第十話 あなたの幸せは、誰のため?
放課後。静まり返り始めた教室で、美咲はつむぎの机の前に立ち、険しい顔で腕を組んでいた。
「……つむぎ」
「はい?」
「最近、何かあった?」
あまりに唐突な切り出しだった。
つむぎは鉛筆を止め、きょとんと首を傾げる。
「何かって?」
「何かって……いや、最近のつむぎ、やっぱりちょっと変だよ」
「そうかな?」
「そうだよ!」
美咲は思わず身を乗り出した。
「昔からつむぎがつなぎちゃんを何より大事にしてたのは知ってるよ。でも、最近のつむぎはなんていうか……それ以外の全部が、どうでもよくなってるみたいに見えるんだよ」
「……」
「昨日だって、『黒冠』っていう災厄級の怪異を倒したんだでしょ? ニュースでも大騒ぎになってた。とんでもない偉業だよ。……なのに、今日のつむぎは報酬がどうとか、お土産を何にするかとか、それしか頭にないみたいで……」
「だって、生活していくのに報酬はすごく大事だよ?」
「そういう話をしてるんじゃないの!」
美咲の切実な声が、夕暮れの教室に高く響いた。
残っていた数人の生徒が、驚いたようにこちらを振り返る。
美咲は気まずそうに肩をすぼめてペコリと頭を下げると、声をひそめてつむぎの顔を覗き込んだ。
「……ごめん。でもね、私、本当に心配なんだよ」
「心配?」
「うん」
美咲の瞳には、嘘偽りのない誠実な色が宿っていた。
「つむぎ、昔からずっと頑張ってきたじゃん。おじさんたちがいなくなってから、つなぎちゃんのためにって、全部自分で背負い込んで……」
つむぎは静かに美咲の言葉に耳を傾けていた。
「でもさ。つむぎだって、まだ普通の高校生なんだよ? 誰かに甘えたっていいし、辛いなら投げ出したっていいんだよ」
「……」
「それなのに今のつむぎは、前よりずっと無理をしてる。それどころか、死ぬかもしれない危険なことにまで、平然と首を突っ込もうとしてる……」
美咲はぎゅっと両拳を握りしめ、唇を噛んだ。
「私、嫌なんだよ。つむぎが自分を後回しにし続けて……いつか取り返しのつかないことになっちゃうのが!」
重い沈黙が、二人の間に落ちた。
つむぎは美咲を見つめていた。
自分のために胸を痛めてくれていること。
大切な友達として心配してくれていること。
それは痛いほどよく理解できた。
だからこそ、つむぎは安心させるように柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、美咲ちゃん」
「……つむぎ」
「でも、大丈夫だよ。私、ちゃんと考えてるから」
「何を?」
「つなぎがこれからも幸せに暮らせるように、私がどう動けばいいのかをね」
美咲の顔が、絶望に似た色で曇った。
「……私が聞いてるのは、そんなことじゃないよ」
「え?」
「つなぎちゃんのことじゃなくて、つむぎ自身のこと!」
美咲の声が微かに震えていた。
「つむぎはどうしたいの? 何が好きで、何をしてる時が楽しいの? 何が嫌で、何が怖いの!?」
つむぎは、答えようとした。
美咲を安心させるために、いつものように笑顔で言葉を返そうとした。
――けれど。
言葉が、どこからも湧き上がってこなかった。
自分の好きなもの。
自分が楽しいと感じること。
嫌なこと、恐れていること。
思考を巡らせようとした瞬間、頭の中が薄気味悪いほど静まり返った。
凪いだ海のように、何の感情も波立たない。
つなぎの好きな食べものなら、いくらでも言えるのに。
つなぎが笑ってくれること。つなぎが困ること。つなぎの未来。
妹のことなら、どれだけでも言葉が溢れ出てくるのに。
自分自身という存在の輪郭だけが、ぽっかりと丸ごと抜け落ちていた。
「……私は」
つむぎは、ぎこちなく口を開いた。
「つなぎが幸せなら、それでいいよ」
美咲は絶句し、痛みに耐えるように目を伏せた。
「……そっか」
それは、これまで何度も耳にしてきた言葉だった。
けれど、かつてのつむぎは、その後に笑いながらこう続けていたはずなのだ。
――『私も幸せになりたいな。いつかお金を貯めて、つなぎと一緒に旅行に行きたいの』
――『美味しいものをたくさん食べて、いっぱい笑って……普通の女の子みたいに暮らしたいな』
美咲は鮮明に覚えていた。
つむぎが、そんなささやかで温かな未来を夢見ていたことを。
なのに今のつむぎからは、その「夢」の匂いすら綺麗に消え去っていた。
「……つむぎ」
美咲はすがるように手を伸ばし、つむぎの手を包み込んだ。
「つなぎちゃんを大事にするのは素敵なことだよ。でもね……つむぎがいなくなったら、つなぎちゃんはどうなっちゃうの?」
「……え?」
「つむぎが自分を大切にしないで壊れちゃったら、つなぎちゃんはきっと……生きていけないくらい悲しむよ」
その言葉を聞いた瞬間、つむぎの表情に初めて小さな揺らぎが生まれた。
悲しむ。
つなぎが。
自分という存在を失って、傷つき、泣く。
――それだけは、絶対に避けなければならない『エラー』だ。
「……大丈夫」
つむぎは静かに、けれど明確に言葉を紡いだ。
「私は、つなぎを絶対に悲しませたりしないから」
美咲はぎゅっと唇を噛み切らんばかりに痛感した。
違う。そうじゃない。
自分を大切にしてほしいのだ。あなたという人間そのものに生きている価値があるのだと知ってほしいのだ。
なのに、目の前の少女は。
『自分を大切にしろ』という願いすらも、『妹を悲しませないための手段』へと即座に変換してしまう。
「……もう、いい」
美咲は力なく手を離した。
「ごめんね。変なこと聞いちゃって」
「ううん。心配してくれてありがとう」
つむぎは、いつも通りの完璧な笑みを浮かべた。
そのあまりにも美しい笑顔を見つめながら、美咲は胸が押し潰されるような恐怖を抱いていた。
幼い頃からずっと一緒にいた親友なのに。
いま隣にいるのは、彼女の形をした『何か別の化け物』のような気がしてならなかった。
◇
その日の夕方。
つなぎは、静まり返ったリビングで姉の帰りを待っていた。
机の上には、二人分の温かな料理。
いつもと変わらない部屋、いつもと変わらない匂い。
何も変わっていないはずなのに――ここ最近、家の中が不自然なほど広く、冷たく感じられた。
お姉ちゃんが帰ってくる。
それだけで胸が躍るはずなのに、同時に底知れない怖さが足元から這い上がってくる。
姉は今日も笑って帰ってくるだろう。
優しく頭を撫で、頼んでもいないお土産を手渡してくれるかもしれない。
けれど――その笑顔を見るたびに、お姉ちゃんという存在が、遠く遠くへ離れていってしまう気がするのだ。
「……お姉ちゃん」
つなぎは玄関のドアを見つめた。
私にできることは、何だろう。
お姉ちゃんが私を守ってくれるように、今度は私が、壊れそうなお姉ちゃんを守ることはできないのだろうか。
そんな思いに囚われていた時――。
「ただいまー」
ドアの向こうから、温かな声が響いた。
「おかえり、お姉ちゃん!」
つなぎは弾かれたように駆け寄った。
つむぎは心から嬉しそうに目を細め、妹の頭に手を置く。
「ただいま。今日もいい子にしてた?」
「うん!」
「そっか。えらいね」
いつものやり取り。いつもの温もり。
だが、頭に触れる姉の手のひらが、氷のように冷たいことに気づき、つなぎは息を飲んだ。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「今日……すごく疲れてない?」
「大丈夫だよ?」
「本当に……? 無理してない?」
「本当だよ。本当に大丈夫だから」
つむぎは愛おしそうに妹の頭を撫で続ける。
寸分の狂いもない、優しい手つき。
つなぎはその手をそっと両手で包み込んだ。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「私ね、いま、すごく幸せだよ」
つむぎは満足そうに目を細めた。
「うん。知ってるよ」
「お姉ちゃんが……お姉ちゃんがいてくれるから、幸せなの」
「……うん」
「だからね……!」
つなぎは握りしめる手にぎゅっと力を込めた。
「私のために、もう何もしようとしないで……!」
つむぎの笑顔が、ぴたりと凍りついた。
「……え?」
「私、お姉ちゃんがいなくなったら嫌だよ……!」
つなぎの声が、溢れ出す涙とともに決壊した。
「お姉ちゃんが傷つくのも、血を流すのも嫌! 私のために、お姉ちゃんが大事なものを失っていくなんて、絶対に嫌なの!」
「つなぎ……?」
「私が欲しいのは、美味しいものや綺麗な洋服じゃない! 命がけで守ってもらうことでもない!」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、つなぎは姉の瞳をまっすぐに見つめた。
「私、お姉ちゃんと一緒にいたいの! これからも笑い合って、ずっと一緒に生きていきたいの!」
つむぎは妹を見つめていた。
妹が発した言葉の意味は、理解できた。
つなぎは自分を心配してくれている。
危険な真似をしてほしくないと願っている。
ずっと一緒に暮らしたいと思ってくれている。
ならば――答えはひとつだ。
つむぎは、どこまでも穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ、つなぎ」
「……っ!」
「私はね、何があっても絶対に、つなぎのそばに居続けるから」
つなぎの瞳から、ボロボロと絶望の涙が溢れ出した。
違う。
違うのに……!
必死に心をさらけ出したのに、姉はまたしても同じ「呪文」を口にした。
妹が何を恐れ、何を望んでいるのか――その悲痛な叫びは、姉の心に届く前に「守る」という狂信のフィルターに弾かれて消えてしまう。
「……お姉ちゃんの、バカ」
つなぎは耐えきれず、姉の胸元に顔をうずめて泣きじゃくった。
つむぎは愛おしそうに妹の背中を抱きしめる。
大丈夫。大丈夫だよ。
私が守るから。何があっても、命に代えても守り抜くから。
そうすれば、つなぎは永久に幸せでいられる。
つむぎはそう強く信じて疑わなかった。
胸の中で泣き叫ぶ妹が、なぜこれほどまでに悲しんでいるのか――その理由を、永遠に理解できないまま。
◇
その夜。
つむぎは、深い闇の夢を見ていた。
上下も左右も存在しない、冷たく重い虚無の世界。
その暗闇の深淵から、低くかすれた声が響いてくる。
『――順調だな』
つむぎは闇を見回した。
「……どなたですか?」
『お前は希望を選んだ』
声はあざける風でもなく、ただ淡々と事実を告げる。
『それ以外のすべてを差し出し、たった一つの執着だけを残した』
「……?」
『磨耗していく己に、まだ気づかないか』
つむぎは、不思議そうに首を傾げた。
「何のお話ですか?」
返事はなかった。
代わりに、闇の中に一枚の古びた写真が揺らめくように浮かび上がる。
幼い頃の自分と、つなぎ。
二人が肩を寄せ合い、弾けるような笑顔を浮かべている写真。
つむぎはその写真を眺めた。
「……これ、私ですか?」
『そうだ』
「へえ。なんだか懐かしいですね」
『懐かしい、か』
声が、微かに嗤ったように聞こえた。
『ならば思い出してみろ。――この時の『お前』は、何を望んでいた?』
つむぎは答えようとした。
口を開き、記憶の引き出しを開けようとする。
――つなぎを守りたい。
――つなぎを幸せにしたい。
――妹のためなら、私はなんだってできる。
けれど。
それ以外の『私自身の望み』が、何ひとつ浮かんでこない。
写真の中の少女が、何に胸を躍らせ、何を夢見て笑っているのか。
その感情の芽が、根こそぎ腐ち落ちている。
『……そうか』
声が、静かな諦観とともに呟いた。
『もう、始まっているのだな』
「……何がですか?」
『代価の支払いが』
刹那――パリンと甲高い音を立てて、写真が木端微塵に砕け散った。
つむぎは思わず手を伸ばした。
なぜか、伸ばさなければいけない気がした。
けれど、指先は虚しく空を切り、写真の破片は闇の底へと溶けて消えていく。
最後に残ったのは、写真の中の幼い自分が浮かべていた「感情豊かな笑顔」だった。
それもまた、黒い泡となって影に呑み込まれていく。
『恐れることはない』
闇の底から、声が優しく囁きかける。
『お前の『希望』だけは……最後まで、残してやる』
ハッと息を呑み、つむぎは目を覚ました。
◇
朝。
カーテンの隙間から、柔らかい木漏れ日が差し込んでいた。
つむぎはベッドの上でゆっくりと体を起こした。
「……夢?」
妙な夢だった気がする。
誰かと大切な話をしていたような、何か愛おしいものを見ていたような。
けれど、意識を向けようとすると、記憶はサラサラと砂のように指の隙間からこぼれ落ちていった。
「まあ……いっか」
つむぎはベッドから降り、爽やかに微笑んだ。
今日もやるべきことが山積みだ。
つなぎのために美味しい朝食を作って。
学校へ行って、親友と笑い合って。
帰ったら管理局からの新しい討伐依頼を確認して。
もっと強くなろう。
もっと稼いで、もっと広い家に引っ越して、つなぎを世界一幸せにするんだ。
それが、私という人間のすべてなのだから。
疑う余地など、最初からどこにも存在しない。
つむぎは迷いのない足取りで部屋を出て行った。
その背後――朝日が射し込む机の上で、写真立ての中の少女たちが笑っていた。
そこに写る幼い少女は、いまのつむぎが持ち得ない「心」を、確かに抱きしめていた。
それが一体、何という名前の感情だったのか。
つむぎが思い出す術は――もう、どこにも残されていなかった。




