第一章① 戦闘の余波
*偉人の言葉
自分の中に巣食う”獣”に身を委ねる者は、人間でいた時の「痛み」を見つめなくて済む。
——サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)
※原文:”He who makes a beast of himself gets rid of the pain of being a man."を物語向けにかなり意訳したものです。
静まり返った船上に残されたのは血の気配だけだった。
「……くそっ」
血に染まった波を睨みつけ、グウェナエルは悔しげに唇を噛みしめた。傍らに落ちていた、大海賊フランソワの帽子。今やただの遺品となったそれを乱暴に足蹴にし、海へと蹴り落とす。三角帽は一瞬空を切り、白波に飲み込まれ、黒い影となって沈んでいった。
「どうされます? 隊長」
低く抑えた声で尋ねたのは、副隊長のダヴィットだった。戦友としても長年背を預けてきた相棒としても、彼の視線には隠しきれない心配が滲んでいる。マクシムは一瞬だけ目を伏せて息を吐いた。
「……あの怪我じゃ、そう長くはもたない」
事実を述べているだけのはずだったが、言葉はどこか喉に引っかかり思ったよりも重く落ちた。
「船は爆破して帰還する。これ以上の危険は避けよう」
マクシムの声は平静を装っていたが、わずかに震えていた。自分でもそれが怒りなのか安堵なのか、あるいは別の感情なのか判然としない。
——海賊は海に生き、海に死ぬ。
ふとそんな言葉がマクシムの脳裏をよぎる。きっと彼はそれを望んだのだろう。本当なら生け捕りにして民衆の面前で処刑すべきだった。それが叶えば海軍への信頼も、国王の威光もより確かなものになったはずだが、その理想は儚く消えた。
「……口惜しいな」
マクシムは気付けば呟いていた。誰に聞かせるでもなく、自分の内側に落とすように。その瞬間、記憶が不意にほどける。
八歳の頃。まだ自分がマクシミリアン・ブーケではなく、アントワーヌと呼ばれていた時代。ゼフィランサスの船で、居場所を持てずにいた自分にあの男は優しさを向けてくれた。剣の握り方を教えてくれたこともあった。真剣な顔で、どこか楽しそうに。
——兄貴みたいな人だった。
マクシムの胸の奥がきり、と音を立てて締めつけられる。思い出してはいけないはずの感情が今になって押し寄せてくる。
……本当に、優しい人だった。
マクシムはゆっくりと視線を海へ向けた。そこにはもう何もない。波が揺れ、血の名残をさらっていくだけだ。
「……あなたの生き様を。おれは生涯、忘れない」
隊長としてではなく、海軍士官としてでもなく。ただ一人の少年として、零れ落ちる声。誰にも向けられていない言葉だった。海に投げられた、遅すぎる哀悼。
「……隊長」
リラが少しだけ強い調子で声をかけた。
「血、出てますよ。口」
彼女の一言で、マクシムはようやく自分が唇を強く噛みすぎていたことに気づく。口元に指を当てると指先が赤く染まった。
「……失礼しました」
マクシムはハンカチで軽く口元を拭いながら、どこか後輩らしい調子で頭を下げる。
「いえ、気にしないでください」
リラはすぐに首を振ったが、すぐに表情を引き締めていつもの副官の顔に戻る。
「帰りましょう。本部に報告しなければなりません」
マクシムは頷きかけ、もう一度だけ海を振り返った。そこにはもう英雄も海賊もいない。自由を選んだ一人の男が海の底へ消えていった痕跡だけが残っている。マクシムの胸の奥を引っかくような違和感が走った。
フランソワの姿が脳裏から離れない。海に身を投げたが、あれは本当に自ら選んだ死だったのだろうか。国家が断罪し海軍が追い詰め、逃げ場を奪った末の選択。その結果としての最期なら殺したも同然ではないか。
……自分たちが、あの男を。
マクシムは奥歯を噛みしめる。フランソワの死を悼む資格が果たして自分にあるのかは分からないが、あの男が命を賭して選んだ自由だけは決して無駄にしてはならない。だからこそ、必ず終わらせる。大元帥を。正義の名で人を裁き、切り捨てる此の国のやり方を。マクシムが胸の内で誓った時、彼はリラの腕を軽く制して目を鋭くさせた。
「……ああ、待ってほしい。まだ片付いていないことがある。……少し、腹立たしいことも」
リラが戸惑いを含んだ声で問いかける。
「今度は、どうされたのですか?」
マクシムはゆっくりと視線を巡らせ、海賊船の甲板の一角を見据えた。
……そうだ。それには、あいつをどうにかしなければならない。
「敵が、まだ残っています。彼の始末が先です」
淡々と告げるマクシムの視線の先に立っていたのは、騒ぎの中でも一歩引いた場所で無言のまま成り行きを眺めていた男——マルセロだった。意図を察したグウェナエルが即座に彼の前へ出る。
「どういうことです? これは……!」
その瞬間、マルセロは理解した。
ああ、この目だ。マクシムの瞳に宿る、あの光。戦場で何度も見てきた、決断を下した人間の目。本気だ、自分をここで殺すつもりだ。
マルセロの背筋にひやりとしたものが走るが表情を崩さない。むしろ、いつものように唇の端を吊り上げる。
「ちなみに僕は、海賊に加担していませんよ? それに、僕は軍医です。……まさか、この場で僕を処刑するつもりですか?」
マルセロの言葉は冗談めいていながらも必死に立場という盾を掲げる行為だった。マクシムは一瞬だけ彼を見つめる。何かを量るように。人としてか、駒としてか。あるいは、危険因子としてか。その沈黙こそが答えだった。
「ああ、おそらくな」
マクシムが冷たく言い放った瞬間、グウェナエルが即座に動いてマルセロの胸元を掴んだ。
「——っ!」
マルセロは乱暴に突き飛ばされ、甲板に尻餅をついた。鈍い音と共に、周囲から思わず息を呑む気配が漏れ、誰もがその場に立ち尽くす。これは尋問でも拘束でもない。処分の始まりだと本能で理解したからだ。
マクシムは短剣を引き抜き、乱暴にマルセロを引き起こした。よろめく身体を支える暇すら与えず、マクシムはマルセロの背後に回って冷たい刃でマルセロの首筋をなぞる。頸動脈。ほんのわずか手首を引くだけで終わる位置。
「……マルセロ」
マクシムに呼ばれ、マルセロの喉が小さく鳴った。この距離、この温度、この殺気。
「僕が……何をしたっていうんですか?」
マルセロは声が震えないよう意識して整えた。医者としてではない。同期として最後まで立っているために。
「貴方は、僕たちの計画をどれほど知っているのですか?」
マクシムの声はかつて聞いたことのないほど冷たかった。感情を削ぎ落とし、理屈だけを残した刃の声。彼の声を聞いた瞬間、マルセロの背筋に再び冷たいものが走る。もう、彼の中では答えは決まっている。
「……ああ、そのことですか」
マルセロはわずかに視線を落とした。彼の脳裏に、不意に古い記憶が蘇る。
両親とシルバ一家。命からがら国境を越えた、あの夜。そして、宝石商だった実家の工房を訪ねてきた一人の男——アラン・クロード。無骨な男、彼の手には一枚のスケッチがあった。
「それ、何?」
少年だった自分が無邪気に聞くと、男は少し困ったように笑って答えた。
「イヤリングだ。この持ち主を探してる」
スケッチの線は荒かったが、奇妙に印象に残った。緑の宝石。それに連なるガラスのビーズ。そして、どこか呪いのような気配。——まさか、それが。
「……汚いイヤリングですよ。どこかで見た記憶があってね」
マルセロはゆっくりと言葉を選んだ。
「調べていくうちに、辿り着いたんだよ。真相に」
彼の背後にいるマクシムの気配が一段階冷える。
「なるほど。つまり君は、僕の秘密に気づいてしまったわけだ。そして王党派の君は、それを告発しようとしていた。——違うか?」
マクシムは短剣を握る手に筋を立てながら続けた。
「それに、さっきのあの態度は何だ? 士官学校時代から、君が僕を好ましく思っていなかったのは知っていた。……それで僕に勝ったつもりか? 自分のことを醜いとは思わないのか?」
マルセロは奥歯を噛みしめた。
——違う。違うんだ、マクシム。お前を止めたいだけだ。
だが、もうその言葉は届かない。マルセロはほんのわずかに首を巡らせ、背後を盗み見るようにマクシムを振り返った。
「……そのイヤリング。君の漆黒の髪で隠したって無駄だからな。いずれ、別の誰かにもバレるぞ」
忠告だった。最後の、同期としての言葉。マルセロは続ける。
「いいかい。政治観の違いを抜きにしても、忠告しておく。君がやろうとしていることは……恐ろしいことだ」
マルセロの声がわずかに熱を帯びる。
「僕は最初から、君の何かが歪んでいると感じていた。これは、同期としての忠告だ。計画は、今すぐやめた方がいい」
一瞬の沈黙の中、マクシムは意外なほどあっさりと頷いた。
「そうか。君の言うことは、まあ……一理ある」
マルセロの胸に微かな希望が灯る。——が、マクシムの声が完全に温度を失った。
「だが、秘密を知ってしまった以上……君には、死んでもらう」
マクシムが短剣を振り上げ、頸を掻き切ろうとした。この男の目には、もう自分は映っていない。止めに来た同期ではない。計画の邪魔をする存在としてしか見られていない。ああ、間に合わなかった。マルセロが覚悟した刹那、グウェナエルの手が伸びてマクシムの剣を制した。
「隊長。そのまま殺すなんて、勿体ない。どうせ殺すなら、マストに括りつけて海賊船ごと爆破してしまいましょう」
「は? 冗談じゃない……!」
マルセロの声が初めて大きく揺れたが、マクシムはもう彼を見ていない。彼はマルセロに一瞥すらくれず踵を返す。マクシムの背中は冷たく、遠かった。グウェナエルとシャルルが無言で動き、マルセロをマストに縛り上げる。逃げ場はない。やがて、マクシムの声が甲板に響いた。正義の声を装った、断罪。
「隊員たちよ。この裏切り者は、これより処罰される。彼は海賊に情報を売り渡した。私に嫉妬するあまり、私を嵌めようとさえしたのだ。よって、この裏切り者は海賊船と共に爆破する。火薬の準備を!」
こうして、止めるために来た男は邪魔者として切り捨てられる。
マクシミリアン隊は海賊船で慌ただしく火薬の準備を進めた。
その少し外れた海域。波間を縫うように、一隻の小舟が必死に距離を詰めていた。舳先近くに立つルキフェルは振り返って仲間たちを見渡し、喉が裂けるほどの声で叫ぶ。
「急げ! もうすぐだ、もうすぐで着く!」
櫂を握るジャスパーの腕はすでに限界に近く、歯を食いしばりながらも一切緩めない。マテオが荒い息の合間に低く呟いた。
「……見えてきた。やっと、か……!」
彼らの視線の先には波間に並ぶ二隻の小型ガレオン船。夕刻の光を受け、船体が鈍く反射している。ルキフェルは思わず船縁に身を乗り出した。
「待ってろ、フランソワ……今、助ける!」
彼の胸の奥で何かがせり上がる。間に合う。間に合わなければならない。間に合わないはずがない。ルキフェルの背後では、ニールとコリンが無言で武器と鉤縄の準備を整えていた。必死にこれから起こる戦いを想定している。——その時だった。ルキフェルの中に、言葉にできない違和感が走る。あまりにも静かすぎる。波の音はある。木の軋む音も遠くの声も、確かに聞こえる。だが、そこにあるはずのものがない。怒号がない。剣戟の金属音がない。命がぶつかり合う、あの騒音が——どこにもない。
「……?」
ルキフェルの鼓舞する言葉を探していた口が自然と閉じた。次の言葉が出てこない。小舟がさらに近づくにつれ、ルキフェルの声は完全に消えていた。翡翠の瞳だけが必死に船の上を探している。そして、五人を乗せた小舟が二隻の船を見上げるほどの距離まで迫った瞬間、ルキフェルはハッキリと“それ”を見た。
海面が——赤い。夕陽の色ではない。波に溶けきらず、まだらに広がる血の色。
戦いはすでに終わっていた。
ルキフェルの喉が音を拒んだ。息を吸おうとしても肺が動かない。赤く染まった波間を見下ろし、自分が信じて疑わなかった「間に合う」という言葉が、音もなく崩れ落ちていくのを感じながら。
「……そんな、もう……遅かったのか」
ルキフェルは呆然と呟いた。声は掠れ、叫びにも嘆きにもならない。事実をなぞるように零れ落ちただけの音だった。彼らの視界いっぱいに広がる、赤く染まった海。波が揺れるたび血の色は薄まり、また集まり、消えきらずに残り続けている。
「遅かった……。——救えなかった」
歯を食いしばるように言葉を継いだ瞬間、ルキフェルは自分が何を救おうとしていたのかを理解してしまった。助けるつもりだった。間に合うと思っていた。いや、思いたかった。
「まさか……本当に、死んだんじゃないよな?」
マテオが信じられないものを見る目で海面を睨みつける。声は強がっているが、どこか上ずっていた。彼は否定の言葉を探して視線だけが血の跡をなぞる。死んだわけがない。あのフランソワが。あんな男が、こんな静かに終わるはずがない。
「……いや……恐らく、もう……」
ニールが言葉を慎重に選ぶように首を振った。理屈では分かっているが、それ以上を口に出せば何かが決定的に壊れてしまう気がして、彼は唇を強く噛みしめることしかできなかった。波の音。遠くで響く、海軍兵たちの声。やけに現実的に耳に入ってくる。その中で、ジャスパーだけが海軍船をじっと見据えていた。
「……なあ。あいつら……帰るみたいだ」
彼の一言で、全員の視線が同じ方向を向く。帆を畳み、甲板を片付け始める海軍の動き。戦いは終わり、後始末に入った合図。コリンも不安げにその光景を見つめていた。何か言おうとして、結局言葉を飲み込む。聞きたいことは山ほどあるのに、どれも口に出してはいけない気がした。長い沈黙が落ちる。フランソワは死んだのか。いや、あの血が彼のものとは限らない。海軍の誰かかもしれない。もしかしたら、まだどこかで生きているかもしれない。ルキフェルの翡翠の瞳は海を見つめたまま、微動だにしない。理解してしまった自分と理解したくない自分が、胸の中で引き裂き合っていた。
——まだ、終わっていない。終わったなんて、認めない。でも……。
喉が凍りついたように動かなかった。小舟の上には誰の声もない。血の匂いを孕んだ潮風だけが吹き抜けていた。
海賊船の甲板は異様なほど慌ただしかった。火薬箱が運ばれ、導火線が確認され、命令が短く飛び交うが、その中心から少し外れたマストの根元では一人動けぬ男がすべて見回していた。縛られた両腕。荒縄が食い込む胸元。それでもマルセロの背筋は伸びていた。彼は近くで火薬袋を抱えていたジョルジュに声をかける。
「おい、ジョルジュ」
名を呼ばれた瞬間、ジョルジュの肩がびくりと跳ねた。彼は振り向くのを一瞬ためらい、それでも逃げずに近づく。
「……はい。なんでしょうか」
マルセロは一度甲板の向こう、海軍船の方を見やった。
「マクシムを呼んでこい。最期に話をしたい」
ジョルジュは言葉を失った。最期という単語が重く胸に落ちる。命乞いではない。時間稼ぎでもない。マルセロの目に宿るのは逃げ場のない覚悟だった。
「……わかりました」
ジョルジュは踵を返す。海賊船の縁から海軍船へと飛び移る彼の背中は震えてはいたが、迷ってはいなかった。海軍船の甲板ではマクシムはマストにもたれ、ひとり佇んでいた。彼の左手は無意識のうちに耳元へ伸びている。漆黒の髪に隠された、あのイヤリング。指先で触れ、わずかに唇を歪めた。
「……いつか、バレる」
独り言のような呟き。自嘲とも諦観ともつかない声だった。
「隊長!」
突然かけられた声に、マクシムは肩を強張らせた。一瞬怒鳴りそうになるも、やってきた人物を振り返ってすぐに自制する。
「どうしましたか」
マクシムが問うとジョルジュは息を整え、まっすぐに告げる。
「マルセロさんが……呼んでいます。お話があるそうです」
「裏切り者と話す義理はない」
マクシムの口から出たのは反射的な言葉だった。冷たく切り捨てるように。だが、ジョルジュは引かなかった。
「……それでも……なんとか、お願いします」
マクシムは眉をひそめ、青年を見上げた。従順なだけの兵ではない。命令を待つだけの駒でもない。そう思った瞬間、マクシムの胸の奥に小さな棘が刺さる。
「……マルセロが僕に何の用で?」
「それは……ボクにもわかりません! でも……あの人、真剣でした」
ジョルジュは一歩前に出て、深く頭を下げる。
「お願いします。最期に……会ってあげてください」
ジョルジュの姿にマクシムは目を細める。思い出すのは、自分がこの部隊に彼を入れた理由。この真っすぐさだ。嘆願ではない。命令でもない。ただの願い。マクシムは息を吐いた。
「……わかった。マルセロに会ってこよう」
ジョルジュが顔を上げる前にマクシムは踵を返し、何も言わずに船縁へ向かう。ジョルジュはマクシムの背中を最後まで見送っていた。マクシムは海軍船から海賊船へ、波音を挟んでひとっ跳び。彼が甲板に足を下ろした瞬間、マルセロとの間に言葉よりも重い沈黙が落ちた。マルセロはマストに縛られたまま息を吐いてどこか諦めたように笑う。
「……君はもう止まんないんだな。僕がもっと早く気づいていればな、士官学校の時に」
マクシムは視線を逸らさないが、ほんの一瞬だけ睫毛が揺れた。
「それでも止まらないよ。僕にはこの道しかない」
マルセロはマクシムの言葉に少しだけ目を細めた。
「その道がどんな道なのか。正直、全部は分からない。でも、ひとつだけ間違いなく言えることはある。その道を進むと決めたなら……ちゃんと進めよ。じゃないとさ、僕が屍になる意味って、なんなんだよ。いや……屍じゃないな。灰だ。僕は……骨すら残らない存在になる」
マルセロの言葉にマクシムの喉が微かに鳴った。今さらだ。分かっている。分かっているはずなのに胸がざわつく。マルセロは彼の変化を見逃さなかった。
「勘違いするなよ。なにも僕は肯定してない。君のやること、正しいなんて思ってない。死んだ僕のことはどれだけ罵ってもいい。むしろさ、 “うざい奴だった”って風潮して自分を正当化しろ。じゃないと……僕が死ぬ意味がない」
マクシムは眉を寄せた。
「……言っている意味がわからないよ」
マルセロは声を上げて笑った。
「おっと、今だけでもいい。その穏やかな仮面、剥いでくれるかな? 君が僕を罵る一方で……僕は死んでも、君の行く末を見てやる。死の淵から、ずっとだ。君が迷うたびに、こう言ってやる。何やってんだってね。君に纏わりつく亡霊になる」
マクシムは何も言えなかった。否定も反論も、どれも言葉にならない。その沈黙を見て、マルセロは満足したように息を吐いた。
「……なあ、最期に教えてくれよ。ベルナルドを殺したの……君だろう?」
空気が凍った。マクシムの声がかすれる。
「……なんで、それを」
マルセロは苦笑しながら目を伏せた。
「図星みたいだな。そこはさ、違うって言ってくれよ。……この部隊に赴任して、すぐだった」
マルセロの脳裏に、記憶が静かに差し込む。
——ベルナルドの殉死に伴い、マルセロが新しく赴任して間もない時だった。医務室で掃除のために開けた引き出し。中身をすべて机に出し、誤って床にぶち撒けた書類の山。その中で、開いたまま落ちていた一冊の手帳。
この記録を他人が読むことになったなら、その時、俺はもう生きていないだろう。
だが、これを隠して死ぬのは、卑怯すぎる。
この一文を読んだ後、マルセロは手記と日記をアニータに託して、ブレスト司令部へ行った。サン・マロでの海賊掃討作戦。ベルナルドの死亡解剖記録。第一発見者、マクシミリアン・ブーケ。それから、マルセロはサン・マロへ向かった。現場を一目見るために。その時、街の便利屋として、古くから交流のあったアラン・クロードは言っていた。
「もし犯人がフランソワや船団の人間なら、あんな殺し方はしない。フランソワはな……人を苦しまず殺せる。暗殺術を知ってる。だが、君の記録にあった傷はどうだ? まるで、人を弄ぶような……あの船団は、そんな残虐なことはしない。俺も、あそこにいたから分かる」
アランの証言を聞いた瞬間、マルセロの背筋を冷たいものが走った。
「……もしかして、って思ったよ」
マルセロはゆっくりとマクシムを見る。
「真犯人は……君じゃないかって」
波が船腹を打つ。マクシムはしばらく言葉を探していた。喉の奥が焼けつくように痛む。
「……すまない。君とベルナルドは……同郷の友だったな」
「遅い」
マルセロは刃物のような一言で言い切る。
「君も異文化に理解があるなら……因果応報って言葉くらい、知ってるよな?」
マクシムは答えない。マルセロは続ける。
「この世界って、よくできてるんだ。自分がしでかしたことは、巡り巡って返ってくる。自分だけじゃない。巻き込んだ人間、全員にな」
夕陽が二人の影を長く引き延ばしていた。
「君の最期は、碌なものじゃない。……それでも背負う覚悟はあるのか? フランソワみたいに、血まみれになりながら、それでも一人で立てるか?」
マクシムは歯を噛みしめる。
「……言われなくても」
「……本当に?」
マルセロはハッキリとマクシムの迷いを見抜いていた。
「成すことと守るべきもの。両方を抱えるなんて、君には無理だよ」
一瞬、マクシムの感情が跳ねる。
「……それでも、守りたいものがある」
マルセロは自嘲混じりの笑みを浮かべて目を伏せた。
「相変わらず、僕たちは相容れないな。好きにするといい。こんなことになっても……どうやら僕は君を放っておけないみたいだし。……お節介だったな。分かったなら早く行けよ」
マクシムは踵を返した。一歩、二歩。甲板の木が乾いた音を立てるが、数歩進んだところで足が止まった。自分でも理由は分からなかったが、身体が言うことを聞かない。次の瞬間、彼は衝動のまま振り返り、縄越しにマルセロを抱き寄せていた。肩が震え、喉が上下する。マルセロは一瞬、完全に思考が止まった。何が起きたのか理解が追いつかなったが、すぐに悟る。
——ああ、こいつもまた自分を放っておけなかったのか。
夕陽が傾き、甲板を橙色に染めていた。二人の影が足元で長く伸びる。重なり合い、境界が曖昧になる。マルセロは息を吐いた。彼の視線は空へ。沈みゆく太陽を仰ぎながら低く言う。
「君はさ。悩みを打ち明けられる友を持った方がいい」
マクシムの震えが少しずつ収まっていき、やがて顔を上げた。そして、何の前触れもなく口付ける。それが頬だったのか、唇だったのか。夕陽に溶けた影の中でもう判別はつかなかった。触れた感触も距離も、温度も一瞬で通り過ぎていく。マルセロの理解が追いついた瞬間、マクシムは何も言わず背を向けて歩き去っていった。残されたマルセロは頭の中が真っ白だったが、ようやく掠れた声で呟く。
「……お前、それはないだろ」
怒りが遅れて湧いてくる。理屈じゃない。言葉にする前に感情が先に燃え上がる。
「自分の気持ちからも逃げるのかよ」
夕陽はもう半分、海に沈んでいた。重なっていた影はいつの間にか引き裂かれ、それぞれ別の方向へと伸びていく。あれは何だったのか。どういう意味だったのか。考えようとした瞬間、すべてが無意味だと分かってしまう。分かってしまったからこそ、マルセロの胸の奥で怒りだけがいつまでも燻り続けていた。
火薬の準備が終わったらしい。隊員たちが次々と海軍船へと飛び移っていく。マルセロを一人残して。やがて船が離れ、マクシムの背中が遠ざかる瞬間、マルセロ声が裂けた。
「ふざけるな! おい、こっち見ろ!! 最期にあんなことしやがって……だったら尚更だ! 一生、お前に付き纏ってやる!!」
爆音。炎。煙。船が内側から崩れていく。マルセロは涙を流しながら呟いた。
「黙っていればいいものを……」
煙を吸い込み、咳き込む。涙は、煙のせいか。それとも——。
「マクシミリアン・ブーケ!!」
マルセロは炎の中で叫んだ。
「……お前の計画なんか……失敗してしまえ!!」
爆炎がすべてを飲み込んだ。ただの怨嗟か、それとも最後に残った、微かな希望だったのか。答えは炎の中に。やがて、船ごと海の底へと沈んでいった。
海賊たちはまだ小舟の上で沈黙していた。ニールが何かを言いかけた瞬間、ルキフェルは船内で燃え盛る炎を捉えた。
「——船が!」
ルキフェルが叫んだ。警告というより悲鳴。そのすぐ後、轟音。空気が破裂したような衝撃が五人の耳膜を叩き潰す。船内から突き上げる爆発。火薬が唸り、木材が悲鳴を上げ、甲板が内側から引き裂かれ、爆炎が立ち上る。燃え始めた海賊船はまるで生き物のように軋み、揺れ、のたうち回った。そして、そのすぐ傍で海軍船は炎から逃げるように進路を変えていく。
「……っ」
ルキフェルの胸が強く圧し潰された。彼の視線は一点に縫い留められている。燃え上がる船。去っていく敵。その隙間を縫うように、爆音の向こうから男の絶叫が聞こえた。
「フランソワ!!」
考える前にルキフェルの体が動いた。小舟の舳先へ身を乗り出し、喉が裂けるほどの声で名を呼ぶ。
「フランソワ!! フランソワァ!!」
ルキフェルの腕を誰かが掴んだ。
「やめろ!」
ジャスパーの声。強引に引き戻されるが、ルキフェルは構わず叫び続けた。燃える船。弾ける木材の乾いた音。舞い上がる破片と灰。それらは宙を漂い、やがて波に落ち、小舟の周囲へと流れ着いてくる。
「フランソワ……!」
何度呼んだのか、もう分からない。ルキフェル喉は焼け、声は掠れ、それでも呼ぶのをやめられなかった。——返事はない。炎は船体を食い尽くし、やがてゆっくりと海へ沈んでいった。海がすべてを呑み込む瞬間、ルキフェルの足から力が抜けた。膝が折れ、小舟の床に崩れ落ちる。胸の奥が空洞になった。彼の隣に立つジャスパーは何も言わず、ただ漂う木片を見つめている。ジャスパーの背後ではマテオも、ニールもコリンも声を失っていた。波の音だけが続く。その時、波間に何かが浮かび上がった。流れ着いたそれを、ルキフェルは無意識のまま掴み取る。三角帽子。フランソワの帽子だった。自由を掲げ、自由を生きた海賊の象徴。その縁が真紅に染まっている。理解は一瞬だった。
——フランソワは、死んだ。
血に染まり、爆炎の中で。絶望の中で。育ての親は、ここで終わった。その瞬間、ルキフェルの胸の奥で何かが割れた。怒り。だが、それはまだ表層。怒りの奥で、もっと原始的で、もっと黒いものがゆっくりと蠢き始める。
——怨嗟。
喪失に行き場を失った感情が形を求めて集まって一つの影を作り上げていき、ルキフェルの内側で“獣”が目を開いた。牙を持ち、爪を持ち、悲しみを喰らい、怒りを餌にして育つ存在。だが、彼にはそれが獣だとは分からなかった。認識できるのは怒りと憎しみだけ。
「……殺してやる」
言葉は喉の奥から漏れ落ちた。誓いではない。唸り声だった。
「……あいつらを……」
彼の背後にいた仲間たちが息を呑む。これまで一度も聞いたことのない声だ。穏やかだったルキフェルの面影は、そこにはない。彼の視線はただ一つ。遠ざかる海軍船を獲物を見る獣の眼で睨み据えている。
「復讐してやる。——絶対に、赦さない」
憎悪が牙を剥く。言葉と同時に獣は目を覚まし、咆哮した。理性は後退する。悲しみは飲み込まれる。残ったのは、奪われたものを取り返すために吼える”一匹の獣”。
こうして、ルキフェルは立ち上がった。復讐という名の獣に自らの心を差し出して。
——これが、連鎖の始まりだ。




