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報復の航路 【第二作 ルー・ブレス】3・4巻「覚醒編」  作者: セキユズル
第三章「お前がベルナルドにしたことは、こういうことだ」
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第三章① フランソワ海賊団とマクシム隊

 潮と風が入り乱れ、逃走中のフランソワたちはまるで海そのものと賭けをしているようだった。北西から吹きつける風が帆を押し、船体が軋むたびに不安と希望が同時に甲板の上を駆け抜ける。


 操舵輪に張りつくジャスパーは、海図も方位磁石もいまいち信用していない。信じるのは、長年海の底から聞こえてくる騒めきのような直感だけ。


「この流れ、まだいける……はず」


 彼は潮の匂いをかぎ、波の傾きを読み、舳先をわずかに切った。


「マテオ、こっちだ」


 フランソワは手短に呼びつけた。船体が揺れるたび、彼の髪が海風に乱され、焦りというより鋭さだけが浮かんでいる。


「いいか。もし海軍に見つかったら……甲板の大砲は全部、鎖弾を装填しろ。狙いはマストと帆。船を止められれば十分だ」


 マテオは眉ひとつ動かさずに頷いた。彼の目はいつもの陽気さを全部捨てて、冷えた鉄のように沈んでいる。


「了解、船長。やれるだけやる」


 彼は走り去り、砲兵たちに手短な指示を飛ばしていった。舳先近くの風は鋼のように冷たい。ルキフェルはその風を突き破るようにジャスパーの隣へ歩み寄る。


「これ以上、スピードは出ないのか?」


 ジャスパーは操舵輪に肘をかけたまま苦笑をひとつ。


「おれは魔術師じゃないからなー。風と波を好き勝手できるなら、とっくに追いつかれてないよ」


 言いながら、ジャスパーはさりげなく背後へ視線を流した。その先には荷物箱に腰を掛けていたコリンがいる。気づいたコリンは困ったように視線をそらし、ぽつりと言った。


「……ぼくは火の魔術師だから」


 火の揺らぎみたいな声だった。燃やすことなら得意でも、船を前に押し出す風までは呼べない。ジャスパーが肩をすくめる。


「ほらな。うちには風をひっぱたく魔法はないんだよ」


 ルキフェルは唇をかみしめ、遠ざかる海と追ってくるであろう影の気配を睨み続けた。頼れるのは風、潮、そして仲間たちの勘と腕だけだ。その三人から少し離れた船縁に、ニールが腰掛けている。手にしたペンは休む気配がなく、船体の揺れに合わせて紙の上を滑っていた。航海計算。潮と風の推算。そして、本来なら彼の仕事ではない積載量の計算、貨物配分、重量のばらつきまで。数字たちが紙の上で行列をつくり、彼はその間を走るように式を組み替え続けている。


「……もう少し前寄りに重心があれば、波の返しを利用できるんだけどな」


 呟きは風に溶けたが、彼の目の奥だけは恐ろしく研ぎ澄まされていた。知恵という刃物で、目の前の逃避をどうにか切り裂こうとしている。


 同じころ、第七艦艇部隊の中でもとりわけ自由気質なマクシム隊は、一帯の海域を緩やかに巡回していた。とはいえ、やるべきことはやる。視認できる船はすべてチェックし、風向きと潮の流れと帆の形まで観察し、海賊の影が潜んでいないかを確かめていく。ただし——。


「……なんでパン食べながらやってるんだ」


 操舵役のサミュエルが半ば呆れたように呟いた。見張り台でも舷側でも、そしてマクシム本人でさえ片手に固いパンを持ったまま望遠鏡を構えている。遠目には奇妙な余裕すら漂っていた。マクシムがパンをかじりながら答える。


「腹が減ったら判断が鈍ります。これは合理性ですよ、サミュエル」

「合理性にしては……なんかバカみたいに見えますよ」

「うん。僕たち、時々バカになるんです」


 サミュエルがため息を吐くと、ロザリーが望遠鏡を覗いたまま突然ぴたりと動きを止めた。


「……あら」


 彼女の声に、近くの隊員たちが何事かと振り返る。ロザリーの視界の先では、遠くのガレオン船の船縁、金髪の青年が腰掛けていた。風にゆらぐ淡い髪、紙の上を走るペン先、真剣なのにどこか柔らかな横顔。


「……あの子かっこいいかも」


 ロザリーの呟きは甲板にぽとりと落ちた小石のように、周囲の女子たちの耳を叩いた。


「なにそれ、ほんと?」


 アニータがばっと食いつく。


「え、ちょっと見せたいです! ほんとにいるんですか?」


 メリッサまで目を輝かせて近寄る。普段は冷静なペネロペまでも無表情で加わってきた。


「…………確認しておきたい」


 一瞬でロザリーの周囲が女子会の小嵐と化す。


「ちょ、ちょっと待って。場所狭い、揺れる……やめて押さないで……!」


 最終的にアニータが勝ち取るように望遠鏡を奪い取り、視界を合わせた。風の向きを微調整しつつ、やがて件の青年を捉える。


「……ほんとね。絵に描いたみたいな金髪に青い目。綺麗にまとまってる顔立ちだわ」


 アニータはそのまま望遠鏡を下ろし、少しだけ頬を染める。


「でも……ここからじゃ遠すぎて声をかけられないわね」


 ロザリーとメリッサは目を細め、ペネロペはなぜか黙って頷いた。周囲の男たちはどこか悟りの深いため息をつく。女子たちがざわつき、望遠鏡の争奪戦まで勃発しつつある横で、マクシムとグウェナエルは互いに目を合わせた。


「……隊長」

「なんでしょう、グウェナエル」

「我々の任務は……見張り、だったな?」

「ええ、一帯の海域の安全確認。それが本来の目的です」


 二人は同時にロザリー組の方向へ視線を向ける。望遠鏡を取り合って揺れる肩。華やいだ声が甲板を弾むように走る。ロザリーなどは、もう恋の風向きでも読んでいるのか、微妙な角度で青年を追い続けている。任務の空気はどこにもない。


「…………」


 グウェナエルはわずかに目を細めた。


「……見張りが、見張りを放棄しているように見えるのだが」

「同意します。むしろ彼女たち、視線が一点集中しすぎて周囲が見えていません」

「海域の安全より、青年の造形美を優先しているな」

「ロザリーさんは見張り技能を一時的に鑑賞技能にスライドさせたようです」

「目的がすり替わってるじゃないか」


 グウェナエルは緩くため息を吐いたが怒るでもなく、肩から力が抜けたように笑う。彼の横でマクシムが苦笑して口を開けた。


「まあ……命に関わらぬ一時の混線なら、悪くないか」

「隊長、甘いですね」

「君も内心では、あの青年を一度見ておきたいと思っているのでは?」

「…………任務に支障が出ない範囲なら、確認しておく価値はあるかと」

「ほら、君も混線してる」

「……否定はしません」


 二人は小さく笑い合い、女子会のざわめきを背に、改めて周辺警戒へ視線を戻した。


 一方、数字の海に船を出していたニールの手がようやく止まった。紙面に積み上がった積載量の数字は、もはや彼に覚える必要のないはずの計算ばかりで、頭の中はすっかり航海図よりも数列に引っ張られている。ニールは肩を回して軽く伸びをすると、さっきから背中に絡んでくるような気配が気になり、視線を水平線へ放った。うねる蒼。そこに小さく、ひょいと跳ねるように姿を現した艦影。やや距離を保って並走するフリゲート船。甲板で誰かがこちらへ向けて手を振っている。


「……?」


 ニールは胸元の望遠鏡を引き上げ、最大まで絞る。外套をはためかせた数人の女性たち。誰もが笑って、こちらに向かって元気よく腕を振っている。ニールは反射のように望遠鏡を下げ、そのまま無思考に手を振り返した。


「ニール、何やってるんだ?」


 ニールの背後からフランソワの声。ルキフェルとジャスパーとの作戦会議の最中らしいが、ニールの行動が目に入ったらしい。


「女の子たちが手を振ってるから、振り返してるだけ」


 ニールは素直に言った。フランソワは「へえ」と妙に含みのある声を漏らし、横目で件のフリゲート船をちらりと見る。


「フランソワ。絶対縁には近づくなよ。見つかるから」


 ルキフェルが低く釘を刺す。フランソワは胸を張り、むすっとした顔で答えた。


「わかってるよ! ちょっと見たいだけだ」


 ジャスパーはケタケタと笑い、どことなく重苦しかった空気がふっと緩んだ。たわいないやり取りが、海賊船にひとときの波間のゆるみを運んでくる。


 ——一方、件のフリゲート船上。


「……あっ! 手、振り返した!」


 ロザリーが望遠鏡を覗いたまま甲板に響く声で叫んだ。


「ほんと!?」

「どれどれどれどれ!」


 メリッサとアニータが左右からロザリーに食らいつき、三つの頭が望遠鏡にぎゅうぎゅう寄る。もはや視界より熱気の方が勝っている。操舵輪の前でサミュエルがそっと手を離し、眉を上げた。


「グウェナエル、少し替わってくれるかい?」

「断る」


 間髪入れずに返された拒否。グウェナエルの声は海風より冷ややかだ。


「見たいだけでしょう」


 グウェナエルの的を射た追撃に、サミュエルは胸に手を当てて堂々と言い返した。


「美しいものを求めて何が悪い?」


 二人のやり取りのすぐ脇で、ダヴィットは額に手を当てつつため息をついた。


「まったく……一人の男に夢中で、船全体の状況を見てないなんて」


 そう言いながらも、ダヴィットの望遠鏡を持ち上げる仕草は誰よりも素早い。例の青年がいるというガレオン船を覗き込むが、筒の先にはぼんやりした模様しか映らない。


「……短い、これじゃ見えん」


 ダヴィットはすぐ近くのリラを横目で示す。リラは何も言わず、すっと最新式の望遠鏡を放り投げた。


「ありがとう」


 受け取ったダヴィットは自分の古びた望遠鏡とリラの新型を器用に重ね、ひたすら覗いた。二本の筒を縦に合体させた奇怪なフォルムは、もはや観測器具というより甲板上の謎の儀式だ。その異様な姿に、マルセロはつい本音を漏らす。


「いや……なんでそうなるんだよ」


 すっかりドン引きしている。賑やかさは波のようにぶくぶく膨れ、フリゲート船の甲板はすっかり一つの騒ぎの生き物になっていた。


 一方、海賊船。


「ニール、望遠鏡を貸してくれ」


 フランソワの声にニールは顔を上げて「あ、うん」と返し、すっと望遠鏡を差し出した。フランソワが受け取ると、ニールは何事もなかったように計算へ戻り、紙の上では再び数字の大行列が疾走し始める。さっき手を振っていた相手のことも、もう彼の意識からは潮風みたいに消えていた。


「相変わらず爽やかなんだか冷たいんだか」


 フランソワは苦笑しつつ望遠鏡を覗き込んだ。彼の背後では、ルキフェルとジャスパーがまだ進路や潮の癖について言い合っている。二人の声が波の揺れに合わせて揺らぎ、海賊船の甲板は張りつめた空気と緩さが奇妙に混ざった。


 一方、フリゲート船ではダヴィットが船首側に身を寄せ、ガレオン船を丁寧に観察し続けていた。ロザリーやアニータたちが黄色い声を上げていた相手を、今度は任務として見極めるつもりだ。


「服装……船の構造……武装してる様子はなさそうだな。立ち居振る舞いも、商船の水夫と変わらない。普通だ」


 ダヴィットは呟きながらレンズを少しずつ動かしていく。視線は船首から船腹へ、ゆっくり船尾側へ。その時、視界にひょいと割り込む影。船縁に座っていた金髪の青年。そのすぐ隣で、外套を羽織った男が望遠鏡を構えている。


「お……あれがロザリーたちの言ってた男かな」


 ダヴィットが声を潜めて呟くが、ダヴィットから見えるのは“望遠鏡とその手”ばかりで、肝心の男の素顔はまるで影に隠れた彫像みたいに見えない。フランソワが覗くレンズの形と彼の手の動きが絶妙にフランソワ本人の表情を覆い隠していて、かえって正体に霧をかけていた。


 その頃、フランソワの関心はもはや甲板で手を振る女性たちには向いていなかった。望遠鏡の先で揺れるのは、どこか古めかしい造りのフリゲート船。甲板にいる人数も驚くほど少ない。まるで、のんびりした観測船か観光船のようにすら見える。


「なんだ、ただの気ままな船か?」


 風が帆を叩いた瞬間、フランソワの視界の端でひゅっと何かがひらめいた。見逃しそうなそれを反射的に視線で追いかける。はためく布。くっきりと浮かび上がる意匠。フランス海軍の紋章。フランソワはサッと望遠鏡を下ろし、低く言葉を漏らした。


「……まずい」


 フランソワの声に、ルキフェルが素早く振り返る。


「どうした、フランソワ?」


 答えの代わりに、フランソワはニールの襟首をつかんで船縁から引きはがした。勢いがつきすぎて、ニールは「うわっ!?」という情けない声を上げ、甲板を転がりながら自然と受け身をとる。紙束がふわりと散り、数字が空に泳いだ。


 その瞬間、フリゲート船側でも別の衝撃が生まれていた。望遠鏡を下ろした男の顔を、ダヴィットはしっかりと捉えた。明るい茶色の髪。獣のように鋭い眼光。頬を走る傷。そして、黒色の三角帽。


「……は……?」


 嫌な予感が背骨を伝う。ダヴィットは慌ててリラの持っていた報告書をひったくり、ページをめくった。指名手配者の似顔絵が載っている。その紙の上の顔と、自分が見た男がまったく同じ。心臓が跳ね上がった。


「ぎゃあああああああああああっ」


 甲板にダヴィットの悲鳴が炸裂し、フリゲート船の空気が一気に凍りついた。海風すら、その声にたじろいだように揺れた。ロザリーは望遠鏡を通して、引き剥がされた金髪の青年と、彼を制した人物の顔を見て絶句した。顔面が蒼白になり、かすれた声で「あれ、嘘」と呟く。メリッサとアニータも言葉を失い、口元を押さえて固まっていた。遠巻きに見ていたペネロペは首を傾げ、何が起きたのか理解できずに目をぱちぱちと瞬かせる。その時、マクシムが穏やかに「皆さん、一体どうしたんですか?」と尋ねようとした瞬間、リラが鋭く声を張り上げる。


「ただちに報告しなさい!」


 彼女の声は、マクシムの部隊長としての威厳すら掻き消すほどの気迫を持っており、甲板上にいた全員が一瞬息を呑む。マクシムとリラが並ぶと、誰が部隊長なのか区別がつかないほどの圧が漂った。ダヴィットは鋭い指示に触発され、ようやく自らの威厳を取り戻す。


「大海賊フランソワがいます! 報告にあった通りの姿です!」


 ダヴィットの言葉が甲板に響くや否や、全員の体に衝撃が走る。マクシムは即座に反応し、命じた。


「あのガレオン船を追ってください!」


 操舵輪付近にいたサミュエルとグウェナエルはほぼ同時に「了解!」と叫び、二人して操舵輪に手をかけた。互いに一歩も引けを取らない表情で睨み合い、サミュエルが口を開く。


「……昼の航行は僕の担当だよね?」


 それに対し、グウェナエルは身を乗り出して言う。


「戦闘時は俺が操れば早く走れます」


 サミュエルは眉をひそめて反論する。


「君の操舵は雑なだけ。いつ船が横転してもおかしくない。君は剣だけ握ってればいいんだよ」


 二人の口喧嘩はヒートアップし、マクシムは思わず舌打ちしながら声を荒げた。


「なんでもいいから早く進路を変えてよ!」


 普段の部下への敬語は完全に消え去り、声の端には焦燥と苛立ちが滲んでいた。甲板上は緊迫と混乱が入り混じった中、サミュエルとグウェナエルの掛け合いが続きつつも、船は徐々にフランソワの乗るガレオン船へと向かっていった。フランソワは甲板上の船員たちに鋭い目を向け、号令をかける。


「海軍に見つかった! 全速前進せよ!」


 突然の指揮権の移動に船員たちは一瞬戸惑ったが、事態の重大さを理解し、マテオの指示に従って砲撃準備に取りかかる。砲弾が甲板に並べられ、鎖弾の装填作業が慌ただしく始まった。舵を握るジャスパーは舌打ちをしながら甲板に響く声で喚く。


「これでも全速力だよ!」


 コリンはフリゲート船を振り返り、慌てて声を上げる。


「あの人たち、早い! あれじゃ、すぐに追いつかれちゃう!」


 ルキフェルはフードを深く被りながら冷静に言う。


「武器の用意をしておけ。乗り込まれたら、俺たちが対処するしかない」


 ジャスパーは両手を広げて子どもみたいに叫んだ。


「一体どうしろってんだ。スピードはこれ以上出ないぞ!」


 その間、ニールは床に散らばった数式のメモ書きを俯瞰し、ゆっくりと立ち上がった。肩で深く息をつき、甲板を見渡した後、はっきりと声を出す。 


「……僕に考えがある」


 その一言が甲板に一瞬の静寂をもたらす。緊迫した状況の中で、船員たちの視線がニールに集まった。


 マクシム隊を乗せたフリゲート船は全速でガレオン船に追いついた。舳先を微妙にずらして船尾に衝突しないよう調整し、乗り込み態勢を整える。

 マクシムはサーベルを引き抜くと舳先を駆け、ガレオン船の船縁に飛び移って受け身を取って着地した瞬間、膝をついて散らばった紙を整えていたニールと目が合った。ニールの視線はマクシムの顔に吸い寄せられる。目の前にいるのは、かつて無惨に命を奪われたベルナルドの記憶と死の責任者、憎悪の対象である海軍員だった。黒い感情が普段抑え込まれていた身体中を駆け巡り、憎悪と怒りを込めてニールは声を震わせた。


「……っ、よくも奪ったな!」


 ニールは紙を放り、剣帯からカットラスを引き抜くとマクシム目掛けて襲いかかった。最初の衝突で火花が飛び散って鋭い金属音が甲板に響き、揺れる甲板上で二人は踏ん張った。マクシムが斜めに突きを繰り出すと、ニールは腰をひねって受け止め、跳ね返す。波の衝撃と揺れに合わせ、両者の刃が交錯するたび火花が炸裂した。


「よくも……!」


 ニールの声が怒りと冷静さを混ぜた凄みを帯びて響き、マクシムは鋭く目を光らせた。互いの刃が再びぶつかり、火花と金属音が甲板を覆い、船体の揺れと波の衝撃が二人の攻防をさらに過酷にする。ニールはカットラスで斬り下ろすも、マクシムは身をひねってかわした。

フリゲート船の甲板でグウェナエルが舳先に足をかけた瞬間、海賊たちは次々と荷物を甲板から海面に投げ落とす様を捉えた。


「嘘だろ……」


 グウェナエルの声が小さく震えた。


 一方、海賊船上ではルキフェルがニールの計算メモを手に、船員たちに的確な指示を飛ばしていた。これからの航海に必要な物資と逃走のために不要な物資を分け、次々と海に投げ入れる。ニールの計算はただの軽量化ではない。船体が横転しないよう、どの荷物を船内のどの位置に残すかまで事細かに考慮されていた。船員たちは必死だ。今は逃げることに専念するしかない。ルキフェルは呆れ混じりに呟く。


「ニールのやつ、いつの間にこんなこと考えていたのか」


 彼の頭脳と冷静さに改めて恐れ入るルキフェルの目は、船上の混乱の中でも確かにニールの計算が生む秩序を捉えていた。

 一方、ニールは必死に耐えていた。マクシムの剣先が目の前で閃くたび、身体が自然に反応して防御する。対するマクシムは痺れを切らしていた。仲間は来ない。目の前の海賊は意外と手強い。雑念が過り、ニールとの鍔迫り合いを解いて距離を取った瞬間、足が紙の上でするりと滑って抜けた。


「うわっ!」


 派手な音を立てて背中に衝撃が走り、周囲で紙が舞った。手から離れたサーベルも床を滑っていく。マクシムが身を起こした途端、ニールが馬乗りになってマクシムの首元を掴んで押し倒した。


「ぐっ……!」


 呻くマクシムを見下ろしながら、ニールはなお息を荒くしていた。


 ——今ならベルナルドの仇を。


 ニールは集中力が一点に偏るあまり、マクシムが反動でスペアの短剣を手にしていたことに気づかなかった。マクシムが勢いのまま振ると短剣はニールの右腕を貫き、熱と鋭い痛みが走ってニールは思わず痛みの叫びを上げた。


 彼の声に反応して、ルキフェルはフードを深く被り直すと駆けるように船尾へ向かう。マテオも慌てて近くのマスケット銃を手に取り、同じく船尾へと走った。


 腕に短剣が突き刺さったニールは、マクシムの胸元への蹴りを受けて背中から甲板に叩きつけられ、痛みが身体中を走り、視界が揺れた。彼の周囲で紙たちが赤く染まっていく中、マクシムはサーベルを拾うと無言でニールの側を通り過ぎようとする。が、ニールは痛みに歪む顔で最後の力を振り絞ってマクシムの足を掴んだ。マクシムは冷酷な目でちらりとニールを見下ろして足を払うと、蹴りでニールの顔面を打ちつける。


「一人くらい、息の根を止めてもいいか」


 マクシムのサーベルの先端がニールの喉元に迫る。ニールは蹴られた痣の痛みも忘れ、終わったと覚悟を決めて目を閉じた。——が、次の瞬間。サーベルが不意に弾き返され、空中で弧を描く。マクシムが敵の姿を見定めようと視線を上げた瞬間、目の前に伸びる腕と鋭い手が自分の首を捉えた。片手で首を締め上げる力、冷静で非情な視線。

 そこに立つのは、大海賊と化したフランソワ。カットラスを手に無言のままマクシムを睨みつけていた。マクシムの胸中に一瞬の動揺が走る。これまでの優位は一瞬で崩れ去った。冷徹な海賊の瞳に今、自分が立ち向かう相手の本当の強さを思い知らされる。フランソワの手の力は容赦なく増し、マクシムは思わず喘いだ。フランソワはさらに続ける。


「お前がベルナルドにしたことは、こういうことだ」


 海賊として、譲れぬ剣士としての矜持が彼の言葉と行動に凛然と宿る。その眼差しは冷たくも、どこか正義感すら漂わせていた。

 船尾に現れたルキフェルの視線は、フランソワよりもニールに向けられていた。ニールの右腕にはまだ短剣が突き刺さったままで、息を荒げている。ルキフェルはマスケット銃を肩に担ぐマテオと共に、二人で慎重にニールを抱え上げて階段を降り、操舵輪の近くにある荷箱にニールを寄り掛からせて体が少しでも安定するように支えた。その時、操舵をしていたジャスパーが風の流れを確認しながら叫ぶ。


「風の流れが変わった! これならスピードが増すぞ!」


 マテオは立ち上がり、鋭く吐き捨てるように言った。


「オレはフランソワ船長のところ行ってくる。放っておけねえ」


 ルキフェルは頷き、再び船尾へと向かうマテオを見送った。今は、ニールの容態を最優先に考え、彼の側にいることを選ぶ。

 一方、フランソワはマクシムの肩の力の入り具合、止まりかけた呼吸、薄く震える指先を見極めると、手の力をふと緩めた。マクシムはその瞬間、息を吸い込み、膝をついて呼吸を整えようとしたが、フランソワは冷静な目で彼の様子を見据え、容赦なく前へ踏み出す。


「まだ甘いな」


 鳩尾に強烈な一撃が飛び、マクシムは呻き声を上げた。痛みで身体が縮み、すぐに蹴り上げられる。視界がグラリと揺れ、船尾から海へ落ちる恐怖が瞬間的に胸を突くが、ギリギリのところでマクシムは船尾の縁を掴み、必死に体を引き上げようとした。フランソワは冷たい視線を微動だにせず送り、ゆっくりと足を伸ばす。マクシムは手を踏まれた瞬間、痛みが全身に走り、指先で縁を必死に握る力がさらに入り、爪が白く染まる。フランソワはなお冷酷な瞳で、苦痛と恐怖に歪むマクシムの表情をじっと見下ろしていた。踏まれた痛みに全身がビリビリと痺れ、マクシムの頭の中はすっかり恐怖と焦燥で混乱している。海面までわずか数メートル。落ちれば一瞬で冷たい海に飲み込まれる。心臓は早鐘のように打ち、呼吸は荒く乱れ、血の気が引いた手で船縁を必死に握りしめた。


「くそ、くそ…っ……!」


 マクシムは自分の体の震えと無力感に苛まれた。足先に残る踏みつけの痛みが、彼に容赦なく現実を突きつける。身体は自然と縮み、指先の力も限界に達していた。フランソワが足に更に重心をかけると、マクシムは思わず嗚咽に似た悲痛な叫びを上げた。冷たい風と甲板の揺れの中、マクシムの腕は必死にフランソワの足を殴りつけるが、金属のように硬い足はびくともしない。


 その時、フリゲート船から鋭い足音が甲板を響かせた。ダヴィットだ。海への落下など構わず駆けてくる姿は、荒々しくもまっすぐだった。叫び声と共に振り下ろされるサーベルの軌跡が空気を切る。フランソワは咄嗟に左手を上げ、カットラスの剣身を親指と人差し指の間に乗せると、振り下ろされたサーベルの衝撃を完全に受け止めた。数秒の鍔迫り合いの後、フランソワは僅かな体勢の揺れを見逃さず、重心を巧みに移動させてダヴィットを押し返した。その瞬間、踏みつけていたマクシムの足をようやく退け、解放する。


 ダヴィットはフランソワが追撃してこないことを察すると、すぐに船尾の縁にしがみついたままのマクシムへ手を伸ばした。マクシムは噛みしめた奥歯の隙間から荒い息を漏らしつつ彼の手を力任せに掴む。二人の筋が張りつめるような腕が引き合い、マクシムは漸くフリゲート船の舳先へよじ登った。彼らの様子を見ていたフランソワは唇の片端だけを上げ、風に混じるような薄笑いを漏らした。


「生憎、俺は命を奪う趣味までは持ち合わせてないが。これがあの時、お前がしたことの答えだ」


 マクシムの瞳がぎらりと尖り、理性の枷がひとつ外れた。彼は咆哮を抑えきれず、全身の怒りを拳に凝縮させてフランソワへ襲いかかった。彼の背後でダヴィットが「待て!」と声を上げて手を伸ばすが、指先はマクシムの軍服の裾にすら届かない。フランソワは小さく首を転がすようにして、ぼそりと呟いた。


「やれやれ、無鉄砲な奴ら」


 次の瞬間、フランソワはしなった身体で風のように屈む。マクシムの拳は空を裂き、わずかな虚空の抵抗さえ掴めずに空振りした。フランソワの背後。マテオがマスケット銃を棍棒として構えて銃身を握り、銃床を大きく横薙ぎに振り抜く軌道。刹那、ダヴィットが反射的にマクシムの背を押した。押されたマクシムは身を沈め、かわりにダヴィットの顔が銃床の軌道にまるで吸い寄せられるように飛び込んでしまった。鈍い衝撃音が甲板に跳ね返り、ダヴィットの視界は白熱した火花が散るようにチカチカと脈打つ。振り返ったマクシムの視界に、マテオが無感情とも不敵ともつかない光を宿したまま、銃床をマクシムの胸元へ突き出す姿が飛び込んできた。


「ぐっ──!」


 銃床の鋭い一撃を受けてマクシムは吹き飛ばされ、二人は真っ逆さまに海に吸い込まれていった。波飛沫が高く上がり、フリゲート船では舳先の上でグウェナエルが波間に顔を出した二人の姿を捉え、甲板上ではメリッサが絶叫し、すぐさま機転を効かせたシャルルが「ハンドログでもいい! 何か放り込んで二人を助けろ!」と指示を飛ばし、リラは額に汗を浮かべて船縁から身を乗り出し、海上に消えたマクシムと弟の姿を探し、ペネロペはハンドログ探しのためすぐさま船内へ駆けていった。

 波間から顔を出したマクシムは、水を吸い込んで重くなる海軍制服コートを脱ぎ捨て、同じくコートと武器を諦めたダヴィットと共に支え合いながら波間に漂っていた。その間に、海賊船は風の変化と軽量化の効果を受けて一気に速度を増して、距離は波を滑るように開いていく。身を屈めていたフランソワは風の中でひとつ長く息を吐き、ゆっくりと背筋を伸ばした。彼は振り返ってマテオを見る。


「マテオ、今のはやりすぎだ」


 マテオは銃床を肩に戻し、薄く笑った。


「いいや、十分だろ。あいつら相手に弾を使うなんて勿体ねえ」


 フランソワは首を横にしかけ、何かを考え直したように目を細めた。


「戦闘は避けたいが……目にものを見せてやろうか。マテオ、あいつらにアレをお見舞いしてやれ」


 マテオは口角をゆっくりと上げ、影が落ちるような笑みになった。彼はマスケット銃を肩に担ぎ、敬礼する気配で一言放つ。


「了解、船長」



 フリゲート船では、海から引き揚げられたダヴィットとマクシムの手当てがすぐに始まった。ハンドログを頼りに戻った二人の元に、マルセロが素早く駆け寄る。シャツを脱がせ、殴打された箇所を確認すると、二人とも紫色に変色した腫れと痣が点在していた。マルセロは思わず顔を顰める。


「よくこれで戻れたな」

「ダヴィットに脳震盪の疑いは?」


 アニータの声を受けてマルセロが慎重に確認すると、幸い軽症で安堵のため息を漏らした。

「今のところ問題はない。が、これ以上は追うな。悔しいかもしれんが、今は療養しよう」


 その時、操舵輪近くにいたサミュエルが海賊船の異変に気づいた。海賊船がこちらに対して横向きになり、甲板上の船員たちが何かを準備しているのが視界に入る。海賊船の甲板では、マテオが砲撃の指示を出していた。


「狙え、マストと帆だ。鎖弾で足止めする」


 砲手たちは緊張の中、マテオの指示通りに鎖弾を装填する。砲身から発射される弾丸は、鎖で連結された鉄球。空気を切る鋭い音とともに、重さと勢いを帯びた鎖弾がフリゲート船めがけて放たれる。

「伏せろ!」


 サミュエルの叫びに甲板上の隊員たちは必死に身を伏せた瞬間、鎖弾がフリゲート船のマストに衝突。木材を激しく打ち鳴らし、衝撃で帆はバサリと揺れ、帆桁は軋む音を立てた。続けて別の鎖弾が帆に直撃し、帆布に裂け目が走る。フリゲート船全体が横転寸前の揺れに襲われ、船員たちは踏ん張った。砲撃の衝撃で地面に叩きつけられ、体を寄せ合う者、手すりを握りしめる者、冷や汗を浮かべる者。海賊船の甲板では砲撃が一通り止むと、マテオは操舵輪付近に立つフランソワを見上げた。フランソワの視線の先には、無惨に損傷したフリゲート船が横たわり、帆は裂け、マストはぐらつき、船体は波に揺られて今にも崩れ落ちそうだった。フランソワは頷き、マテオに指示を示す。


「よし、お前ら。よくやったな! んじゃ、さっさと逃げようぜ」


 マテオは笑みを浮かべながら、砲撃停止の合図を出す。甲板上では船員たちがほっと息をつき、ジャスパーは取り舵を握り直して即座に船を旋回。海賊船はフリゲート船に背を向ける形で、海の上を滑るように進んでいった。

 

 海賊船の様子を見ていたグウェナエルは舌打ちをすると、隣にいたシャルルを見た。シャルルは言葉もなく、首を横に振るのみ。この男の知略をもってしても、今回の状況は打開できなかった。グウェナエルは悔しさを拳に込め、壊れたマストの柱を殴った。事実上の敗北。海賊の影は消え去ったが、代わりにマクシム隊に重くのしかかる敗北の現実があった。マクシムはまだ揺れ続ける視界の中で、遠くへ消えていくフランソワ海賊団を眺めることしかできなかった。涙は出ないが、頭の中でフランソワの言葉が反響する。


 ──お前がベルナルドにしたことは、こういうことだ。


「ツケが回ったというのか……」


 掠れた声でマクシムは呟くが、周囲の隊員には届かない。皆は救援要請の準備に追われ、戦場の余韻に気を取られていた。マクシムの隣に座るダヴィットは戦闘で負ったダメージの重みをようやく自覚し、疲労に押し潰されるように意識を手放していた。


 マクシムの脳裏にはあの時、自分の手で確実に殺したベルナルドの顔が鮮明に浮かぶ。

 穏やかだった青年の笑顔、その命を奪った自分の冷酷な手の感触。それが今、遠くに消えていく海賊団の背中と重なり、胸を締めつけた。敗北の静けさの中、マクシムはただ硬直したまま波の揺らぎと遠ざかる海賊の影を見つめ続けるしかなかった。

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