第一章④ 五人組
三月二日。朝の海はやけに静かだった。波は穏やかで空も澄んでいる。
ルキフェルは外套のフードを深く被ったまま座っていた。膝の上に置いた両手は固く組まれている。震えてはいないが、指先の感覚がどこか遠かった。頭の奥で何かがずっと鳴っている。耳鳴りのようで唸り声のようで。それが自分のものなのかどうかも分からない。
——フランソワ。
名前を思い浮かべるだけで胸の奥が灼ける。息が浅くなるが、涙は出ない。
……泣くってなんだ。泣いたところで何が戻る。叫んだところで何が変わる。
ルキフェルの中で悲しみという感情がうまく形にならないまま、代わりに別の何かへと圧縮されていく。その時、船影。白い帆。整えられた甲板。人の声。
「漂流者か!」
頭上から声が届いた瞬間、ルキフェルの中で何かが反応した。助けだ、という認識はなかった。安心も感謝も湧いてこない。ただ、計算が走る。
……使える。
やがて縄が投げられ、小舟が引き寄せられる。一人ずつ甲板へ。ジャスパーは最後に上がった。彼は足を踏みしめた瞬間、違和感を覚える。
「……おかしい」
空気が重い。商人たちは親切だ。声も穏やかだが、ルキフェルの背中が妙に静かすぎる。彼はフードを被ったまま顔を上げない。周囲を見ていないのに全てを把握しているような立ち方。
「水を——」
商人の声が途切れた。金属音。その一音でジャスパーの背筋を冷たいものが走る。ルキフェルの手にはカットラス。抜刀の動作は速くも荒くもない。迷いがなかった。
「……動くな」
ルキフェルの声が低い。怒鳴っていない。威圧もしていない。それなのに、その場にいた全員の身体が硬直する。ジャスパーは理解できなかった。
「なにを言ってる……? ルキフェル……?」
呼びかけた声は自分でも驚くほど弱かった。ルキフェルは振り返らない。刃先がゆっくりと商人の方へ向く。距離はまだあるが、そのまだが致命的だった。
「武器を捨てろ。これは……俺たちの船だ」
その言葉を聞いた瞬間、ジャスパーの中で何かが崩れた。
「待て! ルキフェル!」
ジャスパーは思わず声を張り上げた。
「違う、これは……違うだろ!」
ジャスパーの声が震える。混乱と恐怖が混ざり合って、言葉が追いつかない。ルキフェルはようやくこちらを見た。フードの影で目はよく見えないが、そこにあったのは、いつもの翡翠色の温度ではなかった。冷たい。否、飢えている。
「邪魔するな、ジャスパー」
ルキフェルの声を聞いた瞬間、ジャスパーは理解してしまった。もう、戻れない。ルキフェルの中で怒りが理性を喰っていく。いや、怒りですらない。喪失を埋めるための衝動だ。フランソワはいない。もう、いない。なら、奪うしかない。守れなかったなら、今度は奪ってでも生きる。
「逆らえば、殺す」
ルキフェルが口にした瞬間、彼の中で獣が再び目を開いた。牙は剥き出し。唸り声が胸の奥から響く。理性はまだ残っているが、それはもう檻にすぎない。商人たちが後退する。武器が床に落ちる音。甲板が静まり返り、ジャスパーたちは立ち尽くしていた。
「……誰だ、こいつ」
マテオは絶句していた。目の前にいるのは確かにルキフェルのはずなのに。あの穏やかで、仲間を気遣って、誰よりも人の痛みに敏感だった青年はどこへ行った。
「ルカ……」
マテオが呼んでも返事はない。ルキフェルはもう仲間を見ていなかった。敵と利用できるものだけを見ている。彼の背中を見ながらマテオは悟る。フランソワがいなくなった穴を、こいつは怒りで埋めようとしている。その怒りは、いつか必ず仲間さえも傷つける。
「……やめろ、ルカ。こんなの、船長が望んだことじゃないだろ」
マテオは一歩、前に出る。剣は抜かない。あくまで言葉で止めようとしている。仲間だから。相棒だから。その判断が致命的だった。ルキフェルの視線がゆっくりとマテオに向く。
「……お前まで邪魔するな」
声は変わらないが、一言に含まれた温度は氷のように冷たい。
「退け」
マテオは動かない。
「……本気で言ってるのか?」
次の瞬間、ルキフェルの刃先がマテオの喉元にぴたりと止まった。一歩も迷いがない。
「邪魔するなら殺す」
彼の言葉を聞いた瞬間、ジャスパーの喉がひくりと鳴る。ニールは息を呑み、目を逸らした。コリンは反射的に一歩下がる。今のルキフェルには通じない。マテオは刃先を見つめたまま動かなかったが、拳が僅かに震えている。
「……わかった。……退く」
マテオが一歩下がる瞬間、ルキフェルは刃を引いた。
「港に着け」
ルキフェルの命令に商人たちは慌てて頷く。船は港へ向かう。誰も抵抗しない。接岸すると商人たちは一人ずつ降ろされる。荷も武器も奪われたまま。最後にルキフェルが言った。
「誰にも言うな。言えば、次は命だ」
商人たちは何度も首を縦に振る。足がもつれ、転びそうになりながら港に散っていく。五人組は振り返らない。帆を上げ、船を出す。入江へ、かつての隠れ家へ。船影が遠ざかったあと、商人たちはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「……冗談じゃねえ」
誰かが震える声で吐き捨てる。
「助けたと思ったら、これだ……!」
怒りと恐怖がようやく噴き出す。
「海軍だ! この辺りに、出張で来てるはずだろ!」
彼らは荷もないまま港を走った。目指すのは海軍員が滞在していると噂される区域。
「船を奪われた!」
「武装した連中だ!」
「若いが……目が、普通じゃなかった!」
断片的な証言が次々と放たれる。この瞬間、軽微な事件だったはずの話は海軍の耳に届く形へと変わった。
一方、海へ出た船上。誰も喋らない。帆が風を受け、木が軋む音だけが響く。ルキフェルは船首に立ったまま、前を見据えている。彼の背中は揺るがないが、その背を見つめる仲間たちの中に、同じ考えが広がっていた。もう引き返せない。フランソワを失った瞬間から、この航路は復讐へと向かってしまったのだと。その先頭に立つのは、もはやルキフェルではなかった。
サン・マロの港はいつもと変わらない朝だった。潮の匂い、荷を下ろす音、水夫たちの怒鳴り声。そこに怒気を含んだ声が一つ混じる。貿易商たちは奪われた船の特徴と人数、そして「フードを被った若い男」の存在を必死に訴えたが、報告を受けた海軍士官は書類に目を落としたまま淡々と頷くだけ。
「人的被害は?」
「……ありません」
「なら、軽微な事件だ。後日、巡回を強化する」
その一言で片づけられる。フランソワ討伐の余波、港に渦巻く噂、そして英雄視され始めたマクシミリアン隊。今の海軍にとって、貿易船一隻など誤差でしかなかった。商人たちは納得できない顔のまま港を後にする。この時点で歯車は噛み合い始めていた。
翌日、三月三日。ブレスト司令部では珍しく空気が明るかった。
「少数精鋭で、あの成果だ」
「やはりマクシミリアン・ブーケは使える」
「女の士官を含めて、統率も見事だ」
参謀部の口から称賛が零れる。フランソワ討伐は正式に成功として処理されつつあった。
一方、その頃。マクシム隊の宿舎、執務室。マクシムは一人、机に向かっていた。整然とした文字で報告書を綴るその姿は、いつもと何一つ変わらない。変わらない、はずだった。ペンが止まる。ほんの一瞬、思考が途切れるたび、彼は無意識に唇へ指を当てる。そこに残っているはずのない感触を確かめるように。いるはずがない。……もう、終わったことだ。指を離し、再びペンを走らせる。文字は乱れないが、行間だけが妙に重かった。
同じ日、別の場所。マテオはサン・マロの街を歩いていた。顔を伏せ、目立たないように耳だけは研ぎ澄ませて。港、酒場、裏路地、噂はすでに歪み始めている。フランソワの名は英雄譚と混じり、マクシム隊の名だけが独り歩きしていた。
入江ではジャスパーが一人、海を睨んでいた。見張りという名目だが、実際は見ないためだったのかもしれない。コリンとニールは何事もなかったかのように鍛冶屋へ向かった。仕事をしなければ考えてしまうから。金槌の音が、思考を叩き潰してくれる。そして、ルキフェルは自室から一歩も出てこなかった。声も気配もない。扉の向こうに何がいるのか、誰も確かめようとはしなかった。本音を言えば、みんな距離を取りたかった。恐れていたわけではないが、あの目をもう一度見る勇気がなかった。
そんな中、入江に一人の影が入ってきた。久々に戻ったというのに、扉は開いたまま。中を覗き込んだ若者は一瞬だけ足を止める。
——静かすぎる。
小さな入り江にかつての喧騒はない。停泊しているのは小型のガレオン船が一隻だけ。その甲板に赤髪の男が立ち尽くしているのが、遠目にもはっきりと見える。
水夫——ニコラは無意識に喉を鳴らした。彼がフランソワの死を知ったのは今朝。前日は港での過酷な労働に追われ、部屋に戻るなり倒れ込むように眠った。警備隊襲撃にも残党の動きにも関わっていない。ただ眠り、朝を迎え、そして知らされたのだ。
「……死んだ」
ニコラの頭の中が真っ白になった。 信じるも何もなかった。身体が勝手に動いて、気がつけば入江に足を向けている。ニコラが外扉を抜けても、甲板の上の男がこちらに気づく様子はない。赤い髪が風に揺れるだけだ。
「あ……ジャスパーさん……!」
ニコラは思わず声を漏らす。その名を呼んだ瞬間、感情が一気に溢れてニコラは駆け出していた。小型ガレオン船へ向かって砂を蹴り、息を切らしながら。
「ジャスパーさん! 無事で……」
ニコラが甲板に上がったところで言葉が止まる。ジャスパーはこちらを見なかった。いや見てはいるのかもしれないが、彼の視線はニコラではなく海の向こうを見据えたまま。ニコラがよく見ると、ジャスパーの拳が強く握り締められていた。爪が食い込み、血が滲んでいる。そこにいるのは、仲間を率いる赤髪の男ではない。何かを失ったまま時間だけが止まってしまった人間だった。入江には波の音だけが響く。その音がやけに遠く感じられた。
「……久しぶりに見たわ、お前」
潮風に削られたような、喉の奥で一度引っかかってから落ちてくる声。ジャスパーはようやく視線を動かしたが、それも一瞬だけですぐにまた海へと戻る。
「何しに来た」
ニコラは喉を鳴らした。言葉を選ぼうとして結局、何も選べなかった。
「……船長のこと、聞きました。それで……」
そこで言葉が途切れる。その先を言わなくても、何を言おうとしているのかは分かりきっていた。
「それで、ここに来たってわけ」
ジャスパーはそう言って息を吐いた。責めるでも慰めるでもない。ただ、事実を並べただけの声だった。ニコラは何も答えられず、甲板の上に立ち尽くす。潮に濡れた木材がきしりと小さく鳴った。
「……ニコラさ」
突然、自分の名を呼ばれてニコラはびくりと肩を揺らした。
「おれたち」
ジャスパーはそこで一度言葉を切る。続けるべきかどうか迷っているようだった。
「おれたち、どうすればいいんだろうな。この先」
答えなんてない。そんなことは口に出した本人が一番分かっている。それでも聞かずにはいられなかった。フランソワがいない今、誰に聞けばいいのかも分からない。ニコラはしばらく黙ってから恐る恐る口を開いた。
「……他の皆さんは?」
「マテオは……どっか行った」
そこで一度、ジャスパーの言葉が途切れる。
「ニールとコリンは、仕事で……」
ニコラは彼の沈黙の意味を察してしまった。
「……ルキフェルさんは?」
ジャスパーの喉がかすかに動く。
「……わからない」
「わからないって……」
「帰ってから、ずっと部屋から出てこない」
ニコラは胸の奥がぎゅっと縮むのを感じながら一歩踏み出す。
「あの……ボクにできることがあれば、なんでもしますから。いつでも、頼ってください。それに……情報に精通してる友人がいるんです。頭良くて、妙に羽振りがいいんですけど……頼れる人で、ボクはよく港にいるので。いつでも、来てください」
ニコラなりの精一杯だった。ジャスパーは何も答えない。ニコラは深く頭を下げると甲板を降りた。入江を離れていく足音が次第に遠ざかる。一人残されたジャスパーは再び海へ視線を戻した。
「……前も似たような話、聞いたな」
ぽつりと呟いたが、彼の言葉には力がなかった。ニコラの言葉は耳には届いていたが、心には届かなかった。虚無だけが胸の内に広がっている。




