第九章② フランソワ
波間に小型ガレオン船が静かに漂っている。帆は半分だけ張られ、風を受けてわずかに軋む。進んでいるのか、止まっているのか遠目には判別しづらい、曖昧な位置取りだ。フランソワは舵から手を離し、肩を回した。
「ふぅ……一人で動かすのも、なかなか骨が折れるな」
不満の色はない。むしろ、その声にはどこか楽しげな響きすらあった。フランス海軍はまだ港付近を彷徨いているはず。ならば巡回船が必ず通る、この海域。ここで待つのが一番いい。フランソワは舵輪のそばに置いていたラム酒の瓶を手に取り、栓を抜く。香りを一度だけ嗅いでから一口、喉に流し込んだ。
「……上等だ」
瓶を戻し、船尾へと歩く。足取りは落ち着いていて迷いはない。
「さて……いつ、気づくかな」
呟きながら望遠鏡を覗いた。視界の先、自分の船よりひと回りほど小さい小型ガレオン船。——はためく旗は見間違えようもない。フランス海軍旗。
「……読み通り」
フランソワは望遠鏡を放り投げた。弧を描いて宙を舞い、海へと吸い込まれていく。水音は思いのほか小さかった。フランソワはそのまま船尾に立ち尽くし、剣帯に差したカットラスの柄を親指でなぞる。金属の冷たさが指先に伝わった。
「早く来いよ。暴れたくて、しょうがない」
フランソワの身体がわずかに震えた。恐怖ではない、昂揚だ。フランソワは口元に笑みを浮かべ、近づいてくる気配をじっと待ち受けていた。海の向こうに、艦影が現れる。フランソワは船尾に立ったまま、ゆっくりとそれを見据えた。フランス海軍の艦。舳先が迷いなくこちらを向いている。距離が少しずつ詰まってくる。舳先付近で紺色の影がいくつも並んでいるのが見えた。戦闘服を纏った士官たち。こちらを見ている。——いや見据えている、と言った方が正しい。船が近づくたび、フランソワの胸の奥がじわじわと熱を帯びていく。鼓動が早まるのが、はっきりと分かった。恐れか、それとも覚悟か。……どちらでもいい。フランソワは背筋を伸ばし、黒いコートを翻した。風を受け、裾が大きく揺れる。
「俺は逃げも隠れもしない」
誰に聞かせるでもなく、低く呟くと風が吹いた。茶色の髪がなびき、波が船腹を叩く。空気がぴんと張り詰める。それでも、フランソワは目を逸らさない。
「……俺は、いつでも待つぞ」
そう言い残し、踵を返した。船尾を離れ、甲板をゆっくりと歩く。途中、操舵輪近くに置いていたラム酒を手にした。歩調は一定、焦りはない。靴裏が木の床を踏みしめる。ぎし、と小さく軋む音がする。
この音をどれだけ踏んできただろう。血の匂い。火薬の煙。焦げた木材。濡れた帆布。酒の香り。甲板に染みついたそれらが記憶として胸に蘇る。どれだけの血が流れ、どれだけの涙が零れたか。それでも、この船は沈まなかった。——そして、自分も。
舳先近くで足を止める。フランソワはラム酒の瓶を見下ろし、栓を外した。一息。口に含んだ瞬間、舌に広がるのは強烈な熱。砂糖の甘さが先に来て、すぐに喉を焼くようなアルコールの刺激が追いかけてくる。舌の奥にほのかな木の香りと、焦がしたような苦味が残る。樽の中で眠っていた時間の重さがそのまま味になっているようだった。喉を通るとき胸の奥がじんと痺れるが、不思議と嫌じゃない。
「……悪くねえ」
いつ死んでもおかしくなかった。何度も、その瀬戸際を越えてきた。それでも今、こうして立っている。肺に空気が入り、心臓が脈を打ち、足裏が甲板の感触を確かに捉えている。死はすぐそこにあるが、身体はハッキリと生きていると告げていた。フランソワはゆっくりと顔を上げ、近づいてくる艦影を真正面から見据えた。
「……さて。どこまで、やれるかだな」
彼の眼差しには後悔も迷いもなかった。あるのは、これまで生き抜いてきた男の静かな誇りだけ。その時、胸の奥でずっと底に沈んでいた声が不意に浮かび上がる。かつて何度も聞いた、リュウの声。フランソワは鼻で笑い、呟く。
「……因果応報、ね。リュウ。俺は今、ここに立ってるぞ。全部だ。全部、背負う」
風がコートの裾を揺らす。指折り数えるように、ゆっくりと言葉にする。
「仕事をサボったこと。ゼフィランサスの船団を、お前と一緒に抜け出したこと。それから……お前と別れたこと。私掠船団を立ち上げて、また海に出て、七年も働いて……国に裏切られて。それでも懲りずに、今度は海賊団として旗を掲げた」
そこまで言って、フランソワのふと表情が緩んだ。
「……あ」
彼はマストを見上げ、少し間の抜けた声を出す。
「しまった。海賊旗、持ってくればよかったー。まあ……いいか」
苦笑しながら剣帯から手を離し、頭の三角帽子に触れて一度、脱ぐ。手の中のそれをじっと見つめた。黒地に金糸。翼と砂時計。解き放たれた鎖。
「……これが俺の因果。それが今、全部……返ってくるんだよな。でも、俺は運命も信じたい」
フランソワの視線が柔らいだ。そこにあったのは、もう海賊の顔ではなかった。父の顔だった。海の向こうを見るように言葉を紡ぐ。
「ルキフェルと出逢って、俺の人生は変わった。あいつが……生きる意味をくれた。あいつには幸福を掴んでほしい」
フランソワはそっと三角帽子を被り直す。眼差しが再び鋭くなる。
「だから俺は、逃げない。あいつの因果も……俺が引き受ける。全部だ。全部の因果から、逃げない。俺が……終わらせる」
次の瞬間、フランソワは剣帯からカットラスを引き抜き、ためらいなく甲板へと突き立てた。
——がん。
鈍く、重い音が響く。刃は木に深く食い込み、微かに震えていた。フランソワは柄に手を置いたまま、背後から近づいてくる艦影を振り返って見据える。
ここが終点。そして、始まりでもある。
海軍船がゆっくりとフランソワの船と並ぶように進路を合わせ、やがて動きを止めた。 次の瞬間、船縁に叩きつけられる鉤縄の乾いた音が甲板に連続して響く。
——遅えよ。
フランソワは内心でそう吐き捨てながらラム酒を煽った。喉を焼く刺激が走り、腹の奥に熱が落ちていくが、視線だけは逸らさない。 鉤縄を頼りに、次々とこちらの船へ飛び移ってくる海軍員たち。その動き一つ一つを獲物を見るように追っていた。
数は多くない。なるほど、少数精鋭ってやつか。男もいる。女もいる。
フランソワは一瞬だけ目を細めた。
海軍に女性士官か。世の中も変わったもんだ。
そんな感慨がほんの一瞬だけ胸をよぎる。その中で、ひときわ落ち着いた動きを見せる一人の男がいた。漆黒の髪。背丈は際立って高いわけじゃないが佇まいに隙がない。
その彼と視線が合った刹那、顔を認識した瞬間に名前が脳裏に浮かび上がる。
マクシミリアン・ブーケ。似顔絵で見た顔。ベルナルドを殺し、ニールを傷つけた張本人。
フランソワの胸の奥で何かが強く脈打った。怒りが込み上げ、剣を握る指に力が入りかけるが、フランソワはもう一度ラム酒を煽った。苦味と甘さが混じった液体が感情ごと喉を流れ落ちる。
……落ち着け。ここで怒りに呑まれるわけにはいかない。自分はこれから、あの男に殺される。斬られるかもしれない。撃たれるかもしれない。残虐に無様に、見せしめのように。だが、それも含めて覚悟の上だ。
フランソワはゆっくりと背筋を伸ばし、視線を真っ直ぐに据えた。逃げない。逸らさない。背を向けない。
——受けて立つ。
その時、甲板で男の声が響き渡った。裁きの号令。そんな言葉が、勝手に頭に浮かぶ。ただ声が大きいからじゃない。言葉が最初から結論として振り下ろされている。あれは宣言だ。対話のための声じゃない。罪状を読み上げ、判決を下すための声だ。
「大海賊フランソワ! 貴様は長年この海を荒らし、陸に生きる罪なき民を恐怖に陥れ、多くの命を奪ってきた! 我らは国王陛下の信念を体現し、祖国の正義を示すために来た。貴様のような異端は、この手で裁き滅ぼす!」
マクシムの剣の切先がこちらへ向くと同時に、抜剣の金属音が一斉に重なる。刃が光り、空気がひりつく。フランソワは胸の奥が熱くなるのを感じながら口元をわずかに緩めた。
この場に来たのは自分だ。逃げもしない。隠れもしない。 ここで怯えたら、今までの足跡が笑い話になる。だからこそ、腹の底から来るものをそのまま吐き出した。
「その“悪”を生み出したのは……お前たちの国じゃないのか?」
言った瞬間、喉の奥が乾いた。言葉は刃より鋭い。刺さる場所を間違えれば二度と抜けない。フランソワはゆったりと腰を下ろした。膝が軋み、甲板が揺れる。それが妙に懐かしい。自分が生きてきた揺れだ。酒瓶を煽る。熱い。甘い。苦い。喉が焼ける感覚が逆に自分を落ち着かせる。心臓の鼓動がほんの少しだけ整っていく。そして、三角帽子に手をかけた。自分の象徴。自分が自分であるための形。それを脱ぎ、甲板に置く。帽子が木に触れる、小さな音。これでいい。今日は飾りじゃない。肩書じゃない。フランソワとして、ここにいるだけでいい。
「七年だ」
フランソワの言葉が自然に出る。 数えたことなんてないくせに、数だけは正確に舌に乗る。
「俺たちはこの七年、国家の命で汚れ仕事をこなしてきた。他国の船を襲い、命を懸けて戦い……それでも貢献してきた。フランスのためにな」
フランスのために。口にした瞬間、フランソワの胸の奥で何かがひきつった。 笑える。今さらだが、嘘じゃない。あの頃は本気だった。その本気を国が一番よく利用しただけだ。
向こうの男——マクシムが距離を詰めてくる。目が鋭い。 似顔絵で見た通りの目だ。人を斬ると決めた目。
「許可証を剥奪されたあとも、なぜ海に残った? 陸に戻れば安全だったはずだ」
安全。その単語に、フランソワはほんの一瞬だけ笑いそうになった。陸の安全を知っているからこそ、海にいるのに。フランソワは酒瓶を静かに床に置いた。置いた音が思ったより重く響く。言葉の前に息を整えた。言い訳にはしたくないが、分かってほしいとも思わない。もう遅い。それでも、これは自分の人生の話だ。
「陸は……腐ってる」
フランソワの声が少しだけ低くなる。怒りじゃない。痛みだ。自分に宿る紫の目のせいで、親からも見捨てられた記憶が脳を焼く。
「俺もそうだったが、俺の部下たちは皆、陸に裏切られ、傷つき、そして逃げてきた」
仲間の顔が浮かぶ。名前を呼べば、胸のどこかが軋む連中。泥まみれで腹を空かせて、目だけは生きていた連中。
「過去も、身分も、血も。全部捨てて、ようやく手にしたのが“自由”だったんだ」
自由。たった一言なのに重い。血で買った。命で買った。何度も何度も買い直した。
「けれど、その自由にこそ秩序が必要だった」
ここで初めて父の顔になるのを自覚する。自分はいつの間にか守る側になっていた。守るために、汚れ役も引き受けた。
「だから俺は、彼らを“仲間”として育てた」
フランソワが言い終えると胸の奥が熱を帯びた。
誇りか。後悔か。……どちらでもいい。
フランソワは目の前のマクシムを見返す。裁きの剣を掲げるマクシムの瞳に、わずかな揺らぎがあるかどうか。それを確かめたかった。
「……自由、ですか」
マクシムはごく小さく呟いた。ほとんど独り言に近い。意識せず、カスティーリャ語が口をついて出た。自由。その言葉が彼の胸の奥で引っかかる。噛めば噛むほど苦味だけが滲んでくる。
「あなた方は皆、決まって“自由”という。だが僕は、その生き方を否定するほど立派な人間ではない」
そう言いながら、マクシムは剣の柄を強く握り締めていた。指先が白くなる。 この男を前にするたび自分の器の小ささが容赦なく露わになる。
——羨ましい。
認めたくない感情がマクシムの胸の奥で軋んだ。怒りでも、憎しみでもない。焼け付くような、名もなき劣等感。
「貴方はずいぶん部下から慕われているようだ。部下を全員逃がすあたり、貴方は一人一人を人間として見て、愛している」
愛している。その言葉がフランソワの耳に届いた瞬間、彼の胸の奥で何かが音を立ててほどけた。
「愛か」
フランソワは思わず呟いた。次いで、肩をすくめるように笑う。
「その通りだ。いや、そんなの当たり前だ。みんな俺が育てた、ちょっとデカい息子みたいなもんだ」
言い切ったあとで、フランソワは気づく。
ああ、そうか。今まで自分は、守っていると思っていた。責任だと、役目だと。だが、違う。
これは、愛だ。宝箱の中にある金貨や宝石みたいな、目に見える財宝じゃない。
血を流し、背中を預け、名前を呼び合ってきた時間そのもの。失えば二度と取り戻せない、命より重い宝。そして、真っ先に浮かぶ顔があった。翡翠の瞳。不器用な優しさ。傷だらけでも前を向く、あの背中。
——ルキフェル。
口には出さない。ここで名を呼ぶのは違うが、胸の奥で灯るものがあった。
「……貴方がそんなだから、人に恵まれているんだな」
マクシムの声にはほんの僅かに棘が混じっていた。彼の目線の先、フランソワの背後に影が重なる。
三つの影。雨の夜。濡れた甲板。交差する刃の光。あの光景を、マクシムは忘れていない。フランソワとリュウ。そして、ルキフェル。自分が選ばれなかった場所。自分が立てなかった輪の内側。あの夜、雨粒と一緒に胸へ落ちてきた感情が今も消えずに残っている。
——なんで、おれじゃない。
その問いは二十年近く経った今も、マクシムの胸の奥で腐らずに疼いていた。
「俺一人の力じゃない」
フランソワは躊躇いなく続ける。
「お前にだって、後ろで控えている仲間たちがいるだろう?」
フランソワの言葉は慰めでも挑発でもなかった。ただの事実。マクシムは一瞬だけ微笑むが、その表情はすぐに剣のような鋭さへと戻った。
——なぜ、この男は。なぜ、あいつを選んだ。
答えはもう分かっている。分かっているからこそ、認められない。
「……大海賊フランソワ」
マクシムは剣先を構え直す。
「貴様にチャンスを与えよう。いまなら間に合う」
マクシムの声がわずかに震えた。理性で押し殺した、感情の残滓。
「我々に降伏したまえ」
それは慈悲か。それとも、自分自身への言い訳か。
フランソワはマクシムをまっすぐに見返した。
この若い士官もまた何かを渇望している。愛か。承認か。それとも、選ばれるという証明か。そして、フランソワは確信する。
自分が抱えてきた“財宝”は、この男が一生、喉から手が出るほど欲しがるものなのだと。
——だからこそ、この戦いから逃げるわけにはいかなかった。
フランソワは人を幸福にするような、穏やかな笑みを浮かべた。その表情のまま瓶の中に残っていたラム酒をゆっくりと喉へ流し込む。海軍の奴らが息を呑む音が聞こえるが、気にしない。
……思っていたよりも量があった。口に含めば甘さの奥に刺すような辛味。舌の上で一度転がし、喉を通る瞬間、じわりと熱が落ちていく。胸の奥、腹の底へと重みを残しながら。
——ああ、いい。
最後の一滴まで飲み干し、フランソワは瓶を床に置いた。放り投げることはしない。音を立てぬよう、そっと。まるで長い旅路の終わりに、思い出の品を手放すように。そして、フランソワはゆっくりと立ち上がった。
「降参なぞ、するもんか」
フランソワの声に揺らぎはなかった。甲板に突き刺していたカットラスの柄を握って一度、力を込めて引く。刃が木床を抉り、鈍い音とともに木片が弾け飛んだ。もう一度、角度を変えて今度は一息に。ズン、と重い感触を残して刃が抜ける。フランソワはそのままカットラスを高く掲げた。
西陽を受けた刃がギラリと眩い光を放つと同時に、深いバイオレットの瞳が鋭く煌めいて一直線にマクシミリアン・ブーケを捉えた。
「マクシミリアン隊、総攻撃!」
マクシムの宣言は芝居がかったほど堂々としていた。
——火蓋は、切って落とされた。




