第一章② ???
サン・マロの港は、いつも通りの喧騒に包まれていた。
潮の匂い、濡れた木材の軋む音、荷揚げを急かす怒号。だが、その雑音の裏側で一つの出来事が共有されていく。
マクシミリアン・ブーケ隊は、例の汚職士官に関する出張任務を終えた第二部隊、沿岸防衛を担う第五部隊と短時間の情報共有を行った。形式的な報告。必要最低限の言葉。感情の入る余地はなかった。
「対象は排除された。今後の脅威は確認されていない」
ほどなくして、マクシム隊はサン・マロを後にする。港に長く留まる理由はないが、彼らが去った直後から港の空気は微かに変わり始めた。どこから漏れたのかは分からないが、噂はいつだって出所を必要としない。
「聞いたか? 大海賊フランソワ、死んだらしいぞ」
「マクシミリアン・ブーケ隊という、海賊討伐部隊が討ち取ったって話だ」
事実は語られるたびに形を変えた。海に身を投げたという真実はいつの間にか討伐にすり替わり、爆破騒ぎは決定的な証拠として消費されていく。ほどなくして港には号外が撒かれた。
大海賊フランソワ、死亡。
荒い活字。誇張された見出し。手に取った水夫たちは騒めきながら顔を見合わせた。
「だからか……あの海の爆発」
「あんな騒ぎになるわけだ」
「時代も変わったもんだな。あのフランソワが」
噂は酒場へ流れ込み、酒場から路地へ溢れ、路地から街全体へと広がっていく。樽を囲む男たちの話題は、いつしか大海賊フランソワ一色になっていた。誰も知らない。彼がどんな最期を選んだのか。誰の声が、あの爆音の中で消えたのか。サン・マロは今日も変わらず賑わっている。ひとつの死を飲み込み、咀嚼し、噂として吐き出しながら。こうして、大海賊フランソワは歴史になった。そして、この街ではまだ誰も気づいていない。この出来事が次の災厄の始まりであることに。
夜の酒場は煙と酒と笑い声で満ちていた。油染みの天井、床にこぼれた酒、擦り切れた木のカウンター。港で一日を終えた水夫たちが肩を寄せ合い、杯を打ち鳴らしている。
「——でよ、聞いたか? あの大海賊フランソワの話」
誰かがそう切り出すと周囲が一斉に振り向いた。今夜、この話題を避けて通れる者はいない。
「聞いた聞いた。爆破だろ? あっけねえよな」
「はは、海賊なんてそんなもんだ。どんだけ名を上げても、最後は火薬一発よ」
別の男が酒を煽りながら鼻で笑う。
「カリスマだの何だの言われてたが、所詮は悪党だ。海軍を狙い撃ちしてりゃ、いずれこうなる。自業自得ってやつだな」
「だな。海に生きたなら、海で死ぬ。綺麗な話じゃねえか」
杯がぶつかり合い、笑いが起こる。誰もその海で死ぬがどんな死だったのかを想像しない。話題を変えるように、若い水夫が身を乗り出した。
「それよりさ。フランソワをやった部隊の話、知ってるか?」
「お、出たな。英雄譚」
男たちが興味深そうに耳を傾ける。
「なんでも、人数は少ねえんだと」
「は? あんな大物相手に?」
「しかもよ、女の士官が何人もいるらしい」
「冗談だろ」
「いやマジだ。しかも全員、ちゃんと強えって話だぞ」
「へえ……そりゃ変わった部隊だな」
「で、それをまとめてるのがマクシミリアン・ブーケ隊長、だっけか」
その名が出た瞬間、酒場のあちこちで頷きが起こる。
「ああ、聞いたことある」
「若いのに切れ者で、剣も相当だって」
「少数精鋭で結果出すんだから、そりゃ大海賊の相手も任されるわな」
誰かが感心したように言い、別の男が笑った。
「海軍も、たまにはやるじゃねえか」
「どうせ堅物の集まりだと思ってたが、案外面白い奴らもいるもんだな」
杯が再び鳴り、話はどんどん膨らんでいく。
「女士官がいて、少人数で、しかも大海賊討伐だぜ?」
「英雄だよ、英雄。マクシミリアン・ブーケ、覚えとけ。これから名が売れるぞ」
その“英雄”がどんな顔で命令を出したのか。誰を切り捨て、誰を黙らせ、どんな血を踏み越えたのか誰も知る由もない。酒場は今夜も賑やかだ。英雄が生まれ、悪党が整理され、物語は都合よく丸め込まれていく。フランソワは哀悼される死者ではなく、終わった悪役だった。そして、マクシミリアン・ブーケは本人の意思とは無関係にこの夜から英雄として語られ始めた。酒場は相変わらず騒がしい。その喧騒から少し離れた片隅に、黙って耳を傾ける人物が一人いた。肘をついたテーブルの上には使い込まれた手帳。ペン先が紙の上を滑るたび、かすかな音を立てる。傍らのジョッキはすでに底が見え、泡の跡だけが内側に白く残っている。
「……へえ。あの海賊も、ついに終わったか」
どこか中性的な声が喧騒に紛れて零れた。感慨とも、同情ともつかない声音だった。
彼女——ワン・ユーリンは視線を上げることなく、水夫たちの会話を聞き流している。フランソワの名。爆破。英雄マクシミリアン・ブーケ。それらは彼女の中で感情ではなく「情報」として整理されていった。
ワン・ユーリン。東洋情報屋組織「リー・ウェン」に属する一員。商人を装い、街を渡り歩き、噂と真実の境目をすくい上げる者だ。ここサン・マロも彼女の担当地域のひとつ。組織の規則により彼女は男装して活動している。すらりとした体躯、整った顔立ち、中性的な雰囲気。これまで誰ひとりとして、その正体に疑念を抱いた者はいない。それは彼女の技量でもあり、この街の人々が見たいものしか見ない証でもあった。
「……なるほど」
ワンはペンを止め、手帳を閉じる。水夫たちが語るフランソワ像はすでに原形を留めていなかった。死に方は簡略化され、動機は歪められ、物語は都合よく整えられているが、それでいい。重要なのは事実ではなく、「どう語られているか」だ。ワンは立ち上がり、酒場の主人に無言で銀貨を滑らせた。主人は一瞥しただけで頷き、何も言わない。この街では詮索しないこともまた、商売の一部だった。ワンが外へ出ると、夜風が頬を撫でる。石畳の壁に貼られた号外が、風に煽られてばさりと音を立てた。
——大海賊フランソワ、討伐される。
彼女は一瞬だけ立ち止まり、その紙を剥がす。指先に伝わる、インクのざらつき。
「……ふうん」
ワンは号外を畳み、懐へとしまった。早くアジトへ戻らなければならない。この街で起きたことは、もう組織全体で共有されるべき段階に入っている。ワンは足音を消し、闇の中へと溶けていった。やがて、アジトにしている隠し部屋へたどり着くとワンは軋む音を立てて扉を押し開けた。室内から何か鳥が飛んだような羽音が聞こえた気がする。中には必要最低限の家具しかない小さな部屋が広がっていた。灯りは控えめで空気は静か。窓際に一人の男が立っていた。彼は背中を向けたまま、サン・マロの夜景をぼんやりと眺めている。無骨な佇まい。無駄な動きのない姿勢。相変わらず何を考えているのか掴めない男だ、とワンは内心で思う。ふと、彼女の視線が机の上に落ちた。号外。どこで手に入れたのか。彼は普段ほとんどアジトから出ない。それだけに、その存在が妙に目についた。
「……珍しいですね」
ワンが小さく呟いた声は男の背中には届かない。その時、部屋の隅で何かが動いた。積み上げられた箱の陰から小柄な青年が顔を上げる。
「あ、ワンさん。帰ってきたんですね」
朗らかな声。場の空気を少しだけ柔らかくする声音だった。情報を運ぶ役目を担う青年、ポーランだ。ワンは頷き、すぐ本題に入る。
「ポーラン。頼みがある」
「はい、なんでしょう?」
「今すぐ、その号外を皆に見せろ。中継地点で」
ワンが机の上を指先で示すと、一瞬の間もなくポーランの目が輝いた。
「もちろんですよ! おいらの足でひとっ走りしてきます!」
ポーランは勢いよく頷き、机へ飛びつくように近づいた。
「そんで、急ぎ戻りますね!」
「別に、急ぎで戻らなくても——」
ワンが言い終わる前に、ポーランは号外をひったくるように掴んで踵を返した。
「行ってきまーす!」
扉が勢いよく開き、閉まる。夜の空気と一緒に彼の足音はあっという間に遠ざかっていった。残されたのは再び静寂。ワンはやれやれと息を吐き、窓際の男に視線を向ける。彼は相変わらず外を見たまま動かない。机の上から号外が消えたことにも特に反応はなかった。
「……広まりますよ」
ワンが告げると、男はようやく首を動かした。
「分かってる」
噂はもう止まらない。止めるつもりも最初からなかった。
「……それで」
低い声が室内に落ちた。ワンが顔を上げると男はまだ窓の外を向いたまま、動かず掠れた声が続く。
「死んだのか……本当に」
男の声は微かに震えていた。誤魔化そうともしない、珍しい揺らぎだった。この男がここまで感情を表に出すのを見るのは初めてだ。どうやら彼はまだ現実を飲み込めていない。ワンはこの男とフランソワの詳しい関係までは知らないが、少なくともただの知人ではないことだけは今の一言で十分だった。彼女は薄暗い室内で手帳を開き、淡々と事実を並べる。
「海上での爆破です。水夫たちの会話を聞く限り、沈んだのは海賊船で間違いないでしょう。それに、最初の噂が出たのは海軍が詰めていた港付近。……発生源としては自然です」
男は一瞬何か言いかけるように口を開き、やめた。代わりに低く問いを落とす。
「他に……フランソワに、仲間はいなかったのか?」
ワンは手帳をぱたんと閉じた。
「さあ。そこまでは分かりませんね」
事実だけを返す。余計な憶測は毒になる。男は黙り込んだ。コートの肩口が微かに擦れる音だけが聞こえる。考えているのか、それとも耐えているのか。ワンは少しだけ声音を和らげた。
「……まだ噂の段階ですよ。いずれ、海軍から正式な発表が出るでしょう。その時になれば、もっと詳しいことが分かるはずです」
男はしばらく何も言わなかったが、やがて低く言う。
「サン・マロのリー・ウェン。一つ、頼みがある」
「はい? なんでしょう」
「あの……ポーランとかいうガキが戻ってきたら伝えろ。頼みたいことがある」
「一体、何を?」
「馬の用意だ」
男がゆっくりと振り返った。蝋燭の灯りに照らされた姿。赤銅色の短い髪には年齢を感じさせる白髪が筋のように混じり、アンバーの片目は鋭く、もう片方は黒い眼帯で覆われている。日に焼けた小麦色の肌。頬を横切る、浅いが古い傷。何より引き締まった長身が立っているだけで室内の空気が張り詰める。出たな、とワンは内心で呟いた。太陽の下の影。この男が動くとき碌なことが起きない。事件はいつも彼の背後で形を変える。男は低く、掠れた声で告げた。
「俺はマルセイユに行ってくる。セドリック・モンレザールに会うためだ。手紙はすでに飛ばした。……もっとも、奴が俺の訪問を拒まなければ」
ワンは即座に応じた。
「それでしたら、ポーランに頼まずとも私が馬を用意しますよ。あなた方は、我々と協力関係にある。……そうでしょう? ——アラン・クロード殿」
アランは窓の外に視線をやった。フランソワは死んだ。だが、今は感情に沈んでいる場合じゃない。あいつはそう簡単にやられる男じゃない。だからこそ、この事態の裏がどうにもきな臭い。ルキフェルのこと。他の船員たちの行方。だが、今の手持ちの情報では真実には辿り着けない。遅すぎる。足りなすぎる。
「……だからこそ、だ」
アランは息を吐く。
セドリック——十四代目コルヴァン。ワタリガラスを操る、伝説の情報屋一族。本来ならまだ解禁すべきではない切り札だが、今は使わなければならない。アラン・クロードは腹を括っていた。暗闇に蠢いては、真実は掴めない。長いこと沈黙に横たわっていたが、再び身を起こした。




