第七章④ 医務室と外
夜。夕食を終え、宿舎の喧騒が一段落した頃。
マクシムはランタンを提げて外に出た。医務室の裏手。昼間は人の行き来が絶えない場所だが、夜になると途端に息を潜めたように静まり返る。雪解けの湿った地面が靴底に重く、足音がやけに響く気がして、マクシムは無意識に歩調を落とした。ランタンを地面に置き、外壁に背を預ける。石造りの壁は夜気で冷え切っていて、背中からじわりと寒さが染みてきた。
「……遅い」
小さく毒づくが、声は自然と抑えられていた。今夜は目立ちたくない。少し離れた茂みの中でダミアンは身を伏せ、葉の隙間から医務室とその裏手を見張っていた。闇に溶けるように息を殺しながら視線だけはマクシムに固定している。
「……本当に、来た」
自分で仕掛けたことだというのに胸の奥がざわつく。マルセロが何を話すのか。それを自分も聞かなければならない気がしていた。やがて、医務室の窓がぼんやりと明るくなった。蝋燭の灯りだろう。柔らかく室内を照らす光が窓ガラス越しに滲む。
「……っ」
マクシムは反射的にランタンを掴み、慌てて茂みの影へ押し込んだ。光がある以上、こちらの灯りは余計だ。
「マルセロ、何やってんだよ……」
マクシムが苛立ちを滲ませて呟いた直後、アニータの声が窓越しに響いた。
「それで? 相談ってのはなに」
マクシムの身体が強張る。思ったより、はっきり聞こえる。
——聞こえる、のか。
少し離れた茂みの中でダミアンも息を詰めた。距離はあるが、夜は音を運ぶ。
「マクシムのことなんだが……」
マルセロの声。慎重でどこか重たい響き。
「あいつは、危ない」
マクシムの喉がひくりと鳴った。期待していたのと違った。汗が一気に噴き出し、心臓が早鐘を打ち始める。
「危ないって……隊長が秘密を抱えてるのは、誰の目から見ても明らかよ。でも、それがどうしたっていうの?」
アニータの声は冷静だった。蝋燭の火が揺れたのが窓越しにもわかった。
「……わからない」
マルセロの声がわずかに低くなる。
「でも、たぶん……復讐だ」
世界が一瞬で遠のいた。マクシムは咄嗟に口を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。吐き気がこみ上げ、胃がひっくり返りそうになる。息を吸うのも苦しい。喉の奥が焼けるように熱い。違う。そう思いたかったが、言葉が出ない。
茂みの中でダミアンは眉を顰め、胸の奥に冷たいものが落ちた。思っていたのと違った。あの二人は仲が良いんじゃなかったのか。マクシムの背中が小さく震えているのが見える。自分がここにいるせいで彼は今、この言葉を聞いてしまった。ダミアンの胸に浮かんだのは安堵でも満足でもなく、後悔だった。一方、マクシムは理解が追いついていない。
——復讐。
その言葉が頭の中で反響する。何度も、何度も。自分が海軍に入った理由。名を捨て過去を切り離し、マクシミリアン・ブーケという皮を被った理由。ゼフィランサスを殺された日。エル・イエロ島で浴びせられた、怒号と嗚咽と呪詛。
——おのれフランス海軍。赦しはしない!
あの声に応えるためだけに、生き延びてきた。ゼフィランサスを奪った大元帥、エリオットを討つためだけに軍に入った。誰にも知られてはならない。ほんの一握りの、信頼できる人間にしか明かしていない秘密。それをマルセロが当ててきた。
「……なんで」
——バカな。いつバレた? どこで? 何を見た?
焦りと疑問が次々とマクシムの頭を埋め尽くす。呼吸が浅くなり、指先が冷たくなる。その時、アニータの声が氷のように響いた。
「根拠は、あるんでしょうね」
「過去のことが絡んでる。根深い問題だけどね……ゼフィランサスのことは、知ってるだろう?」
ゼフィランサスの名にマクシムの心臓が跳ねた。
「あら、有名な海賊でしょ。聞いたことない人はいないくらい」
アニータは即座に返す。彼女の軽さが逆に残酷だった。マルセロは言葉を選ぶように続ける。
「マクシムは……その海賊の意志を、継いでいる可能性がある。なんでそう言えるかは……言えない」
マクシムの視界がじわりと歪むが、アニータの声は変わらない。
「それで、何が言いたいの。 それだけじゃないんでしょうね」
マルセロは、はっきりと息を吸った。
「アニータ。あいつを告発しよう」
マクシムの全身から血の気が引く。マルセロは枷が外れたように続ける。
「国家反逆の可能性がある。ただちに拘束しなくてはならない」
その瞬間、マクシムは恐怖で身を縮めた。寒さではない。夜でもない。見つかったという恐怖。逃げ場がない。言い訳も否定も、今はできない。
茂みの中でダミアンはマクシムの異変を観察していた。マクシムは大きな秘密を抱えていて、それがマルセロにバレた。だが、それだけじゃない気がして目が離せない。
医務室の中は思いのほか静かだ。壁際の棚に並ぶ薬瓶は一本残らず眠ったまま。灯りは天井からではなく、診察台の脇に置かれた一本の蝋燭だけで炎はわずかに揺れている。その前に立つマルセロは、腕を組んだまま動かなかった。外で何が起きているか、聞こえていないはずがない距離だ。それでも、彼は振り返らない。
「アニータ、頼む。今なら、あいつもまだ引き返せる」
マルセロの言葉に、アニータはようやく彼を見た。
「……まだ?」
問い返しながら、彼女は一歩近づく。距離は詰めるが、声は冷えたままだ。
「止めたいんでしょう、あなた。だったら——あなただけでやりなさいよ」
アニータは肩をすくめた。
「規則を盾にするなら、それはあなたの責任。私は同席しない。隊長を守るために拘束する? そんな言い訳、嫌いなの」
マルセロの指がわずかに食い込む。
「……守るためだ。壊れる前に止めるには、それしかない」
吐き出すように言った彼の声には焦りが滲んでいた。彼自身が、それを自覚しているかどうかは分からない。アニータは一瞬、視線を逸らす。
「あなたはいつもそう。正しい手順を選んでいるつもりで、一番残酷な道を選ぶ」
沈黙。その隙間にマルセロは言葉を差し込んだ。
「……思い出してくれ、アニータ。ベルナルドは本当に、海賊に殺されたと思うか?」
その名が落ちた瞬間、医務室の空気が変わった。蝋燭の炎が一度だけ大きく揺れる。アニータの瞳がかすかに揺れた。
「……その話を、今するの?」
「今だからだ。あいつは、知りすぎたんだと思う。知ってはいけないことを……」
外で何かがかすかに擦れる音がした。人の気配、息を殺した、震えるような。マルセロは気づかないフリを続けた。
「もしベルナルドの死が復讐の連鎖の一部だったなら。マクシムは——」
マルセロはそこまで言いかけたところで、アニータが遮った。
「やめて。それ以上はあなたのためにも、言わない方がいい」
マルセロは口を閉ざすが、その沈黙はもう遅かった。ベルナルド。彼の名が落ちた瞬間から、マクシムの体は止まらなくなっていた。歯が鳴るのを、どうにか噛み殺そうとするが、膝が肩が、背骨の奥が命令を無視して震え続ける。
「……やめてくれ」
聞こえてはいけない。聞いた瞬間に、すべてが露見する名前だった。一方、医務室の中では沈黙が落ちていた。マルセロは目を閉じている。何かを耐えるように、あるいは確かめるように。やがて、彼はゆっくりと瞼を上げた。マルセロの視線が、まっすぐアニータを射抜く。
「……君はベルナルドのことから目を背けるのか。こちら側だと思っていた」
アニータはわずかに息を吸った。
「……私は隊長を信じたいだけよ。もう、いい加減……前を向きたい。過去を掘り返して、全員が壊れるのは見たくない」
彼女はマルセロから視線を逸らさず続けた。
「私は居場所を守りたい。そのためには、隊長の存在が欠かせない」
マルセロの口元がわずかに歪んだ。
「……そうか。それなら、君は真実から目を背けるわけだ」
医務室の外でマクシムの指先が白くなる。震えが止まらない。蝋燭の炎が再び揺れ、マルセロは続ける。
「けど、僕は違う。なんとしてでも、マクシムを止める。ゼフィランサスの意志を背負って、復讐を果たす? そんなこと、するべきじゃない」
断罪ではなく、祈りに似た否定だった。マルセロは一度視線を伏せ、顔を上げてきっぱりと言い切る。
「今夜、ここで話したことは誰にも言うな。もちろん、マクシムにもだ。僕は……いずれ、マクシムを告発する。君も手伝え」
アニータは即答しなかったが、迷いもなかった。
「一人でやりなさい。私は何もしない。何も話さないから」
それで終わりだった。医務室に再び沈黙だけが残る。外では一人の青年が名前ひとつで崩れ落ちかけていることも知らず。
アニータはマルセロの側を素通りして医務室の扉に手をかけた後、マルセロを振り返った。彼は机に手をついて項垂れている。なんだかんだ、アニータは放って置けなくて口を開いた。
「……素直になりなさいよ。あなたに必要なのは隊長への告発じゃない。——彼への想いを、本人の前で口にすることよ。その言葉があれば、まだ彼は壊れないと思う」
アニータの足音が廊下の奥へ消えていく。扉が閉まる音は思ったよりも小さかった。それでも、医務室には決定的な隔たりだけが残る。マルセロはその場からしばらく動かなかったが、やがて深く長いため息を吐いた。
「……そうか」
誰に向けたとも分からない声だった。仲間に対する失望か、自分自身への確認か。
「いい。僕は……居場所を失ったっていい」
蝋燭の炎が彼の影を壁に大きく映した。その影は医者のそれではない。決断を下す者の輪郭だった。
「僕は医者でもある。人が壊れたなら、とことん向き合う。憎まれ役になったって構わない。恨まれても、拒まれてもいい。……受けて立つさ」
誰かを説得する言葉ではない。自分に言い聞かせるための最終確認。マルセロは診察台の脇に置かれた蝋燭を手に取ると、灯りが彼の指先を照らした。医務室の扉へ向かう。外で震える青年がいることを、彼は知らないフリをしたまま扉を開けた。蝋燭の光が夜へと滲み出す。
医務室の窓の外。蝋燭の灯りが、ふっと消えた。それを見届けた瞬間、マクシムはようやく外壁に背を預けた。肺の奥に溜め込んでいた息を一気に吐き出す。
「……っ」
喉がひりつくが、楽になったわけじゃない。むしろ恐怖は形を変えて、まだ彼を締め付けていた。
「終わってない」
マルセロは何かを決めた。それを思い出すだけで指先が冷える。その時、がさりと遠く茂みが揺れる音が耳に届く。マクシムは反射的に肩を震わせた。
「……誰だ?」
心臓の鼓動が耳の奥でうるさかった。マクシムは足元の影に手を伸ばす。隠していたランタンを掴み、灯りを音のした方へ向けた。橙色の光が闇を押し退け、茂みがゆっくりと割れた。
そこから現れたのはダミアンだった。逃げるようでも、忍び寄るようでもない。彼は自分から前に出てきた。今までずっと影の中で影として生きてきた人間。誰にも見られず、誰にも名を呼ばれず。家族以外の人間の前に初めて姿を晒す。ランタンの灯りが彼の顔を照らすが、ダミアンは何も言わない。
マクシムは目の前の男を凝視していた。知らない人間、見覚えはない。だが、どういうわけか顔つきが妙に少年めいている。背丈は自分とほとんど変わらない。体格も極端に違わない。ランタンの灯りに照らされた瞳はスレートグレーよりもさらに淡い。色素の薄い目がまっすぐこちらを射抜いている。視線は合っているが、感情が読めない。怒りでも敵意でもない。かといって、警戒とも違う。
「……なんだ、この人」
不気味だ。そう思うのに、目を逸らせない。
一方でダミアンは内心で混乱していた。音を立ててしまった。それだけじゃない。なぜか身体が勝手に前へ出ていた。隠れるべきだった。影に戻るべきだった。一族の使命、父の教えを初めて踏み越えている。これまで彼は双子の兄の影として生きてきた。姿を見せず名も持たず、そこにいない者として。なのに引き寄せられてる。理由は分からない。ただマクシムから目が離せなかった。
沈黙が二人の間に落ちる。やがてマクシムの中で、ひとつの記憶が浮かび上がった。昼間のことだ。窓辺に置かれていた、小さな石。添えられていた、短いメモ。あの筆跡、マルセロのものだと思い込んでいたが、今思えば不自然極まりなかった。マクシムの喉から、かすかな声が漏れる。
「……ああ、あれは」
点と点がゆっくりと繋がる。彼は目の前の男を改めて見据えた。
「君だね。……僕を、ここに呼んだのは」
影だった男の瞳がわずかに揺れた。ダミアンは何も言えなかった。家族以外の人間と言葉を交わす、その経験自体がない。なにより、見られてる。ずっと目を離さなかった相手が今は目の前にいて、自分を認知して言葉をかけてきている。その事実に、思考が追いつかない。一瞬のうちに顔が熱くなった。白磁のような薄い肌がみるみる赤く染まっていく。
「ええと……」
ダミアンはかろうじて声を出すが、続かない。言葉が見つからない。逃げることも隠れることも、もう選べない。マクシムはそんな彼をじっと見つめ、小さく首を傾げる。急かさない。待つ。彼の態度が余計にダミアンを困惑させた。やがて、マクシムの中で何かが繋がって納得したように声を漏らす。
「ああ。もしかして……あなたも、本名を明かせない人ですか」
ダミアンはぽかんとした。
——本名?
その間にもマクシムの思考は止まらない。
「なるほど……じゃあ、リー・ウェンですかね。組織の一員」
ダミアンの頭の中に、はっきりとした疑問符が浮かぶ。一つでは足りない。二つ、三つ。だが、マクシムはそれを肯定的な沈黙として受け取って一人で勝手に頷く。
「うんうん。言えないのは、分かってますよ。守秘義務、ありますもんね。組織の一員として」
ダミアンはますます言葉を失う。マクシムは悪びれもせず続ける。
「僕も、君たちのことはよく知ってますから。ほら、お仲間がこの宿舎によく出入りしてるの、君も把握してるんでしょう?」
違う。何もかも違うが、その訂正を挟む隙はもうなかった。ダミアンは赤くなった顔のまま立ち尽くし、勝手に納得していく相手を見つめるしかない。マクシムは赤くなったまま黙り込んでいるダミアンを見つめて、ふっと力を抜いたように言った。
「君は……無口なんですね。いかにも、情報屋向きだ」
ダミアンは一瞬目を見開いたが、何も言わない。マクシムはそれ以上追及せず、医務室の窓へちらりと視線を投げた。
「君は……二人のこと、知っていたんですよね。だから、あの会話を」
蝋燭の灯りが消えた窓。そこに残る、重たい余韻。マクシムはゆっくりと言葉を選ぶ。
「僕に、聞かせたかった。……その理由、話してくれますか」
ダミアンの身体がわずかに強張った。問い詰められているわけじゃないが、逃げ道もない。それでもなぜか、目を逸らさなかった。やがて、ダミアンは喉を震わせた。
「……知らせたかった」
マクシムはすぐに頷く。
「それはもう、わかってます。他にありませんか?」
その一言で、ダミアンの胸がざわついた。そんなもの自分が一番知りたい。胸の奥に生まれた、正体の分からない感覚。初めて触れる感情。名前がない。輪郭も掴めない。なのに、答えを急かされている気がして思考が追いつかない。焦りが喉を詰まらせた時、脳裏にひとつの顔が浮かんだ。
マルセロ。決断を下した横顔。誰かを止めるために、憎まれ役を引き受ける覚悟。それから、彼の声を聞いて震えるマクシムの姿。今は霧散したが、あれを思い出した瞬間に点がひとつに収束した。
「あの……ボク……」
ダミアンの声がかすれるが、今回は逃げなかった。マクシムの視線を正面から受け止める。感情を消して生きることが、当たり前だった人間が。初めて、自分の内側に生まれたものを自分の言葉で掬い上げる。
「……あの、好きなんですか。あの人のこと」
理由も理屈もないが、確かに感情だった。マクシムはすぐには返事をしなかった。ただ目の前のダミアンの瞳を、じっと見つめていた。その奥にほんのかすかだが、光が宿っている。迷いではない。計算でもない。本気だ。そう感じ取った瞬間、なぜかこの男が怪しい存在ではないと信じられた。マクシムはふっと力を抜いたように笑う。
「……好き、か。ほんと僕の周りには、お節介を焼く人が多いからなあ」
マクシムの胸の奥に黒い渦が広がる。ここで立ち止まっている場合じゃない。
「……そうだ。おれには、やることがある」
復讐の道。ゼフィランサスの意志。そしてマルセロを、どうするか。思考を切り替え、マクシムはダミアンに向き直った。
「君。あまり、ここへは来ない方がいいですよ。誰かに見つかったら、大変ですから。また違うところで会いましょう。……おやすみなさい」
そう言ってマクシムが踵を返しかけた時、ダミアンは口走った。
「……あ、あのっ!」
慌てた声が飛んでマクシムは立ち止まり、振り返った。
「なんですか?」
マクシムが柔らかく促すと、ダミアンは言い淀みながらも口を開いた。
「あの……サン・マロのこと……海から、行った方がいいです。あの入江は、街から探すと……目立たないところにあって……」
ダミアンの言葉に勢いがつき、早口になる。
「だから、海から行った方が、早いです……それに海賊たちは、数が少ない……あなたが、思ってるよりは……だから、この部隊の人数でも……じゅうぶん、渡り合えるかと……」
言い切った瞬間、ダミアンは自分で何を言ったのかを理解し、固まった。マクシムは目を見開く。驚愕だが、疑念ではなかった。やがて、彼はゆっくりと微笑む。
「そうですか。さすがですね。東方情報屋組織『リー・ウェン』」
ダミアンはまたぽかんとした。マクシムの視線は彼の顔立ちを改めてなぞっている。少年のような輪郭。自分とそう変わらない背丈。そして、色素の薄い瞳。
「東西が混じってるのかな。……助言、感謝します」
マクシムはそんなことを勝手に考えながら穏やかな声で告げた。また、何か勘違いしたらしい。そのことに気づきつつも、ダミアンは訂正する言葉を見つけられないまま立ち尽くしていた。一方のマクシムは彼の困惑など気にも留めず、ふと空を見上げる。夜空は曇っていて星は見えない。
「とはいえ……リー・ウェンが二人いると、ややこしいですね」
そう言ってから、マクシムはダミアンの方を見た。
「なにか呼び分けが欲しいです。他に仮名とか、ありませんか? なんでもいいです」
なんでも。その言葉にダミアンは完全に固まった。
「ええ……」
ダミアンの口から声にならない声が漏れる。仮名。呼ばれるための名前。そんなものを、誰かに求められたことが今まで一度もなかった。やがて、ダミアンは息を吸って迷いながら言葉を探す。
「じゃあ……ボク……ダミアンって」
そこまで言って、その先「呼んでください」という言葉が喉で止まった。だが。マクシムはもう頷いていた。少し意外そうに、どこか楽しげだった。
「ダミアンですか。なるほど、そっち路線ね。それなら、分かりやすいです。では……ダミアンくん」
その呼びかけに、ダミアンの胸がきゅっと音を立てた。
「また、どこかで会いましょう」
そう言いかけて、マクシムは一瞬言葉を選ぶ。
「いや、正確には……生きて帰ってきたら、また会いましょう。雪が解けたら、戦いがあるので」
ダミアンは思わず息を呑んだ。戦い。生きて帰るかどうかも、分からない場所。それを、こんなにも静かに言う人。マクシムはそれ以上何も付け足さない。
「さよなら」
今度こそ背を向けた。マクシムの足音が闇の中へ遠ざかっていく。残されたのは一人の影。いや、もう影ではない。ダミアンはその場に立ったまま小さく呟く。
「……さよなら、か」
初めて口にする言葉をぎこちなく、確かめるように。しばらくして、胸の奥から別の言葉が溢れた。
「……生きて帰ってきて」
祈りだった。誰かのために、初めて口にした願い。そして、遅れて気づく。言葉を交わせたこと。名前を呼ばれたこと。それが、こんなにも胸を温かくするものだということを。影として生きてきた人間が、ようやく人間になった瞬間だった。だが、次の瞬間にはダミアンの瞳に影が差す。
「ボク、とんでもないことした」
マクシムと仲間たち。自分の好奇心から彼らの仲を傷つけ、裂いてしまった。遅れて気づいた途端、彼は罪悪感と共に夜の闇に投じた。
私室に戻ったマクシムは、闇にぼんやりと浮かぶ鏡の自分に目を向けて眠れぬ夜を過ごしていた。彼の笑脳裏にひとつの声が蘇る。
——君は一生、誰も愛せないんだよ。いや、君なんかに愛されるやつは可哀想だ。
アントワーヌだった頃。ゼフィランサスが八歳の自分に向けて、淡々と言い放った言葉。マクシムは胸を抑え、呻き声を漏らした。ダミアンの真っ直ぐな問いかけとゼフィランサスの言葉が内側を掻き乱してくる。マクシムは暫く荒い息を吐いていたが、次第に落ち着くと滲んだ視界の中で雫と共に言葉が溢れた。
「やっぱり、無理……」
月光が部屋の窓から差し込んできた。その光の中で、マクシムは膝をついて声を押し殺しながら床を濡らした。自覚した途端、溢れてきた想いをナイフで何度も刺すように。




