家に帰る、フェル
話したいことはたくさんあったが、上手く口に出てこない。それはジージの方も同じようだった。僕らは沈黙する。彼に連れられて水門の前に行くと、懐かしい一頭立ての馬車が止まっていた。そのボロさといえば、やっぱり昔のままで、痩せこけた老馬もやっぱり痩せこけ老いたままだった。ただ、席に腰掛けてみると、尻に敷く布だけが新しく柔らかいものになっていた。
「フェルのやつが、Aさまが……いえ、Dさまがお帰りだというもんだから、張り切ってしまって。新しくて恥ずかしくないのを、と一昨日からずっと織っていたんですよ。いやあ綺麗なもんでしょう。私が尻に敷いているものとは大違いだ」
僕たちはやっと話し始めた。ジージは右手で手綱を取って馬を進めながら、左手で不満そうに自分の敷いている布を叩いた。
ジージはうちに残っている最古参の工員だった。少年工としておじい様に雇われて以来四十年、使用人としてもずっと僕の家と関わってきていて、家族同然の存在。父にとっては兄貴分、そして親友であり、本当のおじい様を見ることができなかった僕にとっては「おじいさん」だった――だからジージ、単純な名前だ。
腕のいい職人肌の男で、机や椅子も作るし、家のどこが壊れようとも修理してくれる。そういえば、僕の誕生日に父がくれた精密な玩具が全て非売品で、かつ彼が作ったものだと知ったときはたいそう驚いたものだった(父の横着にもだ!)。
シモクボの街を出て、切り立った石灰岩由来の沿岸を走る。右手の五十メートル下では低い音を響かせながら白波が砕け、カモメたちがギーギーと鳴きながら日の光に身を泳がせている。時折、突風が海から吹き寄せ、左手の岩石の合間にまだらに生えた灌木の寂しい頭を揺らす。帰ってきたんだな、と何とはなしに溜息が洩れる。
クボの島には西沿岸に沿って北から、カミクボ、ナカクボ、シモクボの三つの大きな街があり、そこに二万五千弱の人口の九割が集中している。
民族の身体的特徴としては、アゴタやタカシラに住む人より比較的肌が白い。背は低い者が多く、ジージは大男の部類に入る。瞳も髪も黒いが、幅があり、茶色に近いものもいる。
その昔、一帯を支配する巨大国家さえまだ存在していない頃、この島は、ヤシロの流刑地としての歴史を歩み始め、多くの罪人、異教徒や政治犯が帰ることの能わないこの島へと流されてきた。それは、今に生きる僕らには如何ともし難い、過去。この歴史は未だ生々しいリアルを持って、そして、時には具体的な形となって僕らを貶める。僕の見た目は母の身体特徴を受け継ぎヤシロ人にしか見えないので、普通にしていれば素性がばれることはない。だが、時と場合によっては明かさなければならないこともある。寛容と言われるアゴタの街ですら不快な経験を何度かしたのだ。もし保守的と言われるナガイやヤシロの地で学問をすることになっていたら、教授や同級生からも邪険に扱われ、勉強もできず泣いて帰る破目になっていたかもしれない。
「お疲れではないですか。ナカクボで休憩を取りましょうか」
「いや、大丈夫だ。ちっとも疲れてないよ。それよりも早くフェルや皆に会いたい」
背の低い木々しか成長できない岩石地帯を抜け、ナカクボの街を素通りすると、今度は鬱蒼とした森林が眼前に広がる。羊歯類の青々とした植物を足元に潜ませるカラマツとブナの森、苔を纏うふんわりとした腐葉土、それを切り開いた街道。カミクボとナカクボを結ぶこの道は、子供の時から何度も通ってきた道だ。
辺りは静かだった。全ての生命が石化したかのように時間は止まっていた。
「カミクボの子供が金を盗んでこの森に逃げ込んだそうです。今朝も山狩りがあったそうですよ。動物たちも逃げてしまったのでしょう」
視線を横に向けると、真っ赤な塊が僕の目に飛び込んできた。大量の蛇苺が絡んだ柵だ。それに沿い小道があって、脇にそれている。ぶっきらぼうに藪や木の枝で隠蔽されてあって、まるで魔女の家への通り道のようだ。
同様にあしらわれた道はそれだけではなかった。先へ進む度に、また一本、また一本、全てが人などほとんど住んでいるはずもない内陸部につながっている。その先にあるのは腐った卵の臭いの漂う赤白い盛り上がった火口だけだというのに。
「たまに変な道があるけど、あれは一体何なんだ? 火山から金でも出たのか?」
「ああ、あれですか。『消毒屋』ですよ。ここ数年で目立つ程増えましてね。確かに昔からいたにはいたんですが……」
ジージは声を落とし、あまり言いたくないといったような表情で、こちらを見る。
「消毒屋?」
「ええ。中絶を主に扱う医者もどきですよ。大陸の放蕩娘をここで禊ぐんです。あっちには戒律と堕胎の罪はありますが、医学的な専門知識はないのだそうで」
「あれかい。昔、飢饉で大勢死んだって話」
「そうです。間引きにかけては歴史があるんですよ。うちの島は」
「実に異教徒的だね」
「アヘンに中絶。その昔、クボと言えば、ブドウとオリーブ、そして、うちの製鉄だったのに」
まるで寝付く前の深い吐息のように――皮肉混じりの鼻息がでこぼこ道にはねる車輪の軋みに誤魔化され、消えていく。僕は何も言わず、ただ頷く。
街道を垂直に切る川の手前、カミクボに至る三キロ手前で曲がる。幅三、四メートル程度の水路といった川だが、船を浮かべるには十分で、そのまま真っ直ぐ海へと流れ込んでいる。川沿いの道は消毒屋だか知らないけれど、彼らのとは違って、ちゃんと整備され、外から見ても人を迎え入れられる形になっていたはずだった。
ところが、記憶通りの場所に行くと、様子は一変していた。消毒屋の道とは違って意図的な隠蔽ではなく、荒廃。道には雑草が生い茂り獣道同然の様を呈していた。
「こいつはだいぶひどいね。まあ、季節が季節だから、草も伸びてくるか」
「はい。それに整備に人も回せない状況でして……」
僕は思い出す。ここは精錬に使う木材を運んだ川だった。巨木が近場の伐採所から切り出され、運搬船に載せられて運ばれてくる。木炭にするのだ。彼らの仕事ぶりを、疲労はあったが喜びに満ちたそれを、僕はジージの肩の上やフェルの腕の中で見た。
彼らは歌っていた。
『歌声があがり
主帆のむきがかわり
ボートが岸にながれつく
甲板の顔のひとつひとつに
太陽は尊敬するだろう……』
はて、続きは何だっただろうか。
道は二本にわかれる。一本は作業場と作業員の宿泊施設につながり、もう一本は坂を上って僕の家に至る。
「Dさま。申し訳ありませんが、馬をお願いします。私は後ろから押しますので」
馬が苦しそうに喘いでいる。坂の勾配はそれほどキツイものではないが、この年老いた馬にとっては、相当な重苦に違いない。
坂を上りきると、空気からは土の臭いが消え、潮の臭いへと移った。背の低い、タンポポやナズナ、菫が風に靡いていた。飛び石が続き、家の玄関へと続いている。
僕の家は、森から突き出た崖の上に立っている。青い海と緑の森の挟間で日の光を浴びた白い壁がきらきらと輝いているのだが、ああ、その壁を背に、何かが揺れているのが見える。白く光っているのはどうも家だけではないようだ。
疲労のあまり足を止めてしまった馬から降りると、二本の足それぞれでさくさくと草の折れる音がした。モザイク状に敷かれた白黒の石は、自然の力に研磨され、つややかな円みを帯び、僕の履き潰した皮サンダルでは少しばかり滑った。さらさらという木のさざめきと青緑の沈黙で空間は満たされていく。
眩しい。手をかざす。
棚引いているのは、敷布、カーテン、テーブルクロス、タオル、上着。二本の木で組まれた物干し竿が並んでいる。
影だ。
それも美しい影。
幾多のシーツを伝って、柳のようにしなやかな影が点滅する。次へ、隣へ、次へ、隣へ、次へ……。
遂に青と白の挟間から薄茶色の網籠が突き出し、そして人の体が現れた。だが、現れてなお、彼女は風を纏い、背景と渾然一体のままそこにあった。
彼女はこちらに気付くと、地面に籠を置いて手を大きく左右に振った。
「布の類は全部洗ってしまったようですね。あんなに洗ったところで使うわけではないというのに……」
「フェル!」
僕は地面を蹴った。彼女も服の裾をつまんで駆けだす。次の瞬間には、僕らは息を切らして向かい合っていた。彼女は僕の体を抱きしめる。懐かしく、優しい匂いがした。その細い腕にいくら力が入ったとしても、僕の呼吸が苦しくなることはないはずなのに、全身に電流が走り、心臓を鷲掴みにされたような気分になった。
「久しぶりだね、フェル。元気だった?」
いつの間に僕は彼女の背を追い抜いたのだろう。傍から見れば僕は彼女より年上に見えるに違いない。焦げ茶の長い睫毛が涙で濡れている。
フェルは僕の体を離すと、コクコクと頷きながら人差し指で涙をぬぐった。
「帰ってきたよ」
彼女は俯いたままもう一度頷く。おかえりなさい、と言いたいのだ
※『』内の歌詞
「when the ship comes in (船が入ってくるとき)」より
作詞作曲 Bob Dylan 日本語訳 片桐ユズル 「The Times They Are A-Changin'」収録 1963




