第十章 フランソワvsマクシム隊
フランソワとマクシム、二人の視線が交わる。一瞬、世界から音が消えた。
先に動いたのはフランソワ。踏み込みは鋭く、迷いがない。一閃。だが、マクシムは彼の太刀筋を風のようにいなす。剣がすれ違い、反撃の間合いを探る気配が伝わってくる。速いが、焦りはない。
フランソワは思う。酒のせいか、身体は熱い。血が巡り、鼓動が耳の奥で鳴っているが、頭は驚くほど冷えていた。次に何が来るか見えている。どう動くべきかも分かっている。
——ここは……ゼフィランサスのおかげだな。
憎い名が胸の奥をかすめる。ルキフェルの人生を滅茶苦茶にした男。それでも悔しいが、あの人の剣術特訓は無駄じゃなかった。
フランソワは重厚なカットラスを猛々しく、無駄なく振るう。一撃一撃に、これまで積み重ねてきた時間と覚悟が宿る。殺意はある、荒々しい怒りではない。これは選んだ末の戦いだ。金属音が甲板に弾け、火花が宙を舞う。フランソワの剣は今日という日のために磨かれてきたかのように中心で輝いていた。海風が戦いを煽る、刃がぶつかるたび甲板の上で乾いた音が弾けた。
フランソワの猛撃を受け止めながら、マクシムの思考は何度も同じ問いに引き戻されていた。
——殺せるか? 本当に、この男を。
重い一撃。踏み込みの鋭さ。だが、そこに無差別な狂気はない。裏切ったのは国家の方ではなかったのか。ほんの一瞬、フランソワの言葉がマクシムの脳裏をよぎる。陸は腐っている。仲間は捨てられた。だから海に残った。その論理は理解できてしまう。
——なぜ、おれは話を聞いてしまった?
最初から斬りかかっていればよかった。裁きはもっと単純だったはずだ。こんな迷いは生まれなかった。胸の奥で渦巻くのは怒りではない。鈍く重い、痛みだった。忠義に厚く、仲間を守る男。彼の生き方を国家の敵という理由だけで斬ってしまっていいのか。
陸の世界は腐っている。公平も、自由も、幻想にすぎない。
それは自分だって知っている。それでも、フランソワを許す理由にはならない。国家への反逆。民への恐喝。数多の殺戮。正義はこちら側にある。あるはずだ。
そう、最大の理由は……病室の白が、マクシムの脳裏に浮かぶ。
イヴォン・ローラン。眠る彼の顔。尊厳ごと踏みにじられ、痛めつけられた身体。あの光景を思い出すたび、マクシムの胸の奥が軋んだ。もし、フランソワがやったのだとしたら。赦せるはずがない。
……だが、待て。まだ、確定したわけじゃない。自分は何を根拠に断定している。さっき、本人に問いただせばよかったじゃないか。
——くそっ。おれは……何をやっているんだ。
迷いが刃の動きを鈍らせる。 攻めきれず、受けに回る。剣は振るっているのに覚悟が伴っていない。マクシムの違和感を、フランソワが見逃すはずがなかった。猛攻の合間、鍔迫り合いになった一瞬。フランソワは至近距離でマクシムの茶色い瞳を覗き込む。揺れている。
この坊主、ここまで来てなお、本気じゃない。
「……ちっ」
フランソワの苛立ちが胸を焼く。殺し合いの場で迷うな。覚悟もないままここに立つな。
「お前、ここまできたら本気でやれよ!!」
フランソワの怒鳴り声と同時に間合いが崩れた。
「なに、ぼさっとしてるんだ、坊主!」
フランソワの鋭い蹴りがマクシムの腹にめり込む。マクシムの身体に衝撃が走り、身体が宙を舞い、甲板を転がって視界が揺れる。マクシムが立ち上がろうとした瞬間、襟元をぐっと掴まれた。
「ここは俺たちに任せてください、隊長」
ダヴィットだった。責める響きはない、支えがそこにあった。
「なぜ、いつも一人で戦おうとするんですか?」
ダヴィットの問いが、マクシムの胸に突き刺さる。マクシムは力なく頷き、マストにもたれかかった。彼の視線の先では、フランソワが囲まれていた。数人の隊員たちが間合いを詰める。退路はない。逃がす気もない。フランソワはゆっくりと周囲を見渡した。
……囲まれたか、いいだろう。
フランソワの口元がわずかに歪み、剣を構え直して深く息を吸う。恐れはない。焦りもない。
——かかってこいよ。ここまで来たんだ。全部、受けて立つ。
一方、マストに寄りかかるマクシムの元に、マルセロが歩み寄った。
「これで奴も逃げられませんね。空でも飛ばない限りは」
マルセロの声はどこか芝居がかっていたが、軽さとは裏腹に視線は一瞬たりともマクシムから逸れていない。
「……隊長は、海軍の人間ですよね?」
マルセロの問いに、マクシムの肩がわずかに強張った。
「……何が言いたい」
低く返したマクシムの声にいつもの余裕はない。マルセロはそれを聞き逃さなかった。
「いえ。なんだか……あの男に、同情しているように見えましたので」
マクシムの胸の奥がきしりと音を立てた。同情。そんな言葉で片づけられるものか。マクシムは奥歯を噛み締め、最小限の声で唸る。
「うるさい……お前に、何がわかる」
マクシムの苛立ちが腹の底から湧き上がってくる。今のマルセロは、まるで自分の方が正しいとでも言いたげだった。
違う。こいつは、見ている。戦況ではない。人の心を。昔からそうだ。マルセロは傷口よりも先に歪みに気づく。
マクシムの脳裏をよぎる、大元帥。復讐。沈めるべき存在。そして今、目の前で剣を振るうフランソワ。
まさか……自分とフランソワの関係まで探ってるか。……いや、だとしても証拠はない。だが、マルセロは馬鹿ではない。むしろ異様なほどに鋭い。人の挙動、呼吸、視線の揺らぎを見逃さない。こいつが前線の戦闘員だったら、厄介な男だった。さすが軍医と言うべきか。
マクシムの思考がさらに暗い方へ転がる。
もし、こいつも自分の秘密を握っているなら、始末しなければならない。
マクシムの喉の奥がひくりと鳴った。
——いや、待て。軍医だぞ。どうやって始末する? 戦死扱い? 事故? 馬鹿な、今この場で?
考えがまとまらない。焦りだけがマクシムの胸の内で膨れ上がる。だからこそ、口を突いて出た。
「こいつも……後で切り刻もうか」
自分でも驚くほど冷えた声だった。マルセロはそれを聞いても顔色一つ変えない。ただ、ほんの一瞬だけ安堵にも似た影が瞳をよぎった。
——壊れていない。まだ、言葉が“刃”として出てくるうちは。こいつの心は、僕が見張る。壊れるなら、その前に。
マルセロはそう決めていた。その時、再び甲板に剣戟の音が響き渡る。
フランソワが新たに二人と対峙していた。グウェナエルと、ダヴィット。太陽光を受け、フランソワのカットラスが鋭く煌めく。対する二人は、無言のままサーベルを構え、間合いを詰めていく。二手に挟まれながらも、フランソワの目は冷静だった。彼の視界は澄み、次の一手がはっきりと見えている。
「……いいだろう。二人まとめて、相手してやる」
囲まれてなお怯みはない。静寂。次の瞬間、爆ぜるように三者が動いた。先に踏み込んだのはグウェナエルだった。長身から繰り出される一太刀。軌道は大きく、無駄がない。風を切る刃が正面からフランソワを捉えにかかる。フランソワは内心で呟く。
——やっぱり、でかいな。俺と同じくらいか。厄介だが、十分渡り合える。
すかさず、横合いからダヴィットが踏み込んできた。重みのある横一閃。剣がうなり、甲板に火花が散る。
「こいつ……強すぎだろ」
ダヴィットの顔に純粋な困惑が走る。
「その強さ、どこから来てるんだ?」
フランソワは動じない。軽やかな足運びで二人の間をすり抜け、刃を返す。グウェナエルの視界に映るのは、フランソワの流れるような剣筋だった。
「……まるで風だ。だが、速いだけじゃない。優雅さがある」
戦士としての誇りがグウェナエルの胸の奥で震える。
——さすがだな、大海賊フランソワ。敵として天晴れ。
三者の剣が交錯するたび金属音が波音を切り裂く。船の揺れに合わせ、甲板が軋む。
「一度きりで終わらせると思うなよ」
その言葉を口にしながらフランソワは内心で小さく舌打ちした。
——ちょっと卑怯だが……まあ、今さらだな。意地悪するか。
船の端。自分の背後は海。逃げ場はないが、追い詰められているフリは昔から嫌いじゃなかった。相手の呼吸、足運び、視線の揺れ。一瞬だけ生まれた、ほんの紙一重の隙。それを彼は逃さない。次の瞬間、フランソワの身体は前に出ていた。正面からではない。半歩、斜め。グウェナエルの懐へ、滑り込むように。
——悪友エドガーと昔よく考えた騙し討ちだ。喰らえ。
フランソワはカットラスの刃を振るわない代わりに柄を逆手に握り直し、そのままゴンと鈍い音を甲板に響かせた。柄を通して骨に直接伝わる衝撃。手応えは十分すぎるほどだ。フランソワは一瞬だけ眉を顰める。
——ああ、効いたな。
グウェナエルの視界が唐突に砕けた。
「な、に……?」
衝撃が頭蓋を打ち抜き、世界が横滑りする。甲板も海も、空も、すべてが二重に揺れ、色を失っていく。足元がおぼつかない。身体が言うことをきかない。
「くそ……!」
さっきまで見えていたフランソワの姿が急に遠のいた。 輪郭が滲み、光が弾け、グウェナエルの視界の端で星が瞬く。
——戦士として、敵ながら天晴れだと思った。だが……前言撤回だ。
「許さん……!」
グウェナエルの口から怒りが湧き上がるが、それすら頭の奥で鈍く反響するだけだった。目の前がチカチカと明滅し、焦点が合わない。踏ん張ろうとしても、足が半歩遅れる。剣を構え直したくても、距離感が掴めない。見えない。視界の半分が闇に沈んだまま、戻ってこなかった。フランソワはグウェナエルがよろめいた気配を背後に感じ取るより早く踵を返していた。
——いい反応だが、そっちは後回しだ。
フランソワの視界に映ったのは、真正面から踏み込んでくるダヴィットの姿だった。火花が散る。カットラスとサーベルがぶつかり合い、甲板に甲高い金属音が響く。力も技も悪くない。フランソワは内心でそう評価しながら、わずかに口角を上げていた。ダヴィットの剣は真っ直ぐで、感情が乗る分だけ重い。だが、それが逆に読みやすい。ダヴィットは歯を食いしばりながら応戦していた。重い一撃を受け止めるたび、腕の奥に鈍い痺れが走る。
「くそっ……っ!」
ダヴィットの口から思わず声が漏れた。
「誰か……っ、援護を——!」
その瞬間、フランソワの低い笑い声が刃の間から滑り込んだ。
「ははっ。余裕ねえなぁ、紺色殿」
フランソワはわざと半歩だけ踏み込み、ダヴィットの剣を弾いた。力で押さえ込まず、軌道をずらす。逃げ場を塞ぐ。
「さっきから全部、真正面だ。海じゃそれ、真っ先に沈むぞ?」
「……っ、黙れ!」
ダヴィットは叫びながら剣を振るうが、フランソワは受け止めない。かわし、流し、いなす。そのたびに、ダヴィットの呼吸が乱れていくのがわかった。
——悪いが、容赦はしねえ。
フランソワは心の中でそう呟く。情けをかける気はない。だが同時に、遊んでいるわけでもなかった。こいつは、ここで止めるよ判断した瞬間だった。
「フランソワッ!」
張りのある声が甲板を震わせた。フランソワは視界の端で、金髪の男が駆け込んでくるのを捉える。陽に焼けた肌、分厚い体躯。剣を振り上げる構えに、一切の迷いがない。
「……サミュエルかッ」
ダヴィットの呟きと共に剣がほんの一瞬、緩んだ。フランソワは即座に間合いを切り替えてダヴィットから半歩離れ、身体を回転させるように向きを変えた。サミュエルの剣が唸りを上げて振り下ろされる。重い。一直線だが速い。フランソワは冷静にサミュエルの剣筋を見極めていた。
「……力任せだが、覚悟は本物だな」
フランソワはカットラスを斜めに構え、真正面から受けず刃を滑らせる。衝撃が自分の腕に伝わるが、歯を食いしばるほどではない。火花が散り、二人の間合いが詰まる。
「……来るなと思ったか?」
フランソワが低く呟く。サミュエルは答えず剣を構え直す。その目は、仲間を守るための覚悟で燃えていた。
「いい目だ」
フランソワはわずかに息を吐いた。ここは戦場。情も評価も勝敗の後だ。彼は再び踏み込み、カットラスを振るう。サミュエルも応じる。重い剣としなやかな刃が交錯し、甲板に緊張が張りつめていく。彼らの背後では、ダヴィットが息を整えながら体勢を立て直していた。二対一。包囲が完成しつつある。フランソワはその気配を背中で感じながら口の端を吊り上げた。視線は、真正面のサミュエルから逸らさない。
「……いいさ、まとめて来い。海賊相手に遠慮はいらねえ」
サミュエルの剣は獣そのものだ。力任せで迷いがない。振り下ろされるたびに、甲板の空気が割れる。フランソワは彼の勢いを真正面から受け止め、刃を滑らせ、受け流し、時に打ち返す。腕は重い。呼吸も荒くなってきたが頭はまだ冴えていた。荒いな。だが、いい剣だ。踏み込み、重心の移動、呼吸の癖。すべてが素直で正直。だからこそ、次の一手も読める。
フランソワが評価を下している最中、甲板の端で彼の視界の隅に、わずかな揺れが映った。短剣を握る、細い指。ペネロペだ。彼女がそこにいることは、最初から分かっていた。舞台袖の役者のように息を潜め、殺気を消し、ただ待っている視線。そして何より、短剣を握る手が、わずかに震えている。
——覚悟は、決まってない。
フランソワはサミュエルの剣を受け止めながら、心のどこかで理解した。この娘は殺しに来たわけじゃない。終わらせに来たのだ。
「……そろそろ、だな」
フランソワは誰にも聞こえぬほど小さく呟くと、あえて視線を逸らした。サミュエルの剣を受け流す動作がほんの一瞬、遅れる。足運びもわずかに甘くする。待っていた者だけには、十分すぎる合図だった。ペネロペが動く。震えていた手が嘘のように定まる。短剣が一直線に迫ってくる。
——来い。
フランソワは避けなかった。むしろ自分からその軌道へ身体を預ける。刃が脇腹に触れた瞬間、鋭い冷たさが皮膚を裂き、次いで灼けるような痛みが内部に流れ込んできた。
「っ……!」
フランソワの息が喉から強制的に押し出される。短剣が肉を割き、奥へと沈む感触がはっきりと分かる。骨は避けた。内臓も致命には届かないが、十分だ。力が指先から抜けていく。カットラスが重く感じ、握力が保てなくなる。膝が言うことを聞かない。甲板が傾いて倒れ込む瞬間、木の床がやけに遠く感じられた。衝撃が背中に走り、肺の空気が抜ける。フランソワの視界の端で、ペネロペの顔が歪むのが見えた。泣くな。そう言いたかったが声は出ず、代わりに口元にかすかな笑みだけが浮かぶ。
——これでいい……全部、終わらせる。
血の匂いと潮の香りが混じる中で、フランソワは甲板に身を横たえた。
「終わりだよ」
ペネロペの声は冷たく、ひどく静かだった。感情を断ち切るために言葉を選んだのだと、フランソワにはわかった。
——わかってる。
フランソワの胸の奥で、声にならない声が応える。自分は終わらせにきたのだ。ここまで来ると決めて、ここに立った。
——これで……よかったんだ。
甲板に伏した身体が意思とは関係なく大きく上下する。肺が痙攣するたび脇腹の傷口が熱を帯び、鈍い痛みが波のように押し寄せるが、不思議と苦しさは薄れていった。音が遠のき、視界の輪郭が滲み、世界が少しずつ解けていく。誰かが息を呑む気配。誰かが剣を握り直す音。すべて、もう自分のものではないように感じられた。
——もう、このまま死んでいい。
そう思った瞬間、瞼の裏に次々と光景が浮かび上がる。船底での雑用。油にまみれた手。怒鳴られ、殴られ、それでも歯を食いしばって働いた日々。
——ああ、懐かしいな。
そして、あの少年。傷だらけで怯えた目をしていたくせに、それでも必死に前を見ようとしていた小さな背中。
——ルキフェル。
剣を教えた日。失敗して、悔しそうに唇を噛みしめていた顔。少しずつ、少しずつ背が伸び、声が変わり、気づけば自分よりも広い世界を見据えるようになっていた。仲間たちの笑い声が続く。甲板での喧騒。酒の匂い。嵐の夜。焚き火を囲んだ時間。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
——こんなにも……持っていたんだな。
涙が自然と溢れた。誰に見せるでもなく、誰に言い訳するでもなく。頬を伝い、甲板の木目に吸い込まれていく。その時だった。別の記憶がひどく鮮明に蘇る。
——エル・イエロ島。
強い日差し。白い砂浜。剣術稽古を終え、汗だくのまま砂に腰を下ろしたあの日。
俺の隣ではエドガーが信じられないほど無防備に寝転がっていた。俺はというと、息を整えながら海を眺めていた。そして、ゼフィランサス。息一つ乱さず、ただ海を見つめていた男。
「フランソワ。自由って……何だと思う」
不意に投げかけられた彼の問いに、若かった俺は肩をすくめた。
「さあ、俺には分かりやせんよ。あんたが一番、分かってるんじゃないんですか?」
ゼフィランサスはくっと吹き出した。
「まあ、お前ならそう言うと思ったよ」
少し間を置いて、彼は独り言のように続けた。
「正直……オレにだって分かんねえよ。みんな、オレのことを風みたいだって言う。自由な人間だってな。……そんなつもり、ねえのに」
俺は思わず笑って答えた。
「いやいや、そういうところですって。なんにも靡かない、流れない。むしろ流れを作って、周りを巻き込んでいく。無意識でも、俺たちにはそう見えるんですよ」
しばらく沈黙が落ちた。波の音だけが二人の間を満たす。やがて、ゼフィランサスはゆっくりとこちらを見た。
「……オレが本当に自由な人間なら、死に方も選べるんだろうか」
一瞬、息が詰まったが笑って済ましてやった。
「ゼフィール。あんたにしては、ずいぶん塩らしいじゃないですか」
珍しく愛称で呼んだ俺に、ゼフィランサスは少しだけ目を細める。
「もし、人生の終わりも自分で選べるなら……オレは海を選ぶ」
「……海?」
「そうだ。海賊は海に生き、海に死ぬ。そんな話がある。船乗りの間じゃ、ただのおとぎ話かもしれねえけどな」
ゼフィランサスは一度、海に視線を戻してぽつりと続けた。
「それでも……海賊として生きると決めた以上、海で死ぬって……どんな感じなんだろう」
——そこで記憶は途切れた。
フランソワはゆっくりと現実に引き戻される。胸の奥で静かな納得が広がった。
——ああ、そうか……。長い間忘れていた。けれど、ずっと心の底に沈んでいた、この会話。俺は今……海の上にいる。
甲板の冷たさをはっきりと感じる。潮の匂い。血の匂い。倒れ伏したままフランソワはゆっくりと息を整えていた。胸が上下するたび脇腹の奥で鈍い熱が広がる。痛みはあるが不思議と耐え難いほどではない。
——これで、いい。
自分がここまで生き延びた理由も背負ってきた因果も、すべてこの海に返す。それで終わる。終わらせに来たのだから。その時、すぐ近くで低く抑えた声が交わされる。
「致命傷は逸らしたよな」
あの真っ直ぐな男——ダヴィット——だ、とフランソワはぼんやり認識した。
「うん……たぶん」
ペネロペの声がかすかに震えている。
「まだ……息、してるし」
一瞬の沈黙。甲板を渡る風の音と、遠くでぶつかる波の気配だけが耳に残る。
「俺たちの任務は生け捕りだからな。まず止血処置を、いや……まず隊長の判断を仰いでくるか」
ダヴィットが言った。現実的で、軍人らしい声音だった。足音が遠ざかる。
……生け捕り?
その言葉が遅れてフランソワの胸に落ちた。理解した瞬間、心臓が強く跳ねる。
——終わりじゃ、ない……?
フランソワは思わず目を見開いた。バイオレットの鋭い光が甲板の上で揺らぐ。自分が選んだはずの終わりが、他人の判断で先延ばしにされようとしている。その事実に動揺が走った。そんな彼の変化を、見逃さなかった者がいた。
「……しめた!」
グウェナエルの声だった。先ほど騙し討ちを受けた際の衝撃と屈辱が、まだ頭の奥で燻っている。視界が完全に戻らないまま、それでも彼の胸を支配していたのは戦士としての矜持だった。
——まだ、生きてる。危険だ。
理性よりも先に怒りが身体を突き動かす。
任務? 生け捕り? そんなものは今の彼の意識には存在しなかった。
目を見開いたフランソワと視線が合った瞬間、グウェナエルの胸の奥で何かが弾けた。またやられる前に、斬りかかる。ただそれだけを考え、グウェナエルは踏み込んだ。彼の動きに、甲板の端で戦況を見守っていたマクシムが顔を上げる。異様な殺気。任務を逸脱した加速。
「待て……! 何をしている、やめろ!!」
マクシム怒号が喉から迸ったが、もう遅い。グウェナエルの足はすでに助走に入っていた。生け捕り。その言葉が脳裏で火花を散らした瞬間、フランソワの中で何かが完全に切れた。
捕らえられ、その先に待つのは、鎖。檻。見世物のような裁き。
国に裏切られ、悪と決めつけられ、最後は処刑台の上で正義の名のもとに首を刎ねられる。
——ふざけるな。
フランソワの怒りは思考より速かった。腹の痛みも、血の温度も、すべてを踏み越えて身体が跳ね起きる。次の瞬間、視界に入った小柄な影——ペネロペの腕を掴み、そのまま彼女を背中から甲板へ叩きつけた。木の床が鈍く鳴り、衝撃が船体に伝わる。
「ペネロペ!」
悲鳴のような声が上がる。メリッサとロザリーが即座に駆け寄り、ソフィーが反射的に一歩踏み出しかけたところで、アニータが手を伸ばして制した。今、動けば余計な血が流れる、彼女はそれを本能で理解していた。フランソワはもう振り返らない。腹に突き立ったままの短剣。その柄を掴んで引き抜いた瞬間、内側から熱が溢れ、血が噴き出す感覚が走った。
——ああ、やっぱり痛えな。けど、構わない。
彼は短剣を何の躊躇もなく海へ放り投げた。鉄が空を切り、波間に吸い込まれていく。フランソワは歯を食いしばり、息を荒くしながら思う。
——俺たちを悪と決めつけ、利用し尽くした挙句に裏切った国に裁かれるくらいなら。——それも、自分で終わらせてやる。
次の瞬間、風を裂く音。グウェナエルの斬撃が迫った。フランソワは身体をひねり、紙一重でかわす。彼の刃が通り過ぎた先、フランソワの視界の端に“それ”が映った。舳先。そして、その近くに無造作に置かれたままの三角帽子。脳裏に古い言葉が蘇る。
「海賊は海に生き、海に死ぬ」
「自由」
フランソワの胸の奥で、何かが静かに定まった。喉の奥で笑うように息を吐く。
——俺は……自由を謳う海賊だ。それなら見てろ。俺は最期まで、自由な男だ。
斬撃をかわしながらフランソワは舳先へと駆ける。血が滴り、視界が滲むが足は止まらない。フランソワは歯を剥いて舳先を目指して走るが、その行く手を塞いだのは二つの気配。サーベルを構えたスザンヌとジョルジュ。若いが、覚悟の据わった眼。恐怖よりも使命が前に出ている。フランソワは一瞬だけ息を整える。舳先はすぐそこ。三角帽子も視界の端に見えているが、通してはもらえない。二人は言葉もなく挟撃に移る。先に動いたのはスザンヌだった。彼女の剣はまっすぐだ。迷いのない踏み込み。恐怖を殺した者の動き。
「……いい剣だ」
フランソワは荒々しくカットラスを拾っては振るい、彼女の一撃を外へと流す。だが、その瞬間をジョルジュは待っていた。船の揺れ。次に来る波。
——今だ。
銃声が空気を裂いた。衝撃がフランソワの右肩を貫く。肉が裂け、骨に鈍い衝突音が響く。
「……っ!」
フランソワは歯を食いしばった。視界が一瞬白く飛ぶが、倒れない。肩から流れ落ちる血の感触。熱いが、痛みは思考を奪わない。むしろ頭は冴えていた。フランソワの背後に来るのはリラとシャルル。二人の連携は美しい。洗練され、訓練され尽くした剣筋が、フランソワの目に映るのは剣ではない。
——怒りだ。ペネロペを叩きつけられた怒り。仲間を傷つけられた怒り。それが理性を押し流している。
「……ああ、もう駄目だな」
フランソワはカットラスを操り、リラの斬撃を受け止めた。金属が軋み、火花が散る。次の瞬間、シャルルが踏み込もうとした。そのわずかな間、フランソワは剣を捨てるように動いた。肘。だが、狙いは正確だった。リラの鳩尾。シャルルの鳩尾。息を叩き出す感触が、フランソワの肘から伝わる。
「……っ!」
二人が崩れ、甲板に膝をつく。
「リラ! シャルル!」
ダヴィットの叫びが響く。その声を聞いた瞬間、空気が変わった。怒りが怒りを呼ぶ。グウェナエルは視界の端がまだ揺れていたが、構えを取り直す。サミュエルの剣には、もはや躊躇がない。ジョルジュは銃を捨て、剣を抜いている。もう、誰も聞いちゃいない。マクシムの声がどこかで響いていた。制止の声。命令。怒号。だが、それは波音に溶けて誰の耳にも届かない。
「……そうか」
フランソワはそこでようやく理解した。これは戦闘じゃない。処理だ。
「これで終わりだ!」
グウェナエルの声が裂けるように響く。四人。グウェナエル。ダヴィット。サミュエル。ジョルジュ。四つの剣が一斉に迫る。
「……いいだろう」
フランソワはもう避けなかった。刃が身体に入る感触が連続して走る。肉を裂き、骨に触れ、内側を貫く。息が肺から抜けていく。剣が引き抜かれると同時に、力が抜けた。甲板が近づく。木の匂い。血の匂い。潮の匂い。身体が崩れ落ちる。
「……ああ」
フランソワの視界の端で舳先が見えた。三角帽子も、まだそこにある。
——終わり、か。
フランソワはぼんやりと天を見た。夕陽が滲み、空と海の境目が曖昧になっている。
「……ずいぶん、長く生きた気がする」
血の匂い。木の感触。身体はもう、言うことをきかない。ここまでか。そう思った瞬間、胸の奥であの声がした。
「フランソワ。もし人生の終わりも自分で選べるなら……オレは海を選ぶ」
——ゼフィール。……いや。違うな。ここで終わってたまるか。
フランソワは微かに笑うとすぐ歯を食いしばった。腹の奥にまだ熱が残っている。
——なあ、ゼフィール。今、思ったんだが……海に死ぬってのは、こういうことじゃないか。
フランソワは顔を上げ、肘をついた。腕が震える。視界が歪むが膝に力を込める。
——俺が……今、証明してやるよ。
呻き声すら出さず、フランソワは立ち上がった。甲板に落ちる血が足跡になる。一歩、また一歩。世界が遠のき、近づく。痛みはもはや数えきれない。それでも進む。舳先が見えた。
「見てろよ、ゼフィール」
風が吹く。青い波がフランソワの眼下でざわめく。
「海に死ぬっていうのは……こういうことだ!」
自分の背後で誰かが叫んでいる。生け捕りにしろ。止めろ。追え。
——うるさい。
フランソワは振り返らなかった。その代わり、吐き捨てるように叫んだ。
「この首……誰にも渡さない!」
それは誇示でも、虚勢でもなかった。ただの宣言だった。国家にも。正義にも。復讐にも。
——介入するな。これは俺が選んだ、俺の末路だ。
サミュエルの声が聞こえる。グウェナエルが走ってくる気配。だが、間に合わない。
フランソワは舳先に立った。一瞬だけ、三角帽子が視界に入るが拾わなかった。フランソワの口元が歪む。大海賊じゃなくていい。父でもなくていい。
「——最期くらい、泥臭く生きたクソガキとして死んでやる」
そして、フランソワは笑った。高らかに、愉快そうに。自由そのものの声で。
次の瞬間、フランソワの身体は宙を舞った。風を切り、夕陽を背に白波の向こうへ。水柱が上がり、海が彼を飲み込む。波が閉じ、音が消える。残されたのは静まり返った甲板と血の匂いだけだった。
冷たい。そう思った瞬間、全身を包んだのは衝撃だった。海水が裂けた肉へ容赦なく流れ込む。痛い。激痛が遅れてやってくる。腹を裂いた刃の跡。肩を貫いた銃創。無数の打撲と裂傷。海水がそれらすべてを洗い、そして抉る。
「……っ、く……」
思わず息を吸いそうになるのを必死で堪える。喉が焼ける。肺が拒絶する。身体は、もう自分のものじゃない。血が水に溶けていく感覚だけがやけに鮮明だった。それでも、胸の奥で何かが解けた。
……ああ。終わったんだ。
誰にも命じられない。誰も守らなくていい。誰かの背中を見張る必要もない。父でもない。船長でもない。大海賊でもない。
——ただの俺だ。
波に揺られ、上下も左右もわからなくなりながら、フランソワの身体はゆっくりと沈んでいく。視界が暗くなる。光が遠ざかる。痛みはある。息も苦しい。肺が限界を訴えている。なのに。
——こんなに、自由だなんて。
笑いそうになる。泡が口から零れた。
生きるために戦ってきた。守るために剣を振るってきた。
誰かの未来のために、自分を削ってきた。
それも、もう終わりだ。
波に抱かれるように身体が回転する。コートが翻り、長い髪が水中でゆっくりと広がった。名前だけが心に浮上する。
——ゼフィール……あんたの言う通りだった。
海に生きて、海に死ぬ。
それは栄光でも、伝説でもない。
ただ、選びきった末の静かな終わり。
最後にフランソワの口から息が漏れた。肺が海水で満たされる。激痛が鈍くなっていく。音が消える。重さも、痛みも、怒りも、後悔も。すべてが遠ざかる。
フランソワは何者でもない。ひとりの男として。暗く深い海へ、ゆっくりと沈んでいった。
彼の顔は、最期まで穏やかだった。
——物語は、第四巻へと続く




