第九章① 五人組
フランソワがすでに単独で出港しているとは、ルキフェルはまだ知らなかった。
入江を飛び出した後も彼はフードを深く被り、顔を隠したまま街を奔走していく。彼の背中に残るのは、別れ際に投げかけられたフランソワの言葉だ。
——今を生きる。ひたすらに。
短い一言何度も頭の中で反響する。自分のことを、あの男がそんな風に見ていたのか。そう思うと胸の奥にわずかな温かさが灯るが、立ち止まっている余裕はなかった。状況は刻一刻と変わっている。今この瞬間に迷えば、それだけ取り返しのつかない距離が生まれる。
「……今、この瞬間だ。今、何ができる」
呟くように言葉を落とし、ルキフェルは裏路地を駆けた。曲がり角の先、わずかに見えた仲間たちの背中を追い、息を切らしながら速度を上げる。
「待ってろよ、フランソワ。必ず……仲間を連れて戻る」
裏路地を抜けると視界が一気に開けた。市場通りは日暮れ前の喧騒に包まれている。仕事を終え、帰路を急ぐ民衆たちが行き交い、街はいつも通りの顔をしている。誰も知らない。今この街の裏側で、運命が大きく動き始めていることを。
ルキフェルは無意識にフードをさらに深く被り直した。人混みに身を溶かしながら、視線だけで周囲を探る。仲間の姿は見えないが、行き先の見当はついていた。港だ。確信というより判断だった。考えるよりも先に身体が動く。ルキフェルは人波を縫うように進み、港へと続く道へと足を向けた。人の視線と足音、呼び交わされる声。揉みくちゃになった通りを抜けてきたせいで、ルキフェルは他人との距離感に過敏になったまま港へ辿り着いていた。肩が誰かに触れただけで身を強張らせ、背後で鳴る荷車の音に心臓が跳ねる。気づけば呼吸は浅く、胸の奥がひりつくように疲弊して、だいぶ削られている。自覚はあったが、立ち止まるわけにはいかなかった。
「……うかうかしてられない」
自分に言い聞かせるように呟き、ルキフェルは港を見渡す。帆柱、積み荷、行き交う水夫たち。どこを見ても見知らぬ背中ばかりで、仲間の姿はすぐには見つからない。
「どこ行ったんだよ……」
思わず漏れた声は半ば子供のように震えていた。外の世界に放り出されることへの拭いきれない恐怖。
——このまま独りになるのは、嫌だ。
焦りが喉を締めつけ、視界がわずかに揺れる。そのときだった。ふと、視線が一点に吸い寄せられる。港の端、桟橋近くに集まる数人の男たち。その中に、ひときわ目を引く赤髪があった。
「……ジャスパー」
名前を確かめるより先に、ルキフェルの胸がほどける。やっと見つけた。その安堵が、張り詰めていた神経を一気に緩めた。ルキフェルは迷うことなく走り出す。人混みを抜け、視線を切り、ジャスパーの背中だけを目指して、仲間たちのもとへと駆け寄っていった。
「ここにいたか。やっと見つけたぞ」
息を整える暇もなく声をかけると、男たちが一斉に振り返った。ジャスパーの赤髪が最初に視界に入る。彼の横にはマテオ、コリン、ニール。そして——見覚えのある顔が混じっていた。かつて同じ船に乗り、同じ海を渡った元船員たち。彼らはどうやら、今しがたまで何かを相談していたらしい。
「……あ、ルキフェルも来たんだ」
ニールがほっとしたように言う直後、マテオが鋭く問いかけた。
「おい。フランソワはどうした。置いてきたのか?」
一瞬、周囲の空気が張りつめる。ルキフェルは視線を逸らさず、はっきりと言った。
「フランソワが行けって言ったんだ。同志たちを見つけて、礼と別れを伝えたいって」
元船員の一人が思わず呟く。
「……船長が、おれたちに……礼を?」
驚きと戸惑いが入り混じった声だった。ルキフェルは一歩踏み出して続ける。
「来てほしい。できれば、他の連中にも伝えてくれ。フランソワは……あの入江で待ってる」
元船員は勢いよく頷いた。
「それなら、みんな引き連れて行きますよ! おれたちだって、船長と話がしたい。——ちゃんと、顔を見てな」
彼の言葉にルキフェルは小さく息を吐く。
「助かる。仲間探しは……お前に一任する。俺たちが下手に動き回ると、迷うだけだろうからな」
元船員は人混みの中へ消えていった。残された五人。ルキフェルはジャスパー、マテオ、コリン、ニールの顔を順に見渡す。
「俺たちは一度戻ろう。……ここに長居するのは危険だ」
港の喧騒の向こうに、見えない緊張が漂っている。言葉はなくとも全員が同じ予感を抱いている。五人は無言で頷き、再び動き出した。刻一刻と運命の針が進んでいることを全員が感じ取って。身を寄せ合うようにして人混みを抜け、細く曲がった裏路地に滑り込んだところでようやく足を止めた。喧騒が一気に遠ざかり、空気が冷える。ルキフェルは一度だけ振り返り、それからジャスパーをちらりと見て、呆れたように息を吐いた。
「……ジャスパー。あの扉、開けっぱなしだったぞ」
ジャスパーは目を見開き、気まずそうに頭を掻く。
「え、マジで? ……悪い」
マテオが即座に眉を吊り上げた。
「しっかりしてくれよ。船長が入江から出ることはねぇと思うが……万が一、他の連中に見つかったら大事だぞ。せめて扉くらい、ちゃんと閉めろ」
「うっ……それは、ごもっともで……」
しゅんとするジャスパーを横目に、ニールが少し困ったように口を挟む。
「まあ……あの扉、今まで入江側しか鍵かけてなかったしね。コリンが改造したから」
「ちょ、そこ強調しなくていいから!」
コリンは慌てて手を振りつつ、言い訳するように続けた。
「あれね、当時はほんと大変だったんだよ? 入江側“だけ”鍵かけたかったからさ、まず元々あった外側の錠を——」
「ぶっ壊したんだよな」
マテオが呆れ半分で継ぐ。コリンは力強く頷いた。
「そう、わざわざ! 見た目は雑だけど、機能的には完璧なんだから!」
二人のやり取りに、ルキフェルは思わず口元を緩めた。張りつめていた胸の奥が、ほんの少しだけほぐれる。こんな風に言い合えるのも、今は仲間が揃っているからだ。
「……次はちゃんと閉めてくれ」
そう言うルキフェルの声は穏やかだったが、どこか急いている。
「急ごう。フランソワを待たせたくない」
その一言で全員の表情が引き締まった。軽口は終わり。彼らは再び足並みを揃え、入江へ戻るため、静かな路地の奥へと進んでいった。
「フランソワ! 今、戻ったぞ!」
入江の扉をくぐると同時にルキフェルの声が高く、遠くまでよく通った。岩肌に反響し、澄んだ声が水面を渡っていく。——だが、返ってきたのは規則正しく寄せては引く波の音と、遅れて返ってくる自分の声の残響だけだった。
「……フランソワ?」
ルキフェルは足を止め、自分たちの根城であるガレオン船の甲板に目をやる。そこに、見慣れた背中はなかった。舵のそばにも、船長室の影にも、あの男の気配はどこにもない。
——それだけじゃない。入江全体がどこかおかしい。風の流れ、波の立ち方、船の配置。見慣れているはずの景色が違って見える。ルキフェルの胸の奥が嫌な音を立ててざわついた。彼の隣に並ぶ仲間たちも同じだったのだろう。誰もが無言のまま視線だけを忙しなく動かしている。耐えきれず、最初に口を開いたのはマテオだった。
「……おい。ほんとに、出てった……のか?」
言ってはいけない言葉。その場の空気がきしりと音を立てて軋む。
「だったら……街の、どこかに……?」
ニールの声は明らかに震えていた。彼の言葉を、ジャスパーが低く遮る。
「違う」
誰もが彼の次の言葉を待った。「フランソワはそんなことしない」「きっと、どこかにいる」——そんな言葉を無意識に期待していたが、ジャスパーは首を振り、ゆっくりと視線を巡らせる。
「見ろよ。……ダラス家の船が、消えてる」
その一言が五人の胸を同時に打ち抜いた。隣に係留されていたはずの小型ガレオン船。あれほど異質な存在感を放っていた船影が跡形もなく消えている。事実だった事実なのに、圧倒的な絶望を伴っていた。ルキフェルは言葉を失い、唇を噛みしめる。——嫌な予感は外れなかった。入江に再び波の音だけが響く。
「……ふざけんな」
掠れた声がルキフェルの喉の奥から零れ落ちた。自分でも驚くほど声が震えている。
「なんで……何も言わずに出てった?」
目の前の事実を受け止めきれず、怒りが遅れて込み上げる。握った拳が、わなわなと震えた。
「待ってろって言っただろ……! 勝手にいなくなるな……!」
ルキフェルの声が荒れて怒号に変わる瞬間、嫌な考えが脳裏を貫いた。消えた小型ガレオン。単独での出航。向かう先は恐らく海軍。戦場だ。
「……一人で、行く気だったんだ」
ルキフェルは吐き捨てるように呟いた。最初から逃げるつもりなんてなかった。最初から、全て終わらせるつもりだった。ルキフェルは勢いよく仲間たちを振り返った。西陽が背後から差し込み、彼の姿を逆光に沈める。
「追いかけよう。あいつ一人では、行かせない!」
ルキフェルの怒号が入江に響く。
「でも、この人数でガレオンは——」
ジャスパーが言いかけた、その言葉をルキフェルが叩き切る。
「だったら小舟でいい! この人数で、確実に動かせる船だ! こうしてる間にも、フランソワは一人で戦ってる! 時間はない……ここで立ち止まってる場合じゃない!」
言葉がもはや叫びに近い。翡翠色の瞳が逆光の中で異様に光る。理性も計算も今はもうない。
「なんとしても……間に合え!」
冷静さを失ったルキフェルの姿に仲間たちは一瞬息を呑んだが、誰も止めなかった。次の瞬間、全員が動き出す。誰かがロープを掴み、誰かが滑車に手をかけ、誰かが無言で武器を抱えた。剣。短剣。銃。金属の触れ合う音が、せわしなく響く。ガレオン船の側面に備え付けられていた小舟がぎしりと音を立てながら降ろされていく。水面に触れた瞬間、鈍い音とともに船体が揺れた。ルキフェルは最後に小舟へ飛び乗り、一瞬だけ前方に広がる海を見る。
——待ってろよ、フランソワ。
五人を乗せた小舟は夕暮れの海へと勢いよく漕ぎ出していった。
運命の戦場へ、間に合うかどうかも分からぬままに。




