第五章① 第八部隊員、イヴォン・ローラン
ブレスト司令部の一室。冷えた石壁に書類の擦れる音だけが吸い込まれていく。
「——というわけで。君たちの隊に怪しい動きは一切見られない、と我々第八は結論した。はい、以上」
淡々としているのか、面倒くさがっているのか判別もつかない声音だった。
革手袋をつけた第八部隊、イヴォン・ローラン隊員が書類を閉じながら、まるで今日の配達は終わりとでも言うように軽く肩を竦める。
第八部隊。腐敗調査、査問、軍犯罪の摘発、そして「内側の裏切り者」の粛清を生業とする、軍内でもっとも嫌われる影の部署。旧ブルボン派の炙り出しのために作られた出自だけあって、彼らが同じ階段を上ってきただけで多くの士官は背筋を伸ばす。
マクシムは儀礼通りに胸へ手を当て深く一礼した。
「査問、ご苦労さまです」
マクシムの声は丁寧だが、内心では「いや、調べなくても分かるだろうが」と毒づいていた。自分の隊が厄介者の寄せ場なのは確かだが、だからと言って海賊暗殺事件の首謀者扱いは短絡的にも程がある。
——リラとスザンヌにも、悪いことをしたな。
宿舎を留守にしている間、二人がどれだけ気まずい思いで第八の査問に応じただろう。彼女たちの顔を思い浮かべると、胸の奥がじくりと痛む。イヴォンは無造作に後ろ手で扉を押し開きながら、「じゃ、次の部屋いくか」と小声で同僚に言って、そのまま廊下へ消えた。
「あ、ちょっと待ってください」
マクシムが思わず声を上げると言ったそばから扉が勢いよく跳ね返るように開いた。
「はい、なんすか?」
イヴォンのあまりの反応速度にマクシムは「速っ!」と心の声が口から飛び出しかけた。なんとか飲み込んで姿勢を正し、軽く咳ばらいする。
「ええと……お聞きしたいことがあって」
イヴォン隊員はちらりと壁の時計を見て、針が進むのを目で追ってから肩をすくめた。
「少しならいいですよ」
「ありがとうございます。その……いなくなった士官たちの件ですが。結局、まだ見つかっていないんですよね?」
「で、それが?」
イヴォンが冷めた目線でマクシムを凝視している。促すというより用件早く言えの圧を感じる視線。マクシムは一瞬たじろぎつつも続けた。
「他所の部隊の自分が、こんなこと口にするのは烏滸がましいと分かってます。ですが……地方の港なんかも調べたほうがいいんじゃないでしょうか」
マクシムが言った瞬間、イヴォンの目がじろりと細くなる。マクシムは慌てて手を振った。
「いや、分かってるんですよ! 内部調査があなた方の役目だってことは。本当に。ですが、今の司令部の中だけ調べても何も出ないって、あなた方だって分かってるじゃないですか」
短い沈黙。そのあとイヴォンは深く息を吐いて、ぼそっと言った。
「……そんなこと、俺たちだって分かってんだよ。全部、参謀本部の指示で動いてんだから、しょうがないだろ」
イヴォンはこめかみを押さえるようにしてぼやいた。
「まったくよ……なんで参謀共が参謀の役目を果たせてねぇんだ。バカだろ、あいつら」
あまりにも直球の本音に、マクシムは思わず苦笑しながら宥める。
「お、お気持ちは分かりますけど……口に出すと余計に疲れますよ」
イヴォンは鼻を鳴らしたが、少し肩の力を抜いたようだった。マクシムはここぞとばかりに、もう一つ気になっていたことを口にする。
「皆さんは……その、いなくなった士官たちをどう捉えているんですか?」
「そりゃもう決まってるだろ。俺らの間じゃ『旧ブルボン派の連中だった』って推測が立ってる。見せしめに生かしてた海賊をわざわざ殺して回るなんて、現体制側への嫌がらせ以外に理由がねぇ」
「やっぱり、そうなんですか……」
イヴォンはすぐにピシャリと言葉を重ねた。
「あくまで推測だ。そこは間違えるなよ。ただ……この海軍には、まだ過去の影を引き摺る奴らがいるのも事実だ。今回の件は、それを裏付けてるとも言える」
マクシムは頷いて切り出す。
「それなら、彼らは地方に根を張っている可能性があります。ほら、サン・マロなどどうでしょう? 僕たち第七もフランソワの行方を追っていますし……利害は一致するはずです」
イヴォンは腕を組み、少し考えこむ。
「約束はできねぇが……検討はする。ま、あの参謀本部の馬鹿共に進言くらいはしてみるよ」
ぶっきらぼうに言い捨てるとイヴォンは踵を返し、部屋を出ていった。扉が閉まり、室内に静寂が落ちる。マクシムはひとつ、深い溜息をついた。
「シャルル……こんなので、本当にいいのでしょうか?」
彼の脳裏に浮かぶのはオレンジ色の髪を揺らし、片眼鏡の奥で微笑む男。マクシムが司令部に出かける前に投げられた言葉が今も背に刺さる。
——第八を通してサン・マロを調べさせる。極めて簡単な作戦ですよ。
彼の柔和な笑顔が今の状況からはあまりにも遠かった。
「……と、いうわけで。港に駐在する士官たちを、一度我々の手で調べ上げたいと部下たちが言っているのですが」
イヴォンはいつもの無表情のまま淡々と述べた。ここはブレスト司令部の一室。ブレスト司令部を束ねる上級士官と、並び立つ参謀部長たちによる定例会議の最中だった。いきなり差し出された提案に、参謀部長の一人が冗談めかした声を上げる。
「ほう。君たち、第八はパリ参謀本部の犬だと思っていたが……ちゃんと心があったのか」
イヴォンは舌打ちしそうになる口元を、必死で押しとどめた。代わって、上級士官が穏やかな声で口を開く。
「急にどうしたんだい。今までは粛々と任務をこなすイメージだったが」
「アドバイスを受けましてね。……第七部隊の一人から」
「第七? ほう、誰なんだい?」
「マクシミリアン・ブーケ隊ですよ。ほら、あの若いの」
イヴォンの言葉に、会議室の空気がざわりと波立った。
「ああ、あの部隊か……」
「厄介者ばかり集めたあの薄気味悪い連中の?」
「例の海賊の件に首を突っ込み続けてる、あの?」
「第八が、よりによって第七の助言で動くとはな……」
囁き声、皮肉、ため息が入り混じり、会議室にわずかなざわめきが満ちる。イヴォンが少し眉を上げて尋ねた。
「有名なのですか? 彼ら」
参謀部長は書類を指先でとんとんと揃え、乾いた笑いを漏らした。
「有名も何も……問題児だらけの部隊だよ。大元帥の鶴の一声で結成された、少数精鋭部隊。——名目上は、な。だが実態は、海軍史に残るレベルの厄介者の寄せ集めだ」
部長は手元の報告書をひらりと持ち上げた。
「フランソワ海賊団の捕縛任務。ここにある彼らの報告書によればだ。『フランソワ海賊団、そのうちの一隻を捕縛。その後、偶然通りかかったフランソワ海賊団の本艦を追跡したが、あえなく反撃に遭った』」
最後の一文を読み上げたところで部長は額を押さえた。
「……結果、本艦は取り逃がすし、船は一隻ダメにする。無鉄砲にもほどがある」
彼の横で聞いていた高官たちがなんとも言えない顔で視線を交わす。部長はさらに深く椅子に沈み込み、天井を見た。
「民衆を煽動して、俺たち参謀部を散々揺さぶっておいて結果がこれだ。ほんと、なんと言ったらいいのか……貶す気にもなれん。そこまで行くともう才能だよ」
部長の嘆息が落ち着いたころ、イヴォンが静かに一歩前へ出た。
「なら、その才能にいっそ期待してみてはどうでしょう」
参謀部の視線が一斉に向く。イヴォンは続けて言った。
「我々、第八部隊は内部だけに目を向けても、もう限界を感じています。事件解明のためにも、どうかパリにいる参謀本部へ我々の考えをお伝えいただきたいのです」
一瞬、部屋がしんとした。参謀部長と上級士官が互いに短く視線を交わす。やがて、上級士官が重々しく口を開いた。
「……よかろう。今は迷っている暇も争っている場合でもない。自分たち同士に疑いの目を向けるのは、もう疲れた。時間はかかるだろうが、君たちの意見は必ず総司令部に届けよう」
イヴォンは深々と頭を下げた。静かな礼の所作が、昼下がりの作戦室にゆっくりと落ちていく。
一方その頃、パリ総司令部でも同じうねりが生まれ始めていた。大元帥専用の執務室。高窓からの光が机上の文書の白を照らし、室内は普段以上に張り詰めている。
エリオットは一通の国書を手にじっと目を走らせていた。国王陛下直筆の厳かでどこか燃えるような熱を帯びた文面。
この間の「大海賊フランソワの一派の変死事件」に関する報告書、確かに読んだ。
海軍内部の管理体制の甘さ、捜査の遅れ、事実関係の曖昧さ。
これら全て看過できぬ問題である。いま必要なのは外敵ではなく“内”の精査だ。
速やかに、かつ徹底的に海軍所属の一人一人を調査せよ。
その結果を、遅滞なく朕に届けることを命じる。
威厳ある筆致は丁寧で決して取り乱してはいないが、文に滲む不快感と怒りはエリオットが読み飛ばせるような軽いものではなかった。
「三ヶ月ぶりだな……陛下がここまで露骨に苛立ちを文に滲ませるのは」
彼はそっと国書を閉じ、机に置くと椅子にもたれながら天井を仰いだ。
「しかし……内部を調べろと言ってもな。やはり気になるのはブレスト司令部だ……この間の報告書にも『不審な人物なし』とあった。行方をくらました士官たちが見つからない以上、内部を探っても無駄」
独り言のように呟きながらエリオットは指先で机上を軽く叩き、思考の方向を切り替える。
「……よし、視点を変えよう」
エリオットは椅子に座り直し、片肘をついて静かに読みかけの地図へ視線を落とした。
「もし消えた士官たちが旧ブルボン派、あるいはその残党に通じていたのだとすれば、どこへ向かう? 王都はあり得ん。監視の目が多すぎる。……国外? いや、国外へ出るなら船の記録に痕跡が残る。となると……」
エリオットの視線が一点に止まる。ぽつりと漏れた声は確信に近かった。
「……地方の港、だな。まずは各地に駐在する士官たちに怪しい動きがないか調べさせよう。それと家柄。人脈。接触先。旧ブルボン派の影は、間違いなくどこかで息を潜めている。必ず突き止める。陛下の仰せでなくとも、な」
エリオットは地図から視線を離し、ふうっと息を吐いた。思考の迷路を抜け、結論が形になった瞬間、彼の声は迷いなく響いた。
「よし。これを参謀本部に伝えるか。」
エリオットは椅子を押し、立ち上がりながら口の端を引き上げる。
「国王陛下の御名も添えておけばいい。多少の圧は必要だろう」
脅しでも傲慢でもなく、背中を押すための重みを正確に理解している男の声音だった。エリオットは机上に指示書を引き寄せ、ペンを取る。静かな執務室に、さらさらと筆記具の音が落ち始める。
ブレスト司令部からの「地方の港を洗いたい」という提案、そして大元帥直々の命令。それらに板挟みとなったパリ参謀本部は、わずかな逡巡ののちに白旗を上げた。
五日後にはもうブレストに配置された第八部隊へこう通達が飛ぶ。
「今すぐ港に駐在する士官を調査せよ。必要であれば第二部隊に協力を求めてもよい」
命令が届いた瞬間から、第八部隊は息をもつかせぬ早さで本領を発揮した。
まずは各港の駐在士官の駐在年数、これまでの経歴、任務の成績、提出された報告書の文体や内容の整合性。そこから家柄、実家の経済状況、親族との繋がり、必要とあらば家宅捜索まで踏み込む覚悟で調査範囲は一気に広がっていく。
第八部隊が動けば逃げ場はない。そう言われる所以だった。その網の目にまず最初に引っかかったのは、サン・マロ港に駐在する一人の士官だった。資料室の机。山積みの帳簿をめくっていた第八部隊の隊員が、ページをめくる手を止める。
「……おい、これ見ろ」
別の隊員が顔を寄せる。そこに記されていたのはここ数年、給与に到底見合わない高額の買い物の記録。嗜好品、装飾品、家具。しかも、それらを買った時期はほぼ決まって、ある任務終わりに集中していた。隊員は鼻で笑った。
「変な金の流れだな。誰かから金をもらってるか、裏で取ってるか。どっちにしてもクサい」
第一のほころびが音もなく見つかった瞬間だった。サン・マロ駐在士官の帳簿を前に、資料室の空気がじわりと張り詰める。そこへイヴォンが歩み寄ってきて、無言で記録を覗き込んだ。しばし沈黙。やがて彼は喉の奥で呟くように言う。
「……なんで今まで見つけられなかったのかが不思議だな。こんなの、一目でアウトだろ」
イヴォンの語気は静かだが、奥に怒気が滲む。
「家宅捜索だ。今すぐ縛り上げて問い詰める」
彼の一言で椅子を蹴る勢いで立ち上がり、資料室にいた全員が一斉に動き出す。椅子が倒れ、外套や武器を掴む音が次々響く。第八部隊特有の決まった瞬間の爆発力が、一気に場を駆け抜けていった。そんな喧騒の中で、イヴォンだけは一度手元の帳簿に視線を落とす。ページの隅を軽く指で叩きながら、ぽつりと呟いた。
「……あいつ、これを知らせたかったのか」
思い出したのは真剣さと不器用さが混じった、あの若い第七部隊の顔。心の中で礼を言ったイヴォンは帳簿を脇に抱え、資料室を後にした。廊下へ足を踏み出すと、部下たちはすでに出立の準備を完了させている。冷たい空気を裂くように、イヴォンの声が響いた。
「サン・マロへ向かうぞ。獲物は逃がすな」
第八部隊の“狩り”が始まった。
二泊三日の馬車旅を終え、第八部隊はサン・マロの石畳を踏みしめた。昼間から堂々と街路を闊歩する彼らに、住民たちは露骨に眉をひそめるが、第八は気にも留めない。むしろ道を譲るようにとばかりに肩で風を切り、まっすぐ駐在士官の自宅へ向かった。目的の屋敷の前に立つと、まずイヴォンが前に出て扉をノックした。数秒ののち、扉が軋む音を立てて開く。顔を出した駐在士官は見慣れない黒装束の一団を前に、露骨にギョッと目を見開いた。
「ご、ご苦労様です。えっと、あなた方は……?」
穏やかに聞いてくるが、その声には警戒より先に不安が混じっていた。そこへイヴォンが軽く会釈しながら答える。
「第八部隊の者だ。この度、司令により『駐在士官へは定期的に訪問せよ』という方針になった」
柔らかな声音。礼儀正しい姿勢。一見、ただの業務連絡。駐在士官も胸を撫で下ろしたように「ああ、そうですか」と応じる、その瞬間だった。イヴォンは穏やかな笑顔のまま、鋼のような手つきで扉を押さえ込んだ。
「ですので。今一度、こちらを調べさせてもらう」
本性が滲む低い声に変わる。駐在士官が反応するより早く、第八部隊の影が一斉に動いた。数人が士官の両腕を押さえ込み、後方から縄が回され、あっという間に身動きを封じられる。
「な、なにを、待っ、聞いてくれ! 私は何も!」
士官の叫びは最後まで続かなかった。口を布で塞がれ、無理やり椅子に押し込められる。隊員たちは無言のまま家の中へ雪崩れ込み、引き出し、棚、床下、納戸、あらゆる箇所を容赦なくひっくり返し始めた。家宅捜索は三十分も経たずに戦果を挙げた。物資管理記録の改ざん跡、密輸業者との取引用に作られた裏帳簿、期限切れの停泊許可証。棚を開けるたび、床板を剥がすたび、腐った金の匂いが湧き水みたいにあふれ出てくる。イヴォンは埃の積もった帳簿を片手でめくりなが冷えて乾いた声で言った。
「……おい。このMはなんだ?」
縛られた駐在士官は床に押しつけられたまま顔だけこちらを向け、乾いた笑いを漏らす。
「答えないな」
「ふざけるな。聞いてんだよ」
「言わねぇって言ってんだ。言ったら殺される。あんたらよりも、もっとヤバい連中に」
それ以上は何も言わなかった。いや、言えなかったが正しいかもしれない。イヴォンは士官の目をじっと覗き込み、ふうと小さく鼻を鳴らして帳簿を閉じた。彼が視線を上げると、部屋の隅に妙なボードがあった。釘が等間隔に打ち込まれ、鍵束がぎっしり並んでいるが、一つだけぽっかりと鍵が掛かっていない釘があった。イヴォンは釘の前へ歩き、上の錆びた小さなネームプレートに目をやる。
——入江。
手書きの薄れた文字だが、決して消されていない。この士官が自分で分かるように残した痕跡。
「この鍵。どこにある?」
駐在士官は口を固く閉じたまま微動だにしない。しばし無言。やがて、唾を飲み込みながら嗄れた声で言う。
「言ったら殺される。だから言えねぇな」
イヴォンは目を伏せ、ぽつりと呟く。
「そこに主が居る、ってことか」
頭の中に海の底みたいに重い影がよぎる。大海賊フランソワの名が浮かび、彼はほんの少しだけ眉を寄せたが、すぐに感情を引き出しへしまい込み、淡々とした調子で言う。
「……まあ、俺たちの任務は内部粛清だ」
イヴォンの背後の第八部隊の面々が二言目を待つように静止した。そのままイヴォンは続けた。
「海賊のことは専門の奴らに任せるとする。よし、一度戻るぞ。帰ったら報告と尋問だ。証拠と奴を連れていけ」
第八部隊は「了解」と答え、慣れた手つきで証拠品を袋に詰め、駐在士官を立たせた。士官は縛られたまま引きずられ、足をもつれさせながら家の外へ出される。昼の光が差し込む中、第八部隊は一切の躊躇もなく、依然沈黙の重いサン・マロの街路へ戻っていった。
サン・マロの裏通りは昼でも影が濃い。潮気を吸った木箱や腐りかけの網が積み上がり、鼻につく酒精と古い血のにおいが混じっていた。そんな死角の死角、倉庫の壁と壁の切れ目で二つの気配がじっと息を潜めていた。
ピエールとダミアン。第八部隊が駐在士官を縄で縛り、証拠品の包みを抱えて屋敷を出ていく。重いブーツの音が石畳に響くたび、路地の空気がわずかに震えた。ピエールは引き立てられる駐在士官を眺めながら片頬を歪めた。笑みというより潮に濡れた鉄を舐めるような音のない嘲り。
「やれやれ……あいつもとうとう捕まったか。まあ、夢蛇はちゃんと動かせたしな。……問題は、海賊共のほうだ」
あの入江が何を意味するか。どれだけの金と血が動いている場所か。ピエールは心得ていた。ダミアンが落ち着かない靴音を立てる。若いくせに腕っぷしはあるが、人の消え方を何度も見たことはないタイプの震えだ。ピエールはそんな弟分へ、冷ややかな眼差しを向ける。
「あそこがバレるのも時間の問題。ドミニクを呼び寄せて、こっちから奴らに接触するしかない」
ドミニクという言葉に、ダミアンの喉がごくりと動いた。裏の世界で兄貴と言えば、家族でも仲間でもなく、名指しを避ける必要がある種類の男たちだ。ピエールはダミアンの肩を二本指で軽く叩き落とす。
「おい、聞いてたろ。ブレストへ行って探れ。海軍の奴らの動きを追うんだ」
ダミアンは反論を飲み込み、馬へ飛び乗る。蹄が路地を叩く音が港の喧騒に紛れながら遠ざかっていった。残されたピエールはほんの一瞬だけ空を見上げる。日が落ちる前の、わずかに赤い空。血の色に似ていた。
「さて。オレはドミニクのところだ。あいつを幻から連れ戻さねえと」
ピエールは独り言のように呟き、馬に跨がった。彼の背が路地から消えたあとも、裏通りにはしつこく残る気配だけが漂い続けていた。まるで、この街全体が誰かの影に監視されているかのように。
ニールとコリンは鍛冶屋の煤を払ったあと市場へ向かっていた。昼どきのサン・マロは魚の匂いと人いきれでむんとする。いつものざわつきのはずだった。その雑踏の中に妙な波が走り、ざわめきがひとつの方向へ吸い寄せられる。
「……ん? なんだあれ」
ニールが気配に気づき、コリンもつられて振り返る。見えたのは縄で両腕を縛られ、歩幅も乱れたまま連れ去られていく駐在士官。その周囲を囲むのは、見慣れない制服。港町の空気に似合わないほど冷えた眼をした士官たち。コリンの顔色がみるみる青ざめた。
「ニ、ニール……あの人たち、もしかして……」
コリンの声が震えていた。ニールは息を吸い、瞬きを一度だけしてから小声で答えた。
「たぶん、海軍の連中だ。しかも上のほう」
コリンは唇をかんで頷き、ニールも同じように頷き返す。二人の中で何かが合意された。関わらない。目に入れても、踏み込むな。市場を満たすざわめきの向こうで、駐在士官の靴音と第八部隊のブーツの重い音が遠ざかっていく。ニールとコリンは、買い物の品をそそくさと袋に詰めると、余計な視線を向けずに足早に市場を後にした。
街の喧騒を知らない、ひっそりとした入江。潮の匂いと小さな波音だけが、薄灰色の空気の中を往き来している。その入江とサン・マロを隔てる鉄扉のそばで、ルキフェルは腕を組んで門番の役をしていた。そろそろニールとコリンが戻ってくる頃合いだ──そう思った矢先。
ガン、ガンガンッ!
鉄越しに焦りを帯びたノックが響く。ルキフェルは眉を顰めて問いかけた。
「……合言葉は?」
すぐに返ってきたのは裏返りそうなコリンの声だった。
「そ、そんなこと聞いてる場合じゃないよ! 開けてよ早く!!」
ルキフェルは深く息を吐き、低く制する。
「声を出すな。落ち着け。冷静になれ」
入江の静寂がコリンの焦りをそのまま反響してしまうのを嫌うように。小さく間があき、今度はニールの低い声が扉越しに届いた。
「——波は引き、名は残る」
正しい合言葉。ルキフェルはすぐに懐から鍵束を取り出し、カチャリと慣れた手つきで錠前を外した。扉の隙間から、強ばった顔の二人を通す。
「急げ」
二人が内側に足を踏み入れたあと、ルキフェルは扉を半分だけ開いたまま、外を覗いた。細い路地、近くに人影はない。わずかに息をついて、扉を閉じる。
ギィ……ガチャン。
鍵束のひとつを確かめるように鳴らし、完全に錠を落とすとルキフェルは二人の方へ向き直った。
「よし、もう大丈夫だ。で、何があった?」
「……あの汚職士官が捕まった」
ニールが低く告げた。リンが必死に何度も頷く。顔色が悪い。ルキフェルは息をのみ、表情だけは崩さずに二人を見やる。
「……そうか。なら、話し合いだな」
ルキフェルは二人に視線で「ついて来い」と促し、入江の奥に停泊しているガレオン船へ歩き出す。波が船底を叩く規則的な音だが、そのリズムさえ今は落ち着かない。ニールとコリンは黙ったまま、少し早足で後に続く。ルキフェルもまた、何も言わずに歩き続けた。入江の冷たい空気が、焦げつく思考を冷ますには足りなかった。
「船長室だ。そこで全員の意見をまとめよう」
三人がタラップを上がり、甲板へ足を踏み入れた瞬間、そこに腕を組んだジャスパーが立っていた。風に揺れる前髪の下、妙に落ち着かない目つき。いつもの軽口が影を潜めている。ジャスパーはルキフェルをじっと見据え、低く言った。
「……悪い知らせだろ」
彼の問いに、ルキフェルはわずかに顎を引いて答えた。
「ああ」
ジャスパーはほんの一瞬だけ目を細め、苦笑とも嘆息ともつかない息を漏らす。
「だと思った」
自分の当たってほしくない予感がまた的中してしまった、やるせなさが滲んでいた。こいつは昔から勘が鋭すぎる。ルキフェルはそんな不本意な特技をよく知っていた。ルキフェルはニールとコリンを振り返り、低く声を落として言う。
「お前ら、ギャレーにその荷物置いてこい。ついでにマテオも連れてきてくれ」
二人は小さく頷き、階段を降りて船内へと消えていった。ルキフェルは甲板に残るジャスパーに向き直る。
「どんな知らせだと思う?」
ジャスパーは肩をすくめ、無愛想に答えた。
「知らねえな」
ルキフェルは沈んだ声で続ける。
「あの汚職士官が捕まったと」
ジャスパーは目を細め、皮肉交じりに言った。
「どの汚職士官だよ。サン・マロの海軍士官なんて、みんな金に手を突っ込んで好き勝手してる。街を牛耳る連中の裏で蠢く連中も、表じゃ笑顔で握手してんだぜ」
ルキフェルはジャスパーの言葉を黙って飲み込み、甲板の木目に目を落とす。ほどなくして、ニールとコリンがマテオを連れ戻してきた。五人が船長室に揃うと、その異様な空気を察したフランソワは、机からゆっくりと立ち上がった。
「何があった」
フランソワの声にはいつもの余裕はなく、微かな緊張が混じっていた。ニールとコリンは互いに目配せをし、震える声で街で見た光景を報告する。五人全員が、表情こそ落ち着かせていたものの、身の危険を肌で感じていることは隠せなかった。フランソワは黙って耳を傾ける。いつもならすぐに行動方針を示すあのフランソワでさえ、今回の事態の重大さには答えを見いだせず、しばらくの間、机の上に置かれた手を握りしめたまま沈黙を守った。
「……鍵は、俺の元にあるんだ」
五人の視線が一斉にフランソワに集まる。普段なら指揮官として先陣を切るフランソワが、今回は妙に慎重な判断を口にしたのだ。
「この人数で、このでかい船を動かしても意味がない。ここは……粘ってやり過ごすしかないな」
マテオが即座に声を荒げた。
「はあ!? 船を動かさないって、何言ってるんだ! 今こそ動くべきだろ!」
ジャスパーも眉をひそめ、腕を組む。
「フランソワ。それじゃ……おれたち、ただ座ってるだけってことになるじゃねえか。ありえない」
ニールもコリンも心なしか顔を曇らせた。フランソワはそんな反発を前にわずかに眉を寄せたものの、口を閉ざしたまま沈黙する。普段の強気な指揮官像とは違う、稀な慎重さを仲間たちは重く受け止めざるを得なかった。
「だめだ、フランソワ! それじゃ俺たち何のためにここにいるんだ!」
ルキフェルが風を切るような声で叫ぶ。フランソワは机に手をついたまま深い溜息をつく。
「分かっているが、今動けば全員が危険にさらされるだけだ」
ジャスパーが足を踏み鳴らした。
「危険だろうと、何だろうと動かなきゃ意味がねえ! 待ってるだけで奴らの思う壺だ!」
ニールが二人の間に割って入り、冷静を装いながらも苛立ちを隠せずに言った。
「確かにフランソワの言うことも理屈としては分かるよ。でも、僕らがじっとしてる間に、奴らは好き放題やるだけだ」
コリンも頷き、声を加える。
「ぼくたちも何か行動しないと。船を動かせなくても情報を取りに行くとか」
マテオは少し俯きながらも言葉を続ける。
「オレたちは生き延びるだけじゃなく、仲間を守る責任があるんだ。待っているだけじゃ……」
フランソワはじっと仲間たちの顔を見回した。普段は一言でまとめてしまう判断を、今回は慎重に考えようとしているのだ。しかし、五人の熱意はあまりに強く、船長室に緊張の空気を張らせていた。フランソワは重く頷き、ようやく口を開く。
「……分かった。なら、計画を練ろう。動くにしても、無鉄砲はやめる。全員の命が最優先だ」
ルキフェルは窓の側に立ち、暗い入江を見つめながら言った。
「鍵が俺たちの側にある限り、この入江には誰も侵入できない。海から海軍が襲ってこない限り、俺たちは身を隠せる。だが……長くは持たないだろうな」
ニールが肩に軽く力を入れながら前に出た。
「視察に関しては僕とコリンに任せて。鍛冶屋で働いている限り、街の動きは常にチェックできるから」
マテオは少し腕組みをして、低めの声でつぶやいた。
「じゃ、オレは夜に紛れて偵察に行くとするか。他の士官のことも気になるし、街の裏事情も確かめておきたい」
ジャスパーは片手を腰に置き、鋭い目で周囲を見渡してから口を開いた。
「あまり遠くへは行くなよ。汚職の街と言ったって、フランス海軍やイングランド海軍も休息で立ち寄るだろうし……万一遭遇したら面倒なことになる」
ルキフェルは頷き、甲板の空気を引き締めた。
「よし、全員それぞれの役割を把握した。行動は慎重に、でも確実にな」
ところが、彼らがどれだけ警戒したとて数日経っても生活は依然として変わらぬままだった。
ニールとコリン、そして夜に偵察に出たマテオ。三人の報告を聞いても何事もなかった、特に変わった様子はないと伝えられるばかりで、ルキフェルは困惑を隠せなかった。
このまま春を迎えてしまうのではないかと不気味に思うほどに静かで、どこか張りつめた日々が続いた。




