第八章② 五人組とフランソワ
——三月一日。
陽はすでに傾き始め、港の影はゆっくりと長く伸びている。海軍の船はまだ見えない。ピエールは身支度を終え、外套を羽織った。動きに迷いはない。部屋の隅に控えているダミアンへ、振り返りもせずに言う。
「お前は、ここにいろ」
ダミアンは何も言えなかった。引き止める言葉も問い返す勇気もない。胸の奥でマクシムの無事を祈ることしかできなかった。
ピエールは扉を開け、部屋を出る。宿屋の裏口から外へ出ると、そのまま裏路地へと足を向けた。人目を避けるように細い道を辿りながら、ある場所を目指す。鍛冶屋。ニールとコリンが働いている場所から少し離れた位置で足を止める。張り込みというほど大げさなものではない。ただ来ると分かっている時間を待つだけ。やがて鍛冶屋の扉が開き、ニールとコリンが姿を現した。二人とも額に汗を浮かべ、親方から受け取った報酬を握っている。
短いやり取りのあと、二人は市場へ向かおうと人混みの中へ歩き出した時、影が落ちた。ピエールが二人の前に姿を現すと一瞬で、空気が変わる。ニールとコリンは即座に立ち止まり、身体を強張らせた。ニールは反射的に一歩前に出てコリンを背に庇い、震えを必死に押さえながらピエールを睨みつける。
「……君、あの時の奴らだよね。なんの用? 正直言って……会いたくないんだけど」
ピエールは彼らの反応を予期していたかのようにニヤリと笑った。
「会いたくない、か。いいや、話さなきゃならんことがあるのでね」
そう言ってピエールは裏路地の奥を指差す。
「あそこで話そうか。なに、なんもしねえよ」
言葉とは裏腹に圧は強かった。逃げ道を考える余裕すら与えない。ニールとコリンは互いに目を合わせ、無言のままピエールに従った。三人は人通りの少ない裏路地へと足を踏み入れていく。日が傾き、影がさらに濃くなる中で。裏路地は思った以上に静かだ。人の気配は遠く、市場の喧騒もここまでは届かない。ニールとコリンは一歩下がったまま警戒を解かない。そんな二人を前に、ピエールは拍子抜けするほど淡々と口を開いた。
「海軍が来る。今日だ」
一瞬意味が理解できず、二人は瞬きをした。ピエールは続ける。
「このサン・マロに。相手はマクシミリアン・ブーケ隊」
ピエールの言葉が落ち、ニールとコリンは完全に絶句した。
「……は?」
ニールの喉から漏れた声は、ほとんど息に近い。ピエールは肩をすくめる。
「おっと、嘘じゃねえからな。裏も取れてる」
その一言で冗談の余地が消えた。やがて、ニールが半信半疑のまま絞り出す。
「……それ、どんな連中なの」
ピエールは指先で外套の縁をなぞってから言った。
「少数精鋭らしい、厄介払いされてる部隊だ。女もいる、外国人もいる」
ニールとコリンの顔色がじわじわと変わっていく。ピエールは懐から一枚の紙を取り出し、無造作に差し出す。
「……こいつだ」
似顔絵。受け取った瞬間、二人の表情が凍りついた。
「……ッ」
息を呑む音。描かれている男の顔は、はっきりと記憶と重なっていた。三年前、ベルナルドを殺した張本人。それからつい最近、海上でやり合った男。逃げ場は完全に塞がれた。ニールは紙を握り締めたまま言葉を失い、コリンは何も言えず立ち尽くしている。ピエールは二人を見下ろし、低く言った。
「オレたちの協力を断ったよな。もう、逃げ場はねえ。……戦うしかないだろうな」
それだけを残し、ピエールは踵を返した。引き止める暇も、問い返す時間も与えない。彼の背中は、裏路地の影の中へ溶けていく。残されたのは似顔絵と沈黙と、否定できない現実だけ。ニールとコリンはほとんど同時に駆け出す。考えるより先に身体が動いていた。焦り。恐怖。そして、ほんのわずかな怒り。それらが絡まり合い、二人の足を限界まで速める。裏路地を抜け、砂利道を踏み鳴らし、茂みへ突っ込む。枝が腕に当たり、葉が顔を掠めるが構わず掻き分ける。その奥に鉄の扉が現れた。入江へ通じる、秘密の扉。ニールは青ざめた顔のまま拳を振り上げ、乱暴に叩いた。
「お願い! 開けて!!」
中からジャスパーの落ち着いた声が返る。
「……合言葉は——」
その言葉をニールは遮った。喉が裂けそうな声で叫ぶ。
「波は引き、名は残る! 早く入れて!!」
ただならぬ切迫感。扉の向こうで見張りをしていたジャスパーは、一瞬で異変を察した。迷いはない。鍵が鳴り、鉄の扉が軋みながら開く。
「入れ!」
ニールとコリンは転がり込むように中へ飛び込んだ。ジャスパーはすぐさま後ろを振り返る。誰も追ってきていないことを確認し、扉を閉める。
——がん。
音を殺すように、続けて鍵を回す。
——かちり。
これでようやく外の世界が遮断された。入江の静けさの中で、二人の荒い呼吸だけがいつまでも響いていた。ジャスパーは息を切らしている二人を見下ろす。
「……船で聞こう。その間、息を整えてろ」
有無を言わせない口調だった。ニールとコリンを促し、そのまま入江の奥、船へと戻る。甲板の上ではちょうど剣戟の音が鳴り響いていた。ルキフェルとマテオが向かい合っている。今日は剣術稽古らしい。踏み込み。受け。返し。結果は相変わらずだった。最後はルキフェルが一太刀で間合いを制し、マテオの剣を弾き飛ばす。
「……ちっ」
マテオが舌打ちすると、ジャスパーの声が飛ぶ。
「お前ら、戦いごっこはそこまでだ」
「はぁ? ごっこじゃねーよ」
マテオが振り返り、ルキフェルは剣を収めながら異変を察していた。ジャスパーの背後で、ニールとコリンが青ざめた顔で立っている。
「……何があった?」
ジャスパーは肩をすくめる。
「さあな。おれも、まだ聞いてねえ」
その瞬間、ルキフェルが船長室に向かって叫んだ。
「フランソワ!」
重い音を立てて扉が開く。中から現れたのは、疲れの滲んだ顔のフランソワだった。
「……報告しろ」
沈黙を破ったのはニールだった。喉を鳴らしながら告げる。
「……あいつが現れたんだ。ダラス家のやつ。ピエールって言ってた」
「……ピエールか」
ルキフェルが低く呟く。その名に覚えがあった。ルキフェルもコリンも、フランソワから聞かされていた。ドミニクとピエール。気色の悪い二人組。その片割れがまた現れた。今度はコリンが声を上げる。
「あいつ……言ってた! 海軍がサン・マロに来るって! しかも……今日だって!」
フランソワの表情が引き締まる。ルキフェル、マテオ、ジャスパーも、一斉に険しい顔になった。ニールが震える声で続ける。
「冗談かと思った。でも……あいつ、逃げ場はないって……戦うしかないだろうって、それに……」
ニールは懐から一枚の紙を取り出した。似顔絵。差し出されたそれを見た瞬間、全員の動きが止まった。
「……ッ」
息を呑む音。描かれている男の顔は、忘れようとしても忘れられないものだった。かつてベルナルドを殺した男。ニールの右腕に短剣を突き立て、血を流させた張本人。穏やかな顔の裏で、平然と酷いことをする海軍士官。
「……あいつか」
マテオの声が低く震える。フランソワは似顔絵から目を離さない。
「来る、というわけだな」
怒りが甲板の上ではっきりと形を持った。ルキフェルは似顔絵を睨みつけた。胸の奥で、何かが割れる音がした気がする。怒りに任せて紙を引き裂きそうになる衝動をぎりと歯を噛み締めて抑え、頭を振った。駄目だ。今は怒る場面じゃない。
「戦い……」
ルキフェルは視線を上げ、甲板にいる面々を見渡す。この人数で正面から海軍とやり合うだと。勝ち目はない。その結論に辿り着いた瞬間、ルキフェルは息を吐いた。
「……逃げよう」
彼の一言に空気が凍りついた。
「は?」
「……今、なんて?」
マテオが目を見開き、ジャスパーも言葉を失う。フランソワですら一瞬だけ沈黙したが、ルキフェルは怯まない。
「もし海軍が海側から来るなら、陸路で逃げる。ひとまずサン・マロを離れて、沿岸部を歩いていこう。街は今、汚職士官の件で混乱してるんだ。抜け出すなら今。港町を繋いで歩いていけば……なんとかなる」
ルキフェルは最後に強く言い切る。
「命あってのことだろう? 俺たちは……ダラス家とかいう、妙な連中の言う通りにはしない」
甲板の木板がぎしりと鳴り、ルキフェルの怒りがはっきりと声に乗る。
「俺たちを脅して、恐怖に叩き落として、その上で戦わせようとする。そんな連中の、思い通りにはさせない!」
春の風が甲板を吹き抜けた。臆病さではなく、生き延びるための選択としての風。フランソワはゆっくりと息を吐く。誰もまだ行くとは言っていない。だがこの瞬間、戦う以外の道が初めてはっきりと示された。それは、ダラス家の描いた筋書きを真正面から裏切る一手でもある。やがて、ジャスパーがふっと息を漏らすように笑った。
「……そうだな。おれたちは、ここでやられるわけにゃいかない。居場所がないなら、見つけるまでだ。おれは……お前についていくよ」
続いて、マテオが腕を組んだまま口を開く。
「……正直に言う。オレとしては、納得はしてない。けどな、無理に戦う理由も今はねえ」
彼は視線を巡らせ、はっきりと言い切る。
「ただ逃げるんじゃない。これは……立て直しだ。フランソワ海賊団の、な」
マテオの言葉に、フランソワの眉がわずかに動いた。
——海賊団。
だが、彼は何も言わない。次に声を出したのはコリンだった。握りしめた拳が、少し震えている。
「ぼくも……今は、逃げたい。鍛冶屋の親方には申し訳ないけど……仲間の方が大事だから」
ニールは深く頷いた。彼の脳裏に記憶が蘇る。以前、偶然再会した元・海賊団のニコラの言葉。
「……僕に考えがある。前に話したよね、ニコラの話」
全員の視線が一斉に集まる。ニールは言葉を選びながら続けた。
「その時、彼が言ってたんだ。裏社会に通じてる……東洋人がいるって。まず、抜け出す前に仲間を頼ろう。もしかしたら……みんな、力になってくれるかもしれない」
ルキフェルは頷いた。
「ああ。それは、いいな」
間を置かず、マテオが拳を叩いた声が少しだけ弾む。
「よし! じゃあ、方針は固まったな。急いで準備。こうしてる間にも、海軍は近づいてる」
五人の間に一つの方向が生まれた。逃げる。生き延びる。そして、立て直す。
だが、フランソワだけは浮かない顔のままだった。彼の胸の奥で言葉が続く。このまま逃げ続けても、結局は同じだ。限界は必ず来る。それを、誰よりも分かっている。ふと、かつてリュウ・ヨシマサが口にした言葉が脳裏に浮かぶ。
——因果応報。自分がしてきたことが、巡り巡って返ってくる。
視線を伏せたまま、フランソワは静かに決意する。それなら、自分でケリをつけよう。彼の胸の奥で、言葉が形になる。
——この五人は……俺が、最後まで守り抜く。こんなぐちゃぐちゃな事態に陥ったのは、自分が船団を立ち上げたから。だったら……最後は、自分の手で終わらせる。
「みんな、荷物をまとめて準備しよう!」
ルキフェルが声を張り上げ、踵を返した瞬間だった。静かな声が甲板を制す。
「……待て」
五人の動きが一斉に止まる。フランソワだった。
「みんな、この際だ。……海賊から、足を洗おう」
「……え?」
最初に声を漏らしたのはルキフェルだった。次の瞬間、マテオが噛みつくように前へ出る。
「海賊から、足を洗う……? なんだよそれ! 今までのこと、全部投げ出すってことかよ! ここまで来て、今さら——!」
「待て、マテオ!」
ジャスパーが素早く割って入る。
「フランソワのことだ。何か、考えがあるのかもしれないだろ」
マテオは舌打ちし、拳を握り締めた。一方で、ニールとコリンは完全に言葉を失っていた。呆然と立ち尽くし、何を言えばいいのかすら分からない。フランソワはそんな反応を見渡して息を吐く。
「まあ……そんな反応にもなるよな。ニールが言ってたな。東洋人の話」
ニールがはっと顔を上げる。
「たぶん、それは……リー・ウェンってやつだ」
フランソワの口から飛び出した、聞き慣れない言葉に五人の視線が集まる。
「……リー・ウェン?」
フランソワは頷く。
「そりゃ、そんな顔にもなる。いいか、リー・ウェンってのは人の名前じゃない。組織の名前だ。東洋人で構成された、情報屋の組織。表向きは、商人の皮を被ってる。だが裏じゃ、情報を売って生きてる連中だ」
フランソワの脳裏にはリュウから叩き込まれた話が蘇っていた。起源。ルーツ。そして、異様な仕組み。
「リー・ウェンってのは通称。色んな場所に東洋の情報屋がいて、全員がリー・ウェンを名乗る」
ルキフェルが眉をひそめる。
「……全員が?」
「ああ」
フランソワは続ける。
「裏じゃ、組織としてネットワークが張り巡らされてる。だからな、まるで一人の人間があちこち迅速に動き回ってるように見える。それに、あいつらのルールは特殊だ。他のリー・ウェンが集めた情報も、あたかも自分が手に入れた情報みたいに喋れ。そういう決まりらしい」
フランソワの言葉に、ルキフェルがゆっくり理解を言葉にする。
「つまり……複数人で一人の人間を装ってるってことか?」
「まあ、そんなところだ」
フランソワは肩をすくめ、核心を告げる。
「要は頼れる奴らってこと。複数人で組織として動いて、情報を共有してる。だから顔が利く。海賊を止めても……あいつらなら、何かヒントをくれるに違いない」
次の瞬間、ニールが弾かれたように動いた。焦りが声に滲む。
「じゃあ……今すぐ、探さないと! 時間はないんだ!」
そう叫ぶとニールはそのまま駆け出した。マテオがすぐさま後を追う。
「おい!」
「ま、待ってよ!」
コリンも慌てて続く。ジャスパーは彼らの様子を横目で見て、ルキフェルとフランソワに視線を送る。
「ニールがあんなに焦るなんて、珍しいよな」
ジャスパーは小さく呟いてから思い出したように叫ぶ。
「あっ、でも! 鍵ないと、ここから出られないから!」
そう言い残し、ジャスパーは四人を追って船を降りていった。甲板にはルキフェルとフランソワだけが残る。春の風が二人の間を吹き抜けた。




