第五章③ 五人組とフランソワ
サン・マロの入江は今日も静かだった。潮は緩やかに満ち、ガレオン船の船腹を小さく叩いている。遠くの街の喧騒はここまでは届かず、聞こえるのは帆索が風に鳴る音と時折かすかな鳥の声だけだった。甲板の片隅でマテオは木箱に腰を下ろし、珍しく肩の力を抜いていた。彼の背後に立つルキフェルが、慣れた手つきで彼の肩に触れる。
「……ここだ。ここが一番重い」
低く言いながら、ルキフェルの指が義手の付け根から僧帽筋にかけて、ゆっくりと圧をかけていく。無駄のない動きだった。力は強すぎず、逃げ場も与えない。的確に溜まっている場所だけを捉えている。マテオは思わず息を吐いた。
「……ああ、くそ。そこだよ、そこ」
「やっぱりな」
ルキフェルは表情を変えずに言い、指の角度を微妙に変える。義手の重量で常に引っ張られている筋を逃がすようにほぐしていく。
「毎回思うけどさ」
マテオは半眼で空を見上げながら続けた。
「剣の腕だけじゃないよな。なんで的確にツボ押せるんだよ」
「……お前の文句が多かったから覚えた」
「理由が雑すぎるだろ」
マテオは笑い、もう一度深く息を吐いた。潮風が二人の間を抜けていく。その風に揺れて、ルキフェルの長い髪がわずかに肩にかかる。彼はそれを気に留めることもなく、黙々と手を動かしていた。マテオがふと声を落とす。
「こうしてるとさ。戦争だの、追っ手だの、全部どこか遠くの話みたいだな」
ルキフェルは一瞬だけ手を止め、すぐに再開した。
「今はここにいる。それで十分だろ」
マテオは答えなかった。代わりに、わずかに肩の力を抜いた。義手の重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がしていた。甲板の向こうでは、帆がゆっくりと風を孕み、船はほとんど動かないまま、入江の水に身を預けている。何も起こらない静けさがどれほど脆いものかをまだ誰も知らなかった。入江の鉄扉が控えめに叩かれる。コン、コン。規則的で急ぎすぎない音。扉の脇で見張りに立っていたジャスパーは、即座に片手を上げて制した。
「合言葉」
扉の向こうで一瞬だけ間があき、それから少し弾んだ声が返ってきた。
「波は引き、名は残る」
コリンの声だった。ジャスパーはわずかに顎を引き、懐から鍵束を取り出す。錠前に合う鍵を迷いなく選び、静かに回した。カチャリ。扉が開くとニールとコリンがすぐ内側へ滑り込む。ジャスパーは二人を通したあと外を一度だけ確認し、すぐに扉を閉めた。鉄の重みが入江の静寂を取り戻す。
「異常なし?」
ニールが小声で尋ねる。
「ああ。今のところな」
ジャスパーは答え、顎で甲板を示した。
「上に行こう」
三人が桟橋を抜け、ガレオン船のタラップを上がると、甲板ではルキフェルとマテオが変わらず並んでいた。マテオは肩を回しながら、いかにも楽になった様子だ。
「お、帰ってきたか」
マテオが気軽に声をかけると、それを合図にしたようにコリンがぱっと表情を明るくした。
「聞いてよー! うちの鍛冶屋さ、最近すごいんだよ」
「すごいって?」
ルキフェルが首を傾ける。
「包丁の切れ味が良すぎてさ! 漁師の人たちがこぞって通ってくるんだよ。魚が逃げる前に切れるとか意味わかんないこと言われてさ」
ニールが肩をすくめて補足する。
「もともと武器作ってた人だからね。刃物の質が段違いなんだよ、あの親方」
「なるほどな」
マテオは納得したように頷いた。
「切れすぎる包丁は、料理人の味方だ」
コリンは得意げに胸を張る。
「でしょ? 今日も魚、いいのが入ってたからさ。ちゃんと買ってきたよ」
ニールが袋を軽く持ち上げると、中から新鮮な魚と野菜の匂いがほのかに漂った。マテオは手を叩く。
「よし。少し早いが、飯にするか。ニール、コリン。材料をギャレーに運んでくれ」
「はーい」
「了解」
二人が袋を抱えて船内へ向かう。二人の背を見送りながら甲板には一瞬、穏やかな沈黙が落ちた時だった。ジャスパーがふと動きを止める。風向きが、わずかに変わった。潮の匂いに混じるものがある。
「……おい」
ジャスパーは甲板の縁へ歩み寄り、遠くの海へ目を凝らす。
「どうした?」
ルキフェルが問いかける。返事がない代わりに、ジャスパーの表情が一気に険しくなった。
「……船影だ」
ジャスパーの一言で空気が変わる。
「どこだ」
マテオが身を乗り出す。ジャスパーは指さした。
「あそこ。まだ遠いが……まっすぐ、こっちに向かってる」
穏やかだった入江の水面に見えない緊張が走る。誰も口に出さなくても分かっていた。この静けさはもう終わる。
「——フランソワ!」
ルキフェルが真っ先に叫んだ。彼の声に応えるように、船長室の扉が開く。現れたフランソワはいつものように外套を羽織ったまま、甲板の中央へ歩み出た。
「どうした」
ジャスパーが一歩前に出て、海を指差した。
「……あれだ」
フランソワは視線を巡らせ、ジャスパーの指す先を睨む。まだ遠いが、確かに船影がある。その時、足音が重なった。騒ぎを察したニールとコリンが、慌てた様子で甲板に駆け上がってくる。
「なに、なにが——」
「……あ」
二人は言葉を失った。全員の視線が集まる一点。そこに向かって、静かに近づいてくる船影。コリンの顔から血の気が引く。
「……誰か、来る……?」
マテオが低く問いかけた。
「何者だ。海軍か?」
即答はなかった。代わりに、ルキフェルが一歩前へ出る。
「……わからない。でも……この場所を知ってる奴は、数が限られてる」
ルキフェルは海から目を離さず言った。
「ベルナルドが言ってただろ。この入江は、海軍も知らない場所だって。元は……汚職に塗れた士官と、怪しい連中の取引に使われてた場所らしい、って」
フランソワは一度だけ船影を見据える。
「……なるほど。なら、持ち主が帰ってきたのかもしれん」
フランソワは五人を見渡した。
「武器の準備をしろ。奇襲は仕掛けないが……必要とあらば、迎え撃つ覚悟は持て」
誰も異を唱えない。ジャスパーは即座に剣へ手を伸ばし、マテオは義手の留め具を確かめ、ニールとコリンは互いに目配せして船内へ走り、ルキフェルは最後まで海を睨み続けた。穏やかだった入江は、完全に息を殺す。誰が来るのか。なぜ、ここを知っているのか。その答えを運んでくる船影は距離を詰めていた。マテオは船影から一度だけ視線を外し、ルキフェルを振り返った。
「……銃、残してるよな。何丁か欲しい」
「ああ。今、持ってくる」
ルキフェルが船内へ降りようとした時、マテオが思い出したように声を上げる。
「あっ。望遠鏡、持ってたりする?」
ルキフェルは立ち止まり、懐に手を入れると何も言わずに小さな望遠鏡を取り出して軽く放った。マテオは反射的にそれを受け取り、「ありがと」と言った。ルキフェルはもう振り返らない。階段を下り、船内へ消えていった。甲板に残ったマテオは深く息を吸う。
「……あいつらの様子も、見とかないとな」
マテオの頭の中で自然と確認事項が並ぶ。船の規模。人数。武器の種類。立ち位置。動線。それらを順に潰すつもりで、望遠鏡を目に当てた。
——最初に見えたのは、影だった。相手船の甲板に立つ、数人分の人影。全員が、同じ色を纏っている。黒衣。その時点で、マテオの呼吸が一瞬、詰まった。だが、まだだ。黒い服など珍しくもない。問題は所作だった。武器の持ち方。肩の力の抜き方。足の開き。互いの距離感。
「……揃いすぎてる」
望遠鏡越しに見る彼らの動きは無駄がない。個人の癖を削り落としたような、均質な挙動。同じ教育を受けた者だけが分かる、違和感。マテオの指先がわずかに震えた。そして。望遠鏡の視界の端に布地が揺れる。風を受け、黒衣の胸元に縫い込まれたものがわずかに露わになった。紋章。その瞬間、声にならなかった。頭の中で何かが弾ける。
「あ……」
黒辰封儀教団。その名を思い出すより早く身体が覚えていた。
影。囲まれる感覚。逃げ場のない距離。左腕を掴まれ、袖を捲られる。露わになる、刻印。
次の瞬間、刻印の上から突き立てられる刃。肉を裂く感触。骨に響く鈍い痛み。呻き声を噛み殺し、血に濡れた左腕を抱えて走る自分。背後で足音が重なる。追ってくる影。影。影。逃げろ。見つかる。殺される。
視界が歪んで甲板の風も波音も遠のく。望遠鏡を持つ手に力が入らない。マテオは何も言えなかった。叫びも警告も。喉の奥で空気が引き攣り、その場に立ったまま過去に引きずり戻されていた。
黒衣の集団は、自分を知っている。あの刻印を忘れてはいない。
一方、甲板では武器の分配が始まっていた。ルキフェルが船内から持ち出してきた銃を、フランソワとジャスパーが手早く確認し、ニールが弾薬を数えている。いつも通りの手順。いつも通りの空気のはずだった。カン、と乾いた鈍い音が甲板に響く。一瞬、誰も言葉を発さなかった。甲板に転がっているのは、マテオの手から零れ落ちた望遠鏡だった。全員の視線が同時にマテオへ向く。彼はその場に立ち尽くしたまま俯いていた。マテオの背中がわずかに揺れている。いや、揺れているというよりも。フランソワが最初に気づいた。マテオの肩が小刻みに震えていることに。呼吸が浅い。必死に抑え込もうとしているのが、背中越しにも分かる。
「マテオ?」
ルキフェルが声をかけ半歩、近づいた瞬間だった。マテオは喉の奥からこみ上げるものを堪えるように、咄嗟に口元を押さえた。指先が白くなるほど強く。そして、反射的に踵を返した。
「来るな!」
掠れた声と同時に、マテオがルキフェルの肩を強く押しのける。バランスを崩しかけたルキフェルを置き去りに、マテオは甲板を蹴り、船内へと駆け込んでいった。足音が階段を打ち、暗がりへと消えていく。残された甲板に沈黙が落ちた。
「……マテオ?」
ルキフェルは何が起きたのか理解できず、その場に立ち尽くしていたが、我に返って友の名を呼びながら船内へ向かおうとする。
「待て」
フランソワはマテオが消えた階段を一度だけ見つめ、それからルキフェルへ視線を移した。
「様子がおかしい。今は追い詰めるな」
ルキフェルの喉が鳴るが、フランソワは続けた。
「ルキフェル。そのままマテオのそばにいてやれ。コリン、お前もだ」
コリンは驚いたように目を見開いたが、すぐに強く頷いた。
「俺とジャスパー、ニールでここを抑える」
フランソワは甲板を見回し、遠くの船影にもう一度だけ視線を走らせる。
「争いは起こさせん。……お前たちは、隠れていろ」
命令ではないが、異論を挟む余地もなかった。ルキフェルは唇を噛んで答える。
「……分かった」
ルキフェルはコリンと共に階段へ向かう。二人の足音が船内へ吸い込まれていた。甲板に残った三人の男たちは、再びそれぞれの持ち場へつくが、空気はもう先ほどまでとは違う。フランソワは息を吐き、帽子の鍔を押さえた。
「……来るなよ」
誰に向けた言葉かは分からなかった。
マテオは階段を転げ落ちるように船内へ滑り込んだ。足がもつれ、視界が歪む。木の床が揺れているのか、自分が揺れているのか分からない。気持ち悪い。喉の奥が焼けつくように熱い。胃がひっくり返る。
「……っ、ぐ……」
声にならない音が漏れ、壁に手をつく。指先が滑り、古い木のささくれが皮膚に食い込んだ。それでも痛みは遠い。近いのは黒。黒い布。黒い影。甲板で見た、あの整列。あの距離感。あの間。同じだ。同じ教育。同じ呼吸。同じ殺し方。
「……やめろ……」
マテオの頭の中で何かが音を立てて崩れた。視界が船内から別の場所へ引き剥がされる。夜。湿った地面。逃げ場のない路地。囲まれる気配。背後。左。右。来る。反射的に左腕を引くが遅い。布を捲られる感触。冷たい空気が肌を舐める。刻印。自分の意思とは無関係に刻まれた、黒い星。
「あ……あ、あ……」
声が出ない。次の瞬間。ズブリ、と肉に入る鈍い感触。骨に当たる音。左腕を貫く痛み。視界が真っ白になる。血の匂い。鉄の味。叫ぼうとして、息が詰まる。逃げろ。逃げろ。逃げろ。床を這う自分。追ってくる足音。無表情な影。逃げても、無駄だ。
「……違う……今は……」
現実と過去が溶け合い、区別がつかない。マテオはその場に崩れ落ちた。胃が限界を迎え、喉の奥から込み上げる。
「っ……」
何度も、何度も。吐いても、吐いても終わらない。震えが止まらない。指が言うことをきかない。頭の中で声がする。お前は戻る。ここから逃げられない。刻まれたものは消えない。
「……やめてくれ……」
誰に向けた言葉かも分からない。ただ、息ができない。その時、視界の端でまた影が動いた。反射で身を縮めて左腕を庇うが、振り下ろされる刃は来なかった。代わりに床が軋んだ。足音。焦っている。走っている。そのリズムが違う。
「マテオ……!」
聞き慣れた声だが、まだ遠い。影は消えない。震えは止まらない。マテオは床にうずくまったまま、歯を食いしばる。戻りたくない。もう二度と。それでも、黒衣の影はまだ甲板の向こうにいる。
ルキフェルが船内へ駆け込んだ瞬間、空気が違った。湿った木の匂い。吐瀉物の酸。そして、人の気配が壊れている。
「マテオ……?」
返事はない。床に蹲ったマテオの背中が小刻みに揺れていた。肩が上下するたび、息が引き裂かれるような音が混じる。
「マテオ、大丈夫だ。聞こえるか」
ルキフェルが声を落としても届かない。近づくほど、マテオの背中が硬くなるのが分かる。違う。これは怪我でも、病気でもない。理由が見えない。何に怯えているのか。何が引き金なのか。どうすれば止まるのか。分からない。分からないことが、こんなにも怖いとは思わなかった。
ルキフェルは一歩、踏み出しかけて止まる。下手に触れたら、壊してしまいそうだった。その瞬間、記憶が唐突に浮かび上がる。木製の天井。知らない声。知らない匂い。
「名前は?」
「どこから来た?」
「覚えていないのか?」
分からない。分からないのに、次々と投げつけられる言葉。答えられないたび距離が詰められる。視線が増える。息が浅くなる。やめてくれ。そう思っても、声が出ない。手が出た。誰かを突き飛ばした。怒鳴り声。押さえつけられる腕。胸が、潰れる。——息ができない。視界が暗くなり、音が遠ざかる時、何も言わずに誰かが屈んだ。肩に重さ。手の温度。言葉はなく問いもない。それだけで呼吸が戻った。あとから聞いた。
「気を読む。ただ、怖がる者に寄り添うだけでいい」
リュウ・ヨシマサの声。
「……そうか」
ルキフェルは息を吐いた。理由を探すのをやめる。言葉を選ぶのをやめる。必要なのは答えじゃない。ルキフェルはゆっくり近づいて、音を立てないように床に膝をつく。マテオの背後、斜め下。影に入る位置。手を伸ばす前に、ほんの一瞬ためらってから、そっとマテオの肩に触れた。マテオの震えが乱れるが、逃げない。ルキフェルは何も言わない。呼吸を合わせることもしない。ただ同じ空間で同じ揺れを受け止める。
コリンは階段の途中で立ち尽くしていた。何が起きているのか、分からない。でも、分かってしまった。これは冗談じゃない。いつも強い人が文句を言いながらも笑っていた人が床に崩れて、吐いて、震えている。大人が壊れている。コリンの喉がひくりと鳴った。声をかけたい。でも、何を言えばいいのか分からない。足が勝手に一歩だけ動いたが、それ以上は行けない。代わりに、そこにいる。逃げない。視線を逸らさない。ルキフェルが何も言わず、ただ手を置いているのを見てコリンは悟った。今は静かにいるべきなんだ。コリンは拳を握りしめ、息を殺す。怖い。でも、離れない。
マテオの呼吸はまだ荒く、震えも止まらない。
それでも、床に伏した背中のそばに二つの気配が残った。
一人にしないという選択だけがある。




