第十二話 つなぎの決意
お姉ちゃんがおかしい。
そう思い始めたのは、いつからだっただろう。
最初は、気のせいだと思っていた。
お姉ちゃんはいつも通り優しい。
朝になれば、私より早く起きて朝ご飯を作ってくれるし、学校から帰れば、その日の出来事を聞いてくれる。
私が疲れていれば心配してくれるし、欲しいものがあれば、できる限り買ってくれる。
何も変わっていない。
……ううん。
変わってしまった。
お姉ちゃんは、私のことばかり考えている。
私が何を食べたいのか。
何をしたいのか。
何をすれば喜ぶのか。
どうすれば笑顔になってくれるのか。
そればかりを考えている。
まるで、自分自身のことなんて最初から存在しなかったみたいに。
以前のお姉ちゃんだって、私のことを大切にしてくれていた。
それは間違いない。
でも、今のお姉ちゃんは何かが違う。
私が笑えば嬉しそうに笑う。
私が悲しめば、自分のことのように悲しんでくれる。
私が何かを望めば、どんなことをしてでも叶えようとしてくれる。
それなのに、お姉ちゃん自身が何を望んでいるのかは、まったく分からない。
この前、一緒に遊園地へ行ったときもそうだった。
何が一番楽しかったのかと尋ねても、お姉ちゃんは私が楽しそうにしていたことだと答えた。
じゃあ、お姉ちゃん自身は?
そう聞いても、答えられなかった。
あのときのお姉ちゃんの顔が、今でも頭から離れない。
本当に、自分のことなんてどうでもいいと思っているようだった。
「つなぎ?」
「っ!」
不意に声をかけられ、私は弾かれたように顔を上げた。
「どうしたの? ぼーっとして」
目の前には、いつもと変わらないお姉ちゃんの姿があった。
「ううん。何でもないよ」
「そう?」
お姉ちゃんは少しだけ首を傾げる。
それから、いつものように優しく微笑んだ。
「何かあったら言ってね。私にできることなら、何でもしてあげるから」
「……うん」
私は曖昧に頷いた。
その言葉が、今は少し怖かった。
何でもしてあげる。
その言葉の裏側に、お姉ちゃん自身の意思がまったく見えないから。
私は、お姉ちゃんに何でもしてほしいわけじゃない。
ただ、一緒に笑っていたいだけなのに。
どうして、それが伝わらないんだろう。
◇
数日後。
私は魔法少女管理局を訪れていた。
目的は一つ。
九条玲奈さんに会うこと。
お姉ちゃんのことを知っている人。
そして、今のお姉ちゃんについて、何か知っているかもしれない人。
事前に連絡を入れていたおかげか、受付で名前を告げると、それほど待たされることなく彼女が姿を現した。
「白門さんの妹さんね。来てくれてありがとう」
「突然すみません」
「いいえ。こちらからも、あなたに話しておきたいことがあったの」
玲奈さんはそう言って、私を応接室へと案内してくれた。
落ち着いた内装の部屋だった。
向かい合うようにソファへ座ると、玲奈さんは手元の資料を机に置いた。
けれど、私はそれに目を向けることなく、すぐに本題を切り出した。
「お姉ちゃんのことを教えてください」
玲奈さんの表情が、わずかに変わった。
「……どこまで知っているの?」
「お姉ちゃんが、普通じゃない魔法を使っていること。それから、その魔法には何か代償があること」
「そう」
玲奈さんは短く答えた。
その反応を見る限り、やっぱり何かを知っているのだろう。
「お姉ちゃんは、自分のことを全然気にしていません」
私は膝の上で両手を握りしめた。
「何を失っても構わないって、本気で思っているみたいなんです」
「……」
「最近のお姉ちゃん、少しずつおかしくなっている気がします。自分が何を好きだったのかも、何を楽しいと思うのかも、よく分からなくなっているみたいで……」
言葉にしているうちに、胸の奥が苦しくなってきた。
ずっと気づかないふりをしていた。
いつも通り優しいお姉ちゃんだから。
いつも通り笑ってくれるお姉ちゃんだから。
きっと大丈夫だと、そう思いたかった。
でも、もう誤魔化せない。
「私は嫌なんです」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「お姉ちゃんが、私のために何かを失っていくのが嫌なんです」
玲奈さんは黙って私を見つめていた。
その視線から逃げることなく、私は続ける。
「お姉ちゃんが私を守ってくれるのは嬉しいです。私のことを大切にしてくれるのも、すごく嬉しいです」
だけど。
「だからって、お姉ちゃんがいなくなってもいいなんて思っていません」
声が少し震えた。
「私にとっては、お姉ちゃん自身が大切なんです」
しばらくの沈黙。
やがて、玲奈さんは静かに口を開いた。
「あなたのお姉さんが結んだ契約は、私たちにも全容が分かっていないの」
「そんな……」
「契約の仕組みも、魔法の本質も、まだ不明な点が多いわ。普通の魔法少女とは明らかに異なる存在だもの」
玲奈さんは一度言葉を切り、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「ただ、一つだけ分かっていることがある」
「何ですか?」
「その魔法は、彼女の願いを叶えるために、願い以外の何かを代価としている可能性が高い」
「願い以外の、何か……」
「ええ。例えば、記憶や感情。あるいは、彼女自身を彼女たらしめているもの」
私は息を呑んだ。
彼女自身を、彼女たらしめているもの。
それは、いったい何なのだろう。
「今の彼女の様子を見ていると、単純に身体的な負担だけで済んでいるとは思えないの」
玲奈さんの表情は険しかった。
「もしかすると、魔法を使うたびに、彼女の内面そのものが少しずつ変化しているのかもしれない」
「そんなの……」
そんなの、嫌だ。
だって、それでは。
「お姉ちゃんは、どうなっちゃうんですか?」
「……ごめんなさい」
玲奈さんは視線を伏せた。
「私たちも、まだ彼女を救う方法を見つけられていない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
魔法少女を管理している組織。
お姉ちゃんの事情を知っている人たち。
そんな人たちでさえ、何もできない。
それなら、私はどうすればいいのだろう。
けれど。
「……だったら」
私は顔を上げた。
「私が、お姉ちゃんを助けます」
「つなぎさん?」
「お姉ちゃんは、私を守るために魔法少女になろうとしたんです」
あの日のことを思い出す。
お姉ちゃんが何を願ったのか、どんな思いで契約したのか。
きっと、私には想像もできないほどの覚悟があったのだろう。
でも。
「私が原因で、お姉ちゃんがあんなことになったのなら……今度は私が、お姉ちゃんを助けたい」
「でも、あなたが無理をする必要はないわ」
「無理なんかじゃありません」
私は首を横に振った。
「お姉ちゃんは、私のためなら何でもするって言います。でも、私はそんなこと望んでいないんです」
膝の上で握った手に、自然と力が入る。
「私が欲しいのは、お姉ちゃんが何もかも犠牲にして手に入れた幸せじゃありません」
私が欲しいのは。
「私は、お姉ちゃんと一緒にいたいだけなんです」
守られるだけじゃなくて。
お姉ちゃんが笑って、私も笑って。
お互いに今日あったことを話して、くだらないことで笑い合って。
そんな普通の日々を、これからも過ごしたい。
それだけでいい。
それだけで、十分なのに。
「だから、お願いします。私にできることを教えてください」
玲奈さんは、しばらく私を見つめていた。
やがて、彼女は小さく息を吐くと、ゆっくりと頷いた。
「……分かったわ」
「!」
「まずは、あなたのお姉さんについて、私が知っていることをすべて話す。契約のことも、彼女の魔法についてもね」
「ありがとうございます!」
私は深く頭を下げた。
「ただし、一つ約束して」
「何ですか?」
「決して一人で無茶をしないこと」
玲奈さんの声が、少しだけ厳しくなる。
「あなたまで危険に晒されてしまったら、彼女はきっと……」
そこで、玲奈さんは言葉を止めた。
けれど、その先は聞かなくても分かった。
お姉ちゃんは、きっと自分のことを顧みずに私を助けようとする。
私が傷つけば、自分がどれだけ傷ついてでも守ろうとする。
だからこそ、私まで無茶をするわけにはいかない。
「はい。約束します」
私はしっかりと頷いた。
今度は、私が守る番だ。
お姉ちゃんが私を守ろうとしてくれたように。
今度は私が、お姉ちゃんを守りたい。
たとえ、それがどれほど難しいことだったとしても。
◇
その頃。
自宅にいたつむぎは、妹の帰りを待っていた。
「……遅いな」
リビングの時計を見上げる。
いつもなら、とっくに帰宅している時間だった。
学校の友達と出かけているのだろうか。
それなら、別に問題はない。
つなぎだって、友達と遊びたい日くらいあるはずだ。
そう思いながらも、どうしても落ち着かなかった。
つなぎがどこにいるのか。
何をしているのか。
誰と一緒にいるのか。
考え始めると、次々に気になってしまう。
「……」
私はテーブルに置いてあったスマートフォンを手に取った。
連絡をするくらい、別におかしなことではない。
そう自分に言い聞かせて、メッセージを打ち込む。
『つなぎ、今どこにいるの?』
送信。
数分後、返信が届いた。
『ちょっと用事! もうすぐ帰るね!』
「そっか」
私は小さく呟いた。
もうすぐ帰ってくる。
それなら大丈夫。
つなぎが無事なら、それでいい。
そう考えて、スマートフォンをテーブルに戻す。
けれど、すぐにまた手を伸ばしていた。
もう一度、画面を確認する。
新しい連絡はない。
「……早く帰ってこないかな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
つなぎが帰ってきたら、何を作ってあげよう。
夕飯はもう用意してあるけれど、何か食べたいものがあるかもしれない。
今日の学校の話も聞いてあげよう。
疲れているなら、ゆっくり休ませてあげないと。
そんなことを考えているうちに、自然と口元が緩んでいた。
つなぎが帰ってくる。
それだけで、今日という一日が少しだけ明るくなる。
ただ、私はまだ知らなかった。
つなぎが、自分を救うために動き始めていることを。
そして、その行動が、私たち姉妹の関係に小さくない変化をもたらそうとしていることも。
――私は、まだ何も知らなかった。




