第七章③ ダミアン
窓の外の影、ダミアンは息を殺して立っていた。はっきりと聞こえた。三月一日、王命、大海賊。断片的だが、十分だった。ダミアンの胸の奥がひやりと冷える。
「……出撃日。マクシミリアン・ブーケ隊。三月一日、サン・マロ……」
彼はその場を動かない。執務室の窓の向こうから、また声がした。
「……急げ。間に合わなかったら……」
それ以上は聞き取れなかったが、必要な情報は揃っていた。ダミアンは静かに踵を返す。塀を飛び越え、宿舎の外へ。夜の冷気が容赦なく肺に流れ込む。
——急がなければ。
ブレストを出ると彼は人目を避けながら街路を抜け、街外れで足を止めた。凍えた指で、懐から小さな帳面を取り出す。炭の欠片を拾い、息を吹きかけて指先を温める。
「……忘れるな……」
自分に言い聞かせるように呟き、紙の上に線を引いた。輪郭。眉。視線の角度。マクシムの顔。
「……こんな顔、してた」
怒りと焦りと、それでも責任を背負おうとする目。ダミアンの手は悴んでいる。それでも線は迷わない。似顔絵は驚くほど正確だった。名前を呼ぶ声は白い息と一緒に夜に溶ける。次の瞬間、帳面を閉じ、彼は走り出した。
——サン・マロへ。兄たちのもとへ。そして、あの入江へ。
自分でも気づかぬまま、彼はすでに任務ではなく、一人の男を追って動き始めていた。その後、ダミアンはほとんど休まずに走り続ける。ブレストからサン・マロまでは、本来なら二泊三日はかかる距離だが、彼は街道を外れて森を突っ切り、夜のうちに馬を一頭借り、最短距離だけを選んで進んだ。息は白く、指先の感覚は早々に失われた。それでも足は止まらなかった。頭の中では、マクシムの怒りに歪んだ横顔と日付だけが何度も反芻されている。
——早く。兄たちに知らせなければ。
サン・マロに辿り着いた頃には、夜明け前の空がわずかに白み始めていた。ダミアンは拠点にしている宿の前で馬を手放し、表口には回らず裏手へ回る。慣れた手つきで裏口を開け、音を立てないように中へ滑り込むと奥の部屋へ向かった。扉を押し開ける。室内は薄暗く、暖炉の火だけがくすぶっていた。ソファには一人の男がだらしなく寝転がっている。ピエールだ。眠っているのかと思った瞬間、彼はうっすらと片目を開け、侵入者を確認するように弟を一瞥した。
「……やっと来たか」
掠れた声だった。まるで、ずっと起きて待っていたかのように。ピエールは大きく伸びをし、軋む音を立てながら身体を起こす。ピエールの視線はダミアンの乱れた息遣いと、雪と泥に汚れた靴、そして懐に抱えた紙切れへと自然に向けられていた。ダミアンは一歩、部屋に足を踏み入れる。喉が乾いている。胸の奥が落ち着かない。間に合ったのか。それとも、もう遅いのか。ピエールは暖炉の火に目をやったまま、何気ない調子で口を開いた。
「……出撃日、決まったか」
ダミアンは一瞬言葉を探すように息を詰め、それから短く答えた。
「はい。三月一日です」
その数字を聞いても、ピエールの表情はほとんど変わらず目線だけがゆっくりとダミアンの腕に移った。握りしめられた紙切れ。
「それはなんだ?」
ピエールに指先で示され、ダミアンの心臓が跳ねた。反射的に抱え込んだ腕に力が入る。ピエールはその沈黙を訝しむように眉を寄せると立ち上がり、ためらいもなく紙切れを奪い取った。ピエールは紙を広げ、そこに描かれた顔を一瞥する。
「……なるほどな。この顔のやつが、来るってわけか」
ダミアンは唇を噛みしめる。寒さとは別の理由で、指先が震えていた。ピエールは紙を指で弾きながら何気なく尋ねる。
「で? こいつは誰だ」
——言いたくない。
ダミアンの胸の奥ではっきりと拒否が生まれるが、声にならなかった。双子の兄。一族。父から与えられた役目。その重さが、ダミアンの背を押し潰す。絞り出すように、言葉が零れた。
「……あの捕虜が、口にしていた者です」
ピエールの視線がわずかに鋭くなる。
「マクシミリアン・ブーケ。海賊討伐を一任されている部隊の隊長です。少数精鋭で……軍内では厄介払いされている、という噂の」
言い終えた瞬間、ダミアンは目を伏せた。まるで何かを裏切ってしまったような気分だった。ピエールはあくび混じりに声を漏らす。
「……あー。そんな話、あったかな」
ピエールは興味なさそうに言いながら紙切れを軽く振る。
「これ、オレが預かるわ。あの海賊どもに、見せときたいから」
それだけ言うとピエールは紙を懐に押し込み、再びソファに身体を預けた。もう用は済んだ、と言わんばかりに。ダミアンは一歩、踏み出しかけて止まった。名残惜しそうに、ピエールの懐を一度だけ見てから頭を下げる。
「……では。ボクは、ブレストに戻ります。引き続き、監視を」
「おう」
ピエールは片手をひらりと振るだけで顔も向けない。ダミアンはそれ以上何も言わず、部屋を出た。扉が閉まる音は驚くほど小さかった。しばらくして。ピエールはふと違和感を覚えたように目を開けて空になった扉の方を見る。
「あいつ……命令なしでも、動けたっけ」
ピエールはほんの一瞬だけ頭を巡らせたが、すぐに興味を失ったように鼻で笑うと寝返りを打ち、目を閉じる。
「まあいい。あいつがオレの前からいなくなるなら、清々する」
その声にはためらいも迷いもなかった。
雪解けが始まったブレストの街は、昼間でもどこか湿っていた。屋根の端から落ちる水滴が、石畳に小さな音を立てる。その音をダミアンは何度も聞いている。
彼は再びマクシム隊の宿舎を見下ろす位置に戻ってきていた。最初は偶然だった。次は確認で、今は習慣に近い。枝葉の密な木の上。葉の影に身体を預け、視線だけを下へ落とす。雪が減った分、隠れる場所は少なくなったが、もう問題はなかった。動かず呼吸を殺し、溶け込む方法を彼はとっくに身につけている。目的は一つだった。
マクシミリアン・ブーケ。最初に覚えたのは歩き方だった。急ぐ時と考え事をしている時で、靴音の間隔が変わる。次に、癖。書類を読む時、必ず一度だけ指で紙の端を整える。やがて、周囲も視界に入るようになった。部下たちの顔。立ち位置。誰が先に声をかけ、誰が一歩引くのか。表向きは穏やかで協調的で、よくまとまった部隊に見えるが、どこかおかしい。視線の交わし方が短すぎる。冗談のあとに残る沈黙がほんの少しだけ長い。マクシムを中心に何かを隠しているような動き。そんな違和感が時折、浮かび上がる。ダミアンは深く考えなかった。
今日も一階の執務室。窓の向こう、斜め上から覗き込む位置。木の上からなら、ちょうど机に向かうマクシムの姿が見える。マクシムは書類に目を落とし、ペンを走らせていた。眉間に寄る皺。時々、無意識に息を詰める癖。ここなら見える。使命のためでも、兄の命令のためでもない。ただ見えるから見ている。雪解け水が枝から落ち、冷たい雫が手の甲に触れた。それでもダミアンは動かなかった。視線は、ただ一人に向けられたまま。不意に声が二つ重なる。低く抑えた男の声と、それに応じる柔らかな女の声。ダミアンは反射的に視線を巡らせた。宿舎の玄関口。雪解け水で湿った石畳の上に、二人が立っている。
マルセロ。暇さえあればマクシムと二人きりでいる男だ。それから、アニータ。距離はあるが、風向きのせいか会話の断片が耳に届いた。
「今夜、少し話がある。医務室に来てほしい」
マルセロの声だった。低く、迷いを含んだ調子。
「あら、珍しいじゃない。どうしたの?」
アニータが首を傾げる。いつもの軽さを保った声。
「その……マクシムのことで、相談がある」
その名前が出た瞬間だった。ダミアンの胸の奥がじわりと焼ける。理由は分からない。理屈も意味も必要なはずなのに、何一つ浮かばない。風に揺れる枝葉の陰で、ダミアンはじっと二人を見下ろしている。監視ではない。使命でもない。胸の奥が騒がしかった。
——違う。
ダミアンは胸の奥でそう言い聞かせた。これは監視だ。兄たちから与えられた役目。マクシミリアン・ブーケという男を観察し、動きを記録し、必要なら報告する。それだけなのに、視線は玄関口から離れなかった。マルセロとアニータが並んで立つ、その距離がやけに近く見える。
話し終えた二人が別々の方向へ歩き出すまで、ダミアンは瞬きすら忘れていた。胸がうるさい。さっきから理由もなく、脈が早い。冷えた木の枝に伏せているはずの指先がじっとりと湿っている。ダミアンは眉をひそめ、奥歯を噛み締めた。
理解できないものは嫌いだった。制御できない感情は無価値だと教えられてきた。なのに、マルセロが口にした「マクシム」という名が自分の中であまりにも強く響いた。ダミアンはゆっくりと息を吐いた。理解した瞬間、胸の奥で何かが形を持った。
——好奇心だ。
ダミアンは初めて自分自身に恐怖を覚えた。まずい。これは、兄たちに教えられていない感情だ。一族の使命にも父の遺言にも、どこにも書かれていない。それでも消えない。ダミアンは木の上から再び視線を落とした。一階の窓越しに見える、机に向かうマクシムの姿。胸の奥がひどく静かになった。理解してしまったからだ。もう、戻れないと。あの人を見失いたくない。それが何を意味するのか。どこへ行き着くのか。今は考えない。ただ一つだけ、はっきりしていた。これは始まってしまった。
「……今夜、か」
ダミアンの喉からこぼれた声は思った以上に震えていた。自分でそう気づいた瞬間、彼はぎゅっと唇を噛む。落ち着け。ただの予定だ。医務室での相談。それなのに脳裏に言葉が蘇る。
——僕は……あの男を、ただ止めたいだけだ。
マルセロのあの低い独り言。そして、机の引き出しで読んだ、あの手紙。全部、マクシムに向けられた言葉だった。ダミアンは枝の上で膝を抱えた。胸の奥が、きりきりと痛む。それは怒りとも、恐怖とも違う。知りたい。今夜、医務室。マルセロとアニータ。そこではきっと、マクシムのことが話される。本人の知らないところで、話が進んでいくことに胸騒ぎを覚えた。
「……知らせなきゃ。呼べばいい」
ダミアンはゆっくりと息を整えた。マクシムをそこへ誘き寄せる。理由はどうとでもなる。報告でも偶然でも、何でもいい。彼自身の耳で聞かせればいい。それが一番安全だ。誰にも見られず、誰にも疑われず、事実だけを彼に渡す。
「……ボクは、影だから」
今夜、あの人は知るべきだ。自分が誰にどんな風に語られているのかを。ダミアンは懐に手を入れた。取り出したのは何度も折りたたされ、角が擦り切れた紙切れと短くなった鉛筆。紙の大半はすでに埋まっている。線の強弱。輪郭。癖のある目元。全部、マクシミリアン隊の顔だった。残っているのは隅の、わずかな余白。ダミアンは一度、鉛筆を持つ手を止めた。深く息を吸い、吐く。思い出すのは、医務室。マルセロの机。書類に走る筆致。少し丸みがあって、線の運びは早い。鉛筆を走らせる。
——今夜、二人きりで話がしたい。医務室の外、あの窓の裏で。
文字は丁寧すぎず雑すぎず。癖を真似るのではなく寄せる。書き終えた瞬間、心臓が強く脈打った。音を立てないよう慎重に破る。ダミアンは木の幹を滑るように降りた。雪を踏まない位置を選び、音を殺す。拾い上げたのは小さな石。窓辺。マクシムの執務室。手紙を置き、石を重ねる。風で飛ばないよう角度まで調整する。ほんの一瞬、窓の向こうを見た。机に向かう、横顔。これでいい。ダミアンは指の関節で軽く窓を叩いた。コツ。一度だけ。反応を待たず、踵を返して足音を消し、影に溶ける。
マクシムは執務に没頭していた。机の上には、何度も書き込みを重ねたサン・マロ周辺の地図。入江の位置を仮定しては線を引き、否定しては消す。その繰り返しだった。やはり、陸から探すのは無理がある。少数精鋭とはいえ、限られた時間で、土地勘もない場所を駆け回るなど無謀だ。海側から当たりをつけるしかない。だが、海で船を動かすのも——。思考が袋小路に入りかけた、その時だった。コツ。乾いた音が静かな執務室に落ちた。マクシムは一瞬、手を止めて視線だけを横にやり、窓を見る。風で揺れたにしては音がはっきりしすぎている。
「……?」
マクシムは眉をひそめ、椅子から立ち上がった。近づくにつれ、違和感は確信に変わる。窓辺に何かがあった。ゆっくりと窓を開けると、冷たい空気が一気に流れ込んでくる。窓枠の上に、小さな石と折り畳まれた紙切れ。
「……誰が……?」
この高さ、この位置。偶然ではない。意図的に置かれている。
「いや、そもそも……どうやって?」
マクシムは一瞬外を見回すが、雪に覆われた庭には人影はない。胸の奥がじわりと嫌な熱を帯びるが、マクシムは紙切れから目を離せなかった。置かれている以上、無視するという選択肢は彼の中にはない。石をどけ、紙を手に取る。指先に伝わる、わずかな紙の湿り気。最近書かれたものだ。マクシムが折り目を開いた瞬間、視線が止まった。
「……?」
短い文面。簡素な言葉遣いだが、筆跡は見覚えのあるものだった。整っているが、少し癖のある文字。医務記録や処置メモで、何度も目にしてきた。
「……マルセロ……?」
マクシムは声に出した瞬間、自分でも驚くほど音が震えた。
——今夜、二人きりで話がしたい。医務室の外、あの窓の裏で。
余計な説明はないが、だからこそ胸に引っかかる。
「……こんな呼び出し方、する奴じゃないだろ……」
独り言のはずなのに誰かに聞かれているような気がして、マクシムは思わず周囲を見渡す。もちろん、執務室には誰もいない。それでも胸の奥に、はっきりとした違和感が残った。——今夜、二人きり。
「……医務室、か……」
呟きながら、マクシムは紙切れを握りしめる。理性は警鐘を鳴らしている。おかしい。唐突すぎるが同時に、別の感情が顔を出す。マルセロは最近の自分の様子を誰よりも近くで見ている男だ。
「……話、か……期待して、いいのかな」
結局マクシムは紙切れを机の上に置き、しばらく動けずに立ち尽くしていた。外では風が木々を揺らしている。雪解けの気配とともに何かが動き始めている。そんな予感だけが胸に残っていた。




