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ケシ畑と娼婦

 彼らは気付いただろうか。僕の足が震えていたことを。

 

 滑稽な話だが、僕はサインすべき自分の名前を覚えてはいなかった。まさか、公文書に「D」と一文字書き添えるわけにもいくまい。結果的にこれは良かった。とりあえず、この場を誤魔化せることができたのだから。

 

 僕の正式な名はカミクボの役場に登録してある。確認は明日でいい、とジージは言ったが、僕は馬を借りてすぐに出発することにした。どうしても、この場にいたくなかった。この二人と一緒にいることに耐えられなかったのだ。

 

 馬は若く、筋肉を力強く躍動させる。森の合間を疾走しようとする。僕は彼をなだめた。ゆっくりでいい。とにかく長く呆けていられる時間が欲しかった。

 

 あの場所に作業場が立ったのは、僕の家ができて一年後、ちょうど父が生まれるか生まれないかという時期だったそうだ。それ以来、長い長い時間を経て、今もある。僕が生まれても、母が死に、そして父が死んでも、変わらずに。

 

 アゴタに出たこの三年を除いて、作業場と家、そしてそこにいる人々が僕の世界の全てだった。僕の歌う歌は彼らの歌う歌で、僕の笑うことは彼らの笑うことで、僕の嬉しいことは彼らの嬉しいこと、悲しいことは悲しいことだった。

 

 なのに、ジージとフェルは全て捨てろ、忘れろ、と言う。

 

 つまりはこういうこと。クボを捨て、アゴタの人間となれ、そして――幸せになれ。

 

 皆、馬鹿だ。

 

 森の中では一度だけ人とすれ違った。弓筒を肩にかけた狩人姿の男で、例の金を盗んだ少女を見なかったか、と尋ねてきたが、見ていないと答えると、颯爽と馬首を翻し去っていった。それだけだ。

 僕は一人であらゆる時間を貪るように消費する。思考の渦が膨張し、頭がはち切れそうになる。

 そのうち、僕は森を抜けた。


 カミクボに入り、まず目に入ってくるのは起伏の激しい丘陵地帯である。岩だらけで薄いベージュ色。不毛な土地。みすぼらしい格好の子供たちが道脇の緩やかな斜面で、犬を打ち、遊んではいるが、大人たちの姿は全く見えない。僕は辺りを見渡して、思い出す。昔はそこに浮き出るように、奇怪なけばけばしい一画がよくあった。

 子供の時は何も思わなかった。でも思い起こせば、あれは紫、緑、赤。色味の薄いこの島で何と強烈で、傲慢な自己主張、違和感だったのだろう。

 

 ケシ畑。

 

 赤茶と白が混濁した粘性の高い乳液を垂れる果実は、頭頂だけ残されて髪を切られた丸顔の少年のように可愛らしい。人々はこれを傷つけ、出てきた乳液を固形化し、ヘラで掬う。そして、出資人である大陸の売人に売って、日々の糊口を凌ぐ。

 

 近年大陸からの圧力はますます強くなってきた。麻薬は怪しからぬものらしい。

 確かにそれはそうである。その倫理観に僕は同意する。

 形式上の規制は厳しくなり、ケシ畑の景色は一掃された。貧困に喘ぐものを残し、少なくとも、この街道沿いからは。

 

 ああ、胸まで熱いものがこみ上げてくる。誰がオリーブとブドウを買い叩いているのか、誰が金を出し栽培させているのか、そして、誰がそれを買っているのか。問うたところで何もならない。それでも、問わずにはいられない。何が苛むのか。何が……。

 

 屈折した陽光の照らさざる先に目をやれば、手前の道路から見えるところに別の作物を植え、巧妙に隠蔽し、そのままケシ栽培を続けている大胆な者もいる。

そうだやってしまえ! ――僕は胸の中で叫んだ。

 そして、自ら発したその声にならない叫びの意味を理解した瞬間、僕は自分の考えに恐怖した。


 丘陵地帯を抜けてようやくカミクボで最も栄えた地域に到る。と言っても、その規模は、アゴタはもちろん、シモクボのものにさえ遠く及ばない。

 

 ここら一帯では、農業が主な産業だが、小麦等穀物の生産はあまり行われておらず、停滞しており、クボの表の顔であるオリーブ、ブドウに特化している。

 

 昔はそれでよかったのだ。しかし、ヤシロやシモクボの商人たちが圧倒的な購買力を持ち始めてから、「特産物」は買い叩かれ、街はじわじわと荒廃を始めた。それだけがこの街の衰退の理由ではないけれど、ここに留まり農作物を育てる意味などもうとっくにないのだろう。クボの名声、尊厳を維持しようとする真面目な者ほど、凄惨な目にあっているという現状。皮肉としか言いようがないではないか。

 

 登記所は郊外近くにある。景気が良かったころに建設された煉瓦造りの立派な役場だが、奈何せん、清掃を任せる金もないのか、泥で薄汚れている。

 そもそも、アゴタにあるような戸籍原簿というものはクボに存在しない。土地所有権者名として登記した名前が公的な名となり、公ではそれを参照するのだ。

 なので、慣習として、僕らは十五の歳になると一平方メートルの土地を開墾する。土地にアニメイトし、所有権が登録される。それは僕らにとって同時に成人の儀でもある。何故そんな面倒なことをするのか。そうなってきた、としか説明はできない。

 

 登記所の中に入る。中はがらんとして誰もいないので、声をかけると、奥からのそのそと髭の長い老人が出てきた。彼は僕の要件を聞くと、奥の書架から一冊の掌ほどの分厚い本を持ってくると、親指を舐めて、古い本特有の甘い匂いを纏った本を慣れた手つきでめくっていった。その姿は、海底に漂う海藻のように静かに、左右に揺れている。そして、早々に、あるページを見つけて僕に突き出した。

 

 そこには、カミクボの南はずれ、無縁墓地の近くに狭い畑を持っているはずの者の名が載っていた。わずか六文字。誰がそう登録したかも定かではない。

 

 DEACONディーコン

 

 はて、どういう意味だっただろうか。まあ、さして大した意味もないのだろうが。しかし、まさか本当にDだとは、なかなかの偶然だ。

 

 登記所を出た僕は近くの宿に荷物と馬を預け街へ出ることにした。ジージとフェルには、街を回ってくるのでもしかしたら帰りが遅くなるかもしれない、とは言っていたが、初めから早く帰る気など毛頭なかった。フェルはおそらく立派な料理を準備してくれていただろう。だが、それさえも僕を苛むのだ。塵のひとつないがらんとした家の食堂で、この僕たちが、寂しく、食卓を囲む? やめてくれ。

 

 ならば、二人はどうなる? 僕にさえも捨てられて。

 卑怯者じゃないか、僕は。

 

 常設の青果市、魚市場は――中心にあるので、何処へ行くにつけてもここを通らざるを得ない――人がまばらで、閑散としていた。鳥打帽の下に蹲るどんよりとした瞳たち。既に太陽はその身を冷たい海に沈め始めており、晩御飯の買い物には少々遅すぎる。八百屋の軒先に吊るされた木の板に野菜の値段が書いてある。

 どれもこれも高かった。輸出しているオリーブやブドウさえも、アゴタで買った方が安かった。


 一杯だけでいい。酒が飲みたかった。それで終わり。何もかも忘れ、切り替える。

 

 そしてどうする? それが何の決断になるのだ?

 僕の心は僕を責め続ける。しかし、答えようもない。


 六時という時分。あてもなく徘徊する灰色の失業者は消え、繁華街がその本来の姿を露わし始める。カミクボは入江の近くにできた街であるが、津波の被害を避けるため、繁華街は高台の上にある。波の動きが複雑かつ速く、また漁業の盛んなナカクボに対抗できないこともあって、今では海に船を出すこともない。登ってきた坂を振り返る。黄金の煌きが、見下ろした先、赤く染まった海に溶け込んでいる。

 

 この街の賑やかなところを教えてくれ。僕はそこでそんな人たちに会いたい。

 

 辺りを見渡すと、どこの店もまだ開店準備中と行った様子だった。目には見えないけれど、建物の中で皆せわしなく動き回っているのが分かる。交差する十字路に雄々しく立つ偉人の像の足もとに腰をおろしながら店が開くのを待った。

老人が開店のために店先を掃く音。椰子の幹の繊維でできた箒は一定のリズムを刻み小石を除けていく。箒の毛先がしなり、戻る。しなり、戻る……。


 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、――。


「ねえ、お兄さん。どうしたのー、一人で」


 後ろから首に女性の腕が巻かれた。甘く、阿る様な声で彼女は囁く。突然のことで驚いて飛び上がりそうになったが、まるで縛られたかのように体が言うことをきかない。香水を纏った女性の匂い。耳元に温かな吐息があたり、何もかもが吹っ飛ぶ。


「ねえ、遊んでいかない? まだ、ちょっと早いけど、その分、ゆっくり遊べるよ。いいお店、知ってんだ。お酒も、安いよ」


 彼女は右腕でしっかりと僕の行動を封じ、左腕で服の中をまさぐる。それでなくても、柔らかな乳房が背中に押しつけられ、こちらは平然としていられない。


「うふふ、黙ってないでさ……」


 右腕を肩にかけながら、彼女はぐるりと正面に向き直った。語る言葉には似つかないつぶらで澄んだ瞳が僕の顔を捉える。瞳の色は、やはり黒い。

 

 その微笑の優しいこと。どこか娼婦になりきれない健全さが、逆に僕の心を掻き乱す。これでいいのだろうか。他に選択肢はなかったのだろうか。

 

 その時、僕は気付いた。

 

 彼女の瞼が恐ろしいものを見たかのように大きく開かれていた。

構えたものが四散し、崩壊してしまっている。


「Aさま……」


 魂が抜け出てしまったかのような表情。半開きの口から僕の名前が漏れてきた。

 

 しばらく呆けていた彼女は、突如、雷に打たれたように動きだし、三歩ばかり後ろに下がると、膝を地べたについて頭を沈めた。


「も、申し訳ありません! た、た、大変なしっ、失礼を……!」

「……君は」


 彼女は確か職人たちの衣服を裁縫するために雇われたうちの工員だった。年は僕より三つか四つ上。会話をしたことはなかったし、遠目で見たことぐらいしかなかったのに加え、化粧をしているのだからすぐには気付けなかった。

 

 彼女は頭を下げたままだった。レースで編まれた首飾りがわなわなと震えている。体の線が良く分かる細身で扇情的な白い服も、今となっては土で汚れてしまいひどく哀れだった。この人は島に残ったんだ――そんな考えが浮かんだ。


「顔を上げてよ。何も気にしていないから」

「で、でも……!」

「それより、そのいいお店教えてよ。そもそも一杯飲みたくて来たんだから」

 彼女は顔を上げ、驚いた様子でこちらを見た。

「いや、変な意味じゃなくて。単純にお酒が飲みたい」


 そう言って、僕は笑った。それで緊張がほぐれたのか、彼女もようやく普通に会話できるようになった。彼女はつっかえながら言葉を吐き出す。


「も、もちろん! 一番お、おいししくて、て、や、安い店を!」

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