第六章③ 海軍側とダラス家
ヤンが街を駆け抜けていた時、ブレストの噴水広場では異様な騒ぎが起きていた。人々の悲鳴。怒号。押し合い、へし合い、逃げ惑う足音。
「下がれ! 下がってくれ!」
街の警備兵が叫びながら人垣を押し分ける。彼の背後には、騒ぎを聞きつけて駆けつけた海軍士官の姿があった。
「何事だ!」
士官はそう叫びながら、群衆の中心へと歩みを進める。民衆の顔は蒼白で、誰もが噴水の方を見ていた。やがて、二人の視界が開けるた瞬間、警備兵は悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。士官は声を失った。噴水の中央。石造りの彫像に、男が縛り付けられていた。全身は血に塗れ、何度も殴打された痕が残る。服は切り裂かれ、擦り切れ、色も形も失われているが、その布地の質とわずかに残った紺色から、それが平時用の軍服であることが辛うじて分かった。
「……まさか……」
士官は一歩、後ずさる。男は生きていたが、肉体は極限まで痛めつけられ、精神は拷問と幻覚剤の乱用によって、ほとんど擦り切れている。視線は虚ろで、焦点が合わない。意識はここにありながら、どこにもなかった。
「は、早く……!」
士官は震える声で叫んだ。
「早く下ろせ! それと……応援を呼べ!!」
命令が飛び、救助隊が動き出した。縄が切られ、男の身体が慎重に噴水から降ろされる。石の冷たさから解放された瞬間、男の身体がわずかに痙攣した。士官は駆け寄り、呼吸を確かめる。
——生きている。
「おい……聞こえるか。名前は言えるか?!」
男の瞼が微かに動いたが、彼の視界に映っているのは、ここではなかった。拷問の最中に刻み込まれた光景。二人の男——ピエールとドミニクの姿が歪み、揺れ、別の像に重なっていく。海賊。黒い影。血と命令。幻覚という名の催眠が、現実を塗り替える。男の唇がかすかに動いた。
「……サン・マロに……あいつらが……いた……」
士官が息を呑む。男は最後の力を振り絞るように続けた。
「……大海賊……フランソワ………やつが……サン・マロに……いる……」
その言葉を残し、男——イヴォン・ローランは深く意識の底へと沈んだ。噴水広場はまだ騒然としている。やがて、血に濡れたイヴォンが担架に載せられ、怒号と悲鳴が入り混じる中で群衆は押し返され、海軍の警備線が張られていく。その光景を、少し離れた建物の影から眺めている者たちがいた。ドミニクは噴水の縁に集まる人影を興味深そうに眺めながら小さく笑う。
「上手くいったね。ほら、大騒ぎだ」
ドミニクの声には達成感すら滲んでいる。彼の背後に控えていたピエールとダミアンが、何も言わずに聞いていた。ドミニクは振り返り、二人に軽く手を広げる。
「じゃあ、あとは二人に任せるよ。僕はまた地方に行くから」
まるで散歩にでも出かけるような調子だった。ドミニクはひらひらと手を振り、そのまま人混みに紛れるように歩き出す。ピエールは去っていく彼の背中を一瞥しただけで、すぐにダミアンへ視線を移した。
「お前は引き続き海軍の動きを探れ。前に教えた司令部の抜け穴……ちゃんと頭に入ってるよな?」
ダミアンは一言も発さず、わずかに顎を引いた。それが返事だった。
「オレはサン・マロにいる」
ピエールは噴水の方へ目をやりながら続ける。
「海軍の出撃日が分かり次第、すぐに来い。時間を無駄にするな」
そう言い残し、ピエールもまた踵を返した。
残されたのは、ダミアン一人。彼は息を整え、頭の中でブレスト城の内部構造をなぞる。通路、死角、警備の薄い時間帯。すでに何度も通った道のように、迷いはなかった。担架を運ぶ海軍士官たちが動き出す。ダミアンは影のように立ち去った。足音はない。視線も残さない。ただ、命令を遂行するために。
ダミアンがブレスト城に近寄ると、司令部の裏手は騒がしかった。噴水広場での出来事はすでに城内にも伝わっている。負傷した士官。拷問痕。幻覚剤の疑い報告が上がるたびに、通路を行き交う士官たちの声量が増していく。ダミアンはその流れの中にいた。いや、流れの外縁をなぞるように歩いていた。担架が運び込まれる裏門。そこから少し遅れて入る補助通路。警備兵は慌ただしく、誰一人として顔を覚えていない。
「……今は、全員が外を見ている」
混乱とは視線を散らす。彼はそれを知っていた。城内に入ると空気が変わる。血の匂い。汗。焦燥。誰もが「何が起きたのか」を語りたがり、「誰の責任か」を探している。ダミアンは壁際に身を寄せ、階段を下りた。司令部の下層。書類庫と補助執務室が並ぶ区画。ここは今は誰も見ていない。
「第八部隊……いや、違う」
彼は頭の中で名前を反芻する。マクシミリアン・ブーケ。まだ疑いは正式な形ではないが、名前はすでに飛び始めている。ダミアンは足を止めない。書類庫の扉。鍵は掛かっているが、抜け穴はその横だ。石壁の裏に通された、古い通風路。彼は迷わず、そこに身を滑り込ませた。暗いが、彼の目は慣れている。通風路の先は参謀部の補助室。今は誰もいないはずだったが、士官が一人、机に向かって書類を広げている。顔は険しい。
「……おかしいな。汚職関係の報告が山ほどあるのに……このタイミングで失踪?」
士官の苛立ちが声に滲んでいた。ダミアンは梁の影に留まったまま動かない。
「しかも、最後に会っていたのが……」
士官は名前を口にしかけて、止めた。
——言えない。
ダミアンはその“躊躇”を見逃さなかった。疑いはあるが、確証がない。だからこそ、皆が苛立っている。
「いい……この段階が、一番脆い」
彼はゆっくりと息を整えた。この城は今、答えを欲しがっている。人は答えが欲しい時、一番都合のいい場所に、それを置く。ダミアンは通風路を抜ける。まだ何も決まっていないが、もう誰も「元の位置」には戻れない。彼の役目は、ここまでだ。
「あとは……上が決める」
遠くで鐘の音が鳴った。司令部全体に、次の会議を告げる合図。ダミアンはその音を背に、影の中へ溶けていった。
ブレスト司令部、参謀会議室。夜だった。外は曇天の名残を引きずり、窓越しの港は闇に沈んでいる。室内には地図、報告書、未整理の書類束。燭台の灯りが揺れ、影が壁を這っていた。重い空気の中、最初に口を開いたのは医務局長だった。
「イヴォン・ローラン士官は、ただちに医務局へ移送しました。全身に殴打痕。肋骨の数本に損傷。失血も深刻です。それに、幻覚剤の反応が見られました。種類は不明ですが、かなり強い」
参謀の一人が眉をひそめる。
「意識は?」
「まだ戻っていません。戻ったとしても、しばらくは錯乱状態が続く可能性があります」
参謀長が息を吐いた。
「……つまり、今夜のうちに我々が判断しなければならない、ということだな」
別の士官が机上の書類を叩く。
「噴水広場での騒ぎは、すでに街中に広がっています。『血まみれの海軍士官』『拷問』『大海賊の名』……下手をすれば、民衆の不安を煽りかねません」
「だからこそ——」
参謀長はここで言葉を切り、続けた。
「この件は、内部で処理する。少なくとも、王都が動く前に整理が必要だ」
その場にいた全員の視線が自然と一点に集まる。パリ総司令部。ここで、若い参謀が発言した。
「報告は避けられません。ローラン士官は第八部隊の人間です。その失踪、拷問、発見……すべてが異常です」
参謀長はゆっくりと頷いた。
「だが、報告の仕方を誤れば、こちらの統制不備を疑われる」
誰かがぽつりと呟く。
「……海軍内部の汚職調査の最中、だというのに」
その一言で空気がさらに重くなった。医務局長が控えめに付け加える。
「ローラン士官が錯乱状態のまま口にした言葉については……医師としては、慎重に扱うべきだと申し上げておきます」
「サン・マロに大海賊がいたという発言だな」
参謀長が確認する。
「はい。幻覚と現実の区別が曖昧です。彼自身、襲撃者を正確に認識していない可能性が高いです」
参謀長がゆっくりと結論を置く。
「……報告書にはこう記す。第八部隊所属士官イヴォン・ローラン、任務外行動中に何者かに拉致・拷問を受け、その過程で大海賊フランソワがサン・マロに潜伏している可能性を示唆する発言を確認。断定は避けるが、無視もできない」
誰かが喉を鳴らした。参謀長は視線を巡らせる。
「今夜のうちに、パリ総司令部宛に一連の騒ぎを急ぎ報告する。詳細な判断は、向こうに委ねる」
会議室の外、遠くで夜警の足音が響く。参謀長は最後に低く告げた。
「イヴォン・ローラン士官は集中治療だ。目覚めるまでは余計な接触を禁ずる。この件は長引くぞ」
会議はここで解散したが、誰も知らない。この慎重な判断がすでに次の歯車を回し始めていることを。
王都に冬の気配が滲み始めていた。ダラス家の執務室は相変わらず静かだ。窓辺には分厚い帳簿、王都各地から届く報告書、貴族たちの嘆願文。そして、その隅にブレスト司令部経由、パリ総司令部からの報告が一通。シルヴェストルは椅子に腰掛けたまま、その封を切った。読み進めるにつれ、表情は変わらないが、指先だけがわずかに止まる。イヴォン・ローラン。拉致。拷問。幻覚剤の使用。錯乱状態での証言。サン・マロ。大海賊フランソワ。
「……なるほど」
報告書の行間から、シルヴェストルは正確に状況を読み取っていた。証言の信憑性が曖昧であること。だが、その曖昧さこそが政治的には最も扱いやすい。彼は報告書を机に伏せ、息を整えた。
「動いたな」
それは誰に向けた言葉でもないが、確信だけがあった。ここまで整った“偶然”は、偶然ではない。
数日後。王宮。高い天井、磨き上げられた床、重苦しい沈黙。国王の執務室に、シルヴェストルは呼び出されていた。王は疲れた声で切り出した。
「ブレストの件、聞いておる。汚職、士官の失踪、噴水広場での騒ぎ……まるで、海軍が自ら瓦解しているようだ」
シルヴェストルは一礼し、慎重に言葉を選ぶ。
「陛下。だからこそ、申し上げねばなりません。大海賊フランソワの脅威はまだ続いております」
王の眉がわずかに動く。
「錯乱した士官の証言に過ぎぬのでは?」
「錯乱していたからこそ、逆に隠す理由がない」
シルヴェストルは淡々と返した。
「恐怖と幻覚の中で出た言葉は、作為よりも本能に近い。そして何より、このタイミングで大海賊の名が再び浮上したこと自体が問題なのです」
王は黙り込んだ。シルヴェストルは続ける。
「海軍内部は汚職調査で疑心暗鬼。このままでは内部粛清に時間を取られ、外敵への備えが疎かになります。今、国として示すべきは明確な敵です」
沈黙の中、やがて王は深く息を吐いた。
「……つまり?」
彼の言葉を待っていたかのように、シルヴェストルは静かに頷く。
「内部で争っている場合ではない、と。大海賊フランソワ討伐を最優先事項に」
王はしばらく考え込んだ後、決断を下した。
「よかろう。フランス海軍に通達せよ。——大海賊フランソワを討て」
その瞬間、国家の歯車が音もなく回り始めた。その後、王都の静かな執務室でシルヴェストル・は一人、窓の外を眺めていた。王命が動いたことを、彼はすでに知っている。
「……予定通りだ」
国家が動く。海軍が動く。海が再び血を呼ぶが、その始点はいつも静かだ。
「さて……」
指先で机を叩きながら、シルヴェストルは次の駒を思い描く。この流れはもう止まらない。
数日後。王命は海軍へと流れ込む。大元帥であるエリオットの元に届き、さらにパリにある参謀本部へ。だが、参謀本部は混乱の只中にあった。ブレストで発覚した汚職士官たちの尋問。処分案。連座の可能性。各地から届く、相互に矛盾する報告。会議室には未整理の書類が山のように積まれ、机の上は地図と赤線で埋め尽くされている。
「待て、これとこれは別件だろう!」
「いや、同じ士官が関与している!」
「ブレストの判断はまだ出ていない!」
怒号とため息が交錯する中、部屋に王命が届いた。一通の文書。参謀官の一人が封を切った瞬間、空気が変わる。
「大海賊フランソワ討伐」
この一行がすべてを黙らせた。まるで散らかった部屋の中央に、重い荷物をぽんと置かれたかのよう。誰かが呟く。
「……このタイミングで?」
別の誰かが乾いた笑いを漏らす。
「内部がこんな状態で、外に打って出ろってか」
だが、王命は王命だ。拒否権はない。参謀たちは顔を見合わせ、ゆっくりと理解していく。逃げ場はもうない。
雪が降っていた。ブレストの冬は音が少ない。風に削られた白が街路を覆い、足音さえも吸い込んでいく。マクシムは外套の襟を立て、医務局へと続く坂道を登っていた。吐く息が白くほどけるたび、胸の奥に溜まった焦燥だけが妙にはっきりと形を持つ。
——間に合うだろうか。いや、間に合わせなければならない。
医務局の扉を押し開けると消毒薬と薬草の匂いが鼻を刺した。廊下は静まり返っている。夜の当直兵が小さく会釈し、マクシムは頷き返す。イヴォンの病室は一番奥だった。扉をノックし、そっと開ける。薄暗い室内、ランプの淡い光の下で寝台に横たわる男の姿があった。包帯。固定された腕。呼吸は浅いが、規則正しい。
「……まだ、目覚めませんか」
マクシムは小さく声をかけた。返事がないのは分かっていたが、それでも言葉にせずにはいられなかった。
「あなたが発見された時の話、聞きました。……苦しかったでしょう。想像もできません。あんな場所に……」
マクシムはしばらくイヴォンの顔を見つめた。
「僕は今……ブレストの上層部を説得しては、追い返される日々を送っています。サン・マロに入江があるなら春が来て氷が溶けた時、フランソワたちは必ず海に出る。今が一番の好機だと何度も言いました。今、捕えなければならないと……でも、聞き入れてもらえません」
マクシムは視線を落とす。ランプの火がわずかに揺れた。
「それどころか……彼らは、あの海賊たちを厄介者ではなく災厄だと思っているようです。触れれば祟る。関われば火の粉が飛ぶ。だから、動かない。……馬鹿げています」
しばらく沈黙が落ちる。イヴォンの胸が微かに上下するのを確認しながらマクシムは続けた。
「でも、諦めません。あなたが託したものを、無駄にはしません。何度追い出されようと、何度嫌な顔をされようと構わない。……僕は正しい。それを、証明し続けます。だから……できれば、あなたも早く目覚めてください」
マクシムの声がほんの少し柔らいだ。
「また話がしたいんです。任務としてじゃなくて……個人的に」
マクシムは静かに一礼し、踵を返した。病室を出ると扉は音もなく閉まる。廊下の冷たい空気が思考を現実に引き戻した。医務局の外へ出ると雪はまだ降り続いている。街灯の下で白は絶え間なく積もり、消えていった。マクシムは外套を整え、歩き出す。
次の目的地はブレスト城。誰が何を言おうと彼は行く。——正しいと思う道を歩き続けるために。




