第五章④ フランソワとダラス家
入江の水面がゆっくりと割れた。波を切って現れたのは小型のガレオン船。自分たちの船よりも一回り小さいが、油断できる大きさではない。
「……来たな」
フランソワの低い声に甲板の空気が張り詰める。船影が近づくにつれ、甲板上の人影がはっきりしてきた。黒衣。数は多くないが、立ち方が揃いすぎている。その中央で、一人の男が前に出た。年若くはないが、老けてもいない。背筋は自然に伸び、無駄な力が入っていない。その男、ドミニクはフランソワの姿を捉えた瞬間、ほんのわずかに口角を上げた。
「……なるほど」
噂で聞いていた大海賊フランソワ。荒々しい巨漢を想像していたわけではないが、想像よりもずっと静かだ。ドミニクは甲板の縁に立ち、声を張った。
「やあ。少し話そうじゃないか」
ジャスパーの肩がわずかに動き、ニールは反射的に銃の位置を確認する。フランソワは何も言わず、相手を見据えた。黒衣の集団。その後ろに、気配の薄い影。一人、やけに存在感のない男が控えているのも見逃さなかった。
「……連れてきたな」
フランソワはゆっくりと口を開く。
「話がしたいなら、条件がある。こっちの船に来い。ただし、お前と、もう一人だけだ」
ドミニクは彼の条件を反芻するように首を傾げ、すぐに笑った。
「もちろんだよ」
あっさりしすぎている。躊躇も計算も見せない即答に、甲板の空気が一段、冷えた。普通なら条件を詰める。人数を確認する。武装を気にするが、この男は何も気にしていない。まるで、拒まれる可能性を最初から考えていないようだった。フランソワは視線を外さず告げる。
「武器は置いてこい」
「了解」
ドミニクは肩をすくめ、自分の背後に目配せする。すぐに黒衣の中から一人、鋭い眼差しをした男が前に出た。
「……もう一人は、こいつか」
ジャスパーの赤い髪が潮風に揺れる。ニールは無言のまま息を詰めた。二人の男が小舟に移るのを、フランソワは微動だにせず見下ろしていた。胸の奥に、言いようのない違和感が広がる。これは交渉だ。だが、主導権を取りに来ているのは向こうだ。小舟が静かにこちらの船腹へ寄せられ、やがて船腹に当たって低い音を立てる。ドミニクが先に甲板へ上がる。その所作には無駄がなく、警戒している様子もない。続いて、黒衣の男ピエールが無言で続いた。フランソワは二人を正面から見据えて問う。
「お前たちは何者だ」
ドミニクはまるで待っていましたとでも言うように、穏やかに笑った。
「僕はドミニク。ダラス家の次男坊さ」
一瞬、甲板の空気が止まる。その名を聞いた瞬間、ピエールの奥歯がわずかに噛み締められた。
「……なんでだよ」
なぜ、ここで名を出す。なぜ、わざわざ。父から教え込まれた慎重さが内側で苛立ちに変わる。貴族の名なんて切り札だろうが。だが、兄の決断に逆らう選択肢はない。ピエールは舌打ちを飲み込み、黙って立っていた。ドミニクはピエールを振り返り、軽い調子で続ける。
「それで、こっちはピエール。弟だよ」
ピエールは返事をしない。彼の視線がふと赤髪の男に留まった。背が高い。無造作に梳かした赤い髪。海風に揺れるその輪郭。
「……?」
胸の奥で何かが引っかかる。遠い記憶。血の匂いを伴う声。
——赤髪で、トルコ石のイヤリングの男を見つけたら……ためらうな。殺せ。
死んだ父の声が脳裏に蘇る。ピエールは思わずジャスパーの耳元に視線を走らせた。——イヤリングは、見えない。
「……いや」
即座に理性が割り込む。そんな偶然があるわけない。ここは海だ。赤髪の海賊など珍しくもない。しかも、相手はただの船団の一員。父の言葉に引きずられるな。ピエールは視線を切り、何事もなかったように表情を戻した。その一方でジャスパーは、はっきりとした不快感を覚えていた。ピエールと視線が絡んだ瞬間、背中に冷たいものが走る。
「……なんだろうな」
目の前の二人。言葉も態度も穏やかなはずなのに、肌が拒否している。理由は分からない。記憶も名前も、何ひとつ引っかからない。それでも、長年海で生きてきた勘が告げていた。こいつらは危険だ。その時、フランソワは低く呟く。
「ダラス家、か」
その名に説明できない引っ掛かりを覚える。喉の奥に小さな魚骨が刺さったような感覚。その正体を掴みきれないままフランソワは視線を上げた。
「貴族連中が、海賊になんの用だ」
ドミニクはその問いを待っていたかのように肩をすくめて笑う。
「安心したまえ。僕たちは味方だよ」
ジャスパーの指が無意識に剣の柄をなぞった。ニールも一歩、フランソワの斜め後ろへ位置をずらす。その警戒を当然のものとして受け止めるように、ドミニクは続ける。
「ここに来たのはね、君たちに知らせるためだ。海軍は今、内側から崩れている。汚職、疑心、粛清……指揮系統はぐちゃぐちゃ。だからこそ、今が好機。これに乗じて逃げたまえ」
ドミニクの言葉を聞いた瞬間、フランソワの脳裏に夜の船長室が蘇った。
数年前、クォーターマスター引退前夜。灯りを落とした船長室で、アランがいつになく真面目な顔をしていた。酒も手にせず、ただ窓の外の海を見つめたまま。
「フランソワ。ルキフェルとジャスパー……あのガキどもを守れ」
フランソワは思わず笑った。
「なんですか、アランさん。言われなくても、いつも守ってますよ」
アランは首を振った。
「ルキフェルはともかく。……ジャスパーだ。あいつは、ただのお調子者の孤児じゃない」
「はは、そんな馬鹿な」
軽く返した自分に、アランは視線だけを向けた。
「フランソワ。もしダラス家を名乗る奴らが現れたら……気をつけろ。ゼフィランサスが、最期に俺に告げた言葉だ」
理由は語られなかった。それきり、アランは船を降りた。
——今、目の前に立つ男は確かに名乗った。
フランソワは無意識のうちにジャスパーの横顔を一瞥する。赤髪。何も知らない顔。ドミニクは口角を上げた。
「僕たちは、君たちの敵じゃない。少なくとも今はね」
その言い方がひどく引っかかった。フランソワはゆっくりと息を吐き、視線を戻す。
「……面白い話だな。だが、海賊は善意の忠告で動くほど長生きしてねぇ」
フランソワはドミニクをまっすぐに見据えた。
「……ひとつ聞かせろ。一端の貴族が、どうして軍の内情をそこまで知っている?」
ドミニクは即答しなかった。代わりにゆっくりと視線を逸らし、自分たちが乗ってきた小型ガレオン船の方へ顎を向ける。
「答えは、あそこにある」
フランソワとジャスパー、ニールの視線が同時に動いた。小型船の甲板。椅子に縛り付けられ、頭を垂れたまま微動だにしない男がいた。紺色の制服。海軍士官のものだ。顔色は悪く、意識があるのかどうかすら分からない。フランソワの眉がわずかに動いた。ドミニクはまるで天気の話でもするかのような調子で続ける。
「貴族だってね。ずっと優雅な暮らしをしてるわけじゃない。裏側で、汚い仕事を引き受けることもある。……必要とあらば、ね」
その必要という言葉に、ジャスパーの背筋がひりついた。ドミニクは甲板に縛られた男から視線を戻し、再びフランソワを見た。
「やろうと思えば……情報を吐かせるくらい、どうってことない」
フランソワは無言のままドミニクを睨んだ。その沈黙の中で相手が何を伝えたいのかは嫌というほど分かっていた。自分たちは、綺麗事で動いているわけじゃない。必要なら、人一人くらい平然と踏み台にする。ドミニクは彼の理解を確かめるように、わずかに目を細めた。
「安心してほしいな。君たちに同じことをするつもりはない。今のところは」
フランソワは胸の奥で何かが冷えていくのを感じながら口を開いた。
「……それで? そんなやり方で集めた情報を、わざわざ俺たちに教えに来た理由は」
ドミニクはフランソワを見て小さく首を傾げた。
「あれ。さっき、言わなかったっけ? じゃあ、もう一度言うね」
彼は指先で軽く手すりを叩き、穏やかな声のまま言葉を並べた。
「海軍は今、内側から崩れてる。汚職、失踪、責任の押し付け合い。指揮系統はぐちゃぐちゃだ。だから、今が一番逃げやすい」
ドミニクはフランソワをまっすぐ見た。
「この隙に姿を消すといい。追撃は遅れる。混乱が長引けば、いずれ討伐そのものが後回しになる。君たちみたいな海賊にとって、こんな好機は滅多にないよ?」
フランソワの胸の奥で嫌な音が鳴った。逃げろ。好機だ。親切な忠告。どれも筋は通っている。通りすぎるほどにおかしい。フランソワは答えなかった。肯定も、否定も、質問すらもしない。代わりに脳裏に浮かんだのは、数年前のアランの忠告。目の前にはダラス家の次男を名乗る男。穏やかで礼儀正しく、笑顔を崩さないが、その親切の奥にあるものがどうしても見えない。フランソワはわずかに顎を引き、何も言わずにドミニクを見返した。ジャスパーは無言で柄に手を掛けたまま、視線だけをドミニクから外さない。ニールもまた気配を殺しながら一歩も動かない。対してドミニクだけが相変わらず楽しげだった。まるで、この沈黙も含めて会話だと言わんばかりに。
「……ふふ。まあ、すぐに答えを出さなくてもいいさ」
ドミニクの背後で、ピエールは無言のまま視線を巡らせていた。ジャスパーの存在を、意識の片隅で何度もなぞりながら。風が吹き抜け、波が船腹を叩く。甲板の空気は張りつめ、誰も一歩を踏み出さないが、その緊張をまるで感じていない者が一人だけいた。またしてもドミニクだ。
「ああ……」
小さく、間延びした声。退屈そうに視線を彷徨わせ、甲板の上の人間たちを一人ずつ、値踏みするように眺める。フランソワ。強い。だが重い。壊すには手間がかかる。ジャスパー。赤髪。勘が鋭そうだ。危険。そして、視線がふと止まった。金髪。碧眼。少し背の低い、若い男。ニールだった。
「……へえ。可愛い顔だなあ」
ドミニクの口元がほんのわずかに緩む。心から感心したように、素直な声音で呟く。
「爽やかな好青年って感じ」
年下だ。間違いなく。自分よりずっと若い。まだ形が固まりきっていない。金色の髪も青い目も、自分のそれよりずっと鮮やかで、透明で。だからこそ、目を引いた。ドミニクは楽しげにニールを眺め続ける。
——あれ。
ニールの青い瞳の奥。ほんの一瞬だけ、光が濁った。表情は穏やかなままなのに、奥に沈んだ影。隠そうとして隠しきれていない色。ドミニクの思考がぴたりと止まる。理解した瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
「……ああ、この子」
可愛い顔をしているのに。清潔で、真っ直ぐそうなのに、仲が傷ついている。
——闇、抱えてるね。
声には出さないが、確信だけがじっと腹の底に落ちる。それは共感だった。いや、共鳴。ああ、似てる。自分と。この、どうしようもなく歪んだ自分と。同じ種類の濁り。同じ、壊れ方の予感。その考えに辿り着いた瞬間、ドミニクの中で何かがきれいに噛み合った。唐突で、自然で、最悪な結論。
……欲しいな。この子、自分のものにしたいかも。
恋情ではない。庇護でもない。もっと粘ついた、捕食に近い衝動。想像が勝手に膨らむ。夢蛇を与えたら……どんな幻を見るんだろ。何に縋って、何を失うんだろう。その“中身”を暴いてみたい。壊れるところを近くで見たい。ドミニクの唇がゆっくりと弧を描いた瞬間、ニールの背筋にぞわりと悪寒が走った。理由は分からないが、はっきりと分かる。視線だ。粘つくような、舐めるような、皮膚の裏側をなぞられる感覚。まるで内臓を見られているみたいな気色の悪さ。ニールは思わず一歩だけ身を引いた。喉の奥がひくりと鳴る。
「……っ、気持ち悪っ」
反射的に言葉が零れた。はっきりとした拒絶だ。その一言にドミニクは一瞬だけ目を瞬かせ、ますます楽しそうに微笑んだ。
——ああ、ちゃんと拒むんだ。いいね。
その時、突如として風が吹いた。潮の匂いを含んだ、ごくありふれた海風だったが、その一瞬でジャスパーの赤髪がわずかに揺れた。今まで髪に隠れていた左耳がふと露わになる。陽を受けて、青緑の石が鈍く光った。
トルコ石のイヤリング。
ドミニクの思考がぴたりと止まった。同時にピエールの喉が小さく鳴る。記憶が意志とは無関係に引きずり出される。父の声。怒りと恐怖と歪んだ確信に満ちた、あの声。
「赤髪で左耳にトルコ石のイヤリングをつけた男を見つけたら……ためらうな。殺せ。あれは災いだ。血が戻れば、我らは滅びる」
父の事業を壊した男。ゼフィランサス。名を思い出しただけで胸の奥が軋む。金と人脈と誇りを奪ったその血。甲板に立つ赤髪の男は、あまりにも自然にそこにいた。海賊の装いで仲間の隣に立ち、何も知らぬ顔で。これは偶然ではない。父が狂い、壊れ、死んでいった理由が今、目の前で呼吸をしている。ピエールの指先がわずかに震えた。恐怖ではない。確認だ。
——見つけた。
ピエールの心の奥で何かが噛み合う音がした。憎悪が遅れてやってくる。理屈ではない。選択でもない。そうなるように教え込まれていた感情が、ようやく居場所を見つけただけだ。ドミニクは相変わらず微笑んでいたが、視線はもうニールには向いていない。ジャスパーから一瞬たりとも逸れていなかった。
「……なるほど」
——君がここにいるなら、この場は血の分岐点だ。
父の遺言は命令ではなかった。呪いだった。そして今、その呪いが目を覚ました。ドミニクはわずかに肩の力を抜いたまま穏やかな声音で言う。
「ねえ、フランソワ。僕たちと協力しないかい?」
ドミニクの口元には、相変わらず人の良さそうな微笑みが貼りついているが、その奥で渦巻くものを本人だけがはっきりと自覚していた。
——ここに置いておけ。手の届く場所に。そして、確実に消す。
「僕たちは君たちに敵意があるわけじゃない。むしろ……助けたいと思っている」
ドミニクは一歩だけ踏み出し、言葉を重ねた。
「海軍に仲間を殺されたんだろう? なら、復讐すればいい。個人じゃなく、組織全体に。君とエドガー……そして、僕たちダラス家が手を組めば、海は変えられる。——海上統治も、夢じゃないよ」
一瞬、甲板に沈黙が落ちた。風が帆を鳴らし、波が船腹を叩く音だけが、やけに大きく聞こえる。フランソワはしばらくドミニクを見つめていた。
「……断る。俺たちは誰かの理想のために戦ってるわけじゃねえ。——自由でいたいだけだ」
フランソワは一歩前に出る。彼の背は大きく、揺るがなかった。
「出て行け。……それから、その船はここに置いていけ。二度と、ここに来るな」
ドミニクの眉がほんのわずかに動く。命令だった。交渉の余地はない。数秒の沈黙のあと、ドミニクは肩をすくめた。
「……参ったな。残念だよ。君は思っていたより頑固だ」
そう言って、ドミニクはくるりと背を向けた。ピエールも無言で続く。タラップを降りる直前、ドミニクはほんの一瞬だけ足を止め、ピエールの方へ顔を寄せた。
「……無駄にしやがって」
舌打ち混じりの囁き。怒りと失望と、はっきりとした殺意が滲んでいた。ピエールは何も答えず拳を強く握り締める。二人の背が甲板から消えたあと、残された空気は重く冷たかった。船影だけが静かに入江に残されている。フランソワは船を一瞥し、低く呟いた。
「……選ばなかっただけだ」
だが、この選択がどれほどの因果を引き寄せるのかをこの時点で知る者はいなかった。
入江の扉が、きぃ……と低く鳴る。ニールは銃口を下げなかった。引き金にかけた指先がじっとりと汗ばむ。彼の視線の先では黒衣の集団が一人、また一人と扉の外へ消えていく。最後に見えたのは、ぐったりと項垂れた紺色の制服——イヴォンの身体を無理やり引きずるようにして歩くダミアンの背中だった。全員、出た。ニールは息を詰めたまま扉に手を伸ばす。早く閉めろ。鍵をかけろ。二度と……その瞬間だった。
「ああ、そうだ」
扉が閉まらなかった。止まった。華奢な指が扉の縁を掴んでいる。ニールは思わず目を見開いた。見た目に反して動かない。押し返そうとしても、びくともしない。
「……っ」
喉が鳴った。声が出ない。ドミニクは信徒たちの方を一瞥することもなく、そのまま一歩だけ内側へ踏み込んだ。距離が、近い。近すぎる。甘ったるい香りが、潮の匂いに混じって鼻を刺す。
「そんなに怖い顔しなくてもいいのに」
囁くような声が耳元に落ちる。ニールの背筋をぞわりと何かが這い上がった。動けない。足も、腕も、指先も。銃を構えたまま、ただ固まっている。ドミニクは扉に手をかけたまま、顔を寄せる。唇が触れるほど近い位置で、楽しげに息を落とす。
「君、綺麗だね。——壊れそうで」
ぞっとするほど甘い声音だった。まるで宝石を品定めするみたいな、無邪気で残酷な響き。ニールの胸がきゅっと縮む。逃げたい。離れたい。触られたくない。なのに、身体が言うことを聞かない。喉が震えた。必死に、声を掻き集める。
「……早く……早く、出てってよ……」
振り絞るような拒絶だった。ドミニクは一瞬だけ目を瞬かせ、心底満足したという笑みを浮かべた
「ああ。言われなくても」
そう言って、ドミニクはあっさりと手を離すと踵を返し、何事もなかったかのように扉の外へ歩き出した。その余裕、その軽さがかえって恐ろしかった。扉が完全に閉じた瞬間、ニールは反射的に力いっぱい押し込んだ。ガンッ、と木と鉄がぶつかる音。鍵を回す。もう一度。念のため、さらにもう一度。確認して、確認して、それでも不安で、手が離れない。ようやく背を預けた時、胸の奥から吐き気が込み上げた。
「……ほんと、無理……」
拒絶の言葉は誰に向けたものかも分からないまま、暗い入江に溶けていく。甲板へ戻るタラップを上がるとき、ニールの足取りはわずかに乱れていた。風のせいだと言い訳するには少しだけ遅い。甲板に出た瞬間、フランソワとジャスパーの視線が同時に向いてそれだけで胸の奥がひくりと縮んだ。
「……終わったのか」
フランソワの問いは簡潔だった。ニールは遅れて頷く。
「はい。……全員出ていきました」
言葉が喉に引っかかる感覚がまだ残っていた。フランソワは海を一瞥し、短く息を吐く。
「ご苦労だった。もう鍵は——」
「かけました」
ニールは即座に答えた。少し声が硬かった。ジャスパーは何も言わずニールの横顔を一瞬だけ見た。視線が合わない。肩がほんのわずかに内側へ縮こまっている。指先が服の端を握りしめているのが分かる。ジャスパーの中で何かが噛み合った。
「……フランソワ。今日は、ここまででいい」
フランソワが訝しげに振り向くが、ジャスパーは説明せず海の方へ視線を向けたまま続ける。
「相手は引いた。警戒は続けるが……今は、休ませた方がいい」
ニールの肩がわずかに揺れた。フランソワは一瞬考え、それ以上追及しなかった。
「……分かった。全員、持ち場に戻れ」
ニールはその場に立ち尽くしたまま動けずにいた。ジャスパーは隣に立つ。触れない。視線も合わせず同じ方向、海を見る。
「……鍵は、ちゃんとかかってる」
ニールは頷いた。
「……何回も、確かめたよ」
声が掠れていた。ジャスパーはそれ以上、何も言わない。問いも、慰めも、忠告もない。風が吹き、帆が低く鳴った。甲板の軋む音が、現実を少しずつ引き戻していく。ニールは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。胸の奥に残る嫌悪と寒気は消えない。それでも、ここは安全だと身体がようやく理解し始めていた。ジャスパーは海から目を離さないまま思う。問いただすのはあとでいい。語れるようになるかどうかも分からない。それでも、今は生き延びたことだけで充分だ。その判断を誰にも告げることなく、彼は静かにニールの隣に立ち続けている。
フランソワが船内への階段を降りると、空気の温度が一段落ちた。船倉に近い一角には、ランプの淡い光が揺れている。その下でルキフェルは膝をつき、マテオの肩に手を置いたまま動かなかった。マテオは壁にもたれ、背を丸めて座り込んでいる。吐き気を堪えるように口元を押さえたまま呼吸はまだ浅く、早い。視線は焦点を結ばず、過去と現在の境目を彷徨っているようだった。少し離れた場所で、コリンが二人の様子を見ていた。声をかけることも近づくこともせず、ただ邪魔にならない距離を守っている。フランソワは一歩だけ近づき、低く言った。
「……もう大丈夫だ。あいつらは行った。この入江には、もういない」
マテオの肩がわずかに上下する。先ほどまで不規則だった呼吸が遅れる。次の息が少しだけ深い。ルキフェルの指先に伝わる筋肉の強張りがほんの一瞬、緩んだ。ルキフェルは視線を落とし、声を出さずに息を整える。驚かせないように。戻りかけているものを揺り戻さないように。マテオの喉が小さく鳴った。言葉にはならない音。それでも、先ほどまでの崩壊とは違う。コリンもその変化に気づいたのか、そっと目を伏せた。フランソワはもう一歩も近づかなかった。ここから先は、自分の役目じゃないと理解している。
「……落ち着いたらでいい」
踵を返して階段を上がる前、フランソワは一度だけ振り返った。ルキフェルの背中と、そこに置かれた手を見て思う。
大丈夫だな。
船内には再び波の音だけが戻ってきた。
その規則正しい音に合わせるようにマテオの呼吸も少しずつ、少しずつ現実へ戻り始めていた。




