そりゃあないぜ
彼女が僕を連れていったのは繁華街の西の方にある、丸太で積み上げられた小さな酒屋だった。外観からはあまり立派な店とは思えなかったが、入ってみると、内装は暖色系の布が一面に張り巡らされていて、質素ながらも洒落た雰囲気があった。
カウンターにはこの店の店主らしき男がいた。にやにやしたまま歳を取ってしまったのか、その顔に皺としてこびりついた軽薄な表情がさっと僕に向けられた。
「流石にまだ早くないか? まあ、奥の部屋は空いているから大丈夫だけど」
「違う。そ、そ、そっちのお客さんじゃ、あ、な、ないの」
店主はホルダーから逆さに固定されているグラスを二つ取り出した。
「じゃあ、いい人かい? 働けよお。君の趣味は軟弱な男だったっけ?」
「な、なん、何でもいいから一杯出して。あと、い、今の発言はゆ、ゆっ、許さないから。だ、代金はあんたのお、おごっ、おごりということにき、きめた」
「えー。まあそれは断るけどさ。そんなことより服が汚れているぞ。着替えてきな」
「あ、ホントだあ」
彼女は僕に何度も頭を下げながら、階段を駆け上っていった。店主は彼女が上で扉を閉めるのを確認すると、さっと軽薄な笑みをかき消し、僕の方に向き直った。二面性すら疑うほどの緊張感。まるで何者かが憑依したかのようだった。
「あいつの昔の知り合いかい?」
「ええ、そんなものです」
「どもりが戻っているからな。どうだい、立派に働いているだろう」
彼は睨むような目で僕を見た。皮肉か、それとも釘を刺したのか。
「ごめんなさい! え、Aさま、い、今行きますので」
あっという間に着替えた彼女はまるで子供のように階段を踏み鳴らして降りてきた。そのぎーぎーいう音を聞いて、主も元の誠意の感じられない薄ら笑い顔に戻る。
「おい。こいつが酒の相手してもらうならもっと胸のデカイ女がいいってよお」
「Aさまをこ、こいつよばわ、わりしななな、いで! ……え?」
階段の上で彼女は顔を半分隠し、実に申し訳なさそうに僕を見た。
「Aさま。本当ですか?」
「い、いっ、い、言ってないよ!」
その傍で、やっぱり主はにやけているのだった。
僕は彼女をよく知らなかったが、彼女の方は僕をよく知っていた。どうも僕は若い女工の間で一種の観察対象だったらしい。
「大変失礼な話ですよね。Aさまがなになにをなさったとか、なになにのお話をされたとか……皆できゃーきゃー言いながら。でも、もう三年、四年ですか。A様がアゴタに行かれたのは。本当に大きくなられました。もう立派な大人ですね。とてもとても、まあ可愛いらしい、なんて言えません」
お酒を飲んだ彼女はどもりが消え、むしろ饒舌になっていった。眠たげに細められた瞼に細く薄い眉。楚々とした服に身を包んだ彼女はさっきよりも美しく見えた。店主はいつの間にか消え、僕たちは誰もいないカウンターに並んで座った。
僕たちは懐かしい話をした。それに努めた。なにも偽ったわけではない。本当に楽しかったし、これでいいのだと思えたのだ。
僕たちの話の中で、ジージやフェルが何度も笑った。何度も泣いた。何度も笑った。
「――ああ、そうだったんですか。シモクボの水門、最近はあの辺にも行ってないですね。友人が大陸に渡る際、見送りに行ったきりです。そうだ! 覚えていらっしゃいますか、皆でシモクボへ旅行に出かけた時のことを。確か私が働き始めたころなので、もう五年も六年も前になると思いますが」
「宿にワカメ『だけ』がどっさりあったやつだろ。覚えている。しょうがないから煮て嫌というほど食べた。誰かが調理法を調べておくべきだったんだ。流石にうんざりしたよ」
「はい。昼食に一カ月は海産物がでなくなりましたね。皆、ワカメだけを食べていた……おかしかった。おかしくて、おかしくて、お腹が痛くなるほど」
彼女は本当に楽しそうだった。そして一通り笑い終わり一息つくと、潤んだ目を空いたグラスの上に落とすのだった。
「ねえ、Aさま」
突然、彼女は椅子をずらし僕との距離を詰めた。彼女の息遣い、体温、感情までもが読み取れるほどに近くまで。心臓の動悸が高まる。僕はひたすらにドキドキしていた。
だが、彼女の優しい笑みは沈痛なものに変わってしまう。
「最初は、ブラウワーさんでしたっけ? 彼の下に、アゴタに、どうしてAさまが行かれるのか理解できませんでした。許してください。彼は敵だと、Aさまに裏切られたと……私はそう思ってしまったのです。そして、正直に言えば怒りさえも感じてしまった……でも、今では違います。分かったんです」
分かっただって?
やめてくれ。脂汗が滲む拳を握り、僕はそう懇願していた。
そこに何があるのか。そして何が来るのか。僕は察することができた。
「Aさま。ここにいてはいけません。アゴタにお戻りください。Aさまが一番幸せになるにはそれでよかったんだ、今ではそう思えるのです」
そりゃあないぜ。
その言葉が吸い込まれるように、すうと心の奥へと落ちていく。底は浅い。すぐに着水してしまう……。見た目は穏やかだが、表面化では激しい対流が乱れている。
何かが自分の中ではじけるのが分かった。それには怒りや苦しみもあったが、一番は悲しみだった。一滴ずつ溜まっていった水が遂に器から溢れ、決壊したのだ。
致命的な一撃を、今、僕は繰り出そうとしていた。何故? 分からない。強いて言えば僕はまだ若造で他にやり方を知らなかったからなのだろう。
君に僕の何が分かると言うんだ。
思わず立ち上がり、僕は怒鳴り声をまき散らしていた。
哀れな娼婦は絶句し、目を見開いたままみるみる青ざめていく。
「君らは卑怯なんじゃないのか? ああ、もちろんそうさ。僕もそうなんだよ!」
僕は大きく息を吐いて肩を降ろし、彼女に背を向けた。そして、出口へと向かう。我慢して、押さえて、ゆっくりと。誰の波も立てず、慎重な足取りで。
「え、えっ、Aさまぁ!」
背後で悲痛な叫び声が上がった。椅子の倒れる音が聞こえた。
脚の筋肉が緊張する。僕は駆けだす。最後に残った何かをもかなぐり捨てて。
走る。走る。カミクボの活気づき始めた歓楽街をぬける。酔っぱらいにぶつかり罵声を浴びせられる。――聞くものか。気にするものか。罵る声を振り払い、
僕は走る。走り抜ける。
正確にどの時点で、と問われれば、答えに窮する。あるいは、決断などしなかったのかもしれない。だが、結果として、この時、僕はある道を選択したことになった。それは明らかに生涯に渡り後悔し続ける道で、望んだものではなかった。
望んだものではなかった?
分からない。
息が切れた。胸は震えていた。しばらくして振り返ると、誰もいない。彼女は僕を追わなかったのだろうか。または、追うのを諦めたのか。あらゆる醜く卑屈な欲望と幼稚な反抗心が、白く無垢なふりをした布に覆い隠されている。それが僕だ。
僕の横顔にもフェルのように眦を決した者の「何か」が浮かんでいるのだろうか。
そしてそれは、美しいのだろうか。
僕は宿屋で宿泊のキャンセル料を払うと、馬を走らせ転送局に向かった。閉じられた鉄柵の門の脇に突き出た投函口がある。念のためまた二通ずつ、僕は宿で書いておいた速達の手紙を投函した。明日の朝には届くだろう。一つはブラウワー教授への感謝と謝罪の手紙。そして、もう一つは即席の退学届。




