第八章① マクシム隊
雪は緩やかに解けていった。白く固まっていた大地は日に日に水を含み、冷たさは残しながらも春へ向かっている。寒さが和らぐのと並行して、マクシム隊はひとつの目的に向けて慌ただしく動いていた。
——大海賊フランソワの討伐。
出港準備。物資の点検。兵の再配置。マクシムはダミアンから得た助言を、そのまま鵜呑みにすることはしなかったが、切り捨てもしない。海から入る可能性。敵勢力の規模。参考として頭の隅に置いている。
「……犠牲は、出させない」
今や彼は前線に立つ一兵ではない。部隊長として、戦闘に乗り出す者だった。それに考えるべきことは、もう一つある。新人二名。二人はブレスト港に到着次第、ブレスト司令部に赴き、所定の手続きを終える。
そして、三月一日の朝。着任と同時に挨拶を済ませ、そのまま出港。執務室でマクシムはサーベルの手入れをしながら、机に広げた書類へ視線を落としていた。整えられた文字。所属。階級。配属。やがて、二つの名前が目に入る。ソフィー・ルノアール。ジョルジュ・アルダーソン。——新人だ。そのうちの一つを見た瞬間、胸の奥がきしむように締め付けられた。
ソフィー。実の妹。かつて自分がまだアントワーヌだった頃、一度だけ対面した少女。小さな手。警戒と好奇心が入り混じった瞳。兄だという真実を何度も告げようとしたが、そのたびに言葉は喉で止まり、時間だけが過ぎていった。そして今、彼女は自分の部隊に配属される。運命という言葉を使うには、あまりに皮肉だった。マクシムはサーベルを布で拭う手を止める。
「……それでも、おれは守り抜く」
兄として。部隊長として。真実を告げられなくとも、距離を保たねばならなくとも。彼女が戦場で倒れる未来だけは決して選ばせない。マクシムは再びサーベルに視線を落とした。刃は陽光を受けて光っている。
一方、マクシミリアン隊の面々もそれぞれの仕方で、季節の変わり目を感じ取りながら戦闘に備えていた。ブレスト港。潮の匂いは冬の鋭さを失い、風もどこか柔らかくなっている。その岸壁に停泊する一隻の小型ガレオン船を前に、グウェナエルは露骨に舌打ちした。
「……ったく、なんで新人二人も連れて任務なんだよ。上の奴ら、相変わらず無茶なこと言って腐ってやがる」
彼の隣で、ロープの具合を確かめていたシャルルが肩をすくめた。
「本当にね。正気の沙汰じゃないよ」
あまりにも自然な同意だった。それを聞いて、少し離れたところで荷の確認をしていたダヴィットが思わず苦笑する。
「……あなたが『正気の沙汰じゃない』なんて言うと、それはもう相当な異常事態だと思うんだけど」
オレンジ色の髪を持つシャルルは、海軍の中でも間違いなく最も風変わりな部類だ。その彼が冷静に「正気ではない」と評する。それ自体が、今回の任務の危うさを何より雄弁に物語っていた。グウェナエルは鼻で笑う。
「だろ? だから言ってんだよ」
グウェナエルは船体を見上げながら、ぼそりと付け足す。
「春だなんだ。海はそんな都合よくならない」
波は穏やかだが、それが嵐の前触れであることを彼らは嫌というほど知っていた。その時、一隻の船が港に滑り込むように到着した。帆が畳まれ、舷側が岸壁に寄せられる。甲板から軍服姿の若者が二人、荷物を抱えて桟橋へと降り立った。一人は茶色の髪を短く整えた青年。動きに無駄がなく、視線も落ち着いている。そして、もう一人。亜麻色の髪をひとつにまとめた若い女だった。港の喧騒の中で、グウェナエルの視線は自然と彼女に引き寄せられていた。
「……ああ」
彼の胸の奥で声にならない呟きが落ちる。
——やっぱり、彼女だ。
記憶が勝手に掘り起こされる。
何年か前。疲労と焦燥の中で見下ろした少女の姿。膝をつき、肩で荒く息をしていた。軍医としての威厳など、そこにはなかった。ただ、限界まで耐え抜いた一人の人間。彼の胸の奥に、かすかな動揺が走った。理屈ではなかった。本能に近い、衝動。
「動けるか?」
自分の声がやけに遠く聞こえた。彼女の両肩に手を置いた瞬間、心拍が跳ね上がる。
——落ち着け。
理性が必死に告げるが、視界の中心にある彼女の瞳は夜明けの光のように、あまりにも澄んでいた。思考が凍りつく瞬間、意識を失った少女の小さな体を支えていた。伝わってくる、恐怖と疲労。張り詰めていたものが解ける感覚。胸の奥から再び湧き上がる。
「……守らなければ」
なぜか胸の内側が熱を帯びた。抑えきれない感情に触れてしまった。自分でも驚くほど、目の前の少女に強く惹かれていた。あの瞬間、時間は止まっていた。
港に戻った視界の中でグウェナエルは今、遠くに立つ彼女を見つめる。
軍服姿で背筋を伸ばし、これから戦場へ向かおうとする姿。それでも、かつて心の奥に芽生えた感情が消えていなかったことを否応なく、認めさせられていた。波の音が規則正しく響く。季節は変わり、人は前へ進んだはずなのに。あの時、止まった時間だけがまだ彼の胸の奥で息をしていた。
一方、新人二人——ソフィーとジョルジュはブレスト港に足を踏み入れるなり、そのまま一直線に待っていた男のもとへ向かった。互いに歩みを止め、ほぼ同時に敬礼。動きは揃っていたが、その質は対照的だった。
「お久しぶりです、二人とも」
マクシムは柔らかく声をかけると少しだけ表情を曇らせた。
「それと、申し訳ありません。まさか……加入と同時に、任務に赴くことになるとは」
そう言ってマクシムがわずかに頭を下げた瞬間、ジョルジュが勢いよく顔を上げた。快活な声が港に弾む。
「いえ! まっったく気にしてません! むしろ、早速お役に立てると思うと力がみなぎるっていうか……その、光栄です!」
屈託のない笑顔。緊張すら前向きな熱に変えてしまう若さ。ジョルジュの言葉を受けてソフィーが一歩、前に出る。声は落ち着いていたが、どこか硬い。
「私たちも万全な準備のもと、皆様に同行いたします」
言葉選びも姿勢も軍人としてのそれだった。マクシムの胸がわずかに締め付けられる。近い。声も仕草も、あまりにも近くにある。だが、表情には出さない。
「……ありがとうございます。頼もしいです」
嘘ではなかった。それから、マクシムは自然な流れで言葉を続ける。
「では、さっそく司令部に向かいましょうか。手続きがありますし……ブレスト城内も案内しなければなりません。三月一日までお二人は、ブレスト城で過ごすことになりますから」
三人は並んで歩き出し、ブレスト港を後にした。誰も余計なことは言わないが、それぞれの胸に同じ日付が静かに刻まれていた。
三月一日。新しい始まりであり、同時に戦いの入口でもあった。
冬から春へ。空気は、ある日を境に急に変わった。
冷え切っていた風は角を失い、朝の光にはわずかな温度が宿る。雪解け水が道の端を流れ、凍りついていた土はぬかるみへと姿を変えた。
暖かい風はサン・マロの地でも吹いていた。海はまだ荒れやすく、港には春特有の不安定さが漂っている。ダミアンはピエールのもとで手伝いをしていた。
表向きはただの港湾作業。荷の確認、伝言の受け渡し、船の出入りの把握だが、サン・マロの港には表に出せない船もまた数多く出入りする。東方からの密輸船。帳簿に載らない積荷。そして、ダラス家の幻覚剤ビジネスに欠かせない、夢蛇。その密輸ルートの多くがこの街に集中している。
街は相変わらず、汚職士官の一件で騒ぎ続けていた。酒場では噂が飛び交い、路地では怒りと不安が渦巻く。秩序は揺らぎ、街全体がどこか浮ついている。春の嵐の前触れのようだったが、ダラス家は焦らない。それどころか、この混乱に乗じて夢蛇の密輸はより深く進められていた。騒ぎの陰で船は動き、金は流れ、人は消える。ピエールはその中心にいた。彼は部屋の中でゆったりと椅子に身を預け、酒杯を傾けながら独り言のように呟く。
「あー……もうすぐだな」
誰に向けたわけでもない言葉。部屋の隅で控えていたダミアンは声に反応しなかった。視線は落としたまま。姿勢は崩さず。だが、頭の中は別の場所にあった。
マクシム。交わした言葉。名を呼ばれたこと。背を向けて去っていった姿。同時に罪悪感が尾を引いていた。自分はこのダラス家の中でしか生きられない。影として育てられ、影として使われる。外へ出る道はない、そう思い込もうとした。暖かい風が開いた窓から部屋に入り込むが、その風はダミアンの立つ場所までは届かなかった。春は来ているが、彼はまだ冬の中にいた。
地方ではドミニクが相変わらず幻覚剤を用いたサロンを開いていた。柔らかな香が漂う部屋。貴族たちは杯を傾け、笑い、夢蛇の甘い幻に身を委ねる。彼らは気づかない。自分たちの弱みが一つひとつ、丁寧に掬い上げられていることを。ドミニクは春の訪れなど意にも介さない。外がどう変わろうと夢蛇があればいい。椅子に深く腰を沈め、指先で杯を転がしながら独り言のように呟く。
「もうすぐか。ピエールたちは、うまくやれてるかな。もうすぐで、フランソワが死ぬ。ついでに……ゼフィランサスの息子も死んでしまえ」
それは呪いであり、祈りでもあった。
一方、王都。シルヴェストルもまた春の気配を感じながら、来る日を待ち侘びていた。窓から差し込む光は穏やかで街は平穏そのものに見えるが、彼の思考はすでに未来の終わりに向けられている。
「……我々の助力を断ったのが、運の尽きだな。それに……ジャスパー。ゼフィランサスの息子。あいつがいる時点で、フランソワに未来はない。ゼフィランサスの息子がいる以上、彼らの運命は終わったも同然だ」
窓の外を見つめながら、シルヴェストルは淡々と結論を下す。
「大海賊フランソワ。ゼフィランサスの息子もろとも、滅ぶといい。そうすれば……父上がお喜びになる」
フランス海軍総司令部。分厚い報告書が机の上に積み上げられている。エリオットは参謀本部から上がってきた判断と数字を前に眉間に皺を寄せていた。かつて自分が目をかけて結成された部隊。マクシミリアン・ブーケ隊。その彼らが大海賊フランソワの討伐任務に乗り出したという。エリオットは重く息を吐く。
「……他にも、部隊はいるだろうに。ブレストの連中は何を考えているんだ」
不満とも苛立ちともつかない声。だが、命令はすでに下された。今さら引き返すことはできない。エリオットは書類から目を離し、窓の向こうを見た。そこにあるのは穏やかな春の空。
「無事に戻れ」
誰に聞かせるでもなく呟く。結局のところ、彼にできることはそれしかなかった。それぞれの場所で、それぞれの思惑が交錯しながら春は進んでいく。誰が生き残り、誰が消えるのかをまだ何も語らないまま。
サン・マロの入江。ガレオン船の船内から、ひとり甲板に姿を現したのはルキフェルだった。ようやく春が来た。冬の間、寒さを避けて長く部屋に籠もっていたせいか身体の節々にわずかな鈍さを感じる。
「……向き合うか」
小さく呟き、甲板の中央に立つ。まずは太極拳。足裏に意識を落とし、呼吸を通す。吸って、吐く。風の冷たさと朝の湿り気が肺に入ってくる。身体と精神を、ゆっくりと同じ速度に揃えていった。動作の流れの中で腰に差したカットラスに指先が触れる。音もなく抜くと、そこからは剣舞。切るためではない。剣を運ぶ。身体と刃を一体にし、力を込めず、流れだけを意識する。一振り、一歩。無駄は削ぎ落とされ、意識は内側へ沈んでいく。やがて最後の動作。静かに剣を収め、収勢。
「……問題ない」
長年培ってきた技術はやはり自分の身体と心を裏切らない。何ひとつ怠けてないな。そう思った時、ルキフェルの背後から掠れた声が耳に届く。
「……ルカ」
ルキフェルは振り返る。そこに立っていたのは、久しぶりに姿を見せた美青年、マテオだった。少しやつれたようにも見えるが、目は相変わらずどこか飄々としている。ルキフェルは近づき、何も考えずに彼の肩に手を置いたが、なんて声を掛ければいいのか、分からない。迷った末に出てきたのは——。
「……おはよう」
マテオは一瞬きょとんとし、すぐに苦笑する。
「ああ、おはよ。なんか真剣なこと言われるのかと思って、身構えてたのに」
「いや、その……」
ルキフェルは視線を逸らし、言葉を探す。
「他にも、言いたいことは色々あるが……追々、話す」
マテオはにっと笑った。
「おう、そうかよ。んじゃ、あとでゆっくり聞かせろ」
その時、船内からドタバタと慌ただしい足音が響く。
「やばい!」
勢いよく甲板に飛び出してきたのは、コリンだった。
「寝過ごした! 仕事行ってきまーす!」
彼の後ろからニールも続く。
「親方に怒られる! あ、朝ごはんいらないから!」
二人はそのまま船を降り、入江の出口へ向かって駆け出していった。彼らの後ろをのんびりとついていきながら、ジャスパーがケタケタと笑う。
「おいおい、慌てるなって。 鍵ないと入江から出られないんだから!」
そう言いながら彼もまた船を降りていく。残された甲板でマテオは頭を掻いた。
「……騒がしいな、朝から」
ルキフェルは彼らの様子を見て、思わず苦笑した。
「まあ……こんな日も悪くない」
春の風が甲板を撫でていく。この静けさもこの賑やかさも長くは続かないと誰もがどこかで分かっている。それでも今は、穏やかな朝を堪能したかった。
——そして、運命の日が来た。




