第三章③ 海賊と海軍、そして新たな影
ブレスト司令部の監獄室では捕縛された海賊たちが一人ずつ尋問を受けていた。三人の船長はそれぞれ独房に連れて行かれ、海軍員の質問攻めに遭う。
「お前らの目的は、略奪の計画は? フランソワの居場所はどこだ」
矢継ぎ早に飛んでくる問いに対し、彼らは冷静にシラを切る。口を閉ざすことで、フランソワへの忠誠を示すため。尋問官の苛立ちが伝わっても、海賊たちの背筋はピンと伸びたまま揺るがない。質問がいくら過激になろうとも、彼らは沈黙を貫いた。
一方、キール通りの宿舎ではマクシムが療養していた。右腕には戦闘で受けた痣が残り、手元には報告書の束が広げられている。
あの戦いの後、マクシム隊は通りかかった他部隊の船に助けられ、ようやくブレストへ帰還した。フランソワ海賊団の追跡船を突き止めたこと自体は評価されるだろうが、その後の行動——自分たちの戦力を超える敵艦への無謀な攻撃——は、結果として自隊の怪我と船の破損という明らかな失態を生んだ。
マクシムのペンを走らせる指先に力が入り、書類の上に文字が重なる。殴打の痛みより戦況の報告書をまとめる作業のほうがよほど苦痛だ。戦略的な反省点、作戦の失敗、部下たちの安全。頭の中で整理しながらも、文字に落とすたび胸の奥で苛立ちがくすぶる。
「こんなことで評価されるわけがない」
掠れた声で呟き、マクシムは再びペンを握り直した。時間はゆっくりと流れ、報告書のページは次々と埋まっていくが、マクシムの頭からフランソワの姿は消えることがなかった。マクシムはようやくペンを置き、肩を回して軽く伸びをした。長時間の作業で凝り固まった肩の筋肉が少しだけほぐれる。その瞬間、ソファに沈んでいたリラが目を細めて立ち上がった。
「隊長、そろそろ出立してはいかがでしょう?」
リラの鋭い声に、マクシムはハッと顔を上げた。
「あ、ああ……忘れてた」
呟きながら、マクシムは新規部隊員募集の件を思い出した。トゥーロン司令部に赴き、志願者たちと面接を行う予定。リラは立ち姿のまま、視線をまっすぐマクシムに据える。
「すぐに行きなさい。新たな仲間が待っているんだから」
副官としての忠実さだけでなく、先輩士官としての苛立ちがリラの目に宿っていた。マクシムは彼女の圧に押され、肩をすくめながら言った。
「あ……では、この書類を代わりに提出していただけますか?」
リラは素早く歩み寄り、マクシムから書類を手に取ると表情を副官としての落ち着いた顔に戻した。
「お安い御用です。そのために私がいるんですから」
マクシムは安堵の息を吐き、ペンを片付けて立の準備に取り掛かるため執務室を後にすると、リラは深く息を吐いて報告書を軽くパラパラとめくった。文字の羅列は冷静な事実を並べているだけのはずなのに、背後に滲む自分たちの無力さと情けなさが頭の奥にじわじわと重くのしかかる。
「結局、私も呆然と見ていることしかできなかった」
リラはソファの背もたれにかけていた外套を羽織ると、ゆっくりと執務室を後にする。廊下を歩いていると、ちょうどスザンヌと鉢合わせた。スザンヌも外套を羽織り、足は宿舎の玄関口を向いている。
「今日もお散歩?」
リラが声をかけると、スザンヌは少し俯き加減に答えた。
「はい。なんだか、落ち着かなくて」
リラは彼女の表情を一瞥し、瞬間的に判断する。司令部に向かえば、士官たちが自分たちを奇異の目で見るのは目に見えている。それでも今、一番気になるのは、この儚げな美少女の不安げな様子だった。
「それなら、一緒に歩かない? 司令部に用があるんだけど、息が詰まるの」
スザンヌはしばらく考え込んだのち頷いた。
「では、ご一緒させてください」
二人は肩を並べ、廊下を抜けて宿舎を出て行った。海原沿いの石畳の道を、リラとスザンヌは無言で歩いていく。潮風が頬を撫で、波の音が耳に届いた。しばらくして、スザンヌが小さな声で口を開く。
「珍しいですね。リラさんが、司令部に行くなんて」
リラは少し肩をすくめて答える。
「報告書を提出するだけ。要するに、業務の一環」
しばらく間が空き、リラはスザンヌの様子に目を向けた。
「スザンヌ、怪我の方はもう大丈夫なの」
あの戦いでは鎖弾によって帆やマストが破壊され、瓦礫が飛び散った影響で隊員たちは大小の被害を受けた。スザンヌも裂けた木片で手を切ったが、マルセロとアニータの手厚い処置で幸い軽傷で済んでいた。スザンヌは少し俯き加減で手を見つめ、口を開いた。
「私はもう平気です。ただ……皆さんの精神的負荷は大きいですね」
スザンヌの言葉にリラは頷き、静かな声で答えた。
「そうね。戦いは誰だって心に負担が残るわ。でも、スザンヌ。あなたが無事でいてくれて本当に良かった」
スザンヌは少し目を伏せたまま、ため息を漏らす。
「ですが、仲間たちのことを思うと心が重くて」
リラはそっと彼女の肩に手を置き、歩調を合わせて言った。
「それは当然よ。誰だって、仲間が傷つくのを見れば胸が痛む。でもね、あなたはひとりで背負い込む必要はない。私もいるし、みんなもいる」
スザンヌは一瞬だけリラの顔を見上げた。
「リラさん」
リラは柔らかく微笑む。
「無理に強がらなくていい。少しずつでいいから、心を休める時間を作りなさい。戦いは終わったわけじゃないけれど、あなたが倒れたら誰も守れないでしょ」
スザンヌは息を吐き、肩の力を抜いた。
「はい。ありがとうございます、リラさん」
二人がブレスト司令部の門に差し掛かると、守衛や通行士官たちの視線が自然と集まった。石畳の広場を歩くリラとスザンヌに向けられるのは、好奇心とわずかな警戒を含んだ奇異な目だ。女性士官自体がまだ珍しい上、マクシム隊の女性たちは誰もが剣術に長け、動きが素早く、小回りが利く。そのためか、周囲の士官たちは声には出さずとも内心で少しの恐れを抱えているようだった。リラはそれに気づいて軽く眉をひそめ、スザンヌに小さく囁く。
「気にしなくていいわ。あの人たちは、慣れていないだけ」
スザンヌは少し緊張した面持ちで頷いたが、すぐに気を取り直す。
「でも、こんなに皆さんに見られると落ち着かないです」
二人は司令部の石の階段を上がり、重厚な扉をくぐった。中に入ると、机に向かう士官たちがちらりと視線を向ける。リラが報告書を提出するため歩を進めると士官たちは目を逸らすか、眉をひそめる。リラは背筋を伸ばし、気にせず報告書を差し出した。
「こちらが今回の任務報告です」
受付の士官が書類に目を落とし、頷く。周囲の士官たちはまだ視線を逸らせず、密かに警戒を浮かべたままリラの手際の良さを見守っている。スザンヌは静かに息を整えながらリラを見上げる。
「すごいですね、リラさん。あんなに落ち着いて」
リラは軽く微笑んで答える。
「そう見えるかもしれないけど、慣れよ。あなたも少しずつ覚えていけば大丈夫」
受付の士官が書類を確認する間、周囲の士官たちの視線は次第に落ち着きを取り戻す。いくら警戒心があっても、淡々とした仕事ぶりには逆らえない。受付の士官が書類を持ち上げ、正式に受理したことを告げる。
「確認しました。以上で手続きは完了です」
リラは深く一礼し、スザンヌもそれに倣った。
石畳の道を歩きながら、スザンヌは海原を見つめていた。波の光を反射する水面は、先ほどまでの緊張を忘れさせるかのように静かで、しかしどこか物憂げでもあった。隣を歩くリラがふと口を開いた。
「そういえば、これから隊長がトゥーロンに赴くんだけど」
スザンヌは驚いて目を向ける。
「隊長がトゥーロンに?」
リラは軽く微笑みながら頷く。
「ええ。新しい隊員を募集してるの。その面接のため」
スザンヌは唸るように息を吐き、海の方へ視線を戻すとリラは続けた。
「隊長が不在の間、私が執務業務を請け負うことになってるの。できれば、スザンヌにも手伝ってほしくて」
リラの言葉にスザンヌの瞳がぱっと輝いた。
「ぜひ、手伝わせてください! 剣を握るよりペンを握る方が得意なので」
リラは微笑みながら頷く。
「さすが、スザンヌね。戦場でも冷静だけど、机上でもきちんと力を発揮してくれそう」
スザンヌは少し照れたように笑うと軽やかに歩を進めた。二人は無言になったり、また思わず笑い合ったりしながら元来た石畳の道を辿り、宿舎へと舞い戻った。
夜明け前の港は冬の気配に包まれていた。冷たい風が海面を撫で、波間に微かに光る灯火がまだ眠たげに揺れている。マクシムは旅用の鞄を肩に掛け、船の甲板へと足を踏み入れた。港の岸にはリラ、ダヴィット、そしてグウェナエルが見送りに立っている。ダヴィットの頬には先日の銃床で受けた痕が紫色に残り、朝の光に照らされて痛々しく浮かび上がっていた。
「では、行ってまいります」
マクシムの声は冷えた空気にすっと溶け込むようだった。ダヴィットは軽く手を振りながら声を掛ける。
「新戦力を期待してるよ」
グウェナエルは手を伸ばしてマクシムに指をさし、少し照れたような口調で言った。
「おい。できれば射撃が得意なやつを引き抜いてこい。この前みたいな戦いはごめんだ」
リラは落ち着いた笑みを浮かべて声を添えた。
「どんな隊員が来ても、我々は歓迎しますから。お気になさらず」
癖が強く、扱いの難しい隊員たちの寄せ集め。それでもこの面々が団結してきた今、今更どんな新しい隊員が来ようと驚きはしない、という自信と覚悟が滲んでいた。マクシムは微かに笑みを返すと鞄をしっかり握り直し、甲板を進む。足元に響く木の軋みが、これから始まる旅の緊張感をさらに強めた。港に残る三人は船の揺れに合わせて小さく手を振る。彼らの視線は、やがて朝焼けに染まる海の向こうへと注がれた。静かな港に、遠く水平線を目指すマクシムの背中だけが、朝の薄明かりの中で確かな意志を放っていた。
一方、ブレスト城は普段なら静寂に包まれているはずだったが、内部はまるで嵐に襲われたかのような混乱に満ちていた。
「だ、だ、大変だッ!」
「開けるな、開けるな……!」
「ち、違うんだ……あれは……あれは……!」
牢番たちが錯乱し、廊下を暴れ回っている。目は虚ろでまともな会話にならない。複数の士官たちが押さえつけようとするが、恐怖に駆られた叫びは止む気配を見せない。仕方なく、数名の士官が情報を得るために牢へ向かって牢獄の扉を開けた瞬間、足が止まった。
鉄格子の中、三人の海賊船長が喉を深く切り裂かれ、血の海に沈んでいる。鉄の匂いが鼻を刺し、壁に跳ねた血痕はまだ乾きかけてさえいない。
「何が……どうやって……」
「見張りの記録には何も異常がなかったぞ……?」
さらに奥へ進むと別の牢でも海賊たちが同じように倒れ伏していた。ただ一人、まだ息の残っている者がいて士官が急いで膝をつき、海賊の顔を覗き込む。
「おい、何があった。誰の仕業だ?」
海賊は荒い呼吸の隙間に、掠れる声で絞り出すように答えた。
「……金の……腕輪……」
海賊の身体から力が抜けた。牢内は一瞬静まり返り、次に沈黙を破ったのは、押し殺したはずの恐怖が解き放たれるような叫びだった。
「どういうことだ、鍵は……鍵は開いてないぞ……!」
「中から切り刻まれたとでも言うのか……?」
理屈も常識も通じない光景に、士官たちの顔はみな蒼白となり、ブレスト城の牢獄は狂気のざわめきに満ちていった。
ブレストの街、噴水広場には場違いなほど落ち着いた動作で手を洗う男がいた。指先についた赤黒い汚れが、冷たい噴水の水に流されていく。
「いやあ、ギリギリだった。ブレスト城の構造、複雑すぎ」
まるで迷路から抜けてきた感想でも言うように、軽い響きで呟く。手にしているナイフも同じように水でさっと洗い流した。その動作の途中、外套の袖口から覗いた金の腕輪が朝焼けの光を受けて鋭く光った。
この男こそ、ピエール・ダラス。
ダラス家は王国を支える現王党の名家として知られるが、その内情は腐り切っている。表向きは忠誠を誓いながら、裏では旧ブルボン派として国家転覆を企む一族だ。
このピエールはダラス家の三男坊にあたる。彼は洗い終えたナイフを軽く振り、外套の内側に滑らせる。その足取りは軽く、殺戮をひとつの朝の仕事のように済ませたかのようだった。
「さて……次はどこへ行こうかね」
血の匂いを残したまま、ピエールはゆっくりと噴水広場を後にした。
入江に差し込む朝陽は冷たい冬の気配を孕みつつも、どこか祝福めいた温度を帯びていた。その光は薄い船窓をかすかに揺らし、長い悪夢を漂い続けていた一人の青年を静かに呼び戻した。
ニールは重い深海から浮上するように瞼を持ち上げた。息がひとつ漏れる。寝汗が肌に薄く張りついているが、胸を焼いていた熱はすでに跡形もない。身体の内部を満たしていた倦怠も、まるで潮が引くように消えていた。慎重に右腕を上げてみる。痛みはなかったが、上腕を丁寧に巻く包帯があの短剣の異物感を嫌というほど思い出させる。鋭く冷たく、躊躇いなく肉を貫いた感触。脳裏をかすめた瞬間、背筋に細い氷柱がつと走った。思わず腕を抱きしめるようにして、包帯の上に手をそっと置く。
「……もう、無茶は禁物だな」
自嘲とも教訓ともつかない声が、静まり返った船医室に落ちた。その時、控えめではあるが確かな足音が近づき、扉の蝶番がわずかに鳴った。入ってきたのは、ルキフェルだった。朝の気配を背にまといながら、いつもの端正な姿勢を少しだけ崩して壁に寄りかかる。彼の目は眠れていない者特有の赤みを帯びていたが、ニールを見た途端に何か奥底の緊張がほどけたように揺れた。
「……目が覚めたか」
ニールはゆっくりと頷く。ルキフェルは数歩近づき、光の差す位置で立ち止まった。
「よく戻ってきた」
華美さの欠片もない言葉なのに、そこには数日ぶりの朝陽より温かいものが宿っていた。その後、ニールはルキフェルの肩に軽く手を添えながら慎重に階段を上った。自力で歩くという行為が、これほど胸にじんわり響いたのは久しぶりだった。二人が甲板に出た瞬間、潮の冷気が頬を刺すが、その冷たさは敵意ではなく、古い仲間の悪戯みたいに素朴で懐かしい。ニールはその空気をめいいっぱい吸い込んだ。ルキフェルは風を見分ける猟犬のように空気を読み、言葉を落とす。
「冬がくる。俺たちは、ここで越すことにした」
ニールは遠くの水平線を見た。うっすらと朝焼けに染まりつつある海面の上に、かつての島の影が錯覚のようによぎる。
「……僕ら、トルチュ島に帰れないんだね」
ルキフェルの沈黙は拒絶でも肯定でもなく、ただ苦く澄んでいた。二人の静けさを破ったのは、甲板の上でパタンと軽い音を響かせる索具の揺れだった。見張り台から、細い影が器用に滑り降りてくる。コリンだ。着地するやいなや彼は周囲を見回し、ニールを見つけた瞬間、顔がぱっと花火のように明るくなった。
「ニール!」
走ってくるというより、突風のようだった。次の瞬間には、コリンの腕が勢いよくニールの胴に回り込んでいる。ニールはわずかにたじろぎつつも、無事を伝えるようにコリンの背を軽く叩いた。ルキフェルは少し離れたところで、二人の光景を見守っていた。が、翡翠の目が細くなる。空気の流れが変わった。背後に気配。風の肌ざわりが一つずれるのと同時に、ルキフェルの身体は迷いも予備動作もなく動いた。彼は振り向きざま、飛んできた拳を左手で受け流す。流れた腕を右手でかちっと掴むと、そのまま相手の重心を奪うように捻り上げた。
「痛い痛い痛いっ、ちょっ待て待て待て待て!」
悲鳴の主はジャスパーだった。ルキフェルは片眉をわずかに上げる。
「気配ぐらい隠せ」
ジャスパーは捻られたまま涙目で吠える。
「いや隠したよ!? むしろ完璧だったよ!? なんでバレんのさ毎回!」
ルキフェルは風向きが変わったかのような違和感に眉を顰めた。甲板に混ざる潮のにおいの奥で、もう一つ人の呼気が沈んでいる。ルキフェルはすぐに背後へ重心をずらした瞬間、耳元に低い声が落ちた。
「じゃあこれは?」
囁きと同時に、影がルキフェルの右腕を掴んだ。マテオだった。足運びは砂粒のように静かで、気配を殺す技は船団随一。だが、ルキフェルの身体は先に動いていた。マテオが腰を落として背負い投げの体勢に入る。ルキフェルの視界が一瞬、空へ跳ね上がった。身体は宙を描くが、その勢いのままルキフェルは片方の手を甲板へ突き、身体をしならせ、片手で回転して受け身を取ると逆にマテオの重心が崩れる。次の瞬間、ルキフェルの脚が鋭く軸を作り、マテオの胸を捉えて見事に甲板へ叩きつけた。
「っ……なん、だ……?」
マテオは空を仰いだまま呆然とする。冬の海風が彼の額の汗をさらっていく。ルキフェルは立ち上がり、マテオを見下ろした。
「お前は気配を消すのは上手いが、そのあとの詰めが甘い」
言葉とは裏腹に、差し出した手は仲間のものだった。マテオは歯を食いしばりながらもルキフェルの手を取る。
「くそ。今のは絶対いけたと思ったのに」
「いけてたら困る」
ルキフェルの口元がわずかに緩んだ。マテオがルキフェルに引き起こされるのを横目に、コリンはようやくニールから腕を離した。そして、ルキフェルとマテオとジャスパーがわちゃわちゃと模擬戦闘を再開し始めたのを眺めると深いため息をついて肩を落とす。
「……この人たち、幾つよ。ほんと子どもなんだけど」
コリンの呆れ果てた声が風に流れる。ニールは思わずこらえきれず、口元をゆるませた。
「うん……まあ、あれは止めても無駄だね」
三人は聞こえていないのか聞く気がないのか、甲板の上で戦場さながらの気配を撒き散らしている。その時、彼らの背後の扉がぎいと軋んだ。船長室からふらりと現れたのは、髪もシャツも寝癖のままのフランソワだった。片目をこすりながら、声も半分夢の中。
「……うるさい奴らだ。ゆっくり寝させてくれよ……」
だが彼の視線がニールを捉えると眠気は音を立てて吹き飛んだ。
「ニール! 目が覚めたか!」
フランソワは大きく歩幅をとって駆け寄り、嬉しさが隠しきれず顔がほころんでいた。
「よかった、本当に……!」
ニールは彼の勢いにちょっと押されながらも、ほっとした表情で頷いた。模擬戦は、結局いつも通りの結末を迎えた。甲板にはマテオとジャスパーが二枚の絵のように並んで伸びている。海風が二人の髪をばさばさ揺らすだけで、反撃の気配はない。
「マジで、どうしたら勝てるんだよ……」
マテオが空を見つめて嘆く。
「でも、ルキフェルは不意打ちに弱いはず……」
ジャスパーが希望を捨てきれずに言う。
「ジャスパー。こっちは動きを全部読まれるんだぞ……」
マテオの声には悟りすら宿っていた。二人が真剣に敗北の理由を分析していると、ニールがぱちっと目を細め、太陽より爽やかな笑顔を浮かべながら口を開いた。
「うーん……両腕を切り落とすしかないんじゃないかな?」
ニールの一言で甲板にいる全員の時が止まった。風の音だけが流れ、三秒ほどの真空が生まれる。沈黙を破ったのはフランソワだった。彼はゆっくりと深呼吸をし、にかっと笑う。
「……ま。ニールがこう言ってるってことは、すっかり元気になったということだ」
甲板にふわっと温かい笑いが広がった。寒い朝なのに、どこか体の芯がゆるむような笑いだった。ルキフェルはその輪の少し外側で、仲間たちを見渡した。
笑い、文句を言い、軽口を叩き合う彼らの姿はひどく心強い。
この先、どれほど厳しい現実が待っていようと、この連中なら冬を越えることができる。
守り抜く。この船団も。こいつら一人ひとりも。そのためなら、自分のすべてを投げ出してもいい。
ルキフェルは朝焼けに目を細め、胸の奥で静かに誓いを刻んだ。
海の向こうで、冬の空がゆっくり明けていく。




