第六章④ 海賊たち
雪が降るサン・マロは、昼でもどこか薄暗かった。海から吹き上げる風が雪を横殴りにし、港町特有の湿った冷気が、外套の隙間から容赦なく入り込んでくる。ニールとコリンは鍛冶屋の軒先で今日の報酬を受け取った。硬貨の重みは軽いが、生活をつないでくれるだけの量だ。
「……助かります」
コリンが頭を下げると、鍛冶屋の親方は片手をひらひらと振った。
「礼はいらねえよ。働いた分だ」
そう言って背を向けかけた親方が、ふと思い出したように足を止める。
「そうだ。お前さん」
コリンが呼び止められて振り返ると、親方は奥の作業場を顎で示した。
「あの錬金術の道具な。引き取ってもらえねえか」
コリンは一瞬、言葉を失った。
「あ……ぼくは、別に構わないですけど……いいんですか?」
「やるよ」
親方はあっさり言った。
「全部は無理でもいい。使えそうなやつだけ持ってけ。ウチに置いてても埃被るだけだしな。錬金術に理解のあるやつが持ってた方が、あの道具も喜ぶだろ」
少し照れくさそうに鼻を鳴らす親方を前に、コリンは深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
結果的に、コリンが選んだのは最低限の道具だけだった。入江でも船の上でも使えそうなもの。必要なものと手放せないものだけ。鍛冶屋を出た二人は、市場裏の通りへと足を向ける。雪は細かく、絶え間なく降り続いていた途中、明るい音色に呼び止められ、二人は同時に足を止めた。
「あの」
二人が振り向くと、そこにいたのは若者だった。かつてフランソワ海賊団に属していたニコラ。今は港の荷運びを生業にしているらしい。顔は汚れていたが、目だけは以前と変わらず海賊にしては真っ直ぐだ。三人はしばし言葉を失ったまま互いの顔を見たが、やがてニコラの方から口を開く。
「お久しぶりですね……船長は、無事ですか?」
ニールは一瞬だけ考えてから正直に答えた。
「最近は少し萎れてるけど……僕らと一緒に、しぶとく生きてるよ」
ニコラはふっと白い息を吐いて朗らかに笑った。
「そうですか」
ニールはニコラに続けて言った。
「お願い。僕らが入江にいること、誰にも言わないでほしい。昔の仲間に話すのは構わない。でも……あまり広めないで」
ニコラは即座に首を振った。
「言われなくたって分かっています。こんなどうしようもない人間を、船団の仲間にしてくれたのが誰か忘れるわけないです。フランソワ船長も、ルキフェルさんたちも。何かあったら言ってください、力になります」
それだけ言って、ニコラは背を向けたが、歩き出してから再度立ち止まり、振り返った。
「ああ、そうだ。港で荷運びしてるとたまに東洋人が来るんです」
ニールとコリンが好奇な眼差しでニコラを見つめる。ニコラはすっかり勢いづいて続けた。
「やけに情報に詳しい商人で、裏にも通じてます。グレー寄り……いや、正直言って真っ黒なニンゲンだと思いますけど、必要なら紹介しますよ。役に立つかもしれません」
それだけ告げるとニコラは今度こそ歩き出した。去り際、振り返りもせずに彼は言う。
「船を去ったみんなも……しぶとく生きてます」
感謝を必要としていない背中が雪の中に溶けていく。ニールとコリンはしばらくその場に立ち尽くしていたが、二人は同時に呟いた。
「……ありがとう」
返事はないが、その言葉はきっと届いていた。二人は再び歩き出す。雪に覆われた石畳を踏みしめ、入江へ。自分たちの居場所へと帰っていった。
サン・マロの入江。海は凍りついていた。ドミニクたちと接触してから、すでに何日もが過ぎている。
正確な日付はもう数えていなかった。数えたところで意味がない、そんな感覚だけが残っていた。
マテオはあれ以来、心を閉ざしていた。口もほとんど開かない。部屋から出てくることも滅多になくなった。それでも料理人としての役割だけは手放せないらしい。空が暗くなる頃になると静かに部屋を出てきて、自分の分を除いた夕食だけを作り、机に並べるだけ並べてはまた部屋へ戻っていく。
ルキフェルはせめてものつもりでパンを一切れ皿に乗せ、マテオの部屋の前に置く。次にそこを通る頃には皿ごと消えていた。食べたのか持ち込んだのか、確かめる気にはなれなかった。寒さのせいか、皆の体力は目に見えて落ちている。それに伴って言葉も減っていく。交わされる会話は必要最低限。それ以上は誰も踏み込まなかった。
ルキフェルは寒さに耐えかね、自室で布団にくるまったまま本を読んでいることが多い。眠るでもなく、集中するでもなく、ただ文字を追っているだけの時間。ジャスパーは意味もなくロープを手に取っては解き、結び、また解く。動いていないと何かに追いつかれてしまいそうなのだろう。
船長室には波の音だけがあった。軋む船体のきしみと、遠くで氷が軋むような、鈍い音。それらが混ざり合って、時間の感覚を曖昧にしている。
フランソワは机に向かったまま、自分の掌を見つめていた。
かつて剣を握り、舵を取り、幾度も嵐を越えてきた手だが、今はその掌に力はなかった。握ろうとしても指はすぐに緩む。自分に何ができる。考えは何度もそこに戻る。どうすればルキフェルたちを守れるのか。どうすれば、この船を生き延びさせられるのか。
敵は明確だったはずだ。海軍。法と秩序を掲げ、こちらを「討つべき存在」と定めた国家。だが、今はそれだけではない。ダラス家。名前を聞いただけで胸の奥がざらつく。正面から刃を向けてくるわけでもない。ただ過去の亡霊を連れて現れ、因果を掘り起こし、こちらが動く前から退路を削ってくる。
サン・マロの民間人たちの顔も浮かぶ。敵ではないが味方とも言えない。噂が広まり、恐怖が伝播すれば、彼らは容易くこちらを切り捨てるだろう。それが国というものだ。
フランソワは深く息を吐いた。冬が来てから自分の思考は鈍っている。寒さのせいだけではない。選択肢が減っているのだ。動けば追われる。留まれば包囲される。戦えば仲間が死ぬ。逃げれば次はない。かつてはもっと単純だった。力でねじ伏せ、判断を下し、責任を引き受ければよかった。だが、今は違う。背負っているものが増えすぎた。ルキフェル。ジャスパー。マテオ。コリン。ニール。名前を思い浮かべるたびに、胸が重くなる。守りたいという気持ちは確かにあるが、同時にその気持ちが判断を鈍らせていることも否定できなかった。自分はもう十分じゃないのか。そんな考えがふと頭をよぎる。すぐに振り払おうとしたが消えない。
大海賊フランソワ。
その名に今の自分は相応しいのか。机の上に落ちる影がやけに薄く見える。フランソワは視線を落としたまま動かなかった。弱音を吐く相手はいない。弱さを見せるわけにもいかない。船長である以上、それだけは許されない。だから彼はただ沈む。誰にも見せない場所で、ひとりで。今のフランソワにあるのは剣ではなく、策でもなく、先の見えない冬の中で、立ち止まることしかできない男の苦悩だけだった。その時、フランソワの脳裏にふと一つの言葉が浮かんだ。
——因果応報。
ずっと昔に聞いた言葉だった。
まだ彼がゼフィランサス海賊団の船に乗っていた頃。
雑用係として使い潰されていた、十八の若造だった時代。甲板の隅にいつも一人で立っている男がいた。異様なほど静かで、波の音よりも気配を殺しているような存在。
リュウ・ヨシマサ。船員たちの間では「得体の知れない東洋人」として距離を置かれていた。物知りではあるが、話し方は回りくどく哲学的で意味が掴みにくい。理解しようとする者は少なく、理解できる者は殆どいなかったが、なぜかフランソワには分かった。
最初のきっかけは、きっと些細なことだった。甲板の掃除をしながら、フランソワがふとした疑問を投げ、それにリュウが答えた。気づけば、二人で言葉を交わすのが当たり前になっていく。その日も、フランソワは甲板長に叱られていた。押し付けられた仕事を適当に済ませ、いくつかを放り出したのが見咎められたのだ。
「……ちっ」
フランソワが不満を抱えたまま甲板に戻ると、リュウがそこにいた。風を背に珍しくどこか楽しそうな表情を浮かべて。
「フランソワ」
フランソワは声をかけられ、顔を上げる。
「……なんだよ」
リュウはほんの少し意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「因果応報って、知ってるか?」
「……いんがおうほー?」
フランソワは眉を寄せた。
「なんだそれ。呪文か?」
リュウは肩を揺らして低く笑った。
「まあ、呪文みたいなもんだな」
そこから始まったのは、いつもの長い話だった。言葉の起源。思想の流れ。因と果の関係。人が何を為し、何を積み重ね、何を受け取るのか。回りくどくて遠回しで、相変わらず難しい。フランソワは途中で話を遮った。
「つまりさ、自業自得ってことだろ?」
一瞬、甲板に潮風が吹き荒ぶ。それからリュウはくすりと笑った。
「……自業自得、か」
彼は小さく呟き、今度は少しだけ声の調子を変えた。
「似ているが、同じじゃない」
フランソワは腕を組む。
「どう違うんだよ」
「自業自得は、自分がやったことの結果だ」
リュウは甲板の木目を見つめながら続ける。
「因果応報はな……自分が放ったものが巡って、形を変えて返ってくる。時間も、相手も、順番も選べない。だから、気づいた時にはもう逃げられないこともある」
フランソワは少しだけ黙った。
「……めんどくせえな」
リュウは今度ははっきりと笑った。
「だろう?」
そして、リュウはふっと真顔になる。彼の視線がまっすぐフランソワに向けられた。
「だからな、フランソワ。与えられた役目は放り出すな。嫌でも重くても、それを背負ったなら最後まで向き合え」
フランソワはしばらくリュウを見つめてから鼻で笑った。
「なんだよ。それが言いたかっただけか。最初からそう言えっての」
リュウは肩をすくめた。
「最初から言ったら聞かないだろ?」
「……うるせえ」
二人は甲板の上で笑った。潮風が吹き抜け、船は静かに波を切って進んでいく。
あの時は、まだこの言葉がここまで重くなるなんて思いもしなかった。
フランソワは机の前で目を閉じる。因果応報。逃げたわけじゃない。背負ってきた。選んできた。
それでも——。
「……ああ。今、返ってきたってわけか」
フ ランソワの声は誰にも届かず、冬の船長室に沈んでいった。




