第四章③ フランソワ海賊団
入江の空気は凍れる糸のように張りつめ、船腹を打つ波は鈍い鉄琴のような響きを落としていた。
フランソワ海賊団はこの北国の冬にまだ身体が馴染みきらないが、持ち込んだ物資と家畜、井戸水、そして一杯だけの酒で乾きを誤魔化しながら、なんとか暮らしを成り立たせている。寒気を払いのける火は、ごく少数しか知らない「あの魔術師」の力が柱になっているからこそ成立していた。そして、動くと温まると言い張る船長の声が、冬の灰色の空を押し上げる小さな薪になっている。
その入江に、剣戟の金属音が澄んで響き渡った。ガレオン船の甲板。白い息を吐きながら、ルキフェルとコリンが向かい合う。コリンが真っ直ぐ踏み込む。若さの火花が散るような斬り込みだが、その刃はルキフェルの剣に弾かれ、まるで子どもの木の枝のようにあっさりと押し返された。
「コリン、真っ向勝負は無理だと何度言ったらわかる」
ルキフェルの声は厳しくも芯に温度がある。彼は軽く構えを解きながら言葉を続けた。
「お前は小柄だ。もっと俊敏に動いて翻弄してみろ。相手の視界に入り込み、抜けて、また別の角度から刺せ。正面からぶつかるのはお前の剣じゃなくて、意地だ」
コリンは舌を噛みそうな悔しさを抱えつつも、きりりと眉を寄せて頷き、再び剣を構えて甲板に散った朝露を踏むような軽さで跳ねた。ルキフェルに叩き込まれたステップワークを思い出しながら、弧を描くように彼の周囲を疾走するが、ルキフェルは彼の機敏さの裏に久しぶりの硬さを見抜いていた。胸中で静かに、動きが甘いと淡々と記録していく。刹那、コリンが踏み込み、剣が風を割るが、ルキフェルの返しは鋭いさざ波の跳ね返りのように正確だった。気付けばコリンの眉間めがけて剣先が止まり、一本取っている。
「基本が雑になってる」
ルキフェルの静かな叱責にコリンは片目を伏せた。
「……わかってるよ」
少し離れたところで眺めていたジャスパーが肩をすくめた。
「久しぶりの稽古だってのに、ルキフェルは相変わらず手加減って言葉がないね」
マテオは腕を組んで気の毒そうに眉尻を落とす。
「ルカが相手じゃ、コリンが可哀想だな」
「おい」
ルキフェルが反射的にそちらへ振り向く。彼の声が意外と真面目で、マテオが苦笑する。そんな空気を和らげるように、ニールがのんびり笑った。
「まあまあ。久々にしては、ちゃんと動けてると思うよ。筋肉が泣いてなきゃ優秀さ」
コリンは剣を下ろし、額の汗を拭いながら深いため息をこぼした。
「ぼく、何でもそつなくこなす方だと思ってたけど、戦の才能だけは持ち合わせてなかったみたい」
「弱音を吐くな。そもそも稽古を再開したいって言い出したのはお前だろう」
ルキフェルの背後からジャスパーがひょいと顔を出した。
「戦いが苦手なら敵に火でもつけちまえば一発じゃないか。燃えれば動けないし」
コリンは呆れたように目を細めた。
「そういうのじゃなくて、ぼくは剣を振る方が好きなんだよ」
「無茶苦茶だな……」
マテオがぼそりと呟き、風にかき消されそうな苦笑を浮かべる。彼の横で、ニールが船縁に立てかけてあった剣をひょいと持ち上げた。
「さてと。僕もリハビリがてら、見てもらおうかな」
彼は音もなく歩き出し、剣を軽く振りながらルキフェルの方へ向かっていく。ルキフェルは一瞬だけ眉を上げ、剣を構え直してニールに目を向けた。
「ニール。怪我明けだから軽くいこうか」
ニールは首を横に振って息を整える。
「いや、遠慮はいらないよ。中途半端なのは嫌いなんだ」
彼の返しに、ルキフェルの瞳が細くなる。
「じゃあ、お互い全力だ。どんな敵を想定してる?」
「もちろん、西洋剣術の使い手さ」
ニールは剣先を持ち上げ、シルエットだけで正統とわかるフォームを取った。
「変な動きしないで。今日は西洋剣術だけで、君の本気を見せてよ」
ルキフェルが喉の奥で笑ったような声を漏らす。
「いいだろう」
二人が甲板の中央に歩み出る。周囲の船員たちが、寒さを忘れたように身を乗り出した。空気がひりつくほどの静寂。それを裂くように、二本の剣が同時に走った。ニールの剣は一直線。鋭く、無駄のない純正の西洋剣術。足運びも姿勢も、教本にそのまま載せられるほど整っている。対して、ルキフェルは西洋剣術の皮を被った自由そのもの。基礎の上に、剣が風に追いつかないほどの緩急。型に収まりきらず、型を踏み台に跳ねる動き。
「速っ」
ニールは息を飲みながらも正面から挑んだが、剣が交差するたびにニールの動きが一歩、また一歩と押されていく。ルキフェルの剣は直線でも曲線でもなく、軌跡そのものが読めない。それでいて、すべてが西洋剣術の理から外れていないのだから質が悪い。最後の一閃。ニールの剣が弾かれ、甲板の上で金属音を響かせる。同時に、ルキフェルの剣先がニールの喉元へ吸い寄せられた。
「ここまでだな」
ニールは数秒呼吸を整え、負けを認めるように小さく笑った。
「完敗だよ。これは正統派じゃ太刀打ちできないな」
ルキフェルは剣を下げ、肩をすくめた。
「正統も悪くない。けど俺のは、はみ出した方が性に合ってる」
周囲から小さな歓声と悔しがる声と、感嘆が入り交じったどよめきが起こる。冷たい風の中で、二つの剣術は静かに決着を迎えた。船尾楼の上。フランソワは柵にもたれ、剣を交えるルキフェルとニールを見下ろしていた。ルキフェルの自由さが、フランソワの記憶の奥に沈めていた“ある姿”を引き上げた。冬の冷気の中で、波音が別の記憶へと繋がっていく。
——焼けるような太陽。重く湿った潮風。足元にまとわりつく、柔らかい砂。
エル・イエロ島。まだ十代の若造だったフランソワとエドガーは、白い砂浜でゼフィランサスから剣を叩き込まれていた。
「フランソワ。また小細工をしようとしてるぞ」
砂を払う気配だけで、ゼフィランサスはフランソワの癖を見抜く。
「暗殺術は封じろ。暗器なんて卑怯な手を使わずとも勝てる。お前にはそれだけの腕があるんだ。逃げるな」
若いフランソワは、剣を構え直しながら顔を顰めた。砂浜は踏み込めば沈み、体重移動を狂わせる。暗器で攪乱し、影のように動くいつもの戦い方は通用しない。
「でもさ。拭えないんだよ、今までのやり方」
フランソワは苛立ちとも弱音ともつかない声を漏らした。
「癖を消すには、癖の分だけ時間がかかる」
ゼフィランサスがゆっくり歩み寄り、横目でフランソワの構えを確認する。
「けどな、フランソワ。正面から斬り合えるようになれば、お前の暗器はもっと強い武器になる。逃げるためではなく、勝つための選択肢になるんだ」
その言葉に、若いフランソワは初めて黙り込んだ。
——風が吹く。意識が引き戻される。
あの頃の自分と目の前のルキフェルの影が重なった。フランソワは腕を組み直し、わずかに口端を上げる。
「型から外れたがるやつは、強い理由があるもんだ」
誰にも聞こえない程度の声が冬の風に溶けていった。ルキフェルとニールの剣が再び火花を散らす。船尾楼の影の中で、フランソワは腕を組んだまま息を吐いた。感傷を押し込める。押し込むことには慣れていた。
「あいつも変わらねえな」
フランソワの独り言は風にさらわれる。その眼差しには、さっきまでの重さとは別の色が宿っていた。ガキだったルキフェル。まだあどけない顔で、草原の上を何度も転がされながら立ち上がってきた少年。自分と、そしてリュウ・ヨシマサのもとで汗にまみれた日々。構えだけは真似るくせに、すぐ独自の動きを混ぜたがる。叱っても叱っても、型より生き残るための動きを優先させる。今目の前にいる男も、その性根を失っていない。むしろ、あの頃よりずっと洗練され、危うく、美しい。
「型破りってのはよ、才能があるやつにしか許されねぇもんなんだ」
フランソワは子供の頃のルキフェルが何度倒されても立ち上がり、息を切らしながら、こちらの目を正面から見返してきた姿を思い出した。翡翠の眼が今も宿っている。
「……ま、育ったもんだ」
ルキフェルたちの剣が交差する音から、ふいに意識が離れた。フランソワは視線を遠方へと流す。入江と街道を隔てる古びた扉が冬の風でもないのに、錠前だけが微かに揺れていた。
またか。
フランソワは誰にも声をかけず、船尾楼の影から音もなく降りる。甲板を離れ、桟橋を渡り、石畳を歩くたび、扉の向こうから響く叩く音が心臓の裏側を爪で引っかくように近づいてきた。懐から鍵束をつまみ出す。金属片同士が冷たく触れ合い、微かな硬質音が冬空に散る。扉の前に立ったフランソワは、外側の人間に向けて淡々と言葉を投げた。
「合言葉」
扉越しの影が一瞬止まり、すぐに正しい答えが返ってきた。どこか焦りの混じった声だった。鍵を回す前に、フランソワはもう一つ問いかける。
「誰だ?」
返ってきた声は低く、酒と夜風にやられたようにざらついていた。
「おれだ。お前に用がある、フランソワ」
聞き覚えのある、あのだらしなく濁った声音。サン・マロの警備をしている駐在士官の一人。賄賂と裏取引で肥え太った、ろくでもない連中の部類だ。フランソワは錠前を外し、重い扉を開く。冷気が後ろへ流れ込み、ふたりの間に白い息が交差した。
「……何の用だ」
士官はどこか落ちつかない眼をして、周囲を素早く一巡した。その仕草が、事の厄介さを先に語っていた。
「二人だけで話したい。他ならぬ、お前たちの捕まった仲間のことだ」
フランソワの瞳が細くなる。彼の背後の入江では剣のぶつかる音がまだ続いているというのに、この扉の周囲だけが別の季節に切り替わったように静まり返っていた。
「……中に入れ。誰にも見られてないよな」
士官は頷き、肩をすくめながら入江側へ足を踏み入れた。扉が閉じられ、外界の喧噪が完全に遮断された瞬間、冬より冷たい密談の空気がひっそりと満ちていった。フランソワは士官を無言のまま先導し、入江から少し離れた物置小屋へ向かった。かつて漁具が詰められていたらしい古びた建物。外壁は塩風に削られ、扉は片方の蝶番が軋んでいる。この場所なら、誰にも聞かれない。扉を押し開け、フランソワは士官に中へ入るよう促して扉を閉じた。
「……で、話ってのは」
フランソワが問いかけると士官は帽子の庇を指で上げ、口元を強張らせた。
「お前たちの仲間は……殺された」
空気が棒で殴られたみたいに止まった。フランソワは一歩、士官に詰め寄る。
「……誰がだ」
士官は息を吸い込み、言い直す。
「全員だ。船長だろうが、船員だろうが……誰一人、生きちゃいない」
フランソワは首を振った。否定の仕草というより、理解を拒むような震えだった。喉の奥で乾いた音が鳴る。
「嘘だ。……そんなわけ、あるか」
士官は彼の反応を予期していたらしく、懐から封筒を取り出して差し出した。
「ブレスト司令部の第二部隊、調査・隠密班の調査報告書だ。内容は……読めば分かる」
フランソワの指が封筒をつかむ。羊皮紙の紙面に刻まれた冷酷な筆跡が、目の中へ刺さるように入り込んでくる。士官は肩を落とすような声で呟いた。
「監獄で不審死だ。犯人は見つかっていない。……ブレストの連中も、首を傾げるばかりだ」
フランソワは報告書を見つめたまま動かない。紙の縁を握る指だけが、かすかに震えていた。小屋の外では遠く、ルキフェルたちの剣の音がまだ響いている。まるで別世界の音のように。報告書から目を上げたフランソワの瞳は、荒れた海を押し留める堤のように怒気を張りつめていた。
「俺たちの仲間が、何をしたって言うんだ」
彼のかすれ気味の声に、士官は苦々しく眉を寄せる。
「何もしてない。何も話していない。あいつらは終始、口を閉ざしていたらしい。お前たちのことも、この入江のことも一切、漏らしていない」
フランソワの呼吸が一瞬だけ止まる。
「なら、なんで殺された」
吐き出された声には怒りと不信と、どうしようもない認めたくなさが絡まり合っていた。士官は肩を落とし、まるで壁に背中を預けるように淡々と答える。
「わからない。今の海軍は、身内ですら疑い合う地獄みたいな状況だ。今回の件が露見したことで、組織そのものがひび割れた。内部関与の可能性も高い」
一度言葉を区切り、士官は続ける。
「事件のあと、数名の士官が突然いなくなった。消息不明。ブレストの連中は、それこそ血眼で捜索に走ってる。誰も、誰を信用できない状態らしい」
フランソワは報告書を閉じるや、紙束を叩きつけるように士官へ突き返した。
「……出ていけ。今は、亡くなった仲間のことを偲びたい。生き残った仲間たちが、お前に刃を向ける前に……ここから出ていけ」
士官は何も返さなかった。言葉を探す素振りすら見せず、小屋の戸口へ向かう。彼は軋んだ扉を押し開け、入江とサン・マロの街道を隔てる外扉を抜けると、フランソワに視線を戻さないまま去っていった。フランソワはその背が消えるのを待つことなく荒々しい勢いで外扉を閉め、手早く錠前に鍵を掛けた。金属が噛み合う音が、怒りの熱にひび割れた胸の奥で妙に乾いて響く。
フランソワが踵を返すと入江の冷たい空気が肺に沈んだ。脳裏には、もう二度と戻ってこない仲間たちの顔がひとつずつ浮かんでは消える。飲み込みきれない怒り。押し流すには重すぎる悔しさ。見ないふりをしてきた悲しさが、奥底から音もなくせり上がってくる。それらを無理やり抱え込むように、フランソワは船へ向けて歩き出した。外の風が肌に触れても熱はまだ冷えない。




