第五章② ダラス家
一方、海軍側では第八部隊が連れ帰った駐在士官への尋問と証拠品の押収によって、ブレスト司令部の上層部は頭を抱えていた。
サン・マロの街全体、駐在する士官全員が賄賂と裏取引にまみれていたことが判明し、かつてない事態に司令部は混乱していたのだ。第八部隊は激務に追われ、他の士官を捕えるための準備を急かされる。
そんな中、マクシムと交流のあった第八の隊員もイヴォン・ローランは深いクマを浮かべながら海沿いを歩いていた。手には封筒。数枚の報告書の写しが入っている。イヴォンは小さく息を吐きながら呟いた。
「なんというか、辺鄙なところにあるんだな」
彼が視線を落とす先にはキール通りに位置する一軒の宿舎がある。同僚からの報告によれば、あの宿舎に例の男がいるはずだ。イヴォンが宿舎に足を踏み入れた途端、玄関前にいたサミュエルが目を光らせ、問いかけた。
「用件は何だ?」
イヴォンは落ち着いた声で答える。
「あなた方の隊長に会いたい」
サミュエルは少し驚いたがすぐに表情を緩め、宿舎内の執務室へと案内した。やがてイヴォンが執務室の扉を開けると、マクシムは執務机に向かって書類の山に埋もれるように作業をしていた。マクシムはイヴォンの姿に気づき、手を止めて顔を上げる。
「あれ、あなた。先日の——」
イヴォンは笑みを浮かべ、言った。
「助言に感謝するよ。君に言われた通り、サン・マロに行って駐在士官を調べ上げた。そしたら、驚くべきことがあってな」
イヴォンは言葉と共に封筒から数枚の書類を取り出し、マクシムに差し出す。マクシムはその書類を受け取り、目を通す。瞬く間に顔色が変わった。
「そんな……全員が、賄賂と裏取引に応じていたなんて」
イヴォンは深く息をつき、肩をすくめる。
「そんなわけで、しばらくは士官全員を調べ上げることになってな。海賊の件は後回しになりそうだ」
マクシムは目を伏せ、机の書類に手を置いたまま額に汗を浮かべた。
「後回しって……海賊に逃げられてしまいます」
イヴォンは肩をすくめ、淡々と言う。
「上層部としては、これまで見えてなかった腐敗を一掃するのが優先事項だとさ。それに、海賊だってすぐ遠くに逃げはしないだろう」
マクシムは顔を強ばらせ、声を低くする。
「違うんです。国の威信がかかってるんです。すぐ近くにいるのに、また大海賊を取り逃がしては……」
イヴォンは穏やかに息をつき、机の書類をちらりと見ながら答えた。
「まあ、焦っても仕方ないだろう。辛抱強く待て」
しばらく沈黙が流れた後、イヴォンが話題を変えた。
「そうそう。捕まえた士官の家に興味深いものがあってな。いくつも鍵がある中、入江の鍵だけが無かった」
マクシムは顔を上げ、言葉を詰まらせた。
「入江……?」
マクシムは思わず机に肘をつき、目を細めて考え込んだ。
「サン・マロに入江なんてありましたっけ?」
イヴォンは肩をすくめ、笑みを浮かべるでもなく言う。
「さあ、俺も知らないな。ただ、あれだけ汚い金で成り立つ街なんだ。秘密の場所の一つや二つくらいあっても不思議じゃない」
マクシムの眉間にしわが寄る。入江の響きだけで、未知の可能性と警戒すべき場所が浮かぶ。マクシムは眉をひそめ、イヴォンに問いかけた。
「他に何かありましたか?」
イヴォンはしばらく考え込む素振りを見せた後、口を開く。
「そうだな、変な帳簿を見つけた。裏取引のものだろうが……」
彼はマクシムの手元にあった書類の一枚を裏返し、指で資料を指し示す。
「ここにMって書いてある。これだけ正体が分かってない」
マクシムはすぐに反応した。
「名前ですよね」
イヴォンは肩をすくめ、軽い口調で冗談めかす。
「マクシミリアンのMか?」
「やめてください」
マクシムが渋い顔をし、イヴォンはにやりと笑って答える。
「冗談だ。ま、このMの正体が人なのか物なのかはハッキリしない。尤も、あの汚職士官がMに関して口を割らないからな」
マクシムは額に手をやり、深く息をついた。存在の正体が見えないMの一文字が、今回の一連の騒動にどう絡んでくるのか、頭を悩ませずにはいられなかった。イヴォンは書類を片手に、マクシムをじっと見つめた。
「その様子だと、君も心当たりはなさそうだな」
マクシムは軽く頭を下げ、声を落として答える。
「お力になれず申し訳ありません」
イヴォンは肩をすくめ、少し柔らかく微笑んで書類をマクシムに差し出しながら言った。
「気にするな。じゃ、その書類はくれてやる。お前のために写したやつだ。任務に役立ててくれ」
マクシムは思わず目を丸くした。
「いいんですか?」
イヴォンはにやりと笑い、手を振った。
「気にするな。お互い様だ。じゃ、またなんか進展あったら来るわ」
そう言ってイヴォンは執務室の扉を閉め、部屋を後にする。マクシムはしばらく机に突っ伏していた書類をじっと見つめた。写しには駐在士官の裏取引や帳簿の詳細、あの「M」の文字が黒々と記されている。指先でページをなぞりながら、マクシムは息を吐いた。
「この『M』。いったい誰のことなんだろう」
マクシムの頭の中で断片的な情報が巡り、可能性の一つひとつを潰していくが、何度思い返しても答えは見えてこない。裏取引の金の流れ、汚職士官の態度、そして鍵のない入江の存在。マクシムは深く息を吸い込み、拳を机に押し当てる。
「焦っても仕方ないが、見過ごすわけにもいかない。まずはこの情報を整理、次の行動を考えよう。焦らず、確実に」
決意を固めるように背筋を伸ばし、彼は写しを丁寧に机の上に広げた。嵐のような日々の中でも、まだ動き出せる余地があることを噛みしめて。
イヴォンが宿舎を後にして海沿いの道に出たところだった。宿舎の塀の裏から一つの影が彼を襲う。
「……っ!」
イヴォンが反応するより早く、影はハンカチで彼の口を塞いだ。ものの数秒で彼の身体はどさりと崩れ落ち、影——ダミアンは相変わらず感情のない目でイヴォンを見下ろしていたのだった。
そしてイヴォンが目を覚ました時、彼は船上で縛られていた。
「——ッ!」
水が容赦なく顔に叩きつけられた。喉が引きつり、肺が悲鳴を上げる。咄嗟に息を吸い込もうとして、縄に縛られた身体が大きく跳ねた。甲板に打ちつけられた背中に鈍い痛みが走る。
「……げほっ、く……!」
イヴォンが咳き込みながら顔を上げた瞬間、視界に映り込んだのは揺れる夜空と船の帆柱だった。
「……船、だと?」
混濁した意識が一気に引き戻される。塩の匂い。木材の軋む音。足元から伝わる、はっきりとした波の揺れ。ここが陸ではないことを身体が先に理解していた。
次に視界の正面。炎を背に二人の男が立っている。一人は気取った装いの男。夜の色を吸い込むような衣服に、薄い亜麻色の髪。口元には甘ったるい笑みが貼りついているが、目は笑っていない。理由は分からないが、直感が告げていた。こいつが場を支配する側だと。
その男の隣。腕を組み、わずかに前へ出て立つ、鋭い眼差しの男。短い黒髪、引き締まった体躯。余計な表情が一切ない。こちらは刃物だ。
「……二人とも、海軍じゃない」
そこまで思考が到達したところで、イヴォンはようやく異常の全体像を掴み始めた。視線を巡らせる。甲板の端。灯りの外側。そこに、もう一人。煤を払ったような灰色の髪。存在感が異様なほど薄い青年が控えていた。こちらを見ているはずなのに視線が合わない。まるで、影だけが立っているかのよう。
「……あいつが、やったな」
宿舎の裏。海沿いの道。背後から迫った気配の欠如。イヴォンは、はっきりと思い出した。反応できなかった。いや、最初から認識できなかった。そして、自分の周囲。いつの間にか、黒衣の男たちが半円を描くように立っている。顔は伏せられ、表情は見えないが、その立ち方、その間合い、その沈黙。統制が取れている。即席のならず者ではない。海賊でも、兵士でもない。
「宗教……いや、信徒か?」
イヴォンの背筋に冷たいものが走る。イヴォンは喉の奥で息を整えながら、縛られた自分の手首を一度だけ確認した。結び目は丁寧で無駄がない。逃げることを想定していない縛り方だ。拉致、監禁。目的は尋問。結論に至った瞬間、彼はようやく顔を上げ、正面の男——ドミニクを見据えた。
「……随分、手荒な招待だな」
イヴォンの声は掠れていたが、震えはなかった。ドミニクは楽しそうに肩を揺らす。
「目覚めの挨拶が必要だっただけさ。君、なかなか起きなくてね」
イヴォンは確信した。自分は知らない男たちに攫われた。しかも、相手は正体を隠す気がない。
「……これは、戻す気のある拉致じゃない」
ドミニクはイヴォンの反応を確かめるようにゆっくりと口を開いた。
「君は……イヴォン・ローラン。そうだね?」
ドミニクの指先がひらりと何かを振る。革張りの小さな手帳。使い込まれた角。表紙の擦れ。イヴォンの私物だった。
「……返せ」
ドミニクは気にも留めず、ぱらぱらとページをめくった。紙の擦れる音がやけに大きく甲板に響く。
「うわ、真面目だね。日付、簡潔な要点、行動記録……さすが第八。几帳面すぎて可愛。ま、都合よく核心が書いてあるわけないか」
ドミニクは手帳を閉じると軽く振ってからイヴォンの視界の端へ放り投げる。拾わせる気はない位置だった。ドミニクは首を傾げる。
「じゃ、聞こうか。君たち海軍は今、何を探ってるんだい」
イヴォンは視線をそらしたまま答える。
「さあな。俺はただの隊員だ。上から降ってきた仕事を、淡々と片付けてるだけ」
「ふうん」
ドミニクは楽しそうに相槌を打ち、イヴォンは逆に問いを投げた。
「この船、どこに向かってる?」
ドミニクは拍子抜けするほどあっさり答える。
「サン・マロだよ」
その瞬間、イヴォンの眉がわずかに動いた。
「……サン・マロ、か。また行かされるとはな。つくづく縁がある」
ドミニクは一瞬だけ目を細めた。イヴォンは続ける。
「サン・マロの関係者なら……Mについても、多少は詳しそうだな」
甲板の空気がほんのわずかに変わった。ドミニクの笑みは崩れないが、その奥にあった遊びの色がすっと薄れる。
「……まあね。でも、今ここでは関係ないかな」
そう言って彼は横目で隣のピエールを見ると、ピエールが即座に動いて腰元から小さなケースを取り出し、無言で開く。中に収められていたのは細身の小瓶。淡い光を反射する液体。それを見た瞬間、イヴォンは悟った。
「……自白剤」
同時にイヴォンの背後で気配が増える。黒衣の信徒たちが一斉に間合いを詰めてきた。逃げ場はない。縄がきしみ、肩が押さえ込まれる。
「やめろ——!」
イヴォンが声を上げるより早く、顎を掴まれた。ピエールの手は冷たく、迷いがない。ドミニクはイヴォンの耳元で囁いた。
「安心して。痛くはないよ」
その言葉が一番信用できなかった。瓶の口がイヴォンの唇に触れる瞬間、無理やり流し込まれた液体が喉を焼くように滑り落ちた。
「……ッ、ぐ……!」
イヴォンの身体が大きく跳ね、視界が揺れる。思考がじわりと溶け始める感覚。ドミニクはその様子を満足そうに眺めながら告げた。
「さあ。今度こそ聞かせてよ、イヴォン・ローラン。君たちが何を見つけかけているのか」
液体が喉を落ちきった瞬間、すぐに何かが起きたわけではなかった。だが、数秒後。イヴォンの視界がぐらりと傾いた。甲板の木目が波打つように歪み、空と海の境目が溶け合う。自分が縛られている感覚だけは、やけに生々しく残っているのに身体の輪郭が曖昧になっていく。
「……くそ……」
イヴォンの頭の奥で鈍い痛みが脈打った。ドミニクの声がすぐ近くで聞こえているはずなのに、まるで頭の中から直接響いてくるようだった。
「楽にして。抵抗しなくていい」
その言葉が何度も反響する。疲労が一気に噴き出してきた。何日も続いた尋問、帳簿の山、眠れない夜。そこへ、薬が静かに入り込んでくる。意識は沈むが、消えない。喋るな。何も言うな。はっきりと、そう思っていたのにドミニクが問いかける。
「サン・マロで……何を見つけた?」
一瞬、口が重くなる。言うものか。だが次の瞬間、自分の声が勝手に流れ出た。
「……駐在士官、全員の汚職……賄賂……裏帳簿……証拠……」
違う、違う、黙れ。喉が意思を無視して動いている。言葉が滑り落ちていく。
「……M……金の流れの符号……正体不明……」
ドミニクはふぅんと小さく相槌を打つ。
「なるほど。じゃあ……どうして、そこまで分かった?」
問いが落ちた瞬間、イヴォンの中で警鐘が鳴る。
——そこは言うな……!
だが、口はもう止まらない。言葉が歯の隙間からこぼれる。
「……若い士官が助言を……マクシミリアン・ブーケ……地方を見ろって……」
ドミニクがわずかに眉を上げた。イヴォンの視界がさらに滲む。
「総司令部の指令も重なって……それで……サン・マロに直接、踏み込んだ……家宅捜索……帳簿……証拠……押収……」
息を吸う間もなく続けてしまう。頭の中では必死にブレーキを踏んでいる。だが身体は、完全に別のものだった。ドミニクは肩をすくめる。
「まあ……だいたい予想通りだな。で、そのマクシミリアンくんは……何者?」
その瞬間、イヴォンの意識がかろうじて浮上するが、声は淡々と事実を並べる。
「海賊討伐が主任務の……部隊長……少数精鋭……という名の……厄介人員の寄せ集め……あんまり、舐めない方がいい……」
そこで、脇に控えていたダミアンが一歩前に出る。
「……おそらく。その男が先ほど私が確認した、あの宿舎の主人です」
ドミニクはちらりとダミアンに視線を向ける。
「ふーん」
驚きも警戒もない。軽く情報を受け取っただけ。
「……こいつ……」
イヴォンの意識の奥で、かすかな怒りが灯る。ドミニクはつまらなさそうに息を吐いた。
——なるほどね。思ったより、普通だ。
海軍の“問題児部隊”。多少は面倒かもしれないが、致命的な脅威には見えない。今はまだ。ドミニクは再びイヴォンを見下ろし、微笑んだ。
「ありがとう。十分だよ」
イヴォンは必死に歯を食いしばる。
「……覚えてろ……」
だが、薬はまだ効いている。イヴォンの呼吸は浅く不規則だった。視線は定まらず、まぶたが半分落ちたまま言葉だけが漏れていく。今度はピエールが一歩前に出た。
「……で。今、海軍は何をしてる」
ピエールの問いにイヴォンの喉がわずかに動く。息を吸う力すら、もう残っていない。言葉が砂のように崩れ落ちる。
「汚職士官……全員、尋問……処分……総司令部、判断待ち……」
ピエールは目を細める。
「つまり?」
イヴォンの唇がかすかに震えた。
「……内部……大混乱……」
それが最後だった。言い終えるや否やイヴォンの首ががくりと垂れ、身体の力が完全に抜ける。ドミニクは少しだけ楽しそうに息を吐いた。
「うん。必要な情報は、ちゃんと抜けた」
イヴォンを一瞥するが、視線に同情は一切ない。
「じゃ、これで好き勝手に動けるってわけだ」
独り言のように呟くと、ドミニクは踵を返した。
「放っておいて。死にはしないでしょ」
それだけ言い残し、甲板の縁へ歩いていく。信徒たちは何も言わず、イヴォンをその場に残した。ピエールもまた、ちらりとイヴォンを見る。
「……ついてねえな」
感想とも判断ともつかない一言を落とし、ドミニクの隣へ並んだ。二人の視線の先には進行方向に広がる海と、その先にあるサン・マロの影。ドミニクが口を開く。
「明るくなってから、彼らと接触する」
ピエールは頷いた。
「……引き入れる気ですか?」
「できれば、ね」
ドミニクは唇の端をわずかに吊り上げる。
「彼らは追い詰められている。恐怖も、怒りも、十分に熟してる。こちら側に引き込むには……今が、いちばんいい」
船は何事もなかったかのように進み続ける。甲板の隅でイヴォンは意識の底へ沈みながら、自分がすでに駒として使われた後だということすら知らないまま、放置されていた。




