第四章② マクシム隊
執務室の空気は、先ほどまで続いていた会議の残り香のように重たかった。グウェナエルは書類を読み終えた瞬間、微かに鼻で息を払ってから視線を上げる。吐息は氷の粒になりそうなほど冷ややかだ。
「……これだけ?」
ぱさり、と彼はその紙束を執務机の上へ投げるように戻す。紙は机上で短く跳ね、静かに止まった。そこにはトゥーロンでマクシムが直接面接し、採用した隊員の経歴書が二枚だけ並んでいる。二枚。それ以上でも以下でもない事実が、執務室の空気をさらに薄くした。グウェナエルはしばし沈黙し、それから深く眉間を押さえる。
「二人しか採用してない。正気ですか?」
彼の声には呆れと落胆が編み込まれていた。彼の対面に座るマクシムは、椅子の背に身を預けながら重たいため息を吐いた。
「……仕方ないでしょう。面接希望者はこの二人だけだったんですから」
やけに現実的な返答が逆に状況の深刻さを際立たせた。グウェナエルは指先でこめかみを押し込み、目を閉じる。額に刻まれた皺が彼の心境を語っていた。
「……はあ……」
失望が机の上の書類よりもはっきりと二人の間に横たわった。そこへソファに半ば沈み込んでいたシャルルが、天井を眺めながら面倒くさそうに言う。
「まあ、厄介者の寄せ集めなんて揶揄されるこの部隊に……わざわざ入りたいなんて物好き、そうはいませんからね」
すかさずリラが眉をひそめる。
「あなたもその厄介者の一人では?」
矢のような鋭さだったが、シャルルはまったく堪えた様子もなく、ひらひらと手を振っただけだった。グウェナエルが深いため息をひとつ零して、書類を指で叩く。
「というか、隊長。こいつらの役職なんですが……」
彼は紙面をめくりながら続けた。
「整備士と軍医となってます。船の整備なんて港の連中に任せるんだから、うちに整備士の活躍の場なんてないでしょう。ペネロペだけで十分です。それに、軍医なんてもっと要らない。マルセロ一人で充分じゃないですか」
グウェナエルが言い終えたあとも眉間の皺は戻らない。マクシムはしばし沈黙し、机の木目をなぞるように視線を落とした。
「……お二人とも、この部隊に入りたくて第四で研鑽を積んできたんですって」
シャルルの目が興味深そうに細められ、リラの表情もわずかに動いた。マクシムはさらに続ける。
「それに軍医の方ですが……身体を縫って早期治療するのが得意らしいです」
マクシムはふっと視線をグウェナエルに向けた。皮肉というより、むしろ事実を告げるような静かな声で続ける。
「もっとも、あなたには必要ないかもですね」
グウェナエルは低く唸り、口を閉じたまま目を細めた。否定はしなかった。彼の体質はもはや部隊内の誰もが知っている。先日の戦闘で刻まれた擦り傷も昨夜の風の跡のように消えている。
部屋の奥でシャルルがくすりと笑い、リラは無言で腕を組んだ。部隊の空気には新しい風が入り込みつつあり、その風が吉と出るか凶と出るかは、まだ誰にも読めないまま。執務室の空気が少しだけ重くなりかけたところで、マクシムが手をぱんと叩いた。乾いた音が、沈みかけた会話の表面を跳ね返す。
「まあまあ、良いニュースもありますよ」
彼はそう言って書類の束から一枚を抜き取り、ひらりと掲げた。羊皮紙の向こうで、彼の目がわずかに誇らしげに光る。
「このジョルジュ・アルダーソンくん。彼は射撃が得意だそうです。士官学校時代の射撃成績も群を抜いてます。短銃でもマスケットでも、腕は相当らしい」
グウェナエルがわずかに姿勢を正し、マクシムはさらに続ける。
「たしかに役職は整備士ですが、これは便宜上のものです。船と海についての知識も豊富で、士官学校の教官によれば荒天の予兆も読めるとか」
グウェナエルは腕を組み、ふむ、と興味深そうに顎に手を添えた。マクシムはそんな彼の反応を楽しむようにわざと間を置いてから言った。
「あなた、射撃が得意な隊員を欲しがってましたよね。ほら、ちゃんと引き抜いてきましたよ。……奇跡的に」
最後の三文字にマクシムはほんのりと笑みを溢したが、グウェナエルの目だけは鋭く光り、書類を見据えていた。まるで、思いがけず有望な宝石を掘り当てた鉱夫のように。彼はもう一枚残った経歴書に指先を滑らせた。紙の表面には、丁寧に揃えられた筆致が踊っている。乱れのない文字列は、書き手の几帳面さと誠実さをどこか匂わせた。
「ソフィー・ルノアール、か」
グウェナエルが名を読み上げた途端、彼の眉がじわりと寄る。
「また女かよ」
シャルルがソファから半身を起こし、興味を含んだ声音で呟いた。
「ほう。ということは、女性の軍医ねえ」
リラもちらりと経歴書をのぞき込み、わずかに目を丸くする。彼女の反応を受けて、グウェナエルはさらに紙面を読み進めた。
「しかも……留年してるじゃないか」
彼は苦々しい顔をして紙を小さく揺らした。
「どんな、じゃじゃ馬娘なんだ」
マクシムの目がすっと鋭くなる。
「グウェナエル。彼女は軍医になるために留年したんですよ。皆さん、覚えてませんか? 数年前、消息を絶った訓練船を捜索したときのことを」
リラの表情がほどけた。
「ええ、よく覚えています。少数精鋭部隊ゆえの、数少ない出動でしたから」
二人のやり取りの最中、グウェナエルの顔色がわずかに変わった。群青の瞳の奥で何かが湧き上がって沈んでいく。マクシムが気づいて声をかけた。
「どうかしましたか?」
「……なんでもありません」
グウェナエルはいつもの無表情を取り繕うように視線を落とすが、胸の奥では心拍が少しだけ跳ねていた。脳裏に浮かぶのは、あの日。
血と煙の漂う港。自分の腕で抱えた、あの軽い身体。怯えと必死さの中で抱えた少女の脈が、いまも掌の記憶に残っている。もしかしたら。
もしかしたら──この経歴書に名を記された「ソフィー・ド・ルノアール」が、あの少女なのではないか。期待にも似て、認めたくない騒めきが胸の奥でゆっくりと形を持ち始めた。
グウェナエルは息をひとつ吐いた。その吐息には期待とも諦念ともつかない熱が、ほんの僅かに混ざっている。
「ふうん……ま、実際に会ったらお手並み拝見だな」
軽く投げるような口調だが、眼差しの奥では盤面を読む軍犬のような冷静さが戻っている。それから、彼は指で机をとんとん叩きながら訊ねた。
「んで? こいつらはいつ来るんですか」
マクシムは手元の書類を整え、艦隊指揮官らしい落ち着きをまとった声で答えた。
「三月一日付で加入です。今は士官学校での教鞭任務が残っているそうで、そちらが済み次第ブレストに来るとのことです」
書類の端がパタンと揺れ、部屋に静寂が満ちる。シャルルはソファでうたた寝に戻りそうな顔をし、リラは新たな仲間の名を胸の内でそっと転がす。グウェナエルは無言で窓の外へ目を向けた。海軍の冬空は鉛色、その空の向こうに春の気配がひそんでいる。
三月。新しい二人が来る。部隊の空気がまたひとつ変わる。




