第四章④ ダラス家
入江から這い出るように、士官はサン・マロへ続く街道を歩いた。
夜風は潮の匂いを洗い流し、かわりに冷えた石畳の香りが肺に沈む。彼の背後では波間で揺れた追悼の焔がまだくすぶっているはずだったが、彼は振り返らない。ただ任務の重さと自分が吐き捨ててきた死の報告の余韻だけが、肩にぬめりついている。街へ入れば夜更けの灯りがまだいくつか窓辺に残っていた。どこかの家族が眠りにつく時間。彼にとってはこれからが仕事の始まり。
駐在先を兼ねた自宅の扉を開けると、室内は薄闇に沈んでいた。暖炉だけが生き物のように揺らめき、その橙は部屋の奥のソファを柔く照らしていた。そこに人影がもたれている。士官は扉を閉めて靴底の砂を払いながら、その背に向かって声を落とした。
「……ドミニク・ダラス殿。ご指示の通り、あいつらに仲間の死を伝えてきました。反応は、狙いどおりです」
士官の淡々と報告する声が暖炉の火に吸われた。その瞬間、ソファに凭れた人物の肩が戯けたように揺れる。ゆっくりと首が返り、黄金に近い薄い亜麻色の髪が、炎の明滅で濡れた糸のように光った。
男——ドミニク・ダラスは士官を見た。だらしなく甘い口元が夜にふさわしい残酷な角度にゆがむ。青灰の瞳は、いつものように底が見えない水面のようで今はどこか悦楽に濁っていた。
「そう……よくやったじゃないか」
甘い声だった。煙に混ざった媚薬みたいに空気へ溶けていく。
「悲しみに沈む顔ほど、人間は……すぐ壊れる」
脚を組み替えた拍子に派手なサロン用の衣装の裾がひらりと揺れた。その下に潜む鍛えられた筋肉が一瞬、炎の赤に浮かぶ。虚飾の仮面を外せば、獣のように整えられた体だけが真実を語る男。ドミニクは暖炉の揺らめきを背に、喉の奥で低く笑った。
「さあ……彼らがどれほど乱れてくれるか、楽しみだね」
士官は暖炉の火で顔の影が濃くなるのも気にせず、慎重に言葉を選んだ。
「しかし、今のフランソワ海賊団は戦力が大幅に削れています。あれでは……我々にとって、利用価値があるとは思えないのですが」
”我々”にはひとつの色がある。旧ブルボン派。もう一度、あの王権と栄光を引き戻そうとする亡霊たちの集団。ドミニクはくすりと笑った。音が甘いのに温度はまるで反対だった。
「だからこそ、だよ」
暖炉の火が彼の青灰の瞳を一瞬だけ金に染めた。
「弱った犬ほど、手を差し伸べやすい。絶望した者は、誰にでも縋る。だからこそ……ダラス家と連立すればいいと誘い込むんだ」
ドミニクはソファの肘掛けに指を滑らせる。その仕草は官能的で、裏に毒の棘が仕込まれているようだった。
「そのためにも、こうして『怒りの種』を撒いているんじゃないか。彼らが燃え上がれば、あとは風向きさえ整えれば……勝手にこちらへ流れてくる」
ドミニクはゆるく笑いながらも目だけが冷えていく。
「あいつらは、ダラス家に降る。少なくとも──兄は、そう確信してるな」
士官の眉がわずかに動く。長年、この派閥に身を置いてきた彼でも今の発言は一歩踏み込んで聞こえた。
「……あの、フランソワの仲間を殺した件ですが。もしや……」
士官の声が震えた。その名を口にするとき、彼の中で何かが軋む。
「あなた方、ダラス家の仕──」
その瞬間、ドミニクの指が炎の瞬きより早く持ち上がった。人差し指が空を切り、口元の前に縦に添えられる。
「シー」
ひどく静かな音だった。甘さの奥に底冷えする“命令”の罠が落ちている。士官は口を閉じざるを得なかった。ドミニクの指先ひとつに、言葉の喉が塞がれる。まるで、何かに触れてはいけない扉の前で止められた子供のように。ドミニクは微笑んだ。無邪気な仮面が、焔に照らされて歪む。
「……語らなくていいよ。知らない方が、君も長く生きられる」
次に静寂を破ったのは、ドミニクがソファ横の小箱を指先でまさぐる音だった。何かを取り出す仕草に士官は無意識に背筋を伸ばす。
「まあいいや。詮索はそこで終わり」
ドミニクが指の間でくるりと小瓶を回す。暖炉の火が、瓶の中の青い液体を妖しく照らし出した。
「これはお礼ね。君も……少し、溺れてみなよ」
ドミニクの声は囁くというより、堕とすための罠だった。士官の手に小瓶が触れた瞬間、背筋がぞくりとした。
「……これは?」
士官が尋ねると、ドミニクは嬉しそうに可愛い玩具を自慢する子供のように目を細めた。
「夢蛇だよ。東の密林で神官が扱う儀式用の幻覚剤。精霊だの神の声だの、本当かどうかは知らないけど……まあ、脳がとても賑やかになる」
瓶の側面を彼は爪でコツコツと叩く。
「ただし。これは現地そのままじゃない。ダラス家で勝手に精製、勝手に調合。濃度を落として、新しい香りを足してね……社交界では香として流通してる」
士官の表情が曇るが、ドミニクは気にしなかった。
「吸っても、薫らせても、飲んでもいい。手軽で華やか、でも芯は猛毒」
甘ったるい声のまま、ドミニクは不気味なことをさらりと言った。
「上流階級は刺激に飢えてるからね。『危ない香り』は流行る。……それで、うちの家業はだいぶ潤ってる。兄もご満悦だよ」
士官が言葉を失っていると、ドミニクはそっと身を乗り出した。
「安心して。君に渡したのは薄いもの。ほんの少しなら、世界が綺麗に見えるだけ。……深く飲むと、戻ってこれなくなるけどね?」
青い液体が火の揺らぎと共に怪しく震える。
「さあ、仕事の後くらい……少し、夢を覗いてみなよ?」
士官は青い液体をしばらく掌の上で転がすように眺めていた。火の明滅が瓶底に小さな渦を作る。やがて、士官はぽつりと呟いた。
「……あとで試す」
それだけ言い残して、小瓶を軍服の内側へ滑らせた。それから士官は扉の影にできた暗がりへ視線を向けたまま、ためらい気味に口を開く。
「しかし……よく国王にバレませんね。こんなものを、あちこちに撒いていては」
暖炉の熱に照らされたドミニクは、答える代わりに肩越しに笑みを描く。溶けた砂糖に刃が埋まっているような笑い方だった。
「そりゃあ……君の賄賂の秘密が国王にバレないのと同じ理屈だよ」
士官は息を呑む。ドミニクは楽しげに続けた。
「中毒に陥った貴族たちは弱みを握られたも同然だしね。『守ってやる代わりに、こちらに票を』ってさ。人って、甘いものには簡単に寝返る」
彼はソファに深く沈み込み、片手で額の髪を払いながら笑った。
「それに……この程度で驚くの? 父上なんて、もっと危ない商売してたんだよ。薬じゃない。もっと生々しいの」
士官は表情を強張らせる。ドミニクは片目だけを細め、火の赤に照らして告げた。
「——人身売買さ」
暖炉の火が鳴った。士官は先ほどの生々しい告白を胸の奥で丸め、そっと机の引き出しに押し込むような顔をした。それから、声の調子だけを平らに整えて問いかける。
「……それで、私はこれからどうすれば?」
ドミニクは脚を組み替え、部屋の乾いた空気を一度吸い込んでから軽く答えた。
「しばらくは様子見かな。自分もこの地方の貴族相手にサロンを開く予定だし、面倒を起こさないように立ち回っておいてよ」
そう言って立ち上がったところで、ドミニクは思い出したように指を鳴らした。
「あ、そうだ。弟がここに来るはずなんだ。しばらく匿ってあげてよ。金の腕輪が目印ね」
士官が返事をしようと口を開くより早くドミニクは上着を整え、軽い仕草で礼をして夜の戸口へと歩き出た。扉が閉じる前、火の明滅に照らされた彼の横顔は、いつもの張り付いた愉快げな笑みではなく、どこか音の抜けた仮面のようだ。
ドミニクはサン・マロの石畳を抜け、待たせていたダラス家の専用馬車に乗り込んだ。馬車の扉が閉まると同時に外のざらついた潮風は切り捨てられ、静寂が舞い込む。革張りの席に背を預けた瞬間、彼の胸の奥で、穴のようにぽっかり空いた何かが軋んだ。ゼフィランサスの死によって、そこが剥き出しになる。あの憎しみだけで形を保っていた空洞が支えを失ったかのように。
「……死んでまで邪魔するなんて、最悪だよ」
ドミニクの声に怒りはなかった。風の抜けた古い楽器のように乾いて軽く響くだけ。
父の事業を壊したゼフィランサス。ダラス家の立場を揺らしたゼフィランサス。自分の居場所を奪ったゼフィランサス。すべては過ぎたことだ。だが、死体になってもなおドミニクの中の形のない空白にあの名はとぐろを巻いたまま残っている。
馬車がゆっくりと動き出す。街灯が窓を流れていき、光の帯が車内を淡く裂いた。ドミニクは懐から細長い小瓶を取り出す。瓶の底で揺れる青は夜の底の色をしていた
。虚無を塞ぐために、サロンの遊戯に沈むようになった。幻覚の海に逃げ込んだが、そこで何度も見るのは、自分が誰でもない男になっていく光景だった薬は穴を埋めるどころか、その穴の中へ落とす。それでも落ちる瞬間の陶酔だけが、今の彼をかろうじて形にしている。ドミニクが瓶を指で弾くと青い液体が震えた。馬車の暗闇の中で静かに沈んでいく。快楽で空虚を塗り潰す男が、空虚そのものに引きずられていく音だった。
屋敷の広間は、夜更けにもかかわらず柔らかな灯りに満ちていた。天井から垂れる燭台の火は低く、光は絹張りの壁と磨かれた床に吸い込まれていく。集まっているのは、地方の名士たち。爵位は高くないが、土地と血縁と噂話を持つ者たちである。彼らは笑い、杯を傾け、音楽に耳を預けている。誰もがただの夜会だと思っていた。
——ドミニクが現れるまでは。
彼は拍手も紹介もなく、いつの間にか広間の中央に立っていた。淡い色のサロン用衣装。肩の力が抜けた姿勢だが、その存在だけが場の空気を静かに締め上げる。
「今夜は、少し趣向を変えようと思ってね」
誰かを命じる調子ではない。提案という形をした誘いだ。
「最近、社交界で噂になっている香があるのはご存知かな?」
何人かが頷き、何人かは興味深そうに身を乗り出す。
「安心して。違法なものじゃない。ただ……少し、感覚が研ぎ澄まされるだけだ」
従者が音もなく進み出て、小さな香炉をいくつか卓上に置いた。蓋が開けられると仄かに甘く、湿った香りが広間に滲む。花のようで薬草のようで、どこか鉄の匂いが混じっている。
「深く吸わなくていい。ただ、香りを許すだけでいいんだ」
最初に笑ったのは、太った地方貴族だった。
「はは、香り遊びか。最近は若い者の流行だな」
彼は冗談半分で息を吸い、言葉を失った。次に笑い声が途切れる。
「……あ、色が……音が、近い……」
誰かが瞬きを忘れ、誰かが杯を落とした。音楽は続いているのに、広間の時間だけがわずかに歪んでいく。ドミニクはその光景を満足そうに眺めていた。
「ね? 世界が少しだけ優しくなるだろう」
彼は誰にも触れない。壊れていく様子を眺めるだけ。ある者は涙を流し、ある者は懐かしい名を呟き、ある者は己の手を見つめて微笑む。誰一人、同じ幻を見ていない。
「大丈夫。今夜は戻れるよ」
ドミニクの声は救いのように響く。
「ただし……深く溺れたいなら話は別だけどね」
香りは広間を満たし、貴族たちは自分が選んだと思い込みながら、確実に一線を越えていった。ドミニクは灯りの陰で小さく息を吐く。またひとつ逃げ場を作ってやった。それが救いか、檻かを決めるのは彼ら自身だ。ドミニクが屋敷を出ると夜気はひどく澄んでいた。甘ったるい香りも音楽も、すべて扉の向こうへ置き去りにされる。ドミニクが石段を降りたところで影がひとつ闇から剥がれた。黒衣の男。顔は見えないが、佇まいには迷いがない。
「……参りましょう、導師」
その呼び名にドミニクは一瞬だけ瞬きをしたが、すぐに笑う。
「ああ、行こうか」
彼が今から向かうのは、社交界の仮面を脱ぎ捨て、もう一つの役割を担う場所。
——黒辰封儀教団。
希望を恐れる者たちのための信仰の器。黒辰封儀教団は表向きには「世界の均衡を守るための秘教結社」とされている。彼らが掲げる理念は、ただひとつ。
「紅い星の予言は希望であるがゆえに、成就してはならない」
彼らの論理は明快で歪んでいる。予言が果たされれば世界は変わる。世界が変われば秩序は壊れる。秩序が壊れれば、血統も支配も、既得権も意味を失う。ゆえに予言を阻むことこそが世界を守る行為である。黒辰封儀教団とは革命を恐れる者たちが生み出した防止装置であり、希望を災厄と見なす者たちの宗教だった。教団は予言をこう解釈する。
「三つの星は、必ず高貴な血の中から現れる」
ゆえに彼らは選別しない。見つけてから殺すこともしない。見つかる前に、すべてを支配する。攫う。改名させる。人格を壊す。記憶を削り、従順な器に作り替える。殺してしまえば予言は完成に近づく。だから殺さない。生かしたまま予言を奪う。
そのために、教団は子供を集め続けた。かつて黒辰封儀教団は思想の主体、ダラス家はただの便利な貴族の窓口にすぎなかったが、ゼフィランサスという存在が介入したことで人身売買の流れは断たれ、教団は人材を失い、衰退していく。
一方でダラス家は生き残った。政治。財力。やがて力関係は逆転する。
先代ダラス家当主は教団の頂点に座り、思想を継がず、仕組みだけを残した。黒辰封儀教団は、信仰を失ったまま稼働し続ける装置。今、その装置を動かす導師がドミニクだった。
地下へ続く回廊は黒い石で統一されている。壁には星図が刻まれ、赤い燭火が等間隔に灯っていた。広間には黒衣の信徒たちが跪き、誰一人として顔を上げない。ドミニクが壇上に立っても騒めきは起こらなかった。信徒たちは、彼がそこにいることを前提として存在している。
「……聞こえているかな。外の世界は、希望を語る。変革を讃え、未来を夢見る。でもね。希望は、必ず誰かを踏み潰す」
信徒の誰かが微かに息を呑む。
「選ばれなかった者。取り残される者。居場所を失う者。私たちは、それを知っている。だからこそ、止める」
ドミニクは指先が天井の星図を指差した。
「紅い星は輝かなくていい。運命は目覚めなくていい。世界は、このままでいい。秩序は守られるべきだ。……そして、そのために君たちは選ばれた」
信徒たちは一斉に額を床へ打ちつけた。祈りでも、歓喜でもない。服従の音だった。ドミニクはそれを見下ろしながら、胸の奥に空いた穴をまた一段深く感じていた。自分が導いているのは、信仰ではない。恐怖と依存だ。だが、今はそれでいい。彼は導師として、今日も世界を守る役を演じ続ける。
ヴェルサイユの外門が閉じる音は、夜鳥の羽ばたきより静かだった。
ダラス家の当代当主にして長兄——シルヴェストル・ダラスは馬車の揺れに体を預け、窓辺の陰で息をひとつ沈める。ため息なのか、温度を調整するための呼吸なのか、自分でも曖昧なまま。
「すごい怒りようだったな」
車輪が石畳を撫でる音のうえに、独り言が淡く落ちた。
国王は今日の会議を通してずっと荒れていた。逃亡中の大海賊フランソワの名を口にするたびに、机の脚がきしむほど拳を叩きつけて、「民が脅えたまま生活しているではないか!」と震えた声で叫んだ。細い唇が泡立つまで怒鳴ったのを、シルヴェストルは近くで静かに受け止めて。
それからフランソワの仲間が変死した件について語る時、国王の声は怒りよりも傷のように低かった。
——本来なら悪を民の前で裁くところを……余の不手際で機会を逃した。民に示すべき正義が遅れた。
後悔に濁ったあの眼差し。シルヴェストルはあの瞬間の国王を思い返し、瞳の奥に微かな波紋を作った。
「……罪を見せたい王。処刑を通じて秩序を示したい王。その欲求の裏返しで、怒りは倍になる」
馬車の中は揺れのたびに薄く灯る燭台の炎がぶれ、シルヴェストルの横顔に青みの影が浮いた。
穏やかな線で整った黒髪は肩に触れる寸前で揺れ、瞳のアイスグレーはどこまでも澄んでいるのに底が読めない。柔らかい人の形のなかに、生まれつき毒の織り目が走っている。誰が見ても優しく、誰が見ても温厚で、だからこそ国王は彼を最も信用に足る紳士だと信じて疑わない。
「王は今日も、よく信じてくれた。信じるほど盲点は大きくなる」
そんなことを心のどこかで観察しながら、彼は再び窓の外に視線を流した。サン・ルイ地区の街灯が、群青の空にぽつりぽつりと火点を増やしていく。ダラス家の屋敷までは、まだ少し距離があった。馬車はそのまま静かな毒を抱えた当主を乗せて、薄闇の街路を滑っていく。
屋敷に戻ると、玄関ホールの空気はすでに夜支度の温度になっていた。侍従が丁寧に礼をし、「夕餉は一刻後に」と告げて立ち去る。シルヴェストルは頷き、静かな廊下を歩いて自室へ戻った。部屋に入ると窓際の机の上には昼に置いた書類がそのまま残り、その隣に厚みの違う束がひとつ、ひっそり増えていた。
「……弟たちからの報告は読み切ったはずだが」
シルヴェストルは椅子に腰を下ろし、まず兄弟からの書状をひとつずつ整理する。ドミニクは外交筋の動向、ピエールは血の匂いが紙にまで滲むような現場報告と「影」の処理案件。彼はひと通り目を通した後、最後に残った見知らぬ温度の紙束へ手を伸ばす。
封蝋に海軍の印。差出人名は丁寧に隠されてもなお文字の癖で分かる。
十五代目コルヴァン。ベルリオーズ・モンレザール。
「総司令部の月例か。早い」
シルヴェストルは一枚目を開きかけて、ふと笑みが喉元へ浮かぶ。
「……そういえば」
机の端に肘を置き、記憶の引き出しを軽く叩く。少し前、ピエールが毒気を抜くように不満を漏らしていたのだ。
「あいつ、伝説の情報屋の末裔のくせにカラスに手紙を送らせる術を知らないってあり得ないだろ。カラス使えるから目をつけたのに、なんでオレと部下がいちいち運んでんだよ」
ピエールはその後、部下と一緒に本物のカラスを追いかけていた。空に飛ばす訓練をするのかと思いきや、「鳥の方に送らせる気がねぇんだよ!」と余計な怒りをため込みながら。兄としては注意するべき場面だったが、そのときのピエールの表情が絶妙に面白くて黙ってしまったのを、シルヴェストルは反省した。
「……結局、十五代目は早耳の血を継がなかったわけだ」
伝説級の情報屋の家系。その十数代目に期待した海軍内部のスパイ。しかし蓋を開けたら……文書は丁寧すぎて速度が遅い。暗号は凝っているが読みにくい。カラスは「飼ってるけど情報伝達できません」。運動能力は限りなく一般人。護衛に二回助けられている。兄弟の報告と照らし合わせても、どうやら役立たずという評価は動かない。シルヴェストルの口元に誰かの罪を赦すような冷えた笑いが滲む。
「まあ。情報が届くなら十分だ」
有能である必要はない。素直で使いやすく、疑わず、忠誠心の角が丸い人間の方が支配する側としては扱いやすい。シルヴェストルは指の腹で書類の端を揃え、氷の光を宿す瞳でゆっくり読み始めた。。海軍総司令部からの月例報告書。その一枚に、インク跡が乾ききらない項目があった。フランソワ一派変死にまつわる調査報告書。シルヴェストルは紙縁を軽く持ち上げ、静かな溜息を胸の奥で転がした。
「……やりすぎだろ、ピエール」
口に出した声は柔らかかったが、紙の上に流れた感情は氷のように冷たかった。兄弟の中で、怒りという最も原始的な火を失っていないのはピエールだった。ゼフィランサスの影をずっと追い続け、その残滓に触れるたびに牙を剥きたがる。だが、今回の死に方は彼の研ぎ澄まされた腕が動いた証拠として十分すぎる。
「……さて」
シルヴェストルは視線だけを部屋の隅へ滑らせた。そこは家具の影が濃く落ち、通常なら闇に沈む場所だったが、シルヴェストルは知っている。闇より薄い闇が、ひとつ息を殺していることを。
「これを届けたのは……お前だな」
呼びかけと同時に空気の層がわずかに揺れる。ひとつの影が輪郭を帯び、床に沿って立ち上がった。机に映る蝋燭の光が、その人物の頬にかすかな灰色の影を落とす。
ダミアンだった。ピエールの双子の片割れとは思えないほど色の薄い存在。髪は煤を払ったような暗灰色で瞳は兄より淡く、冬の光に溶けてしまいそうだ。
「……はい。兄上には他の任務がありましたので」
ダミアンの声は囁くようでありながら、なぜか部屋の温度を下げる。ピエールと同じ骨格なのに、ピエールにはある生きる重みが欠片もない。そこにあるのは、命令に従って動くだけの影の影。シルヴェストルは椅子を軽く揺らし、ダミアンの異様な気配を受け止めるように目を細めた。書類を閉じる音がやけに響く。
「ピエールの代わりか。……いや、お前に運ばせた方が確かに正解かもしれないな」
ダミアンの足元は立っているのか浮いているのか判断できないほど軽い。この男は、本来なら存在してはいけない男だ。双子として生まれたがゆえに、一族の裏側へ押し込まれたほうの命。
「報告書に余計なことは書かれていなかったか?」
シルヴェストルの問いに、ダミアンは瞼すら動かさず答えた。
「ありません。兄上の痕跡も、完璧に消されていました」
シルヴェストルはゆっくり息を吐き、その双子の弟を真正面から見つめた。
「……本当に気配の薄い子だな。手紙ひとつ持って来たのに、足音どころか気配すら残さない」
ダミアンは兄の言葉にも反応しない。静かに立っている。それが返事の代わり。シルヴェストルは別の書類に目を落とした。
十五代目コルヴァンの名、その隣に記された「エドガー・ロジャース」の文字。遠い海賊の楽園。今、その地にエドガー本人がいる。それでも彼がヨーロッパ周辺に居るように見せかけることで、海軍と海賊の連絡線を攪乱していた。コルヴァンに対する虚像の釣り糸。海図の裏側で張られた細工。
「……十五代目とエドガー・ロジャースのやり取りは、教団に一任させるか」
呟きとともに、シルヴェストルの中で一つの方針が固まった。エドガーとフランソワを煽る。二つの巨塔を海軍にぶつければ、自由と名誉の二極など放っておいても勝手に燃え上がる。その火種に、自分の名を刻む必要はない。シルヴェストルは視線を上げ、影の中の青年へ命じた。
「偽装工作はもう不要だ。エドガーを装う必要はない」
ダミアンの睫毛がわずかに震えた。それが意志か条件反射かはわからない。
「今すぐサン・マロへ向かえ。ピエールを手伝ってこい」
ダミアンは一礼もせず、足音も残さずに部屋を出た。扉が閉まる瞬間さえ音がない。影の影が、また別の影へ合流するために走り出した。
弟たちの背後でシルヴェストルは新たな海図を引き直す。
海賊と海軍の戦争へと向かう糸がひとつずつ縒り合わされていった。




