表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/38

潰えゆく家

 フェル――その名は、彼女が初めて現れた時、着ていた服がフェルト地だったことに由来すると聞く。

 しかし、その姿を見た者はもうこの世にあまり残っていない。彼女は、どこからかおじい様に連れられてきて以来四十年、一言も発せず、同じ姿のままずっとこの家に住んでいる。

 

 ゆったりとした焦茶色の長い髪、青蓮華の瞳、白い肌は、時節をいくら重ねようとも、伸びたり、褪せたり、焼けたりすることが無い。老いというものからすっかり忘れ去られてしまったようだ。ジージ曰く、おそらく、人間ではないのだろう、とのことだった。

 

 昔、彼女について父がこんなことを言ったことがある。


「あれは不思議だ」

 その日も、今日のように風が心地よい日で、外を散歩していた時だった。


「いい事を教えてやろう。フェルは鏡だ。覗きこめば自分が分かる。つまりだ。幼い頃、俺にとってあいつは母だった。本当の母を知らない俺は、あの細い腕に抱かれてすやすやと眠ったものだよ。腕白盛りになると、姉になる。そうだな、例えば、お前も記憶があるだろう、やらかしたいたずらに勘付くと、じっとこちらの目を覗きこんでくる。あの沈黙ほど怖いものはない。最高のしつけだ。そして、青年に近づくにつれて、彼女は友達を経て、異性になる。お前はまだ分からないかもしれないけれど、あいつの凛とした横顔は本当に美しい。すれ違うだけで緊張した。今思うと、初恋ってやつだな。そいつが恐ろしくて、あいつから逃げ回ったもんだよ」


 父は照れ臭そうに頭を掻いた。


「結婚をすると、大陸から出てきて慣れない母さんをあいつはくるくると補助してくれた。まるで義理の姉を助けるかのように。そのうちお前が生まれると、あいつは自分の弟が生まれたかのように喜んだ。いつもお前をおぶって玩具を持ち、世話をしたがったよ。俺にはお前の姉ように見えた。な、変な話だろう。つまり俺はその時、フェルを自分の娘だと錯覚したんだよ。たまに思う。これから俺はますます老いる。その時、俺にとってあいつはどうなるんだろうな。そいつは少し気になるところだね」


 家の裏には、森がぎりぎりまで迫っていて、横倒しになった四角い大理石が四つばかり整然と並んでいる。僕の先祖たちの墓だ。名前も生没年もない。右から左にかけて新しくなっているのだから、父の墓は今僕の目の前にある右端の墓なのだろう。

 

 日があたらないので涼しいし、特に湿気が多いわけでもない。木漏れ日が石の上でふらふらと揺らめいている。

 

 墓の一歩手前で、ジージとフェルが跪いて一礼する。そして、顔をあげてそのまま膝を擦って前へ出て、今度は手をついて礼をする。僕も二人に倣い跪き、目を閉じる。

 

 僕は泣かなかった。


「奥方様が亡くなられたのもちょうどこんな風の心地よい日でした。そうですね。あれからまだ十年とちょっとしかたっていないというのに……」

 僕らは立ちあがる。その太い指で目頭を押さえながら、ジージは呟いた。


「お父様も奥方様を亡くされた時、一日だけ枕を濡らして、後はもう泣かれず、次の日にはもう皆を率いてくださいました」

 彼は腕を降ろして、僕の顔を真正面から見据えた。


「血ですね。やはりDさまはこの家の当主様です」

 フェルがジージの言葉に頷く。

「では、ご当主さま。少し申し上げたいことが」

「なんだい? 改まって」

「………」


 フェルが僕の腕を取る。二人とも今まで見たこともない真剣な目だった。


「こちらへ」

 ジージが歩き始め、僕は追う。フェルはもちろん、ジージも黙っている。

 靴の裏に溜まった砂と斑岩のタイルが擦れる音が二つに、サンダルの、ペタ、ペタ、という音。垂れた目でこちらを眺めている馬の脇を通り過ぎ、坂を下る。

 言いようのない不安が胸の中でむくむくと膨れ上がった。全身の感覚が告げる嫌な予感に耐えかねて、僕は逃げ出したくなった。そんな僕の心中を察してか、その度にフェルの柔らかい腕に力が入り、逃げてはダメ、と言わんばかりの眼が僕の体を捉える。

 

 僕が連れていかれたのは作業場の脇に立つ小さな掘立小屋だった。簡単な事務をする女性たちの詰所で、着替えや下着、装飾品、仕事道具などが散乱している目の置き場の無い場所だったと記憶していたが、実際入ってみると、内は奇妙なほどによく整頓されていた。奇妙。確かに整理整頓はされている。換気もされているようで、埃っぽくもない。机の上に高価なはずの万年筆がきちんとお尻をそろえて並べられている。ぐるりとあたりを見渡してみる。何故だ。やはり、どうしても変なのだ。 


「女工たちはどうした? まったく姿が見えないけれど」


 一言でいえば、無機質。人の気配が全く感じられないのだ。


「隠してわけではありません。ですが、お伝えするのがどうしても辛くて……。半分は実家に帰りました。残りは大陸にでも渡ったのでしょう」


 ジージは両手を組み、懺悔するかのように答えた。


「ああ」


 そうか。


 その言葉だけで、僕は何もかもを悟った。

 僕がアゴタに行く前から経営は苦しかった。だからこそ特待生になる必要があった。魔法で精錬に必要な温度が創出できるようになってから、製鉄という産業に莫大な運転費用のかかる工場や多くの工員はもはや必要なくなってしまった。なにせこちらの工員百人とあちらの演算士五人の作業効率が等しいのだ。話にならない。

 

 僕は後悔していた。僕は何故甘い惰眠を貪り続けなかったのだろう。このような未来を薄々感づいていたのに。大陸にいた頃は忘れることができていたというのに。


「Dさまが大陸に行かれてからの三年間で財務状況は更に悪化していきました。今までは量で負けても、質では勝っていましたが、それももう駄目ですね。お父様は自分の資産を崩してまで私たちの雇用を守ってくださいました。給料を捻出するためにカミクボにあった作業場も抵当に入れてしまわれた」


 ジージは机の上に一枚の薄い紙切れを取りだした。


「我々は見合わない悪い工員でした。庇護に縋ってしまった。しかし、Dさまのお父様が亡くなられて、時間が経ち、ようやく我々も決心することができたのです」


 フェルは万年筆にインクを含ませ、僕の掌に握らせる。彼女の毅然とした横顔には覚悟を決めた者の穏やかさと美しさがあった。


「相続人であり権利者であるDさまがここにサインをすれば、この工場も人手に渡ります。安心してください。既に私たち二人を除いて、もう工員はおりませんから」


 二人は僕の前に向き直って深々と頭を下げる。

「今まで大変なご迷惑をおかけしました」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ