第十一話 お姉ちゃんの好きなもの
休日の朝。
朝食を食べ終え、食器を片付けようとしていたときだった。
「お姉ちゃん、今日は予定ある?」
不意に、つなぎがそんなことを尋ねてきた。
「ううん。特にないよ」
「そっか。じゃあさ、久しぶりに二人でお出かけしない?」
「お出かけ?」
「うん!」
つなぎは、ぱっと表情を明るくして頷いた。
「昔、家族で行った遊園地。覚えてる?」
「遊園地……」
私は少しだけ考え込む。
遊園地。
確かに、両親と一緒に行った記憶はある。けれど、どんな場所だったのか、何に乗ったのか、そこで何をしたのか。具体的なことは、すぐには思い出せなかった。
まるで、遠い昔に見た夢のように、記憶の輪郭がぼんやりと霞んでいる。
「もちろん。覚えてるよ」
私は微笑んで答えた。
「じゃあ、行こうよ!」
「うん。いいよ」
「やった!」
つなぎが嬉しそうに笑う。
その顔を見ていると、私まで自然と嬉しくなった。
つなぎが喜んでくれる。
つなぎが笑ってくれる。
それだけで、今日という一日は十分に価値のあるものになる。
私は、そう思った。
◇
遊園地は、昔とほとんど変わっていなかった。
色鮮やかなゲート。園内に響く楽しげな音楽。休日ということもあって、家族連れやカップルで賑わっている。
あちこちから聞こえてくる子供たちの歓声に、どこか懐かしさを覚えた。
「懐かしいね、お姉ちゃん!」
隣を歩くつなぎが、弾んだ声を上げる。
「そうだね」
「ほら、あそこ! 昔、お姉ちゃんと一緒に乗った観覧車!」
つなぎが指差した先には、青空を背景にゆっくりと回る大きな観覧車があった。
「覚えてる? あのときね、私、怖くて泣いちゃったんだよ」
「そうだったんだ」
「そうだったんだって……お姉ちゃん、覚えてないの?」
「え?」
つなぎが少し驚いたようにこちらを見る。
「ほら、お姉ちゃんがずっと手を握ってくれてたんだよ。大丈夫だよって、何度も言ってくれて。私が泣き止むまで、ずっと隣にいてくれたの」
「……そうだったんだね」
私は微笑んで頷いた。
もちろん、つなぎの言っていることを疑っているわけではない。
きっと、本当にそんなことがあったのだろう。
ただ、そのときの自分がどんな気持ちだったのか、どうしてつなぎの手を握っていたのか。それだけが、どうしても思い出せなかった。
「うん。そうだったんだよ」
つなぎは小さく頷いた。
その表情には、ほんのわずかな寂しさが浮かんでいた。
けれど、それもすぐに消えてしまう。
「ほら、次はあっちに行こう!」
つなぎは私の手を取って、楽しそうに歩き出した。
その後も、つなぎは昔の思い出をたくさん話してくれた。
両親と一緒に食べたアイスクリームのこと。
園内で迷子になったとき、私が見つけてくれたこと。
帰り際に買ってもらった、小さなぬいぐるみのこと。
どれも、つなぎにとっては大切な思い出なのだろう。
話しているときの表情は本当に楽しそうで、まるでその頃に戻ったかのようだった。
私はそんなつなぎの話を聞きながら、何度も頷いた。
「そうなんだ」
「うん!」
「それは楽しそうだね」
「でしょ!」
そんなやり取りを繰り返す。
私は、つなぎが笑っているのを見るのが好きだった。
つなぎが楽しそうなら、それでいい。
つなぎが幸せなら、それで十分。
だから、今日もこうして一緒に過ごせていることが嬉しかった。
……それ以外に、何か必要なものがあるのだろうか。
◇
帰り道。
夕焼けに染まった街並みを、私たちは並んで歩いていた。
遊園地でたくさん遊んだからか、つなぎは少し疲れているようだった。
それでも、口元には楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに?」
「今日、楽しかった?」
「うん。楽しかったよ」
私はすぐに答えた。
すると、つなぎは少しだけ間を置いてから、再び口を開いた。
「本当に?」
「もちろん」
「そっか……」
つなぎは前を向いたまま、小さく頷く。
それから、何かを確かめるように尋ねてきた。
「じゃあさ。お姉ちゃんは、今日何が一番楽しかった?」
「え?」
「観覧車とか、アイスとか。いろいろあったでしょ?」
「そうだね……」
私は考える。
今日の出来事を、朝から順番に思い返してみた。
観覧車に乗ったこと。
つなぎと一緒に食事をしたこと。
昔の思い出を聞かせてもらったこと。
どれも楽しかった……はずだ。
けれど、その中から一つだけを選ぼうとすると、どうしても答えが出てこなかった。
どれが一番だったのか。
何をしているときに、私は一番楽しいと感じたのか。
考えれば考えるほど、頭の中が曖昧になっていく。
「つなぎが楽しそうだったこと、かな」
結局、私はそう答えた。
それは間違いなく本心だった。
つなぎが笑ってくれたこと。
つなぎが喜んでくれたこと。
今日の出来事を振り返って、真っ先に思い浮かぶのはそれだった。
だから、嘘は言っていない。
けれど。
「……そっか」
つなぎは、しばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ困ったように笑う。
「ねえ、お姉ちゃん」
「うん?」
「お姉ちゃん自身は?」
「え?」
「お姉ちゃん自身は、何が楽しかったの?」
私は答えられなかった。
どうして、そんなことを聞くのだろう。
つなぎが楽しかったのなら、それでいいじゃないか。
つなぎが笑ってくれたのなら、それだけで十分じゃないか。
私が何を楽しいと思うかなんて、そんなに重要なことなのだろうか。
そもそも、つなぎが喜んでくれること以上に、私にとって嬉しいことなんてあるのだろうか。
「……お姉ちゃん?」
「あ、ごめんね。ちょっと考えちゃった」
私は笑って、つなぎの頭を優しく撫でた。
「でも、大丈夫だよ。今日は本当に楽しかったから」
「……うん」
つなぎは小さく頷いた。
それから、私の手にそっと自分の手を重ねてくる。
その手は、少しだけ震えていた。
「つなぎ?」
「ううん。なんでもないよ」
つなぎはそう言って、私の手を握り直した。
夕焼けに照らされた横顔は、どこか寂しそうに見えた。
けれど、私にはその理由が分からなかった。
◇
その日の夜。
つなぎが眠りについた後、私は自室で一枚の写真を眺めていた。
今日、遊園地で撮った写真ではない。
もっと昔の写真だ。
両親と、幼い私とつなぎ。
四人で並んで写っている。
写真の中の私たちは、みんな笑顔だった。
父も、母も、つなぎも。
そして、私も。
私は写真の中の自分をじっと見つめた。
楽しそうに笑っている。
本当に、幸せそうな顔をしていた。
けれど。
どうして笑っていたのだろう。
何がそんなに嬉しかったのだろう。
父や母と一緒にいたから?
つなぎと遊んでいたから?
それとも、何か別の理由があったのだろうか。
考えてみても、答えは見つからない。
写真に写っている私は、確かに笑っている。
それなのに、そのときの感情だけが、どこにも残っていなかった。
「……まあ、いっか」
私は小さく呟き、写真を机の上に戻した。
別に、思い出せなくても困ることはない。
過去のことなんて、今さら気にしたところで仕方がないのだから。
今の私には、つなぎがいる。
つなぎが笑ってくれる。
つなぎがそばにいてくれる。
それだけで十分だ。
それ以上のものなんて、必要ない。
そう考えた瞬間。
――ぎしり。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ気がした。
ほんの一瞬の違和感。
けれど、それが何なのかを考える前に、私は目を伏せた。
気にする必要なんてない。
考える必要もない。
だって、私にはまだ大切なものが残っているのだから。
つなぎがいる。
つなぎが笑ってくれる。
それだけで、私は大丈夫。
そう信じていた。
――私の希望は、まだここにある。
そう、信じていた。




