第七章① ダミアン
ブレストの冬は容赦がない。石畳は白く覆われ、踏み出すたびに靴底が軋む音を立てる。マクシムは今日もブレスト城へ向かっていた。何回目かはもう数えていない。数える意味がないことを彼自身が一番よく知っていた。城門の前に立った瞬間、空気が変わる。門番兵の一人が隣の兵に視線だけで合図を送った。
「今日はお引き取りください、隊長殿」
抑揚のない声。命令を実行しているだけの声だった。マクシムは一瞬言葉を失うが、すぐに前へ出た。
「通してください。今日は話があります」
「命令です」
「誰の命令ですか」
門番兵は答えない。答える必要がないと分かっているからだ。マクシムの声がわずかに強くなる。
「僕は、僕は彼らに会う権利があります!」
その瞬間、門番兵の一人が前に出て腕を伸ばし、マクシムの胸元を押し返す。
「下がってください」
「ふざけないでください!」
感情が先に走った。理屈ではなく、積もりに積もった苛立ちが雪を踏み割るように溢れ出る。
「今ここで話さなければ——」
マクシムは最後まで言わせてもらえなかった。鈍い衝撃。視界が傾き、冷たい石畳が背中に叩きつけられる。
「——っ!」
声にならない息が漏れる。門番兵は容赦しなかった。拳、膝、靴底。必要最低限だが、確実に痛みを与える動き。
「抵抗するな!」
「……っ、く……!」
雪が舞い上がる。白の中にわずかに赤が滲んだ。ほどなくして、兵たちは離れていく。倒れたままのマクシムを一瞥し、何事もなかったように持ち場へ戻っていった。
「……っは」
マクシムはゆっくりと起き上がった。雪を払う手が震えている。
「……くそ……」
誰に向けた言葉でもない。それでも、吐き出さずにはいられなかった。彼はそのまま来た道を引き返した。背中を丸め、雪を踏みしめながら一人で。その様子を城内の影から見ている男がいた。
ダミアンだ。最初はただの観察だった。ブレスト城の内部に潜み、海軍の動向を探ることが任務だったが、いつの間にか彼の視線は城門に向かうようになっていた。今日もだ。マクシムが現れ、止められ、言い合いになり、叩き出される。
——またか。
そう思うはずなのに目を離せなかった。怒鳴り声。抑えきれない感情。帰り道で、誰もいない方向に吐き捨てる毒。一見穏やかで理知的で善良な男が、内側には押し殺された怒りと悔しさが渦巻いている。
「……ああ」
ダミアンは自分の胸の内に生まれた感覚を言語化できなかった。羨望か。興味か。自分にはないものを、彼は持っている。理屈を越えて動こうとする衝動。傷つくと分かっていても前に出る愚直さ。気づけば、ダミアンはマクシムの後を追っていた。足音を消し、距離を保ち、視線だけで追う。
「……ボクは、何をしている」
任務の範囲を明らかに逸脱している。それは分かっていた。それでも、止まれなかった。命令ではない行動。合理性のない選択。胸の奥に、初めて芽生えたものをダミアンは否定できなかった。それが感情なのか。あるいは興味なのか。答えはまだ出ないが、この男から目を離してはいけないという直感だけが告げていた。
キール通りの宿舎に戻った頃、マクシムの外套は雪と泥で重くなっていた扉をくぐり、廊下に足を踏み入れた瞬間、低い声に呼び止められる。
「マクシム?」
マクシムが顔を上げると、廊下の突き当たりからマルセロがこちらを見ていた。
「……ああ」
マクシムは私室に戻ろうと動き出したが、もう遅かった。
「医務室に来い」
「大丈夫。少し転んだだけ——」
「転んだにしては、歩き方が不自然だ」
マルセロは淡々と言い切り、マクシムの腕を取った。力は強くないが、逃がす気もない。
「ちょっと……」
「診せて。殴られたところ」
マルセロの一言でマクシムは観念した。医務室は静かだった。暖炉の火が小さく鳴り、消毒用のアルコールの匂いが鼻を刺す。マクシムは椅子に座らされ、外套を脱がされた。マルセロは無駄な言葉を挟まず、手早く状態を確認していく。
「……ここ」
マルセロの指に軽く押され、マクシムがわずかに息を詰める。
「痛むか」
「……ええ」
マルセロは濡れた布で腫れた箇所を丁寧に拭った。動きは迅速だが、乱暴さは一切ない。必要以上に触れないが、逃がさない。薬を塗る指先が冷たく、正確だった。
「今日は、酷い目にあったな」
マルセロの独り言のような声に、マクシムは視線を伏せたまま答える。
「……いつも通りだよ」
「いつも通り、殴られて帰ってくるのが?」
マルセロの言葉に、マクシムは小さく息を吐いた。
「上は、まだ理解してくれないんだ」
「だろうね」
包帯を巻きながらマルセロは続ける。
「汚職士官の件で、ブレストもパリも手一杯。責任の所在を押し付け合っている間に、現場の声は消える」
マクシムはわずかに目を見開く。
「……司令部内では、噂も出ているらしい」
「噂?」
「海軍が……サン・マロから、撤退するんじゃないかって」
マルセロの手が一瞬だけ止まったが、すぐに作業を再開する。
「……あり得る話だな」
「だよね」
マクシムの声には怒りよりも疲労が滲んでいた。
「動かない理由を探すのが、彼らの得意分野」
包帯の端を留めながらマルセロは淡々と告げる。
「それでも、君は行くんだろう」
マクシムは少しだけ口元を歪めた。
「行くよ」
「だと思った」
マルセロはマクシムから目を逸らし、薬箱を閉じる。
「治療は終わり。今日は無理するな」
「……努力しよう」
マクシムの返答に、マルセロは何も言わなかった。分かっている。努力する気など最初からないことを。医務室を出るマクシムの背中を見送りながら、マルセロは小さく息を吐いた。同じものに苛立っているが、立っている場所が違う。医務室に残ったのは薬草の匂いとまだ温度の残る椅子だけ。扉が閉じる音がやけに遠く感じられる。マルセロはしばらくその場から動けなかった。治療台の上に残った包帯を片付ける気にもなれず、机に向かって腰を下ろす。逃げていたのだ、と自覚する。彼は机の引き出しを開けた。奥に仕舞い込んでいた手帳を取り出し、革の表紙をめくる。
そこに挟まれていた、一通の封筒。あの日、リー・ウェンがふらりと医務室に現れ、「あ、頼まれてたやつですよ」と何でもない風に置いていった手紙。今まで開けられなかった。開けてしまえば何かが決定的になる気がして。だが今日、マクシムを治療し、何も言えずに見送った以上、もう後戻りはできない。
マルセロは封筒を破った。中から落ちたのは二つ。一片の羊皮紙。そして、もう一枚の折り畳まれた羊皮紙。先に目に入ったのは紙切れの方だった。そこには走り書きの線で描かれたイヤリングのスケッチ。マクシムがいつも左耳につけているもの。煤けた金属。不揃いな縁。見間違えようのない形。——自分が、描いたものだ。心臓がどくりと音を立てる。喉がひどく乾いた。マルセロは震える指でもう一枚の羊皮紙を広げる。
マルセロ・ロペス殿
久しぶりに手紙をくれて、この過去の亡霊のような私を覚えていてくれたことに、懐かしさと同時に喜ばしさを感じている。
さて例の件だが、恐らく君が見たイヤリングは、ゼフィランサス本人が着けていた片割れだろう。なぜなら、もう片方はすでに別の人物が身につけていることを、私は突き止めたのだから。それならば、君の部隊長が身につけているイヤリングが煤けている以上、エル・イエロ島から持ち出されたものと見て間違いない。
なぜ君の部隊長がそれを持っているのか、それは私にも分からない。だが、忠告しておこう。これ以上、深入りしない方がいい。君の命が危ない。
君の部隊長が何かを企んでいるとしても、無理に介入しない方が君の立場、そして君自身のためだ。それに、君は王党派なのだろう。その思想を私は否定しない。ただ君が、危険な目に巻き込まれるのが心配なだけだ。
また会おう。今度は直接、酒でも交わしながら。
私はサン・マロを拠点にしている。会いたくなったら、いつでも来い。
ロペス家、君の両親にもよろしく伝えておくれ。
——アラン・クロード
読み終えた瞬間、マルセロは紙を握りしめた。
ゼフィランサス。エル・イエロ島。サン・マロ。そして、マクシムが身につけている左耳のイヤリング。忠告。心配。王党派という言葉が「踏み込めば、もう戻れない」と告げている。
それでも今日、あの傷を見てしまった。拳を握りしめ、正しいと信じて前に進もうとする、同期の姿を。マルセロは目を閉じた。逃げる理由はもうない。踏み込む覚悟だけが残っていた。マルセロは握りしめた手紙をゆっくりと机の上に置く。
「……僕は……あの男を、ただ止めたいだけだ」
声がひどく掠れていた。自分でも驚くほど感情が滲んでいる。言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ形を持つ。椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
「正義だとか、使命だとか……そんなのは、どうでもいい。思想なんて、後からいくらでも付いてくる。でも……あいつは、このまま行けば、必ず壊れる」
予感ではなく確信だった。今日、治療台の上で見た傷。拳を握りしめながら、何度も扉を叩き続ける背中。
「現王党だとか、旧ブルボン派だとか……正直、どうでもいい。こんな国に従事している方が……馬鹿馬鹿しい」
マルセロはゆっくりと立ち上がり、手帳を閉じた。もう答えは出ている。彼は医師であり士官であり、同期だ。マルセロは誰に言うでもなく呟いた。
「止めるよ、壊れる前に。たとえ、間違いだと言われても」
マルセロは手紙を折り畳み、慎重に机の引き出しへしまった。鍵をかけることはしなかった。医務室は彼にとって、寝室よりも長く過ごす場所であり、思考を整理するための拠点だった。重要な書類も手帳も、判断を迫られるものほどここに集めてきた。
——それが、今回ばかりは仇となる。
軍服の裾を翻し、マルセロは医務室を後にした。廊下に足音が消え、扉が閉じられる。しばらくして、医務室の窓が音もなく押し開けられた。冷たい空気が流れ込み、床に薄く雪の粉が落ちる瞬間、その痕跡すら踏み荒らさぬように一つの影が滑り込んだ。
ダミアンだった。裸足。足音はない。窓枠に指をかけ、身体を引き入れ、即座に窓を閉める。彼は屈み込み、床に落ちた雪を指でなぞり、布で拭い取り、完全に消した。ここに誰かが入った痕跡はもう存在しない。ダミアンは立ち上がり、机へ向かうと引き出しを開け、手帳を取り出す。ページを繰る速度は早いが、読み飛ばしてはいない。必要な情報だけを頭の中へ刻み込む。そして、手紙。先ほどマルセロが読んでいたものだ。ダミアンは目を走らせる。ゼフィランサス。イヤリングの片割れ。それを身につける、マクシミリアン・ブーケ。アラン・クロード。一つ一つ、名前と概念が結びついていく。
ゼフィランサスは彼にとって単純な存在だった。兄たちが憎んでいる男。それ以上でも、それ以下でもない。過去も、思想も、因縁も、ダミアンには関係がない。マクシムとゼフィランサスの関係も正直よく分からないが、先ほどのマルセロの独り言。
——僕は……あの男を、ただ止めたいだけだ。
ダミアンの胸の奥で何かが弾けた。
「……どういう意味?」
ダミアンは手紙と手帳を引き出しへ戻した。すべて元あった位置に。最後に医務室を一瞥する。ここは、もう安全な場所ではない。窓を再び開け、冷気の中へ溶けるように消えながらダミアンは初めて自覚した。自分はもう命令では動いていない。兄たちのためでもない。ダラス家のためでもない。
——知りたかった。
突如として、自分の胸の奥で溢れたもの。
ダミアン自身にもまだ分からない。
一つ確かなのは、彼はもう個人的な感情で動く人間になってしまったということだけ。




