第一章③ ピエール
一方、サン・マロの別の片隅でも別の歯車が回っていた。
暖炉の前に立つピエールは号外を一通り読み終えると息を吐いた。
「おし、これで任務完了だな」
ピエールは紙を無造作に丸め、そのまま暖炉へ放り込む。乾いた紙が火を孕み、じわじわと黒く縮れていくのを彼はしばらく眺め、興味を失ったように背を向けてソファにどかっと身を沈める。
「まったく。あの海賊を陥れるのに、どれだけ時間食ったと思ってんだか」
ピエールは天井を仰ぎ、片手で額を押さえながらぼやく。
「でもまあ、これで兄貴たちも満足だろ。面子も立つしな。……このあとどう転ぶかは、正直よく分かってねえけど」
ピエールは独り言のように呟き、肩をすくめた。部屋の片隅ではダミアンが床に座り込んでいる。壁にもたれ、膝を抱え、視線は床に落ちたまま。ピエールの言葉は彼の耳に届かず、意識はまったく別の場所にある。ダミアンは懐に手を差し入れ、一片の紙切れを取り出した。丁寧に折り畳まれたを開くとマクシム隊の隊員たちの顔が描かれている。ダミアンはその紙を見つめたまま息を吐いた。生きてる。その事実だけで、胸の奥に溜まっていた重たいものがほんの少しだけ緩む。 安堵と呼ぶにはあまりに無防備で、あまりに個人的な感情。ダミアンは感情に浸り続けていた。だからこそ、兄の声が耳に入らなかった。
「……おい。聞いてんのか、ダミアン」
怒りを孕んだ声色に、ようやく現実へ引き戻される。ダミアンが顔を上げた瞬間、視界いっぱいに迫る影。ピエールが鬼の形相でこちらを見下ろしていた。
「……っ、失礼しました!」
ダミアンは反射的に声を跳ねて立ち上がった拍子に、ピエールの視線が紙切れに吸い寄せられた。
「あ?」
次の瞬間、ピエールの乱暴な手が伸びる。ひったくるように奪われ、ダミアンの喉から思わず声が漏れた。
「……あっ、それ……」
紙の中の顔たちをピエールはじっと見つめる。その沈黙がやけに長く感じられた。
「……これ、なんだ?」
ダミアンの唇がわずかに震える。
「……返して……ください」
今まで道具としてしか見てこなかった弟の瞳。その奥に「感情」があるとピエールは気づいてしまった。背筋がぞっと冷える。次の瞬間、乾いた音が室内に響いた。ダミアンの頬に激痛が走る。殴られた勢いで、壁に背を叩きつけられた。
「……っ!」
ダミアンの息が詰まる間もなく追い討ち。首元に手がかかり、強く締め上げられる。
「お前……どういうつもりだ?」
ピエールが耳元で吐き捨てるように責める。
「まさか……こいつらが気になってる、とかじゃねえよな?」
ダミアンの視界が滲むが答えなかった。
「……離して」
「っざけんなよ」
ピエールの怒りが一気に噴き上がり、首を締める力がさらに強まる。
「お前……一族の使命、忘れてんじゃねえぞ。お前たちはな……外の世界で生きられないんだ。お前はオレの影。一生、影として生きるんだよ!」
そう言い放ち、ピエールは唐突に手を離した。ダミアンは床に崩れ落ち、膝をついて喉を押さえながら荒い息を吐く。彼の目の前で、ピエールは紙切れをわざと床に落とした。
「……これ、返すわ。燃やしたかったけどな。……本気でお前に殺されそうだから、やめとく」
ピエールは背を向けながら淡々と続ける。
「分かったなら……フランソワが死んだこと、パリにいる兄上に伝えろ。オレは残る。本当にジャスパーが死んだか確かめる」
話は終わりだと言わんばかりにピエールはソファに座り直し、足を組んだ。ダミアンは震える手で紙切れを拾い上げた。指先がまだ言うことをきかない。ピエールの背中を睨みつけたが、逆らえない。一族の使命が喉元に突きつけられている。ダミアンは苦しい呼吸のまま踵を返して部屋を出ていく。暖炉の前で、ピエールはじっと座り続けていた。火はすでに小さく、薪が弾ける音だけがやけに耳につく。
「……チッ」
舌打ち一つ。落ち着かないのか、あるいは落ち着いてしまうのが怖いのか。彼は立ち上がり、外套を掴んだ。
「……見てくるか」
誰に向けるでもない独り言。暖炉の火を乱暴に消し、部屋を出る。夜気が妙に生ぬるかった。
一方、入江。潮の匂いと湿った風の中、元フランソワ海賊団の一味たちが集まっていた。人数は多くないが、誰も武器を手放していない。フランソワは死んだ。ルキフェルたちも姿を消した。じゃあ、自分たちはどうなる。誰もが同じ疑問を抱えながら誰一人として口に出せずにいた。沈黙は重く、今にも誰かが爆発しそうな空気だった。その時、ぬらりと闇の中から一つの影が滑り込んでくる。
「おや? 皆さんお揃いで。……こんな夜に珍しい」
一味たちの視線が一斉に集まる。見知らぬ男だが、敵意よりも先に警戒が走った。
「誰だ、てめぇ」
低く唸る声。続々と剣の柄に手がかかる。男——ピエールは両手を軽く上げ、芝居がかった仕草で肩をすくめた。笑みは柔らかいが、その目だけが鋭く光っている。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ。物騒だなあ。オレはフランソワ船長たちと、少しばかり縁があった者です」
彼の言葉にざわりと怒りが揺れた。フランソワの名は今や刃そのものだ。ピエールは一味の反応を確かめるように一人ひとりを見回すとわざとらしく溜息を吐き、視線を伏せて哀悼の色をほんの一瞬だけ滲ませる。
「いやあ……こんな形になるとは。フランソワ船長は……海軍に殺されたなんて」
一味の中から怒号が上がる。
「やっぱりか!」
「卑怯な野郎どもが……!」
「許せるかよ!」
ピエールはそこで初めて頷いた。
「ああ、許せるはずがない。船長は最後まで戦った。それでも……数にものを言わせた海軍に追い詰められた」
事実と虚構が巧妙に混ざる。誰も訂正できない。なぜなら、真実を知る者はもういないからだ。
「そして、今度は皆さんの番だ。このまま散り散りになれば、いずれ一人ずつ狩られる。海軍はそういう連中だ」
一味たちが息を呑む。ピエールはニヤリと笑って一歩前に出た。
「だから、提案がある。怒りがあるなら、使い方を間違えちゃいけない。……どうせなら派手にやりましょう。船長が死んだままで、終われますか?」
火を焚べるように残党たちの胸に燻っていた怒りに油を注ぐ。しばしの沈黙。だが、もう迷いではなかった。爆発の直前に訪れる、危険な静けさ。ピエールは確信する。
——かかった。
この夜、入江で生まれたのは哀悼でも弔いでもない。復讐という名の最悪の選択肢だった。入江に係留されていたガレオン船は、かつての根城だった。帆は古び、船体には無数の傷が残っているが、まだ動く。甲板には元フランソワ海賊団の残党たちが集まっていた。怒りに突き動かされた視線、荒い呼吸。誰もが興奮しているのに、誰も笑っていない。出航準備が進む中、ピエールは一歩引いた位置から彼らの様子を眺めていた。
「……よし、行けるな」
誰かが叫ぶ。錨が上げられ、帆が張られた時、ピエールが声を飛ばしたた。
「ああ、ちょっと待ってください」
一味の視線が一斉にピエールへ向く。
「もし無事に終わりましたら、ですが。この入江には戻らないでください」
「……どういうことだ?」
「海軍も馬鹿じゃない。警備隊を襲えば、当然この辺りも洗われます。ですから、指定した場所へ向かってください。ここから南へ。入り江が二重になった、岩場の奥です」
そう言って、ピエールは簡単な地形を示す。そこはダラス家の取引場所だった。夢蛇、幻覚剤を扱う際に使われる密輸港。人目につかず、逃げ道も多い場所。
「……そこか」
誰かが呟く。残党たちは疑うより先に納得してしまった。ピエールは彼らの反応を見て満足そうに頷く。
「一仕事終えたあと、体勢を立て直すには、うってつけでしょう? では、健闘を祈っています」
ガレオン船がゆっくりと入江を離れていく。波を切る音。軋む木材の音。ピエールはその背を桟橋の上から見送った。帆が闇に溶け、船影が完全に見えなくなってから彼は小さく息を吐いた。
「うん。これでいい」
独り言のように呟き、口元に薄い笑みを浮かべる。彼が教えた指定された場所は逃げ場であると同時に閉じ込めるための檻でもあった。この時点で彼らが戻る場所はもうどこにもない。
「あっ」
ピエールの声が思わず漏れた。額を押さえ、低く呟いた。胸の奥がひどく嫌な音を立てる。
「……しまった。手紙の運搬、忘れてたわ」
致命的な失念だった。剣でも銃でもないが、この一件において最も重要な刃を置き忘れている。ピエールは踵を返し、入江を飛び出した。夜の街を駆ける。石畳に靴音が響き、肺が焼ける。途中、柱に貼られた紙切れが視界に飛び込んできた。
大海賊フランソワ、死亡。
ピエールは躊躇なく引き剥がした。紙が破れる音すら今は鬱陶しい。
「……燃やしたなんて」
拠点の部屋で、暖炉に放り込んだ自分の判断が脳裏をよぎる。
「オレ、バカだな」
吐き捨てるように言いながら、近くに繋いでいた馬に飛び乗った。夜風を裂き、街を抜ける。行き先は決まっている。夢蛇の取引所、密林に近いあの入江。時間はない。知らせなければならない。海の向こうにいるはずの、あの男に。
夜明け前。入江を出た元フランソワ海賊団の残党たちは警備隊の哨戒線をすり抜け、ほとんど抵抗らしい抵抗も受けずに襲撃を成功させた。怒号と銃声、長く続かなかった。警備隊は少数で連携も甘い。船を寄せ、砲を向け、混乱に乗じて制圧する。数刻もしないうちに勝敗は決していた。
「……やれるじゃねえか」
「海軍なんて、こんなもんだ」
誰かがそう呟いたのをきっかけに空気が変わる。恐怖の代わりに奇妙な昂揚が広がっていく。フランソワは死んだが、自分たちはまだ生きている。しかも勝った。血の匂いと煙の中で、その事実が胸を満たした。彼らは知らなかった。それが最初の成功体験であり、同時に二度と引き返せなくなる歪みの始まりだということを。やがて夜は明ける。ピエールは取引所である入江に辿り着いた。夜襲を終え、興奮と疲労の入り混じった顔でフランソワの残党たちが集っている。
「待ってろ」
ピエールは告げると小屋へと入った。ここは彼自身の寝ぐらでもある。ランプに火を灯す。橙色の光が粗末な机を照らした。封筒。上質な羊皮紙を数枚。ペン先にインクを含ませる。まず、一枚。
——フランソワが死んだ。
事実のみを簡潔に。次の一枚。
——準備は整っている。必要とあらば、いつでも支援は可能だ。
情報は分ける。一文につき、一枚。それから、ペンを持ち替える。利き手と、そうでない方。交互に文字の癖を殺すために。最後の一枚だけは意図的に変えた。筆圧を均し、流麗な貴族の書体で。
我々は旧ブルボン派。資金援助をしよう。
海上を統治する夢を描ける。
十五代目コルヴァンこと海軍書記官ベルリオーズ・モンレザールと君の仲は、我々が水面下で繋ぎ止めている。
偉大な海賊の弔い合戦といこう。
さあ、フランス海軍相手に戦争をしようじゃないか。
書き終えた瞬間、ピエールは息を吐いた。ここまで来れば、もう戻れない。羊皮紙を折り、号外を挟み、封筒へ。封蝋を溶かす。刻むのは王党系の紋章。旧ブルボン派であることを示唆する、由緒正しき印。手紙の内容と送り主が本物であるために。ランプの光の下、赤い封蝋が固まっていく。それを見つめながらピエールは笑った。
「これでいい」
ピエールは封筒を胸に抱えたまま小屋を出た。松明の明かりに照らされて、停泊中の船影がいくつも浮かんでいた。その中で、彼の目に留まったのは一隻だった。小回りが利き、帆の数は最小限。だが船体は細く引き締まり、無駄のない造りをしている。長距離航海用、速度重視、情報と手紙を運ぶためだけに作られた船だ。ダラス家の財力があってこそ手に入る代物。
「……あれだな」
独り言のように呟き、迷いなく甲板へ上がる。貿易船の船長は、すでに彼を待っていたかのように振り返った。年の頃は四十前後。身なりは良いが、目の奥にあるのは商売人特有の乾いた計算だけ。ピエールは封筒を彼に差し出す。
「これを運べ。確実にな」
船長は一瞬だけ封蝋に目を走らせる。旧ブルボン派の王党系紋章。それを見た瞬間、彼の口元がわずかに緩んだ。
「宛先は?」
「エドガー・ロジャースだ。ポートロイヤルにいなければ、トルチュ島へ向かえ。馬鹿でかい黒い船があいつの根城」
淡々と告げるピエールに、船長は即座に頷く。
「承知しました。期限は?」
「急げ。失敗するなよ」
船長にとって重要なのは、この一通でどれだけの金が動くかだけだ。手紙の中身など、どうでもいい。実際、運ぶだけで破格の報酬が支払われる。危険も少ない。知る必要もない。楽な仕事だ。だからこそ、高級取りになれる。
ピエールは彼の様子を横目で見ながら内心で鼻を鳴らした。愚かだな。自分が運んでいるのがどれほどの火種かも理解せず、ただ金のために頷く。その軽さが逆に使いやすい。軽蔑と実利は矛盾しない。
やがて、貿易船は出航した。帆が上がり、船影が闇に溶けていくのをピエールは無言で見送る。それから彼は振り返り、入江の奥へと歩いていった。そこにはフランソワの残党たちがいる。夜襲を終えたばかりの顔。疲労と興奮、そして復讐心が入り混じった危うい目。ピエールはにこやかに声をかけた。
「さて。次はどこを狙いますか?」
その笑顔に疑いはなかった。残党たちはすでに復讐という名の熱にすっかり取り憑かれている。思えば警備隊襲撃は彼ら自身の意思で選んだ復讐であり、同時にピエールによって用意された破滅への航路だった。




