第七章② マクシム
ブレスト司令部、参謀会議室。冬の曇天の光が分厚い窓ガラス越しに鈍く差し込んでいた。長机を囲む士官たちは、誰一人として声を荒げていないが、机の上に積まれた書類の量が、この街の混乱を雄弁に物語っていた。
「まず、報告を」
議長役の参謀士官が口を開く。声は乾いていて、感情の起伏を一切含まない。
「イヴォン・ローラン中尉は現在、医務局にて集中治療中。意識は未だ回復せず。発見時の証言は断片的ですが、『サン・マロに大海賊フランソワがいた』。以上が、本人の口から確認された内容です」
ざわめきが走るが、それは驚きではない。確認作業が一つ終わっただけの反応だった。
「……例の件だな」
別の士官が低い声で呟く。
「はい。ローラン中尉が最後に接触していた人物についても、再度確認しました」
資料が配られる。その表紙に記された部隊名を見て、数名が眉をひそめた。
「マクシミリアン・ブーケ隊」
誰かがわざとらしくため息をつく。
「また、あの連中か」
「偶然にしては、出来すぎている」
参謀士官の一人が指先で書類を叩く。
「ローラン中尉は、マクシム隊の宿舎を訪れた直後に失踪。加えて、彼が保有していた調査資料の写しが——」
「マクシム隊の関係者の手を経由していた可能性がある、だったな」
言葉は慎重だが、可能性という名の嫌疑はすでに空気中に満ちていた。
「本人は繰り返しサン・マロへの即時対応を進言しています」
別の参謀が淡々と告げる。
「だが、その態度がかえって不自然だ。まるでローラン中尉の件から、逃げようとしているかのようだ」
沈黙。反論は出なかった。むしろ、誰かが頷いたのが見えた。
「あるいは、我々からの信頼回復を図っているのかもしれん」
「必死すぎる、というわけだ」
乾いた笑いが一つ。そこへ扉が開き、伝令士官が入ってくる。
「失礼します。パリ総司令部、参謀本部より通達です。——王命です」
伝令士官の一言で会議室の背筋が一斉に伸びた。読み上げられる文面は短い。
「『内部粛清に注力するあまり、外敵への対応が後手に回ってはならぬ。大海賊フランソワの脅威、未だ去らず。速やかに討伐を検討せよ』。以上」
参謀たちは顔を見合わせた。
「……討伐、か」
「今の状況で、どの部隊を動かす?」
「正規艦隊は、汚職士官の処分と再編で手一杯だ」
「他の部隊も同様だろう」
そこで、議長役の参謀官がぽつりと言った。
「……なら、例の部隊でいい。——マクシミリアン・ブーケ隊だ。少数精鋭。危険な任務にも慣れている。何より、今の我々にとって厄介だ。忠誠を測るには、ちょうどいい。成功すれば功績。失敗すれば……」
その先は誰も言わなかった。議長役が静かにまとめる。
「決まりだな。大海賊フランソワ討伐任務、マクシミリアン・ブーケ隊に一任する」
机を叩く音も拍手もない。書類に判が押される。その一枚が一個人の正義と焦燥を、逃げ場のない戦場へ追い込む命令書になるとも知らずに。
雪を踏みしめる足音が宿舎の廊下に響いた。伝令係の言葉を聞いた瞬間、マクシムは外套を掴み、迷いなく外へ出た。返事は短く「了解した」の一言だけ。それ以上の説明は、今は不要だった。
——来た。
マクシムの胸の奥で、凍りついていた歯車がようやく回り出す。彼の背後で、もう一つの足音が重なった。ダミアンだ。彼は何も言わず、一定の距離を保ったままマクシムの後を追っていた。命令でも合図でもない。ついていくという選択。ブレスト城が近づくにつれ、空気が変わる。重い石壁、雪を弾く灯り、警備兵の視線。門が開き、マクシムの姿が城内に吸い込まれる。彼の背中を最後まで見届けてからダミアンは足を止めた。
「……ここからは、別行動」
ダミアンの頭の中に、城の構造が立体的に浮かび上がる。通路、倉庫、使われなくなった階段、換気孔。何度も下見を重ねてきた抜け道の候補を一つずつ潰していきながら、彼は影へと溶けた。一方、マクシムは久しぶりに城の内部を歩いていた。冷たい石床。高い天井。すれ違う士官たちの視線が一斉にこちらを向く。好奇心、警戒、疑念。そして、あからさまな距離。構っている暇はない。視線を切り捨て、指定された通路を進む。扉の前で足を止め、ノックもそこそこに中へ入った。
参謀部、司令室。室内には数名の参謀官が並んでいた。書類の山、地図、封蝋の割れた命令書。その中心に立つ参謀官が、事務的な声で告げる。
「マクシミリアン・ブーケ中尉」
名を呼ばれ、マクシムの背筋が自然と伸びる。
「総司令部より、お前たちに任務が下った。任務内容は——大海賊フランソワの討伐」
マクシムの胸の奥で何かが跳ねた。やっとだ。思わず息が浅くなる。待ち続けていた言葉。拒まれ、疑われ、それでも言い続けてきた結論。だが、マクシムはすぐに表情を引き締めた。
「……確認させてください。なぜ、僕たちなんでしょうか」
参謀官の視線が向く。室内の空気がわずかに硬くなる。
「相手は大海賊です。配下も多い。船も複数。なぜ、第七部隊や他の精鋭部隊ではなく僕たちを?」
マクシムの言葉に参謀官はいかにも用意された理由を探すように、一枚の書類をめくる。
「……君たちだからこそ、できることがある」
曖昧な言い回し。マクシムは言葉の裏を探るように相手を見るが、参謀官は続けた。
「君はサン・マロ周辺の事情に詳しいだろう。過去にも海賊との交戦経験がある。部下たちも、小規模部隊での行動に慣れている。それに——」
参謀官はわざとらしく声を落とした。
「大元帥が、君に期待をかけている」
マクシムの眉がわずかに動く。期待。信頼。評価。どれも、今まで自分に向けられてきた言葉とは程遠い。
「君の熱意は上も把握している。今回の任務は君にとっても、汚名を返上する好機だ」
善意を装った刃をマクシムははっきりと感じ取った。期待されているのではない。試されているのだ。
「承知しました。任務、引き受けます」
マクシムは一切の逡巡を見せずに答えた。参謀官は一瞬だけマクシムを見つめ、満足したように頷いた。
「よろしい」
参謀官は机の端に積まれていた書類束の一つを取り上げ、表紙を整えるとマクシムの前へ差し出した。
「では、これが我々参謀部が記した作戦概要だ」
厚みのある羊皮紙の束。封蝋はすでに割られている。参謀官は付け加える。
「もっとも、実際の指揮は君の権限だ。この通りに動く必要はない。現地判断を優先して構わない」
一見、裁量を与える言葉だったが、次の一言でその本質が露わになる。
「少なくとも、王と大元帥は事を急いでいる」
参謀官の視線がわずかに鋭くなる。
「——決行日だけは、こちらで指定した」
マクシムは無言で書類を受け取った。紙の重みが想像以上にずしりと手に残る。その場で表紙をめくり、流し読みをするつもりだったが、視線は自然と作戦概要の末尾へと引き寄せられる。
【決行予定日】
そこに記された日付を見た瞬間、マクシムの呼吸が一拍止まった。
「……っ」
思わず、マクシムの指が紙を強く掴む。
——三月一日。
マクシムは書類の末尾に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
【決行予定日:三月一日】
その一行が何度見ても変わらない。マクシムの喉がひくりと鳴り、思わず顔を上げた。
「……待ってください。三月一日は、無理です」
参謀官の眉がわずかに動く。
「理由は?」
マクシムは即座に答えた。
「新人が二人、着任する日です。まだ実戦経験も浅い。その日に、いきなり大海賊討伐なんて……延期してください。せめて数日でいい。もしくは、前倒しでも構いません。準備が——」
「却下だ」
被せるように参謀官が言った。
「遅い。事態はすでに深刻だ」
マクシムは思わず机に手をついた。
「ですが!」
「新人が二人増えたところで、状況は変わらん」
参謀官は淡々と続ける。
「むしろ好都合だ。君たちの隊が問題なく機能していることを示すにはな」
その言葉の意味をマクシムは理解してしまった。
「……試してる」
信頼ではない。疑いの中で、踏み絵を踏ませようとしている。参謀官はまるで思い出したかのように付け加えた。
「それに……君は散々、言っていたじゃないか」
参謀官は机の上の書類を指で軽く叩いた。マクシムを見る視線が、ほんのわずかに鋭くなる。
「春になって氷が溶け始めたら、フランソワ海賊団は必ず海に出ると」
マクシムの胸が嫌な音を立てて軋んだ。
「我々は、君の発言も拾った。考慮した結果が、三月一日だ」
「……おれの言葉を、材料に——」
「君自身が『今が好機だ』と言っていた」
参謀官はマクシムの言葉を遮るように言い切った。
「ならば、その責任も含めて引き受けてもらう。——新人二人も連れてな」
マクシムの中で何かが切れた。声が震える。
「……ふざけないでください。彼らは人です! 証明の道具じゃない!」
参謀官は、ほんのわずかに口角を上げた。
「感情的だな、ブーケ中尉」
その瞬間、マクシムの胸に溜まっていた怒りが言葉になって溢れ出た。
「……わかりましたよ! そんなに僕たちに疑いをかけるなら、やってやりますとも!」
思わず声を張り上げてしまう。言ってしまった、と理解した時には遅かった。参謀官は満足そうに頷く。
「それは頼もしい。期待しているぞ。——マクシミリアン・ブーケ隊」
それは激励ではなかった。「君が言った通りにさせる」という宣告だった。マクシムは何も言い返さず、書類を掴み取ると踵を返した。司令室の床をわざと強く踏みしめる。コツ、コツ、コツ。怒りを押し殺すための乱暴な足音。扉を開け、廊下に出る。彼の背後で扉が閉まる音がした瞬間、胸の奥に別の感情が広がった。
「……言うべきじゃなかった」
歩き出そうとして、足がわずかに遅れる。さっきまでの勢いが急速に萎んでいった。
「新人を、巻き込むことになる。ソフィーとジョルジュに、何て説明すればいい」
一歩、また一歩。足音は次第に小さくなった。怒りの代わりに、重たい後悔が腹の底に沈んでいく。マクシムは唇を噛みしめた。
「……でも、もう引き返せない」
三月一日。その日付が、頭の中で何度も反復された。それは、自分の言葉が刃となって返ってきた日付。マクシム隊の出撃は新人二人を抱えたまま強引に決められた。その選択がどれほど残酷な因果を呼び込むのか、この時の彼はまだ知らず。
結局、ダミアンは部屋を見つけられなかった。参謀部の配置図も抜け道も、記憶の中では完璧だったはずだが、どこかで一手遅れた。あるいは最初から読み違えていたのかもしれない。
失敗した。その事実がじわりと腹の底に沈む。初めてだった。兄たちの期待に応えられなかったのは。「できて当然」とされてきた自分が何も掴めずに終わったのは。ダミアンは城内に残ることを諦め、ブレスト城の外へと出た。門前。雪を踏み固めた哨兵の足跡が幾重にも残る場所。ここなら、少なくとも見失うことはないが、胸の奥では別の思考がぐるぐると渦を巻いていた。まずい。これはまずい。兄上たちに知られたら、どうなる。脳裏をよぎるのは、怒声ではない。もっと静かで、もっと冷たい評価だ。
「役に立たなかったな」
それだけで済めばいいが、もし余計な感情を持ったことまで見抜かれたら。ダミアンは無意識に指先を強く握りしめていた時、重い門が軋む音を立てて開いた。ダミアンは反射的に視線を上げる。
出てきた。マクシムだった。雪明かりの中に現れた姿はいつもよりも硬く、張り詰めて見えた。背筋は伸びているが、肩には見えない重さが乗っている。表情は険しく、どこか覚悟を決めた人間の顔だった。ダミアンの胸に安堵が一気に押し寄せる。よかった。少なくとも見失わずに済んだが、次の瞬間、その安堵は別の不安に塗り替えられる。何があった。中で何を言われた。自分が掴めなかった何かをもう抱えているのか。そして、遅れてやってくる現実。何も掴めなかった。それなのに彼はもう動き出している。ダミアンは一歩、また一歩と距離を保ちながら黙って後を追った。海沿いの道。凍った地面に靴音が響く。心臓が少しだけ早い。兄たちの顔が頭の片隅にちらつく。殴られるかもしれない。叱責されるかもしれない。それでも、視線は前を歩く男から離れなかった。
宿舎に戻るや否や、マクシムは執務室に籠もった。外套も脱がず、手袋だけを乱暴に外し、机に向かう。インク壺の蓋を開け、羽根ペンを握る指がわずかに震えている。寒さのせいだけではない。
「……三月一日……」
吐き捨てるように呟き、羊皮紙に日付を書きつける。書きながら、言葉が勝手に口をついて出た。
「間に合わない……いや、間に合わせるしかないだろ……!」
ペン先が紙を引っかき、文字が歪む。
——トゥーロン、第四部隊宛。
文頭を書いた瞬間から、マクシムの筆致は焦燥に満ちていた。
三月一日に任務が発生した。
王命による、海賊討伐任務だ。予定を変更してほしい。ソフィー・ルノアールとジョルジュ・アルダーソンの両名は、可能な限り早くブレストへ合流させてくれ。
「……新人を、初任務で……」
言葉が詰まり、マクシムは一度ペンを置いた。机に肘をつき、額を押さえる。
「……くそ。なんで、こんな……」
誰に向けた怒りなのか、自分でも分からない。参謀部か。王命か。それとも引き受けてしまった自分自身か。再びペンを取る。
危険な任務になる。だが、今は一刻も早い合流が必要だ。
私の判断だ。責任はすべて私が負う。
「……おれが、守るから……」
独り言のように呟いたその声は、執務室の外にまで漏れていた。




