第六章② マクシム隊
一方、ブレストは汚職士官たちの対応に追われている中で、さらに深刻な事態に陥っていた。
イヴォン・ローランが失踪。最後に彼が立ち寄った場所は第七部隊の宿舎。それもマクシミリアン・ブーケ隊の執務室だったという証言があっさりと記録に残された。事態をさらに悪化させたのは、イヴォンが託していった“あの書類”だった。サン・マロ駐在士官の裏取引、賄賂の流れ、未解決の符号《M》。本来なら功績として扱われるべき調査資料。だが提出者は失踪し、手元に残ったのはマクシムの机だけ。
「これは、どういうことだ?」
参謀部の会議室。書類を前にした士官の一人が低く問いかけた。
「イヴォン・ローランは失踪。そして、彼が最後に接触したのは君だ、ブーケ」
空気がじわりと冷える。マクシムは思わず椅子から身を乗り出した。
「待ってください! ローラン殿は調査の途中でした。サン・マロの汚職士官を洗い出して——」
「その途中で姿を消した。しかもその調査資料が、なぜ君の隊の宿舎にある?」
言外の意味は明白だった。消されたのか。あるいは消したのか。マクシムは歯を食いしばった。
「違います。あの人は……ただ、僕に託しただけだ」
「なぜ君に?」
「……地方を見ろ、と助言したのは僕です。それを実行したのがローラン殿です」
一瞬、沈黙。だが次に返ってきたのは理解ではなかった。
「つまり、君が、彼を動かしたとも取れるな」
会議室の空気が完全に疑念へ傾く。内部粛清。汚職士官の洗い出し。責任の所在。誰もが神経を尖らせ、次に切るべき駒を探している。その視線がマクシミリアン隊に集まり始めていることを、マクシムははっきりと感じていた。
「……今、そんなことをしている場合じゃないでしょう! 大海賊フランソワです。まだ終わってない。サン・マロ周辺に潜んでいる可能性だって——」
「だからこそ、だ。今は内部が混乱している。不用意な出撃は、さらなる問題を生む」
「でも!」
「ブーケ隊長。君は少し焦りすぎだ」
上官の言葉が刃のようにマクシムの胸に刺さる。焦っている。その通りだったが、それは野心ではない。取り逃がせば、また犠牲が出る。その現実をマクシムは誰よりも知っているだけだ。だが、会議室にいる誰一人として彼の焦りの理由を汲み取ろうとはしなかった。結果だけがそこに残る。
・調査官イヴォン・ローラン、失踪
・最後に接触したのは、マクシミリアン・ブーケ
・証拠書類は、マクシミリアン・ブーケ隊の宿舎から押収
あまりにも都合のいい状況だった。会議が終わる頃には、マクシミリアン隊の名には、はっきりと疑惑が貼り付けられていた。宿舎に戻る海沿いの道でマクシムは拳を握りしめる。
「……くそ」
海賊を討つべき時に、敵は内側で牙を剥いている。その事実に彼はまだ気づいていなかった。マクシムが宿舎に戻った頃には、太陽はすでに頭上にあった。ブレストの空は相変わらず重たい雲に覆われているが、陽の位置だけは誤魔化せない。
「……昼か」
マクシムは玄関扉を開けると、ふわりと漂ってきた香りに思わず足が止まる。焼いた油と煮込みの匂い。意識するより早く、身体がその方向へ向かっていた。会議室で浴びせられた疑念も、胸の奥で燻る焦燥も、その香りの前では一瞬だけ輪郭を失う。
マクシムはふらふらと半ば無意識のまま食堂へ足を運んでいた。扉を開けると、すでに数人の隊員が席についている。昼時のざわめき。金属製の食器が触れ合う音。低く交わされる会話。その中心で、調理係のメリッサが鍋の前に立っていた。
「隊長! おかえりなさい!」
メリッサの弾むような声に、マクシムの中で張り詰めていたものがすっと緩む。
「……ただいま」
メリッサはエプロンの端で手を拭きながら、にっと笑う。
「今日は煮込みですよ。パンも焼きたてです!」
卓上には大きな鍋から取り分けられた濃い色の煮込み。根菜と肉がしっかり煮込まれ、湯気の奥に香辛料の香りが混じっている。横には厚切りのパン。外は香ばしく、中はまだ柔らかそうだ。マクシムはそれを見た瞬間、会議室で噛み殺した怒りが音もなく溶けていった。
「……守らなきゃな」
この光景を。この場所を。この何気ない昼の時間を。理由は単純だった。彼らがここにいるからだ。
「隊長、空いてますよ」
マクシムに声をかけてきたのは、ロザリーだ。珍しく、彼女は一人で席に着いている。マクシムは一瞬だけ迷って頷いた。
「ああ。隣、いいですか」
「どうぞ」
ロザリーは答え、皿を少しだけ自分に引き寄せる。マクシムが腰を下ろすと、メリッサがすぐに皿を置いてくれた。
「たくさん食べてくださいね。今日は大変だったでしょ?」
「……ああ」
詳しい事情を話す必要はなかった。それでも、彼女は察している。マクシムはスプーンを入れた。煮込みは柔らかく、熱がじんわりと指先まで伝わってくる。一口。塩気は強すぎず、香辛料も控えめ。身体に染み込むような味だった。
「……うまい」
マクシムがぽつりと溢すと、メリッサが誇らしげに胸を張る。
「でしょう!」
ロザリーは黙って食事を続けているが、その横顔はどこか安堵しているようにも見えた。マクシムはゆっくりとパンをちぎりながら考える。
疑われている。上層部は信用していない。それでも、それでも自分は隊長だ。この席に座る資格はまだ失っていない。スプーンを置き、マクシムは一度だけ深く息を吸った。昼の光は弱くともここにある。その光を守る。疑われようと、利用されようと。この場所にいる全員を。マクシムは黙々と煮込みを口に運び続けていた。視線は皿に落ちたまま、匙の動きも一定。味を確かめているというより、ただ咀嚼して飲み込んでいるだけだ。
——駄目だ。今しかないのに。
脳裏を占めているのは、さきほどまでの会議。参謀部の曖昧な態度。「時期尚早」「内部整理が先だ」という、何度も聞かされた言葉。このままじゃ、またフランソワを逃す。リー・ウェンの情報だって活かせない。その時、マクシムの隣に座るロザリーがふと小さく声を上げた。
「あら」
どうやら全員分の配膳を終えたらしい。調理係のメリッサが、ようやく腰を下ろした気配がする。彼女はロザリーの向かいの席に座ったらしく、ほっと息をついた音が聞こえた。
「ふぅ……やっと食べられる。正直、配膳しながらお腹鳴ってた」
メリッサの声にロザリーがくすりと笑う。
「お疲れさま。今日の煮込み、香りがいいわ」
マクシムは相変わらず黙ったまま、煮込みを一口。横から聞こえてくる、穏やかな昼食の会話がかえって思考を加速させる。
「うーん、やっぱ東の香辛料って塩梅が難しいんだよね。ちょっと強いと主張しすぎるし」
メリッサのぼやきに、ロザリーが首を傾げる。
「そう? 私はちょうどいいと思うけど」
……困ったな。本当に今がチャンスなのに。
マクシムは内心で歯噛みする。フランソワ。サン・マロ。追い詰めきれない焦燥が胸の奥で燻っていた、その時だった。
「ええ。とてもよく馴染んでいますよ」
落ち着いた、聞き覚えのある男の声。
「さすが美食の国ですね。東方の香辛料を、ここまで自然に使える方はそう多くありません」
マクシムの思考がぴたりと止まった。
「……ん?」
メリッサが即座に反応する。
「美食の国? いやいや、私イタリア出身ですから。そこ、ちゃんと線引きしますよ!」
軽快なツッコミだが、彼女の声を聞きながらマクシムはゆっくりと視線を上げた。メリッサの隣。自分の、ちょうど対面の席。そこにいた、涼しげな顔。東方風の衣。そして、食堂という場所にまるで違和感を覚えていないかのような佇まい。リー・ウェンだった。
「うわあああああああああああっ!?」
マクシムの悲鳴が食堂中に響き渡った。匙が落ち、椅子が派手な音を立てる。周囲の隊員たちが一斉に振り向き、空気が一瞬で凍りついた。リーはきょとんと目を瞬かせる。
「失礼。そんなに驚かれるとは思いませんでした」
ロザリーが目を丸くし、メリッサは慌てて立ち上がる。
「え、え? 隊長!? どうしたんですか!?」
マクシムは胸を押さえたまま、震える指で対面を指した。
「な、ななな……なんで……ここに……!」
リーはにこりともせず、ただ静かに言った。まるで当然のように、そこに座ったまま。
「昼食のお邪魔をして、申し訳ありません。お話がありまして。——マクシミリアン・ブーケ隊長」
食堂の空気がゆっくりと別の色に変わっていった。
煮込みの余韻がまだ胃の奥に残っている。できればもう少し、あの温かさに浸っていたかったが、無理だ。マクシムは執務机の前に座り、書類ではなく自分の胃を睨んでいた。彼の視線の先で、リーは実に手慣れた動作で、小さな香水瓶を机の上に並べていく。カチ、コトン。ガラスの底が木目に触れる音が、やけに大きく響く。
「……最近、ここに来ること多くないですか?」
マクシムが抑えた声で言うと、リーは微笑みも崩さず、香水瓶の配置を微調整した。
「ブレストは、商人仲間と合流する中間地点として非常に優秀ですから」
さらりと言ってのける。まるで、ここが“通過点”でしかないかのように。マクシムはこめかみを押さえた。
「だからと言って……あまり頻繁に来られると困ります。僕は……まあ、僕はいいとしても、他の者たちが……しばらくは、控えてください」
一瞬、空気が止まったが、間延びした声が割り込む
「えー? わたしたちは困りませんけど」
そう言って肩をすくめたのはアニータだった。
「これ、甘いけど重すぎない?」
「でも時間が経つと変わる香りね」
「えっ、これ好き……」
メリッサ、ロザリー、スザンヌ。三人とも、完全に香水瓶の虜だ。彼女たちの隣では、無理やり連れてこられたペネロペが「任務中に何を嗅がされてるの、あたしは」と言いつつ、ちゃっかり一本手に取っている。部屋の隅では、リラが気配を消すように立ちながらも、視線だけは瓶に吸い寄せられていた。そして、唯一の男子。シャルルはなぜ自分がここにいるのか分からない顔で立ち尽くしながら、鼻先をかすめる香りに眉を動かしていた。
「ね?」
アニータが勝ち誇ったように言う。
「みんな、気に入ってるみたいですし」
マクシムは、ゆっくりと視線を執務室全体に巡らせた。誰も話を聞いていない。正確には、リーの商品しか見ていない。
「……営業という名の包囲網ですね」
マクシムがぼそりと漏らすと、リーは楽しそうに微笑んだ。
「お褒めいただき光栄です、隊長」
彼の笑顔は柔らかく、礼儀正しく、逃げ場がなかった。机の上に並ぶ香水瓶を一瞥し、マクシムは素朴な疑問を口にする。
「でも、なんでまた香水なんです?」
リーは待ってましたと言わんばかりに一本の瓶を手に取った。
「最近、上流貴族の間では東洋の香りが流行っていましてね。重すぎず、残り香が柔らかい。社交の場では特に好まれています」
リーはくるりと瓶を回しながら続ける。
「ですから、わたしも幾つか持ち歩いて売り捌いているんですよ」
「なるほど」
マクシムが曖昧に頷くと、シャルルが口を開いた。
「嗜みとしてはもちろんですが、我々にとって香水は生活必需品みたいなものですから」
シャルルの一言に女子たちが揃って頷く。
「確かに」
「身だしなみ、ですよね」
「社交の場だと特に」
アニータ、メリッサ、スザンヌが口を開く中、リラも控えめながらきっぱりと言った。
「その通りです。香りは教養や育ちを示すものでもありますから」
その貴族出身者の説得力にマクシムは一瞬、言葉を失った。彼の様子を見て、ペネロペが首を傾げる。
「あれ? もしかして……隊長、香水つけてないんですか?」
一瞬、執務室の空気が凍った。
「い、いやいやいやいや!」
マクシムは思わず椅子から身を乗り出した。
「もちろん、ちゃんとつけてますよ!? 最低限は! ええ、最低限は!」
必死な弁明に視線が一斉に集まる。そして、マクシムは一度言葉を切った。
「……でも、それでも、僕は入浴派です!」
妙に力強い宣言だった。一瞬の沈黙。それから、誰かが吹き出しそうになるのを必死で堪える気配。
「隊長の気持ちも、よく分かりますよ」
アニータが穏やかにフォローに入る。
「正直なところ、入浴の方が衛生的ですし。身体を清めるという意味でも理にかなっています」
「そうそう」
ロザリーも頷く。
「香りで誤魔化すより、ちゃんと洗った方が安心よね」
「うん、分かる」
メリッサも同意する。スザンヌが楽しそうに言葉を継いだ。
「でも、嗜好品として楽しむ分には香水も悪くないと思いますけど? 気分転換にもなりますし。戦場じゃなくても、気分は大事ですよね」
次々と重なる肯定に、マクシムは観念したように肩を落とす。
「……否定は、しません」
彼の様子を見て、リーは満足げに微笑んだ。
「ええ。清潔さと嗜みは、両立できますから」
シャルルが並べられた香水瓶を眺めながら思い出したように口を開く。
「それで? 貴族社会はまた東洋ブームの渦中……香水部門だと、どんな香りが流行ってるんだ」
問いかけは軽いが、興味は本物だった。リーはシャルルの視線を受け止め、細い指で香水瓶を一つ、また一つと指し示していく。
「そうですね……最近だと沈香、龍脳、麝香。それから少し軽めのものだと桂花や茶の香りも好まれています」
「お茶の香りもあるのね」
ロザリーが感心したように言うと、リーは頷いた。
「ええ。清潔感と節度を好む方には人気ですよ。自己主張が強すぎない」
そこまで言ってから、リーはわざと間を置いた。香水瓶の列から、ひとつだけをそっと取り上げる。
「ですが、一番人気は……やはり、白檀ですね」
「……白檀?」
「聞いたことはあるけど……香水、なの?」
メリッサとペネロペが首を傾げ、マクシムも思わず眉を寄せる。リーは彼らの反応を楽しむように、ゆっくりと口を開いて指先で瓶の口を軽く叩く。
「白檀、サンダルウッド。東方では、香木として千年以上使われてきました。寺院、儀式、瞑想。心を鎮め、思考を深くするための香りです。派手さはありませんが……長く、残る」
シャルルが顎に手を添えて俯いた。
「体臭消し、とはだいぶ違うね」
「ええ。白檀は隠す香りではありません。その人自身を静かに強調する香りです」
リーの謎めいた言葉に、女子たちが思わず顔を見合わせる。
「どういう意味?」
アニータが聞くと、リーは少しだけ声を落とした。
「白檀は、つける人を選びます。強すぎる人間が纏えば、香りは濁る。空虚な人間が纏えば、何も残らない。ですが、静かな芯を持つ人が纏うと、その人の在り方だけが自然に立ち上がる。東方ではこうも言います。白檀の香りがする人間がいる、と」
「……人間が?」
ペネロペが目を丸くすると、リーは頷いた。
「ええ。香水をつけていなくても、近くにいるとなぜか落ち着く。怒鳴らず、誇示せず、ただそこにいるだけで空気が整う。そういう人のことを呼びます」
リラが唸りながら頷いた。
「精神性の比喩、ね」
「その通りです」
リーが満足げに微笑み、マクシムは無意識に自分の指先を見つめていた。自分は白檀の香りがする人間だろうか。それとも、ただ必死に臭いを洗い流しているだけの人間だろうか。シャルルが納得したように言った。
「なるほど。流行る理由がよく分かったよ」
リーは瓶を元の位置に戻して肩をすくめる。
「流行とは、いつだって不安の裏返しですから。皆、静けさを欲しているのでしょう」
白檀の話に一頻り感心の声が上がったあとだった。ペネロペが首を傾げながら言う。
「じゃあ……そこにも、白檀あるの?」
リーは一瞬だけ目を瞬かせ、穏やかに笑った。
「ええ、もちろんありますよ」
そう言って彼は並べていた香水瓶の中から一本を選び、ペネロペの方へ差し出した。透き通った小瓶の中で液体が静かに揺れる。
「試してみます?」
「え、いいの!?」
ペネロペが目を輝かせる。
「うわあ! 私も試したい!」
すかさずメリッサが身を乗り出した瞬間だった。
「ちょっと待ってください」
マクシムが珍しく即座に止めに入った。一同の視線が集まる中、彼は軽く咳払いをしてから言う。
「ここではやめましょう。この部屋、あまり風通しが良くないから。香りが混ざると……ええと、地獄になります」
「地獄……」
メリッサが復唱する。
「地獄です」
マクシムは真顔だった。
「外に出てください。外。風のあるところで」
「はーい」
メリッサとペネロペが素直に返事をする。
「ロザリーも行きましょ!」
アニータはそのままロザリーの腕を掴んだ。
「え、あ、ちょっと……」
ロザリーは一瞬戸惑いながらも、アニータに引きずられる形で連れられていった。
「まあ……いいけど……」
ロザリーの表情はどこか曖昧だった。興味がないわけではないが、心から乗り気でもない。そんな複雑さがほんの一瞬、顔をよぎる。扉が開き、外の空気と共に賑やかな声たちが遠ざかっていく。その場に残ったのは、マクシム、リー、シャルル、リラ、そしてスザンヌ。スザンヌはじっとリーの顔を見つめていた。香水瓶ではない。人を見る目。
「……どうかしましたか?」
リーが不思議そうに問いかける。
「いえ……」
スザンヌは一呼吸置いてから慎重に言葉を選んだ。
「リー・ウェンさん、ですよね」
「はい?」
「その……」
スザンヌは視線を少し落とす。
「うちの実家にも、よくリー・ウェンという名の商人さんが訪れるんです」
場の空気がわずかに変わった。マクシムが無意識にペンを置く。スザンヌは続ける。
「もしかして……リー・ウェンという名前は東洋の方にとって、よくある名前なんですか?」
リーは困った様子も見せず少し考える素振りを見せてから、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「そうですね……珍しくはありません。ですが、“同じ名前”でも“同じ人間”とは限りませんよ」
リーの言い方はあくまで柔らかだったが、どこか含みを持っている。スザンヌはそれ以上、踏み込まなかった。
「……そう、ですよね」
マクシムは二人のやり取りを特に気に留める様子もなく、机に肘をついたままリーを見た。
「それで? 今日ここに来たのは、白檀の案件だけですか」
香水の話題はあくまで“ついで”だと、そう思っている声音。リーは微笑んだまま首を横に振る。
「もちろん。これだけではありませんよ」
リーは香水瓶を一つ、そっと指先で押し戻しながら続けた。
「実は……香りのことで、我々商人の間で探っていることがあります」
シャルルが椅子にもたれ、気楽な調子で口を挟む。
「香水ね。白檀が流行ってるなら、次の嗜好を先取りして売り込もうって話かな? 貴族連中相手なら、いくらでも金になる」
「香りと言っても香水とは限りませんよ」
リーの一言で執務室の空気がわずかに変わってリラが背筋を伸ばす。さきほどまでの世間話の空気が抜け、どこか軍人としての調子を取り戻した声で言った。
「……どういう意味?」
マクシムもシャルルも、自然と視線を鋭くする。ただ一人、スザンヌだけが状況を掴みきれず、目の前に見えない疑問符をいくつも浮かべたような表情をしていた。リーは反応を確かめるように一同を見渡して言葉を選ぶ。
「最近、上流貴族の間では白檀のような心を鎮める香りを好む一方で……“危ない香り”も裏で流行っている、そんな噂があります」
マクシムの眉がほんのわずかに動いた。
「……危ない、とは?」
リーは香水瓶の列から何も書かれていない小さな瓶を指で弾いた。
「人の理性を緩めるもの。記憶を曖昧にするもの。——あるいは、欲望を増幅させるもの」
リーは穏やかな笑みを浮かべたまま続ける。
「香りというのはですね。嗜好品にもなりますが……時として、手段にもなるんですよ」
リラの視線が鋭くなる。
「幻覚剤、あるいはそれに類するもの?」
「可能性の話です。ただ、商人の間で動きがあるというのは事実。白檀の流行の影で、そういった品を求める声が増えています」
マクシムは黙ったまま机の木目を見つめる。頭の中で、いくつもの点が、音もなく結びつき始めていた。汚職。裏取引。東方商人。そして、香り。
「……それをあなたは、僕たちに教えに来た?」
リーはほんの少しだけ目を細めた。
「ええ。もし可能であれば……軍として、何か気づいていることがないかを、伺いたくて」
沈黙が落ちる。香水の話から始まったはずの商談はいつの間にか、別の匂いを帯びていた。それは甘さの裏に潜む、危険な香りだった。シャルルが顎に指を当てて小さく息を吐いた。少し考えるように視線を泳がせてから、肩をすくめる。
「危ない香り。正直、今のところは心当たりがないな。軍内部じゃ、汚職士官絡みで身内同士が疑い合う、大変な事態になってる。外の流行なんて、見てる余裕がないよ」
シャルルの言葉を受けて、リラが静かに頷いた。
「ええ。今は内部の洗い出しで手一杯です。外に目を向ける余裕は、正直ありません」
その空気を受け取るように、スザンヌが少し申し訳なさそうに口を開いた。
「香りが流行っている、なんて……私も皆さんも、先ほどリー・ウェンさんのお話を聞いて初めて知りましたし」
皆の視線が自然とマクシムに集まった。マクシムは黙り込んだまま、机の上に置いた書類から視線を外し、ゆっくりと天井を仰いだ。頭の中では、必死に情報を並べ替えている。汚職士官。サン・マロ。東方の商人。香り。どれも怪しいが、決定的な一本の線がどうしても見えない。数秒の沈黙のあと、マクシムは観念したように息を吐いた。
「……軍内部でも、怪しい話はいくつかあります。ただ、それが香りの噂と結びつくかどうかは……正直、よく分かりません」
リーは香水瓶を元の箱に戻しながら、何でもない調子で言った。
「なんですか、その怪しい話って」
マクシムは一瞬だけ言葉を詰まらせ、指先で机の縁を叩いた。
「本当は、外部の人間に話す内容じゃないんですけどね。でも……正直に言うと今、かなりイラついてます」
リーが眉を上げる。シャルルとリラとスザンヌは言葉を挟まずに耳を傾けた。マクシムの声は淡々としていたが、言葉の端々から抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
「士官が一人、消えたんです。第八部隊の士官、イヴォン・ローラン。彼とは少し交流があって」
マクシムは視線を巡らせ、無意識のうちに執務机を見た。ほんの数日前、この場所で話していた。
「彼が最後に訪れたのも、この部屋です。情報を持ってきて、話をして……そのまま行方不明になりました」
「……それで?」
リーが促すと、マクシムの声に苛立ちが混じった。彼の拳が机の上で軽く握られる。
「当然、司令部は疑います。最後に接触していた部隊を。結果、マクシミリアン・ブーケ隊が疑われている。……意味が分かりません。そんなわけ、あるはずがない」
リラが息を吸い、シャルルは何も言わずに表情を硬くしたが、マクシムは続けた。
「でも、厄介なことに。彼が僕に渡した調査資料がありました。任務に役立ててくれって。その写しの書類が、物的証拠として押収されたんです」
「司令部に、ですか?」
リーが確認するとマクシムは歯を食いしばって頷いた。
「彼が命懸けで集めた情報です。海賊の動向、汚職士官の繋がり……全部。それを“証拠品”として取り上げられて今、僕はフランソワの捜索すら満足にできない。……彼は、僕を信じて渡してくれたんです、それをこんな形で……だから、正直に言います。状況は最悪です。内部は疑心暗鬼。外には大海賊。そして、肝心の手掛かりは、全部“机の上”で止まってる」
マクシムは自嘲気味に笑った。
「……これで冷静でいろって言われても、無理でしょう。……こういう時、白檀が必要になるかな」
リーはしばらく黙っていた。香水瓶の一つを指先でゆっくり回しながら。
「なるほど……あなた方は動けない状態に置かれているわけですね」
マクシムは眉をひそめたが、否定はしなかった。
「……そういうことです」
部屋の空気がまた一段階、張り詰める。香水瓶の列も書類の山も、誰一人として手を伸ばさないまま、空気だけが重く沈んでいく。その中で、スザンヌがひときわ小さな声で口を開いた。
「あの……もしかして、あれのことですか」
全員の視線が一斉に彼女へ向く。スザンヌは一瞬だけたじろいだが一歩、机の奥へ進んだ。リラの執務机。几帳面に積まれた書類束の山。その中に、彼女は迷いなく手を伸ばす。一枚。二枚。三枚。探す、というより最初から場所を知っている手つきだった。
「ええと……これと、これと……あ、あとこれもです」
そう言って彼女は数枚の書類をまとめ、そっとマクシムの方へ差し出した瞬間、マクシムの視線が紙面に落ちた。見覚えがありすぎる。文字の癖。書式。配置。注釈の入れ方。イヴォンが託してくれた、あの書類。いや、それどころか。
「……っ!?」
マクシムの口から声にならない息が漏れた瞬間、ガタンと鈍い音がして椅子が後ろにひっくり返った。
「隊長!?」
リラの声が響くが、マクシムは答えなかった。床に転がったまま、仰向けで天井を見つめている。目だけが忙しく瞬いていた。……同じだ。いや、同じ内容じゃない。写しだ。完全な写し。
「……え、なにこれ……?」
シャルルがスザンヌの手元にある書類を覗き込み、素で呟く。
「ちょっと待って。これ、司令部に押収されたやつじゃ……なんで、ここにあるの?」
シャルルの言葉に、今度はリラがぴくりと反応した。珍しく言葉がすぐに出てこない。スザンヌは申し訳なさそうに書類で口元を隠し、少し迷ってから正直に明かした。
「ごめんなさい……あの、私……戦闘より、執務作業の方が得意で……」
「……はい?」
シャルルの間の抜けた声が空気を割った。スザンヌは続ける。悪びれもせず、むしろ少し照れたように。
「隊長が不在の間……リラさんのお手伝いの延長で、書類の写し作業をしていたら、楽しくなってしまって……それで、その……隊長が戻られた後も、整理整頓と写し作業が、ちょっとした趣味みたいに定着してしまって……目についた書類はとりあえず写して、分類して……気づいたら、こうなってました」
その瞬間、リラがぽつりと呟いた。
「……なるほど。だから最近、この部屋に居ることが多かったのね」
「いや納得すんなよ!?」
シャルルが即座に突っ込む。
「普通そこまでやる!? しかも気づかれずに!? この部屋、軍の執務室だぞ!?」
スザンヌは困ったように笑う。
「すみません……つい……」
一方、その間もマクシムは床に倒れたままだった。天井を見上げ、両手を広げ、微動だにしない。
「……隊長?」
誰かが声をかけるが、返事はない。その代わり、マクシムの口から絞り出すような声が床から聞こえた。
「……助かった……」
状況はまだ何も解決していない。イヴォンは戻っていない。疑いも命令も、何一つ撤回されていない。それでも、失われたと思っていた道が、ここに残っていた。それを偶然と善意と、そして写すことが好きな一人の女性が守っていた。執務室の空気が、ほんの少しだけ変わった。仰向けに倒れたままのマクシムの周りに、慌ただしい気配が集まっている。リラとシャルルが顔を覗き込み、何やら声をかけ、その脇でスザンヌが何度も何度も頭を下げている。申し訳なさと困惑がない交ぜになった、ひどく真面目な所作だった。
——騒がしいな。
リーは一歩引いた場所でその光景を横目に留めながら、机の上に広げられた紙束へと視線を落とした。
「写しの写し」
原本ではないが、情報屋にとっては十分すぎる。サン・マロ。駐在士官。帳簿。横流し。名義貸し。断片的な単語を拾い、自然と頭の中で繋ぎ合わせていく。
——なるほど。これは、相当深い。
その時、紙の隅に妙に強い筆圧で記された一文字が目に留まった。他の記述よりもわずかに黒い。
「……M」
たった一文字なのに、胸の奥がぞわりと揺れた。理由は分からないが、情報屋の勘というものは、説明がつく前に反応する。最近、貴族の間で囁かれている噂。静けさを求める裏で、密かに流行り始めている危ない香り。理性を削ぎ、夢と現を曖昧にするもの。香り。東方。依存性。頭の中で、いくつかの線が音もなく結びついた。
「……まさか」
リーは、無意識のうちにその名を思い浮かべていた。
夢蛇。幻を見る香。夢と記憶を撹拌し、人を縛る禁制品。本来なら、東方の地下でのみ流通するはずのもの。それがこの地に。
リーの背筋に冷たいものが走る。もし、本当に夢蛇がヨーロッパへ流れ着いているとしたら。香水という名を借り、貴族の嗜みとして、あるいは取引の潤滑油として。
——この書類にあるMは、ただの頭文字じゃない。
リーは息を吐いた。これは、商談どころの話ではない。市場の話でもない。もっと深く、もっと厄介な世界の裏側の話だ。倒れたままのマクシムたちの騒ぎを背にリーはもう一度だけ、その一文字を見つめた。黒く沈黙したM。これから起こる混乱の、最初の鱗のように見える。
「ああ、しまった。次の取引の時間があるので、この辺で失礼しますね」
リーはわざとらしく声を上げたが、誰も彼の言葉に即座に反応しなかった。突然現れて、場をかき回し、そして気づけばいなくなる。それがリー・ウェンという男だったから。
「それでは、皆さんの行先を祈っておりますよ」
祈るという言葉だけ妙に耳に残るが、その意味を問い返す者はいなかった。リーは振り返らない。執務室の扉を閉め、廊下を早足で渡る。靴音は控えめだが、迷いはない。玄関を抜け、宿舎の門を出たところで彼は足を止めた。そこには、黒々とした艶を放つ一頭の馬が待っている。
「待たせたね。行くよ、黒龍。駆け足で頼む」
合図と同時に、馬は地を蹴った。潮風を切り裂きながら、黒い影は海沿いの道を疾走する。
目指すのは中間拠点。商人、運び屋、情報屋、あらゆる顔を持つ者たちが定期的に集い、言葉を交換する秘密の場。リーはもう笑っていなかった。いや、そもそもリー・ウェンという名自体が仮面だった。
彼の真の名は、ヤン・ジュンジャー。
東方の情報網に名を連ねる男。香りも商談も、すべては入り口にすぎない。
今の彼は商人でも情報屋でもない。ただ一つの可能性、夢蛇がこの地に流れ着いたかもしれない、という秘密を抱えた男だった。その事実の重さを誰よりも理解しているからこそ、彼は速度を緩めない。
黒馬は街の中心を一直線に駆け抜けた。石畳を打つ蹄の音が噴水広場のざわめきを切り裂く。人だかり。怒号。誰かが転び、誰かが叫んでいるが、ヤン・ジュンジャーは一切視線を向けなかった。今はそれどころではない。黒馬は街路を抜け、舗装の剥げた砂利道へと躍り出る。蹄が小石を弾き、夜気が頬を裂いた。やがて、森の縁に差し掛かる。街の灯りが沈み、代わりに闇が濃くなる。森の奥、人の住処とは思えないほど粗末な小屋が一棟だけ佇んでいた。ヤンは手綱を引き、黒馬を止める。
「待っていろ、黒龍」
ヤンは低く告げ、馬の首を一度だけ叩くと小屋の扉を押し開けた。中は拍子抜けするほど静かだった。薪の匂い。乾いた土壁。数人の男たちが、それぞれの持ち場で休息を取っている。
「戻ったか」
誰かが声をかける。ヤンは頷き、形式的な挨拶だけを交わすと、迷いなく床板の一角へと向かった。きし、と音を立てて床が開く。そこから現れるのは、狭い階段。ヤンは灯りを取らず、そのまま降りていった。地下、そこは粗末な小屋の印象とはかけ離れた空間。壁一面に貼られた地図。港町、街道、沿岸線。無数の書き込みと符号が糸のように絡み合っている。数人の東洋人たちがすでに集まっていた。衣装はばらばら。商人、旅人、労働者。外ではそれぞれ別の顔を持つ者たちだが、ここでは違う。彼らは皆、同じ名を持つ。
東洋情報屋組織「リー・ウェン」。一人が沿岸部を歩き、一人が都市に入り、一人が内陸で商人を装う。集めた情報はすべてここに流れ、整理され、再び各地へと散っていく。あたかも「リー・ウェン」という一人の人間が、同時に各地に存在しているかのように。それがこの組織の実態だった。
「よう、ヤン」
壁際にいた男が手を挙げた。同じ東洋人。年は近い。ヤンは集まった仲間たちを一望する。彼の表情から、いつもの軽さは消えていた。
「急ぎ、話したいことがある。例の噂についてだ」
ヤンの一言で空気が変わった。ざわめきが止まり、視線が集まる。誰も茶化さない。誰も笑わない。噂。それが何を指すのか、ここにいる全員が分かっているからだ。ヤンは一歩前に出る。
商人でも情報屋でもない。今この場に立っているのは、危険を嗅ぎ取った者だった。




