第二章③ コリン
昼食を終えるとルキフェルは誰に声をかけるでもなく、椅子を引く音すら最小限にして席を立ち、船長室を出て行った。足音は早くも遅くもない。怒っているのか、考え込んでいるのか。外からでは判断がつかない。閉じられた扉がひどく重々しく響いた。
フランソワもルキフェルを引き止めることなく、船長室の机に肘をついたまま海図を見下ろしていた。彼の沈黙もまた何か言葉より明確な線引きのよう。コリンは居心地の悪さを抱えたまま、船長室をそっと抜け出した。扉を閉めると密室の空気から一転して、甲板の昼の光が目に刺さる。コリンは腕を高く伸ばし、深く息を吐いた。誰も、何も言わないんだな。孤独の中でそんな思いが胸に浮かんだ時だった。
「よう」
ジャスパーがいつもの気怠そうな歩き方で近づいてきていた。帽子のつばの影に隠れた表情は読みづらいが、彼なりに気を遣っているのがわかる。
「まあ、ロープでも編んで落ち着け」
それだけ言うとジャスパーはコリンの肩を叩き、さっさと操舵輪のほうへ歩いていった。こちらを振り返ることもない。艦の一角では、同じ年頃の少年水兵たちがロープを抱えて座り込んでいた。彼らは昼食後の作業として、古いロープの端を解き、新しいロープと繋ぎ合わせ、長さを整える。コリンも何も言わずその輪に加わった。
「……おう、コリン。来たか」
作業中の一人が笑って、手元の鉄製くさびをコリンに放る。コリンは膝をつき、ロープを自分の膝の上に乗せた。太い麻の繊維はざらざらしていて、触れるたびに少しだけ痛い。その痛さがむしろありがたかった。考えすぎる頭のどこかを現実に引き戻してくれる。フランソワもルキフェルも。誰も何も言わない。「言ってくれなかった」ことが、自分の中でこんなに刺さるなんてと、コリンは自分に驚いていた。ロープの端を鉄くさびでほぐしながら、ゆっくり息を吐く。
「コリン、強く引っ張りすぎるなよ。芯が割れる」
隣の少年が軽く肩をぶつけてくる。
「あ、うん……ごめん」
コリンは表情を作る余裕はなかったが、指先だけは確かに動く。彼の横では別の少年がいつものように言う。
「それ、次こっちに回せよー。長さ合わせるから」
日常の雑踏だけが、甲板のこの小さな広場に流れていた。くさびを差し込み、繊維を裂き、ほどいた端を束ねて整えながら、コリンの指が止まった。目の前のロープ。その向こうで、太陽の光を受けて揺れている帆。風向きが変わるたび索具がわずかにきしむ。ロープの構造。繊維をこうやってほぐして、また結び直して、引き方次第で力の伝わり方は変わる。帆は複雑な索具で釣られていて、複数人で動かすのが当たり前だが、一本で引くだけで動くようにできたら、もっと楽になるのでは。思考が急に、湿った空気を切り裂くような鮮やかさを帯びた。今まで胸の奥で渦巻いていた重苦しさが、すっとひとつの線に収束していく。
「……あっ」
小さく漏れたコリンの声に、隣の少年が顔を上げる。
「ん? どうした」
「いや、ごめん。ちょっと……すごいこと、思いついたかもしれない」
自分でもよく分からない高揚が、胸の奥からふつふつと湧き上がってきていた。海風よりも、太陽よりも熱く。コリンは手にしていたロープの感触を確かめながら、まだ形にならない閃きを必死につなぎ止めようとする。ロープをほどいては編ぎ直す作業を続けているとコリンの手がふと止まった。彼の視線はロープから離れ、船尾側の縁へ向かう。そこには古い金具、錆びた輪。その少し先には、帆へと繋がる複雑な索具の束が揺れている。コリンは手元のロープを指先で転がしながら甲板を見渡した。船尾の縁、金具、滑車、帆のロープ。順に視線が移り、そのたびに表情がわずかに変わった。眉が寄り、目が細められ、ふっと大きく見開かれてロープの片端をつまんだ。
「……これだ」
ついてきた少年が怪訝そうにコリンを見ていた。
「おい、どうしたんだよ?」
コリンは返事もせず、ロープを持ったまま船縁に近づいていった。古い金具に触れ、帆の索具の束に目を走らせる。ひとつひとつを確かめるように慎重に触れ、少年たちのほうへ向き直った。
「ここに新しい固定装置を付けるんだ。帆のロープと滑車を全部ここに通して……一本にまとめる」
説明しながら、コリンの両手は空中で忙しなく動く。結びつく仕組みを描くように。
「力を集める一本をここで締めるだけで帆が上がる。外すだけで一気に下ろせる。……できる」
その場の少年たちは一瞬言葉を失った。コリンの目だけが、まるで何かを射抜くようにまっすぐだ。少年たちとコリンは手早く作業に取り掛かる。ロープを巻き直し、金具を固定し、滑車を丁寧に取り付ける。コリンの指先が器用に動き、一本の太いロープが次第に整理されていく。鉄製のくさびを打ち込み、装置の位置を微調整するたびに舌打ちする。
「今度はここか」
コリンは呟きながら、金具を帆のロープに繋ぎ止めた。隣の少年たちは工具を手渡し、コリンの指示に従って動く。甲板上の木の床板に響く槌の音、滑車の軋む音が絶え間なく鳴る。作業が一区切りついた頃、操舵輪に立つジャスパーが肩越しに声をかけた。
「おい、今度は何の悪戯だ?」
コリンは振り向き、得意げに小さく笑う。
「まあ、見ててよ」
コリンが慎重に装置を操作すると、下りていた帆がゆっくりと動き出す。ロープが滑車を滑り、帆が徐々に畳まれていく様子は、まるで帆自体が自ら動いているかのようだった。ジャスパーは目を丸くして笑った。
「へえ、いちいちマストを登らなくていいな」
コリンもにこりと笑い、操作を続けながら言った。
「すぐに帆を操作できれば、皆の負担も減るね」
ジャスパーは自動で畳まれた帆を眺めながら、ゆったりと腕を組んだ。
「ま、しばらくこのままでもいいだろう。波が船を運んでくれるから」
コリンは頷き、笑みを浮かべて答えた。
「相変わらず流れを読むのが上手いよね。海と会話してるみたい」
ジャスパーは肩をすくめ、軽く笑った。
「ま、勘だよ」
コリンはちょっと首を傾げながら再び口を開いた。
「第六感ってやつかな」
ジャスパーは眉を寄せ、半ば呆れたように言った。
「なんだよそれ。感覚の話?」
コリンは指で空中に線を描くように説明を始める。
「うーん、言葉にするのは難しいけど……感覚や経験で、次に何が起きるかを感じ取る力かな。波の動きや風の匂い、空気の変化とか……五感で拾える情報だけじゃなくて、それを組み合わせて直感的に判断する力。たとえば今みたいに海面のうねりを見ただけで、次に船がどっちに傾くか分かる。風向きや潮の流れも、肌や髪、帆のはためきで自然に感じ取れる。だから海に触れた瞬間に『こう動けばいい』って、体が勝手に分かるんだ」
ジャスパーはふむと頷き、少し感心したように視線を帆に戻す。
「へえ、なるほど……魔法みたいだな」
コリンはくすりと笑い、帆の揺れを確かめるようにロープを軽く引いた。
「魔法じゃないよ。でも、海と一緒に動くってこういうことだと思う」
しばらくジャスパーは無言で波の揺れを見つめていたが、やがて口を開いた。
「なあ、さっきは何であんなこと言ったんだ。 悔しくないのって、直球で聞いちゃって」
コリンは少し考え込み、指先でロープをいじりながら答える。
「マテオは……まあ、どんなに陰口を叩かれても一発ぶん殴ればいいって思ってるだろうね」
コリンは少し間を置いて、視線を海面に落としながら続ける。
「でもルキフェルは……なんだろう。ぼくには、何かを怖がってるように見えるんだ。理屈で壁を固めてばかりで、ルキフェルは自分自身を見つめてないように見える」
コリンは言葉を呑み込み、ジャスパーは彼の言葉を受けて眉をひそめるが、口は開かず海を見つめていた。
「自分自身を見つめてない、か」
コリンは言葉の意味を咀嚼しながら、じっとジャスパーの顔を見た。ジャスパーは少し肩をすくめ、コリンに向かって言う。
「コリンの指摘も間違っちゃいない。ただ、あいつが怒るのも珍しいよ。『逃げる』って言葉には、やたら敏感なんだろうな」
コリンの心臓がわずかに早まる。
「逃げる……敏感?」
彼は思わず問いかけるように反応した。ジャスパーはニヤリと笑みを浮かべ、操舵輪に手を置いたまま続ける。
「コリン。あいつはな、昔のことを思い出せないらしい」
コリンは目を見開き、言葉を失った。
「え……?」
ジャスパーは目を細め、海を見つめる。
「なんか、気づいたら海の上にいたんだとさ。でも、それを思えば、あいつが周りに対して壁を築くのも、態度を理屈で固めてるのも少しは納得いくだろう」
コリンは唇を噛み、ルキフェルの背中を思い浮かべた。
「……そっか。そもそも、自分が誰かか分からないんだ。だから、自分を見つめることなんてできるわけがない……ぼく、酷いことを言ったなあ」
コリンは視線を下に落とし、両手で肩の力を抜いた。自分の言葉が、ルキフェルの重荷を増やしたのではないか。そんな考えが頭をよぎる。やがてコリンはは深く息を吸い、ジャスパーの方を向いた。
「……ぼく、謝ってくる」
ジャスパーは肩をすくめて軽く笑った。
「お? 久しぶりに素直になった。ま、おれは敢えて何も言わねえよ。自分のペースでいけばいい」
コリンはジャスパーの言葉を胸に刻むように頷くと、甲板の端へ歩みを進めた。風に揺れる帆と木の甲板の軋む音だけが、静かに二人の間に残る。ジャスパーはコリンの背中を見送りながら、にやりと笑った。コリンが船内へ降りようと階段に足をかけた瞬間、彼の背後から低い声が飛んできた。
「おい、コリン」
コリンが振り変えると、マテオがいた。腕を組んだまま、面倒くさそうなのにどこか落ち着かない足取りで立っている。
「……何?」
「ギャレー来い。ちょっと見てほしいもんがある」
マテオに呼び止められた手前、無視もできない。コリンは肩を落としつつ、マテオと並んで通路を進んだ。鍋や木皿の匂いが満ちるギャレーに入ると、マテオが隅を指さす。
「あれ。ちょっと見てくれ」
マテオが指さしたのは、例の「水を浄化するための装置」。といっても実態は酒を鍋に入れて火を通し、アルコールを飛ばしつつ、船に燃え移らないようにするための鉄の囲い。質素で頑丈で、妙に愛嬌のある代物だった。船乗りにとって酒は命の保存食みたいなものだが、ジャスパーは匂いに敏感すぎて強い酒が飲めない。仕方なくニールとコリンが試行錯誤して作った、努力の結晶でもある。コリンは囲いの留め具、鋲、底板の焼け具合まで順に確認していく。手際は淡々としているが、道具を見る目は鋭い。
「特に……なんもないよ。壊れてない」
マテオが胸をなでおろしたように息を吐いた。
「あー、よかった。さっき盛大に蹴っちまってさ。歪んでねえか心配だったんだ」
コリンは思わず眉をひそめる。
「ただの鉄の囲いだよ。蹴ったくらいじゃ壊れないって」
「だよな」
マテオが笑う。その笑いは大雑把で豪快なのに、どこか子どもっぽい安心がにじんでいた。彼は装置の縁を軽く指先で叩きながら、感心したように呟く。
「にしてもさ。お前とニールはよくこんなもん思いつくよな」
「だって、ジャスパーが『酒は無理、ザウアークラフトも飽きた』って文句言い続けるんだよ? 放っておけるわけないじゃん」
コリンが肩をすくめると、マテオは吹き出す。
「確かに。あいつの不満って、妙に船内に響くからな。樽ん中で太鼓叩かれてるみたいに」
「でしょ。だから、これ作ったんだよ。……まあ、おかげでジャスパーの文句は減ったけどね」
「ありがとな。……蹴って悪かったけど」
マテオは頭をかいた。豪胆な男が不器用に謝るその姿は、鉄より硬い誠実さをまとっている。コリンは軽く笑った。
「気にしてないよ。マテオらしいし」
「らしいってのは褒め言葉か?」
「さあね。受け取り方次第」
そんなやりとりが一瞬だけギャレーを柔らかくした。煮込みの香り、鉄の装置、板張りの床。日常の音が戻ってくるだが、コリンの胸の奥では落ち着かない波が続いていた。ルキフェルのこと。さっき言ってしまった余計なひと言。知らなかった事情。
「……謝らないと」
コリンは踵を返して歩き出す。
「じゃ、ぼく行くね。装置は問題なし」
「了解。壊れたらまた頼むわ」
コリンの背中に飛んできたマテオの声は、鍋の湯気みたいにあたたかかった。コリンは軽く手を振り、ギャレーを後にする。廊下に出ると、甲板へ向かう階段が細く影を落としていた。その向こうに、向き合うべき相手がいる。コリンは一度喉を鳴らし、足を踏み出した。船内を歩き、船の下層、それも船尾側に位置するクォーターマスターの部屋に向かう。床板を踏むたびに微かにきしむ音が響く。周囲の雑踏や人々の気配から離れ、通路を進むと自然と心が落ち着くような感覚があった。
一方、クォーターマスターの部屋。ルキフェルは机に向かって一人悶々としていた。海図や書類の間に置かれた羽ペンも、今は役に立たぬお飾りのように見える。ルキフェルの視線は紙面にある数字や記号に触れず、頭の中で渦巻く思考の重さに向かっていた。
トルチュ島を出発する前、島に流れた噂が頭から離れなかった。
エドガー・ロジャース海賊団の八つある船団のうち、第五船団が壊滅したという内容。
エドガー海賊団の中でも、とりわけ粗暴で知られた第五船団。
そのリーダー、斧のマルクことマルク・ドイチュ。かつて自分たちに船を譲った粗野で熱い男で、恩義のある相手だった。死んだのか姿をくらましたのか。噂では沈んだとしか伝わっていない。
ルキフェルは深いため息をつき、机に突っ伏した。背中にのしかかる鬱屈した重みが、甲板上の風や海の開放感とはまるで無縁のもののように感じられる。外套の肩の感触や、壁に掛けたカットラスの冷たさまでもが、今の気分に影を落としていた。ふいに部屋の空気が微かに変わる。扉の向こうから足音が次第に近づき、ルキフェルは顔を上げて椅子の背もたれに身体を預けた。扉が開くとコリンが現れ、ルキフェルから視線を外さず、ゆっくりと扉を閉める。二人は気まずい沈黙の中、互いの目を見据えていた。耳に入るのは、外でさざめく波の音だけ。やがてルキフェルが口を開きかけた瞬間、コリンが小さな声で切り出す。
「ごめん。ぼくのせいだ。ルキフェルのこと、何も知らなかったから」
コリンの言葉の隙間に、過去のもどかしさと悔しさが滲む。
「悔しかった。ルキフェルとマテオを悪く言う奴らに違うって、ぼくが言えばよかったのに何も言えなくて、八つ当たりした」
ルキフェルはコリンの言葉を受け止め、しばし沈黙したまま机に手を置いた。やがて深く息を吐き、ゆっくりと視線を上げる。
「……俺の方こそ悪かった。いきなり怒鳴ったりして」
声には反省の色が滲み、かつて見せたことのない柔らかさがあった。続けて彼は言う。
「俺はずっと影で生きることが自分の責務だと思っていた。皆が自由にいけるなら、それでいいと。でも、違った。俺の責任の裏で、誰かが苦しんでるなんて考えたことなかったんだ。独りよがりってやつだな」
ルキフェルの口元に、ほんの少しの安堵の影が浮かぶ。
「ありがとう。気付かせてくれて」
コリンは少しだけ目を逸らし、頬にわずかな赤みが差して口元はぎこちなく引き締まる。
「……もう、分かってくれればいいんだよ」
ルキフェルはコリンの表情を受け止め、頷いた。
「……で、何も知らなかったってどういう意味だ?」
ルキフェルがコリンをじっと見つめると、コリンは目を合わせて答えた。
「ああ……ジャスパーが言ってたんだ。ルキフェルは昔を思い出せないって。どう……思い出せないの?」
ルキフェルは机に肘をつき、手のひらで額を押さえながら低く呟いた。
「真っ暗だな。自分が何者で、どこで生まれたのか……何も思い出せない」
コリンは言葉を失ったままルキフェルを見つめる。
「……そっか。記憶喪失ってことだよね」
ルキフェルは机に置かれた書類から目を上げ、深く息をついてからゆっくりと立ち上がった。窓から差し込む光を背に受け、目の奥には冷静さの中にほんのり温かみが光っている。
「ああ、世間ではそう言うらしいな。でも、いいんだ。思い出せなくても、俺には仲間がいる」
ルキフェルは窓の外に広がる青い景色を眺め、コリンはルキフェルの逆行した横顔を見つめたまま口元を緩めた。




