第四章⑤ サン・マロにて
サン・マロの海風は冬に向けて塩気より冷たさを増していく。
ニールとコリンは肩を並べ、石畳の通りを歩いていた。町に溶け込もうとしても、二人の海の匂いはどうしても隠せない。
「食糧、あと三日分ってマジで言ってる?」
コリンが低くぼやくとニールは苦笑した。
「マテオの分を削れば五日は持つけど……まあ殴られるね」
「だよね。あの人たち、ほんと外歩けないし」
ルキフェルの顔の傷は、サン・マロでは戦争の古傷に見えなくもないが、赤髪のジャスパーは目立ちすぎるし、マテオは顔が良すぎる。町娘にキャーキャー言われる前に役人に怪しまれるタイプだ。だから、表に出て働けるのは二人だけ。冬を越すにはどうしたって金がいる。通りすがりの住民に「仕事探してる」と声をかければ、みな一様に手を振る。
「仕事? なら鍛冶屋にでも行っときなよ」
「若いんだし、力仕事でしょ?」
雑すぎる町民たちの答えにコリンは頭を掻いた。
「ねえニール、これ絶対聞き流されてるよね」
「でも他に当てもないし……一応、行くだけ行こう」
二人はため息をそろえて吐き、鍛冶屋へ向かう道を曲がった。鉄を打つ音が遠くから微かに響き始める。希望というより、諦めに近い期待だ。この町で海賊の労働力なんていらないだろ、と二人とも薄々理解している。それでも向かうのは、入江に残してきた仲間の顔が浮かぶからだ。ルキフェルの無骨な背中。ジャスパーの順当に問題児な赤髪。冬の寒さに弱そうなマテオの細い指。
「……やるしかないね」
ニールが呟くとコリンも頷いた。二人の影が長く伸びる先、鍛冶屋の煙突から煙が揺れている。鍛冶屋の前まで来ると、鉄を打つ重い音が一瞬途切れた。職人が汗をぬぐいながら、店先に立つニールとコリンを一瞥する。ニールはいつもの人畜無害スマイルを最大限に発動して、一歩前へ出た。
「こんにちは。僕ら、兄弟で仕事を探してるんです。もしよければ、雇ってもらえませんか?」
爽やかすぎて、この町では逆に怪しまれるタイプの笑顔だ。職人は「は?」という顔で二人を見比べた。
「若いのに物好きだな。うちはな、人手が足りないって言っても死ぬほどの重労働だぞ? 一日もたずに泣いて帰るのがオチだ。ほらほら、帰った帰った」
追い払うみたいに手を振る職人。だが、ニールは引き下がらない。
「待ってください。力仕事は慣れてます。なんでもやります。ほんと、なんでも」
「ほんとかよ。なら鉄塊五十個運べるか?」
「……やります」
「顔が死んでるぞ」
「大丈夫です」
そんな攻防を横で聞きながら、コリンはふと視線を室内に滑らせた。薄暗い工房の奥。鉄と煤の匂いに混じって、ほんのわずかに別の香り。薬品の気配がする。そこで、視界の端に奇妙なシルエットが引っかかった。ガラス管。乾燥台。小さな加熱炉。見覚えがある。コリンの口からぽろっと漏れた。
「あ、あれ……錬金術の器具じゃん」
鍛冶屋の男がビクッと振り返った。
「君、あれを知ってるのか?」
問いかけられたコリンはハッと口を押さえかけたが、誤魔化すにはもう遅いと悟り肩をすくめた。
「あー……うん。昔、少しだけ触ってて。じいちゃんの手伝いで」
言葉にした瞬間、心の奥に古い光景が浮かび上がった。
薄暗い山小屋。煤けた卓。白い髭のお爺さんが、いつも難しい顔をしながら何も生み出さないかもしれない実験を繰り返していた。コリンは彼の横で少し熱を持ったガラス管をそっと持って、お爺さんの手元を照らしていたものだ。もう戻れない世界だが、鍛冶屋はそんなコリンの内心など気にする様子もなく、目を細めて彼をじっと見つめた。
「錬金術を触れる若ぇのなんて、滅多にいねぇぞ」
ニールの交渉が全然進まない横で、職人の興味は一気にコリンへ向かっていた。コリンは作業台のガラス器具をしばらく見つめたまま、ぽつりと訊く。
「この街に錬金術師がいるの?」
職人は鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「いや、今はいねぇよ。昔ひとり居候してたが、ろくに成果も出せずにどっか消えた。まあ、店の雑用くらいはやってくれたからマシだったけど」
「どんな研究してたの?」
コリンがさらに踏み込むと、職人は苦笑いしながら肩をすくめる。
「アクセサリー作りさ。石の質を変える、金属を軽くするとか言ってな。うまくいけば売れると思ったんだと。……まぁ、世の中そんな都合よくはいかねぇわな」
アクセサリーという単語に、コリンはほんの一瞬だけ胸の奥がきゅっとした。お爺さんの実験の片隅にも似たような夢があった気がする。その時、ニールが視線を店内に巡らせながら口を開いた。
「この鍛冶屋さんって、何を作ってるんですか?」
職人はニールを振り返り、壁に並ぶ剣や刃物を顎で示した。
「うちは武器専門だよ。槍、短剣、船用の鉤爪もな。前は国公認の海賊がいた時代があったろ? あいつらがバンバン買ってくれたんだが……今じゃ海賊は犯罪者。売れなくてよ。踏んだり蹴ったりさ」
ニールとコリンは思わず顔を見合わせた。
私掠船時代。国章の入った旗を掲げ、堂々と海を渡っていた頃。合法の海賊として武器を受け取り、戦っていた頃。そこで、ニールは何か思いついたように明るく言った。
「それじゃ……町民向けに調理道具を作るのはどうです? 包丁とか、鍋の取っ手とか。需要、けっこうあると思いますよ」
いつもの軽いノリに聞こえるが、食糧が底をつく前に仕事を見つけたいという焦りも混じっていた。職人はちらりとニールを見ると、ごつい腕を組んだまま彼の提案に「へぇ」と眉を上げた。
「若えのに頭は回るじゃねぇか。調理道具ねぇ……町民相手なら確かに売れそうだ」
職人に褒められた瞬間、ニールは ここぞとばかりにサラッと嘘の経歴を差し込む。
「僕ら、こう見えて職人の父がいたんです」
彼の語り口が妙に自信満々で、横のコリンも「え、今それ言う?」みたいな顔を一瞬したが、すぐに乗って頷いた。ニールは続ける。
「生前の父からしごかれたんです。僕は設計と計算、そして知識。この子は発明。僕らそれぞれ長所があって、頭脳と技術を分担してたんですよ」
職人は「ほう?」と興味深そうに身を乗り出す。完全に食いついてる。ニールの演技力よ。
「で、思ったんです!」
ニールが指を鳴らして勢いよく身を乗り出す。
「あなたが武器生産で培った技術を使えば、相当いい包丁が作れますよ! それも切れ味バチバチのやつ!」
そのバチバチという擬音に、職人の口元がニッと上がった。まるで「その言い方好きだわ」と言わんばかり。
「……気に入った!」
どん、と作業台を叩きながら職人は豪快に笑う。
「お前ら、ウチで働け! 武器が売れねぇなら、包丁で攻めりゃいい。久々におもしれぇ風が吹いてきたわ!」
ニールとコリンは思わず顔を見合わせる。職人はもうノリノリだ。
「さぁ、まずは材料の選別からだ。包丁ってもな、武器と同じだ。中途半端な鋼じゃ話にならん。いいか、俺についてこい!」
勢いよく奥の工房へ歩き出す職人の背中を見て、ニールは小声でコリンに囁く。
「ねぇ、僕ら……なんか思ったよりガチの職人ルート入ってない?」
「……い、いけるよね? 多分」
二人は半ば引きずられるように工房へ足を踏み入れた。そして本気の包丁作りが、今まさに幕を開けるのだった。
こうして鍛冶屋のアドバイザー兼助手という妙に立派な肩書きを手に入れた二人は、職人から渡された小さな報酬袋を腰に下げ、市場の屋台でパンを六つ買った。井戸端で水袋にも水を分けてもらい、日の傾き始めた街道をゆっくり戻り始める。袋の中のパンが揺れるたび、コリンはちらりと横のニールを盗み見た。
「……ねぇ、ニール。まだ信じられないんだ。仲間が、死んだこと」
ニールは歩みを止めなかったが、返事もなかった。沈黙だけが、冷たい潮風のように二人のあいだを吹き抜ける。
フランソワが告げた捕らわれた仲間たちの死。それは処刑でもない。病で倒れたわけでもない。ましてや飢えで朽ちたわけでもない。牢獄の中で全員が何者かに殺された。
彼の言葉は数日前の夜からずっと胸に刺さりっぱなしだった。
あの日を境に入江に残っていたフランソワ海賊団の生き残りたちは限界が切れたように四散した。冬の厳しさ、飢え、寒さ、そして先の見えない絶望。みんな、とうに気づいていたのだ。もう海賊では生きていけない、と。
ある者は入江を出てサン・マロに移り、陸の仕事に就いた。トルチュ島に帰る夢を静かに胸の底へ沈めて。フランソワは彼らの背中を止めなかった。むしろ、陸で居場所を見つけられるのなら、それが一番だとすら思っていた。だが、五人組だけは残った。陸を追われた自分たちが今さら陸で生きるなんて無理だと分かっていたから。そして何より、自分たちは諦めない。フランソワと一緒に必ずトルチュ島に帰る。また海賊団を作り直す。それが、殺された仲間へのせめてもの償いだと思ったから。
夕暮れの道を、二人の影が長く伸びる。ニールは前を見たまま、ようやく息をついた。言葉にはしないが、ニールの横顔だけでコリンは分かった。彼も同じ痛みに立ち止まっているのだ、と。
静まり返った入江は、まるで音そのものが凍りついてしまったかのよう。潮の満ち引きさえ弱々しく、どこか遠慮がちだ。
ガレオン船の甲板にルキフェルはただひとり立っていた。手には愛用のカットラス。刃は磨かれているのに、彼の胸の奥はどれだけ磨いても濁ったまま。彼は目を閉じ、肺いっぱいに冷たい海気を吸い込む。ゆっくりと吐き出す。今日こそ自分に向き合う。心を鎮め、流れを整える。足を開き、腰を落とし、静かに剣を構える。太極剣の型は本来なら水のように滑らかで、澱みのない動きになるはずだった。一歩。二歩。肩で風を切らず、ただ流れに身を委ねるように剣を滑らせる。刃先が空を描き、まるで薄い霧を払うように弧を描く。
ほんの少しだけ心が軽くなるが、仲間の笑い声がふっと耳の奥によみがえった。
あの時の顔。捕縛された日の顔。そして、フランソワに告げられた全員の死。脳裏に影が差す。型がわずかに乱れた。続けようとする。だが今度は、入江を去っていった仲間たちの後ろ姿が浮かぶ。置いて行かれる感覚。残された者の痛み。何も守れなかった自分への苛立ち。心の流れが濁り、手首が固くなり、呼吸が荒れた。それでも続けようとしたが、突然ぷつんと何かが切れた。
「……くそっ!」
甲板に金属が叩きつけられる鋭い音が響いた。ルキフェルが振り下ろしたカットラスは、木の板に深く食い込み、わずかに震えている。彼の呼吸は乱れ、拳は硬く握りしめられ、爪が掌に食い込んだ。怒りとか悲しみとか焦りとか、そういう名前のつかない感情がぐちゃぐちゃに渦巻いて、胸の奥をかきむしる。
「なんでだよ……!」
入江には彼の声だけが痛いほど響き渡った。カットラスを叩きつけた衝撃の余韻がまだ甲板に残り、冷たい風が刃を揺らす。その音すら今のルキフェルには煩わしかった。その時、背後から落ち着いた声がした。
「……気が乱れてるぞ」
振り返らなくてもわかる。この言い方、この温度。
「って、リュウは絶対言うだろうな。今のお前を見て」
フランソワはにやりともせずルキフェルの隣に立った。
「俺だって悔しい」
海風にさらされるフランソワの声はいつもよりずっと重かった。
「仲間が訳もわからず殺されて……何も分かってないのが悔しい」
フランソワの言葉は怒りというより、深い深い無力さの色を帯びていた。ルキフェルはぽつりと漏らす。
「……なんとか、探ることはできないんだろうか」
フランソワは小さく首を振った。
「今は冬を越すことを考えよう。話はそこからだ」
現実は冷たい。正論すぎて余計に胸が痛い。ルキフェルは視線を入江の出入り口へ向けた。マテオが門番の持ち場を守っている。ちょうどジャスパーが近づき、二人は軽く顎をしゃくって役目を交代した。その光景が妙に胸に刺さる。
「……こんな生活、耐えられない。けど……死にたくはない」
ルキフェルは拳を開いたり閉じたりしながら続ける。
「今は辛抱する時期なんだな」
フランソワは少しだけ目を細め、彼の肩を軽く叩いた。
「そうだ。辛抱だ。でも……希望がないわけじゃない。お前ら五人が残ってくれただけで、俺はまだ立っていられる」
強がりではない。海賊団を失った船長の正直な本音だった。しばらく二人の間に波の音だけが続いた。ルキフェルの呼吸はさっきよりゆっくりで深い。握っていた拳もいつの間にか力が抜けていく。
「……少し、落ち着いたか?」
フランソワが横目で問う。ルキフェルは肩をすくめて笑った。
「まあ、さっきよりは」
ちょうどその時、入江の扉のほうで誰かが言葉を交わす声がした。
「合言葉は?」
「海の子は風とともに」
ジャスパーの問いかけに外扉の向こうからコリンの声が返り、続けてニールの軽い調子が重なる。
「はいはい、通してよ先輩。荷物重いんだから」
ジャスパーが気怠げに扉を開く。三人の笑い混じりの声が、風に乗って船のほうまで届いた。その光景をフランソワと並んで見つめながら、ルキフェルは息をついた。ゆっくり、胸の奥の重しがほどけていくように。
「……そうだな。まだ仲間がいるから。俺も……やっていけそうだ」
フランソワは腕を組んだまま満足そうに頷いた。扉を潜った三人と、作業を引き継いで戻ってきたマテオが揃ってこちらへ歩いてくる。パンの袋をぶら下げたコリン、水瓶を抱えたニール、手を振るジャスパー、そして無言で気配を整えて歩くマテオ。入江の薄暗がりを背景に、彼らがひとつの列になって進んでくる姿はどこか戻ってきた家族のようだった。フランソワとルキフェルはタラップを降り、彼らを迎えに歩き出す。重く沈んだ空気の底で、ようやく少しだけ暖かい灯がともるようだった。
サン・マロ駐在士官の自宅。外では凍てつく潮風が壁を叩いていたが、裏口の鍵は音もなく外れた。闇がひとつ。否、影が影を引き連れるように家の中へ滑り込む。
ダミアンだった。足音はない。呼吸の気配もない。人間が動いているとは思えないほど、空気の流れに近い無音。薄暗い廊下を抜けると、灯りの漏れるリビングが見えた。そこだけ妙にぬるい。酒と蝋燭、古い木材の匂い。そして、人の体温。
ソファに深く身を沈めている男がいた。ピエール。黒い短髪、無駄のない体躯。スレートグレーの瞳は相変わらず光を吸い込み、感情の起伏を拒んでいる。そして左腕には金色の輪。蝋燭の火を受けて、異様に鮮やかに輝いていた。
室内には他にも数名の人影があった。だが彼らはもはや士官ではない。立ち姿は揃い、視線は伏せられ、呼吸すら抑えられている。誇りも忠誠も、国家もすでに脱ぎ捨てた顔。まるで命令を待つ器のようだった。ピエールは視線を向けないまま口を開いた。
「……来たんだな、ダミアン」
気配だけで弟の存在を捉えている。ダミアンは返事をしない。煤を落としたような灰色の髪。薄く濁った瞳。生きているというより、使われ続けた痕跡に近い。一人の信徒がわずかに首を動かした。
「……彼が、影の影ですか」
信徒の声に感情はない。疑問ですらない、確認だ。ピエールは指先をひらひらと振った。
「気にするな。ただの道具だ」
言葉は軽いが、冷えきっていた。その金の腕輪が微かに揺れる。
——これはお前が本物で、あいつは代用品だ。
父の囁きが、今も輪の内側に刻まれているかのようだった。ダミアンは瞬き一つしないが、兄を見つめる瞳の奥にだけ、かすかな熱が宿っていた。ピエールは一度だけ弟を見た。
「……なんで来た?」
問いではない。邪魔な物体が視界に入ったことへの事務的な確認。ダミアンは感情の欠片も浮かべず、機械的に頭を下げる。
「シルヴェストル様のご指示です。兄上のお手伝いをせよ、と」
ピエールは小さく舌打ちした。
「ったく……余計なことしやがって。オレ一人で十分だろ」
完全に独り言だった。ダミアンに向けられた言葉ではない。そもそも彼は、弟を会話の相手として数えていなかったが、ダミアンは淡々と続ける。
「それと、シルヴェストル様から通達です」
ピエールの視線がわずかに戻る。
「十五代目コルヴァンとの書簡のやり取りを、今後は黒辰封儀教団側に一任させたいと」
ピエールの眉間にはっきりとした皺が刻まれた。
「……は? 兄上、どういうつもりだ」
ピエールは指でこめかみを押さえ、ソファに深く体を沈め、ちらりとダミアンを見る。
「そんな地味で面倒な仕事……この“道具”の方が適任だろ」
ダミアンは反応しない。怒りも、屈辱も、否定もない。ただ受け取るだけだ。ピエールは鼻で笑った。
「まあ、いいか。長男には逆らえねえ」
命令に従うことを当然として刷り込まれた声。従属を疑うという発想そのものを、幼い頃から奪われてきた人間の響きだった。
「やれって言うなら、やるしかねえだろ」
ピエールはそう結論づけ、再び視線を逸らす。彼の左腕で金の腕輪がかすかに鳴った。ダミアンは何も言わない。命令は受け取った。十分だった。しばしの沈黙。やがてピエールは信徒たちを見回した。
「……お前ら。いつまで、その肩っ苦しい服を着てるんだ?」
信徒たちは一斉に膝をついた。返事はない。
「脱げ。今すぐだ」
合図のように彼らは動いた。旧式の制服無音で外されていく。金属の留め具も鳴らさない。ダミアンとピエールの視線が自然と同じ場所へ落ちる。
左腕。二の腕の内側。肌の色に紛れるように刻まれた、黒星の刻印。
目立たせる意図はないが隠す気もない。それは誇示のための紋章ではなく、これは誰のものかを示す印だった。攫われた貴族の子供たち。名前も家も血筋も奪われ、ただ使うために育てられた者たち。自分の持ち物に名を書きつけるような、あまりにも無造作な感覚で刻まれた証。階級はない。格差もない。あるのはただ、「教団の所有物である」という事実だけだった。彼らが纏うのは黒地の簡素な装束。その背中には黒い星の紋章。布に縫い込まれたそれは、夜空を模したように光を吸っていた。ピエールは満足そうに口角を上げる。
「……いい顔だ。それでこそ、使い物になる」
信徒たちは顔を上げない。誇りも、恐怖もない。ただ、待つ。狩りの合図を。その場の空気が張りつくなか、ピエールはふと天井を仰いだ。フランソワの一件で屋敷が静まり返っている分、行動の余地は少ない。
「さて……これからどうしたもんか。フランソワどもに動きがねえ以上、オレたちゃ手の出しようがねえ。また手紙運びに逆戻りか?」
ピエールの突き放すような声に、ダミアンがすぐ反応した。
「その件ですが……シルヴェストル様が、情報の運搬も教団側に任せると決めたそうです」
ピエールは顔を下げもせず盛大に吐き捨てる。
「じゃあ、ますますやることねえじゃねえか」
ピエールはしばらく黙っていたが、指先で顎を掻きながらふてぶてしく息を吐いた。
「ま、しばらくは密輸管理の手伝いだな。牢内の海賊どもを一斉掃除するために夢蛇を大量にぶち込んだ話、ドミニクが聞いたら烈火のごとく怒るだろうよ。まずはあの大量に仕入れた夢蛇を持って、ドミニクのところへ詫び入れに行くか」
ダミアンは頷くが、そこに兄への反論の余地は最初からなかった。
その後、季節は厳しく冷え込み、退屈で息の詰まるような日々が続いた。
入江に潜むフランソワたちは外に出ることもできず、洞窟の湿った石壁を睨みながら冬をしのぐしかなかった。ニールとコリンが代わる代わる町へ働きに出て稼いだ金でわずかな食料を買い込み、それをマテオが手際よく調理して皆に行き渡らせる。飢えをしのぐためのささやかな宴は彼らの日々にひとときの温もりをもたらした。暇を持て余したときは「鍛錬だ」と言い訳しながら剣を交え、互いの腕を磨き、身体を鈍らせないように必死だ。
その一部始終を岬に詰める駐在士官が密かに監視する。彼らの存在を海軍から隠し通し、動きがあれば即座にダラス家へ報せる。そんな取り決めが水面下ではずっと生きていた。
こうして海賊たちが凍てつく冬のただ中で息を潜めている頃、海軍側には遂に進展が訪れようとしていた。




