上げた時、ティエンがぽんと手を叩いた。
「よし、じゃあスカウトだ」
「……え?」
ニコラの口から間抜けな声が出た。ティエンは気にした様子もなく、さらっと続ける。
「オレさ、近々この街を出ることになってるんだ」
「……はい?」
「お前も来ねえ?」
まるで散歩に誘うような口調でティエンは続けた。
「この街で船乗りしてる方が、正直しんどいだろ。オレの相棒になれよ」
「何言ってんの。急すぎる」
「急じゃないって」
ティエンは肩をすくめる。
「オレさ、ちょっと調べ物してて。手伝ってほしいんだよね」
ニコラは黙り込んだ。ティエンはジョッキを持ち上げ、残った酒を飲み干してから言う。
「せっかくなんだ。お前の先輩たちも連れて、この街から出ようぜ」
ティエンの言葉にニコラの胸がざわついた。
「……簡単に言うなよ」
「簡単じゃないから言ってんだよ」
ティエンはいつになく真っ直ぐニコラを見た。
「この街、今きな臭い。残る理由があるなら別だけどさ。ないなら動いた方がいい」
ニコラは思わず拳を握った。ジャスパーの顔が浮かぶ。入江の静けさ。閉じた扉。
「……ボク、勝手に決められない」
「分かってる。だから誘いだ。命令じゃない。考える時間はやる。でも、オレは行く」
ニコラの胸の奥で止まっていた歯車がぎしりと音を立てて回り始めた気がした。その後、ティエンが勘定を払って二人は酒場の前で別れる。
「じゃあな」
「……うん」
短いやり取りだけ交わして、ニコラは港の方へ歩いていく。ティエンはニコラの背中を何も言わずに見送った。人波に紛れていくニコラの後ろ姿が完全に見えなくなるまで。
「……まったく」
ティエンは息を吐いて、ようやく踵を返した。市場通りの方へ、ゆっくりと歩き出す。下町の騒めきは今日も相変わらずだ。魚の匂い、焼き菓子の甘さ、行き交う人々の噂話。
「大海賊フランソワは死んだらしいぞ」
「討伐したのは、あのマクシミリアン隊だってさ」
聞き飽きた話題だ。ティエンは鼻で笑って空を仰ぐ。
「……オレも、すっかり下町の人間だな。次、いつ実家に帰るんだか」
——エティエンヌ・ブルボン。
由緒正しい家柄、ブルボン家本家の血を引く長男。
ティエンという名はただの偽名だが、彼自身はその事実を誇ることも重く背負うこともない。権威の側に立つ気はない。かといって、反旗を翻す気もない。彼を動かしているのは正義感などという立派なものではなかった。不自然なものを放置できない。その信条のみ。
赤髪の男が語っていた自由という在り方。流れに縛られず、無責任でもない生き方。それが、いつの間にかティエンの思考の芯に居座っていた。アランと行動を共にしているのも復讐でも忠誠でもない。真実を明らかにすること自体に価値があると信じているからだ。——光のもとを歩ける影。それが彼自身の立ち位置だった。
「あ、そういえば……」
ティエンは歩きながら顎に指を当て、記憶を探った。
「マクシミリアン隊、女性士官が何人もいるんだっけ。次男家系だったか? ……いや、何番目だ。従姉妹が海軍にいるって話、聞いたことある」
ティエンの頭の中で家系図が広がりかけて、あっさり切り捨てた。
「……やーめた。いちいち覚えてらんない」
ティエンは肩をすくめ、歩調を緩めた。市場通りの喧騒に紛れるように呟く。
「オレはさ。興味の向くことしか、やんない主義なんで」
何事もなかったかのように、エティエンヌ・ブルボンは人混みの中へ消えていった。




