第六章① ダラス家
夜のサン・マロは、昼とは別の顔をしていた。
港の喧騒が引いたあとに残るのは潮と酒と、腐りかけた木材の匂い。宿の奥、灯りを最小限に落とした部屋でドミニクは椅子に腰掛けていた。脚を組み、指先でワイングラスの縁をなぞる。愉悦とも退屈ともつかない、曖昧な沈黙。彼の向かいにはピエール。壁際にはダミアンが立っている。呼吸も瞬きも、必要最低限。最初に口を開いたのはピエールだった。
「……まさか、だな。ゼフィランサスの息子が生きてるとは」
ドミニクはグラスを傾け、喉を鳴らす。
「うん。赤髪。左耳。トルコ石のイヤリング。条件は全部揃ってた。偶然で片づけるには、出来すぎだ」
ピエールの口元が歪んだ。
「……父上の遺言通り、か」
あの声。あの狂気じみた断定。——見つけたら、殺せ。ドミニクは肩をすくめた。
「正直、ここまで分かりやすいと助かるよ。迷う余地がない」
「で? フランソワはどうする」
ピエールが促すと、ドミニクは少し考える素振りを見せてからあっさり答えた。
「利用できない。僕たちの提案を断ったなら、もう価値はない」
ピエールは一瞬だけ目を伏せ、それから頷く。
「潰すしかないな」
「そう」
ドミニクは微笑んだ。
「ただし、僕たちの手でやる必要はない」
ピエールが眉をひそめる。
「……海軍か」
「正解。 大海賊フランソワとして、堂々と討たれてもらう。そうすれば面倒な後始末もいらないし、僕たちは汚れない」
「イヴォン・ローランは?」
ピエールが即座に口を挟むとドミニクは即答した。
「殺さない。海軍に返す。混乱の証拠として、ちょうどいい」
「……証拠、か」
ピエールが理解する。
「内部がどれだけ腐っていたか。どれだけ混乱しているか。それを生きた口で語らせるわけだ」
「そういうこと」
ドミニクは椅子にもたれ、天井を見上げた。
「で、その前に……兄上に報告だ」
ピエールは無言で頷いた。反論の余地など最初からない。
「ゼフィランサスの息子がいたこと。特徴が完全に一致していること」
ドミニクの声が少しだけ低くなる。
「これは最優先事項だ。父上の遺言に関わる」
「……兄上なら、どう判断すると思う?」
ピエールが尋ねる。ドミニクはほんの少し口角を上げた。
「さあ? でも、きっと良い策を出してくれるよ」
その言い方は信頼というより期待だった。毒のように冷たい期待。
「兄上は、そういう人だから」
彼らの会話にダミアンは何も言わない。命令が下る瞬間を待っている。ドミニクは立ち上がり、外套を手に取った。
「王都へ戻ろう。ここから先は、兄上の盤面だ。僕たちは……駒でいい」
窓の外では夜のサン・マロが静かに息をしている。誰もまだ知らない。この決断が、どれだけ多くの血を呼ぶかを。だが、彼らは気にも留めなかった。世界はいつだって使えるか、使えないかで切り分けられる。そして、フランソワはもう、切り捨てられた側だった。
王都。ダラス家の屋敷は夜になると音を失う。装飾は最小限。豪奢さよりも、長く続いてきた家特有の重さだけが残る建物だったが、四兄弟は夜になると離れへ移動して寝泊まりした。昔からの慣わし、思考に集中するため外部からの接触は遮断していた。居間、長いテーブルの上に四つの椅子。すでにひとつには男が座っている。シルヴェストルだった。背筋はまっすぐ、手元の書類に視線を落としたまま、誰が入ってきたかを確認する必要すらない。扉が静かに開く。ドミニク、ピエール、ダミアンの三人は揃って一礼し、定位置に立った。
「おかえり」
シルヴェストルが顔を上げずに言う。声は穏やかで温度がない。ドミニクが一歩前に出る。
「ご報告があります、兄上。サン・マロで、大海賊フランソワと接触しました」
その瞬間、シルヴェストルの指がほんのわずかに止まった。
「ほう」
ドミニクは淡々と続ける。
「彼は我々の提案を拒否しました。海軍への復讐、海上統治。いずれにも興味を示さなかった」
「理由は?」
「自由でいたいそうです」
沈黙の中、ピエールが言葉を継ぐ。
「利用価値はありません。放置すれば、いずれ邪魔になります」
その判断は兄弟の総意だったが、シルヴェストルはまだ何も言わない。ドミニクは一瞬、視線を落としてから最も重要な報告を口にした。
「兄上。フランソワの一味の中にいました」
「……誰が?」
ようやくシルヴェストルが顔を上げる。ドミニクははっきりと言った。
「ゼフィランサスの息子です。赤髪。左耳。トルコ石のイヤリング。父上の遺言と一致します」
シルヴェストルの表情がわずかに変わった。驚きではない。怒りでもない。理解した顔だった。
「……生きていたか」
「はい」
ドミニクは頷く。
「父上が恐れていた血です。父の事業を壊し、精神を追い詰め、最終的に——」
「分かっている」
シルヴェストルは遮った。
「続きを言う必要はない。それで?」
彼が促すように視線を向けると、ドミニクは用意してきた結論を述べた。
「フランソワは海軍に潰させるべきです」
ピエールも頷いて口を開く
「我々が直接手を下す必要はありません。大海賊討伐という形なら、王も海軍も動きます」
「そのための材料もあります」
ダミアンが一歩前に出る。
「フランス海軍士官、イヴォン・ローラン。現在、我々の管理下にあります。殺していません。そのうち排除します」
三人の視線がシルヴェストルに集まる。彼はしばらく黙って考えていた。そして、ふっと穏やかな微笑を浮かべた
「なるほど。海軍は今、汚職で混乱している。そこに大海賊フランソワ健在の情報を流せば……」
シルヴェストルの視線が鋭くなり、ドミニクが続きを言う。
「内部粛清より、外敵排除を優先。王も納得します。今は争っている場合ではないと」
「よく考えたな」
シルヴェストルは頷いた。彼の言葉に、ドミニクの胸の奥がひそかに満たされる。シルヴェストルは卓上の書類から視線を外し、次男たちを順に見渡す。
「つまり王に進言しろと? 大海賊フランソワ討伐を、最優先事項として。……甘い」
彼の一言で、空気がわずかに張り詰めた。ドミニクは内心で息を呑む。まずい。否定か。あるいは、兄上の機嫌を損ねたか。
「進言そのものには問題がある」
シルヴェストルは穏やかな声音で言葉の刃を向ける。
「王に話を持っていくにしても、情報の出所が俺では不都合だ。ダラス家が直接、海賊の動向を把握していたとなれば……余計な疑念を生む」
ピエールが眉をひそめる。
「では、どうなさるおつもりで?」
シルヴェストルは軽く首を傾げた。
「確認しよう。海軍は、サン・マロにフランソワ一味が潜んでいることを把握しているのか?」
ドミニクは一瞬、言葉に詰まったあと正直に答えた。
「分かりません。管理している捕虜から聞けたのは、内部が汚職の件で混乱している、ということだけです」
シルヴェストルの瞳の奥で陰が揺れた。声色は変わらないが、次男たちの詰めの甘さを静かに測っているのが分かる。息を吐き、シルヴェストルは指先を組んだ。
「なるほど……方向性は悪くない。フランソワは利用できないなら、海軍に討たせる。その判断自体は正しい」
ドミニクとピエールの肩からわずかに力が抜ける。
「問題は、情報の流し方だ」
シルヴェストルは何気ない調子で続けた。
「捕虜の件。……イヴォン・ローランだったな。あれは殺す必要ない」
ドミニクが目を瞬かせる。
「
生かす……のですか?」
「ああ」
シルヴェストルは微笑んだ。次男たちの表情が引き締まる。
「ただし、万全な精神状態で返す必要もない。彼には、大海賊フランソワがサン・マロにいた。その一点だけを強く、深く、刻み込んでから放て。やり方は任せる。君たちは、その手のことが得意だろう?」
ドミニクが息を呑んだ。シルヴェストルはまるで盤面をなぞるように言葉を並べる。
「捕虜を返せば、海軍は混乱する。内部粛清の最中に、大海賊の存在を示す証言が戻ってくるのだからな。やがて、その報告は王都にも届く。その時に、俺が進言する」
シルヴェストルは椅子にもたれ、穏やかに結論を告げた。
「大海賊フランソワの脅威は、未だ去っていない。今は内輪で争っている場合ではない、とな。そうすれば、王命は自然と一つに収束する」
大海賊フランソワ討伐。再優先。沈黙のなかで、最初に口を開いたのはドミニクだった。
「……さすがです、兄上」
ピエールもわずかに視線を伏せる。
「これなら、我々の名は一切表に出ません」
シルヴェストルは穏やかに笑った。
「当然だろう。因果は、いつだって正しい場所から始まるべきだ」
シルヴェストルはそこで話を終える気はなかった。指先を組んだまま、ほんのわずかに首を傾げる。
「……もう一つ」
その声音だけで、ドミニクとピエールは背筋を正した。重要事項が来る合図だ。
「ジャスパーの件だ」
シルヴェストルの口から名を出された瞬間、ピエールの喉が小さく鳴る。
「彼も放置はできない。フランソワと共にある限り、必ず火種になる。だが、それも俺たちが手を下す必要はない」
シルヴェストルは次男たちを見据えた。
「重要なのは、あいつらをあの入江から引き剥がすことだ。閉じた場所に籠られていては、海軍と衝突させられない」
ドミニクが頷く。
「……つまり、動かす必要があると」
「そう」
シルヴェストルは肯定する。
「そのためには、もう一度だけ接触が必要だ」
ピエールが問い返す。
「フランソワに、ですか?」
「必ずしも本人でなくていい。一味の誰かで十分だ。重要なのは、逃げ場がないと認識させること。もし、海軍の出撃日が判明したら——」
そこで、シルヴェストルはほんのわずかに笑った。
「当日、あいつらに伝えろ。『今日だ』と。時間までは教えなくていい。人は、まだ猶予があると思ううちは逃げる。だが、もう始まっていると知った瞬間、覚悟を決める」
シルヴェストルの言葉の意味を、弟たちはすぐに理解した。ドミニクが低く息を吐く。
「とことん追い詰める、と」
「そうだ」
シルヴェストルは淡々と続ける。
「人は追い詰められた時ほど最悪の選択をする。あの入江を捨てるか、あるいは海軍と正面からぶつかるか。どちらに転んでも、結果は同じだ。——フランソワは討たれる」
ドミニクはゆっくりと息を整えてから言った。
「本当に無駄がありませんね。兄上」
ピエールも頭を下げる。
「オレたちは、ただ知らせるだけ。選んだのは、あいつら自身……という形になります」
シルヴェストルは満足げに微笑んだ。
「そうだ。だからこそ、誰も我々を責められない。自分たちは、ただ親切な忠告をしただけだ。——追い詰めたのは世界の方だよ」
シルヴェストルの言葉は毒のように優しく逃げ道を塞いでいた。
「我々が欲しいのは、逃亡者じゃない。討たれる大海賊だ」
居間に毒が一滴垂れ、静寂が広がる。彼の言葉を合図と捉え、ドミニクとピエール、ダミアンが音も立てずに退出した。残ったのは、シルヴェストル一人。
——ゼフィランサス。
その名を彼は心の中で反芻した。
父にとって、その名は恐怖だったと同時に利用価値でもあった。無法の象徴だが、海賊たちを従わせる看板としてはあまりに都合が良い。父はそういう男だった。
かつてゼフィランサスには女がいた。北欧系の赤髪の女。刃と海しか信じなかった男が、唯一心を許した存在。彼女の耳には片方のイヤリングがあったという。トルコ石とチェコガラス。その女が死の間際、赤子の耳にもう片方を託した。真偽は分からないが、父はそれを兆しと呼んだ。
「血が戻る」
そう呟いた父の目はすでに狂気に近かった。ゼフィランサスが討たれた後、その遺したものは、ただの子供ではなくなった。血筋。象徴。未来の人質。利用すれば、ゼフィランサスの残党も海賊たちの支持も、すべて掌の上で転がせる。だが、父が子供を迎えに来た時には既にもぬけの殻だった。教団の勢力落ちと人身売買の事業崩壊の余波も尾を引いていたこともあり、その日を境に父は次第に衰えた。死の直前、父は四人を呼び集め、どす黒い目であの言葉を残した。
「赤髪で、左耳にトルコ石のイヤリングをつけた男を見つけたら、ためらうな。殺せ。あれは災いだ。血が戻れば、我らが滅びる」
遺言なのか、呪詛なのか。四兄弟は理解できないまま、掟として胸に刻んだ。父はほどなく、発狂死とも毒死とも言われる最期を迎えた。シルヴェストルは目を伏せる。感情はない。あるのは、事実の整理だけ。ジャスパーは知らぬ間にダラス家の破綻の引き金となった。そして今、その血は再び海に現れた。
「……生きていた」
誰にも聞こえない声で呟く。シルヴェストルは立ち上がり、長いテーブルを見渡した。一族の存続より、遺言の完遂。そして、一族が掲げる「ブルボン王朝復活」への使命。その判断に、迷いはない。
「ゼフィランサスの血はここで断つ。父上も、きっと喜ぶ」
声音は淡々としていた。まるで長年放置していた不具合を修正するかのように。四兄弟は同じ方向を見ている。
——父と一族の使命と誇り。
この夜、王都で下された判断はやがてサン・マロの海を血で染める。だが、彼らはまだ知らない。
その血が、自分たちにどんな因果を連れてくるのかを。




