第八章③ ルキフェルとフランソワ
「ルキフェル」
フランソワが低く呼んだ。
「お前も行け。……お前の言葉は、説得力がある。仲間たちにも、礼と別れを言わなくてはな。かつての同志たちを見つけて、伝えてこい」
ルキフェルは眉を寄せた。
「けど俺の顔は、傷だらけだから……」
言い終わる前に突然、ルキフェルの視界が真っ暗になった。
「うわっ!?」
ルキフェルは慌てて顔にかかったものを掴み、引き剥がす。外套。さっきまでフランソワが羽織っていたものだ。
「……あんた」
ルキフェルが睨みつけると、フランソワは腹を抱えて大笑いしていた。
「ははは!! 悪い悪い」
フランソワは肩を揺らしながら言う。
「いつまでも、からかっていたいだけだ」
ルキフェルは呆れたように息を吐く。
「ほんと……たまに、ふざけるよな」
ルキフェルは外套を羽織りながら、ぼそりと続ける。
「俺、すっかり大人だから。いつまでもガキ扱いするなよ」
フランソワは彼の姿をじっと見つめてから呟いた。
「……それも、そうだ。なあ、ルキフェル。もう、無理に顔を隠す必要はないんじゃないか?」
「……は?」
ルキフェルは思わず素っ頓狂な声が出したが、フランソワは気にせず話す。
「確かに昔はその顔を見せない方がいいって言った。けど、今は違う。お前がその顔を晒したいなら、晒していい。俺は止めない。なにより、お前の意志を尊重したい」
ルキフェルは一瞬言葉を失い、やがて懐かしむように笑った。
「……そういえば。あの時もそんなこと言ってたよな。雨の中でさ。フランソワが、俺を抱きしめてくれて。傷を抱えたままでも、強く生きられるように鍛えるって言ってくれた」
フランソワも笑った。
「そうそう。リュウと俺と、お前で剣を交わして誓った日だ。冷静に考えると、雨の中で何やってたんだよって話だけどな」
二人は声を立てて笑った。ひとしきり笑ったあと、フランソワは改めてルキフェルを見る。二十五になった若者。背は伸び、剣を握る手には迷いがない。
「……でもさ。ほんと強くなったよな、お前。剣も心も。まあ、もう少し素直になれとは思うけど。あんな、クソガキだったのに……立派になっちゃって」
フランソワの言葉を聞いて、ルキフェルは肩をすくめながら笑った。
「急にどうしたんだよ。お別れみたいなこと言うな」
ルキフェルは視線を上げ、外套の裾を掴みながら言う。
「俺たちは、ここからだろ。たぶん……また、ここからやり直すんだ。新しい生活が始まるんだよ」
フランソワはルキフェルの言葉を受けて、しばらく黙っていた。潮の音だけが、二人の間を満たす。やがて、フランソワは息を吐いた。
「……そうだな」
呟いた彼の声に迷いはなかった。次の瞬間、フランソワは真剣な表情に切り替え、ルキフェルの両肩をしっかりと掴んだ。
「ルキフェル。これからは、お前がリーダーだ」
「……は?」
ルキフェルの思考が一瞬止まる。驚愕する彼をよそに、フランソワは言葉を重ねた。
「俺は、もう船団を率いることもない。器がない。けど、お前にはある。仲間を導く力が」
ルキフェルの肩を掴む手に力がこもる。
「お前なら……どんな場所でも、みんなを守って、道を示せる」
ルキフェルは何も言えなかった。フランソワはふと視線を外し、空を仰いで微かに笑う。
「そうだな……時々、思うんだ。お前、シリウスみたいだなって」
「シリウス?」
ルキフェルが首を傾げる。
「ああ……あの、明るいだけの星か」
彼の言い方に、フランソワは即座に眉を吊り上げて少し強めの口調で言い放つ。
「こら。あんま、シリウスを舐めるな。シリウスはな。明るいからこそ、輝きと光の永遠の象徴になってるんだろうが」
フランソワの視線が真っ直ぐにルキフェルを射抜く。
「お前がどれだけ傷だらけでも……誰かからも光を奪わずに、希望をもたらすことができる。——俺も、その光に救われた人間だ」
フランソワの脳裏に二つの星が浮かぶ。夜空で強く輝くシリウス。そして、夜明け前に姿を現す、明けの明星。
記憶を失う前のラウル。全てを失った後のルキフェル。どちらも同じ一人の人間。
どちらが正しいかなんて、誰かが決める必要はない。生き方も。名も。未来も。
それを決めるのは目の前に立つ、この青年自身。……自分の役目は、ここまでだ。
フランソワはルキフェルからゆっくりと手を離した。守る者から、託す者へ。守護者としての役目はもう終えた。残るのは、次の光が進むべき道を見届けることだけ。その光は今、ルキフェルの中で燃えている。
「……光」
ルキフェルは呟いた。自分とは縁のないものだと思っていた。影に生きる人間だと言い聞かせてきた。それでも、目の前にいる育ての親が自分をそう呼んだだけで。乾ききっていた心に水が満ちていくのを感じた。渇いた喉を潤す湧き水のように何度でも心の奥に澄み渡っていく。
「……わかったよ」
ルキフェルは呟き、穏やかな笑顔でフランソワを見て言う。
「俺、行ってくる。仲間の元に。だからさ、フランソワ。……ここにいて、待っててくれ。これは、司令じゃない。お願いだ」
フランソワは何も言わなかった。ルキフェルは踵を返し、そのまま船を降りる。駆け足で仲間たちの後を追って。ルキフェルが入江の扉を見ると開け放たれたままだった。
「あいつ……」
ルキフェルは苦笑しながら「開けっ放しかよ」と呟き、そのまま駆け抜けていった。
走り去る彼の背中を見た瞬間、フランソワは堪えきれなかった。涙が溢れ出る。
六歳の頃。暴れて、噛みついて、傷だらけだった少年。それが今、二十五になり仲間のもとへ走っていく。目を閉じると育ての親としての記憶が次々と溢れ出す。強さも。脆さも。すべてを背負いながら、それでも生き抜こうとする姿。そして、あの笑顔。あいつの幸せを願って、時間も労力も、惜しみなく注いできた。そのあいつはもう一人で立てる。耐えられる。なにより、仲間がいる。
「……俺がいなくても、あいつはきっと大丈夫」
寂しさはあるが、別れを惜しんでいる暇はない。フランソワは涙を流しながら目を開けた。ルキフェルはまだ駆けている。その後ろ姿に幼い頃の姿が重なって焼き付けるように背見つめる。
「ほんと……デカくなったなあ。生きろよ。絶対に……生き抜いてくれ」
フランソワの言葉は風に溶けていく。それでも、続ける。喉を震わせ、叫ぶように。
「お前はな……悪魔なんかじゃない。悪魔の名を冠しても! お前は、光だ! それだけは……絶対に、崩れない!」
フランソワの胸の奥から言葉が溢れ出る。
「どんな困難があっても、お前なら乗り越えられる! もし乗り越えられなくても、寄り添える強さをお前は持ってる! だから……頼む。生きろ。これだけは、絶対に守れ」
最後にフランソワは声を張り上げた。
「だってお前は……誰よりも、自由だ! 今を生きる! ひたすらに! いつだって! 今、自分に何ができるかを選んできた! がむしゃらになってでも、“今この瞬間を生きる”その姿が……何よりの証拠なんだ!!」
——ルキフェルの姿が扉の向こうへ消えた。
フランソワは最後まで見送ったあと空を見上げたまま声を殺して泣いた。言葉が届いたかは分からない。それでも、もう覚悟は決まっている。
やがて、フランソワは視線を海へと落とした。自分が今立っている船の隣、別の小型ガレオン船が揺れている。ダラス家が以前置いていった船。
フランソワは一度だけ船長室へ戻った。扉を閉め、薄暗い室内で、机の上に置かれたままのそれを見下ろす。
三角帽子。海賊の象徴。そして、大海賊フランソワそのもの。
黒を基調とした帽体。縁には、細い金糸の飾り。海賊旗の意匠に合わせて、小さく刺繍された砂時計。後部には解き放たれた鎖を模した細い革紐が垂れ下がり、前方には大きく広がる翼のモチーフが銀糸で描かれている。
威厳。自由。抗い続ける意志。すべて、この帽子に込められていた。フランソワといえば、この帽子。
彼はそれを手に取る。続いて、机に放置されていたラム酒の瓶も掴んだ。ためらいはない。船長室を出て甲板を横切り、自分の根城だったガレオン船を降りてすぐ隣に鎮座する小型ガレオン船へと足を移した。一人きり。誰にも声をかけず、誰にも見送られず。
まず舵の近くに酒瓶と帽子を置く。次に錨。重い鎖を引き、金属が低く鳴る。錨がゆっくりと持ち上がる。帆を広げる。風が布を孕ませ、船体がわずかに震えた。小型ガレオン船は音もなく入江を離れていく。海に出てからフランソワは一度だけ振り返った。
入江。仲間たちが去った場所。もう戻らない場所。だが、視線を留めることはしない。
すぐに舵を切り、進路をサン・マロの街近くの海域へと向ける。船は順調に進んでいく。フランソワは舵を握ったまま、そっと帽子を手に取って被った。眼前の海を鋭く睨み据えながら低く呟く。
「……俺はフランソワ・ノワール。人は皆、大海賊フランソワと呼ぶ」
口元が僅かに歪む。風が声をさらう。フランソワは鼻で笑い、鋭い目つきで続ける。
「因果応報? ……上等じゃねえか。自分が始めたなら、自分で終わらせる。どうせやるなら派手にやるのが、俺の生き様ってもんよ。最期の戦いは……俺一人で立つ」
三角帽子の影が彼の眼差しをより深く鋭くする。
こうしてフランソワは一人、海へ繰り出した。
マクシミリアン・ブーケ隊をたった一人で迎え撃つために。
大海賊としてのすべてを、自分の手で終わらせるために。
これは逃走ではない。挑発でもない。
——決着だった。
孤独な戦いの先に何が待っていようとも、フランソワは最後まで大海賊であろうとしていた。




