不味いやり方
僕は馬を急かした。彼は心得ていた。嘶くこともなく、彼はただその全力を持って僕の要求に応える。森を抜ける一陣の風のように木々や草花を揺らし、一念に家に戻る。日は落ちたばかりだ。七時、といったところか。
川を渡り左に折れる。折れた木々や絡みつく障害物をすいすいと突破し、馬はその速さを緩めない。棘のある灌木など軽々と飛び越える。いいぞ! いいぞ!
坂を駆け上がっても、彼の勢いは衰えなかった。猛った彼をなだめるためにその場で二三周足踏みさせ円を描く。手綱を引きながら僕の家を見る。窓から漏れる黄色の光が恐ろしいほどの静けさを湛えている。
「おかえりなさい。Dさま」
ジージとフェルは食堂で待っていた。案の定、広い食堂に三つばかり席があって、寂しかった。離れた場所から見るとドーム状の天井が高いせいで、全てが押しつぶされたようだ。テーブルの上では、フェルが作った料理がそのまま冷めきっていた。
フェルは一度僕に向かってうやうやしく頭を下げると、台車の上に料理を乗せ、台所に運んでいった。加熱器で温め直すのだ。
ジージは気もそぞろな様子で椅子に座ったまま手を弄んでいた。
「名前はお分かりになりましたか?」
「うん。DEACONだそうだ」
「確か、……助祭という意味でしたっけ?」
「さあ」
「誰がそう登録されたんでしょうね」
そして、会話は途絶える。
貯蔵していた言葉をすべて吐き出してしまったかのように、頭の中が空っぽだった。
何を話せばいいというのだ? 彼の挙動を観察しながら、僕はジージの出方を待つ。罪悪感がないわけではなかった。気安いはずのジージを相手にこんな居た堪れなさを感じたのは初めてだ。しかし、こちらから仕掛けるのも何か違うような気がした。
彼は小さく背を丸め、静かに席に座っている。時折、口が半開きになり、視線が定まらなくなる。三年間では説明のつかない老いが、確かにそこにあった。
しばらくすると、フェルが温めなおした食事を持ってきた。正直に言えば、助かった、と僕は安堵した。まるで水中で呼吸を止めているような息苦しさ、緊張が一瞬にして消え失せてしまったからだ。彼女の朗らかな笑みと食欲をそそる香りは、この場の悪い空気を一掃するに十分な力を持っていた。
皿の上には白いパンと僕の大好きな鮭が乗っている。香辛料をまぶし、強火でカリっと焼いたシンプルな料理。しかし、フェルが作るとなれば話は変わってくる。
それ用の紙で包んで加熱器で温め直し、再びフライパンで軽く焼けば出来たてそのもの。香ばしい匂いと白い湯気が立ちあがる。
彼女は前掛けを外し、黒鉛で汚れた指を手拭いで拭った。そして、席に着くと僕たち二人の顔を見る。
彼女の言葉に僕たちは応えた。
簡略化された食前の儀式を経て、僕はフォークを取る。ほぐした一口分の身を、肉汁を含ませたパンの上に乗せ、そのまま口の中に入れる。
美味しい。
それはアゴタでの学生らしい貧しい食生活や、旅中経験した困難の反動もあったが、何より、安心があったのだろう。そうだ。この柔らかな味を僕は長らく忘れていた。わけもなく涙腺が緩む。僕は零れ落ちそうになる涙をやっとのことで封じこめる。
斜め向かいに座るフェルが笑みを浮かべながら――そう努めているのだろうが――僕の顔を覗き込む。美味しいですか? と尋ねているのだ。
「うん。美味しいよ」
今度こそ、彼女の顔は少し照れの混じった本当に幸福な笑みに変わる。口元で両手を合わせはにかむ。フェルがこういう少女のような表情を見せる時、見た目がそれ以外の何物でもないということもあって、僕は彼女とどういう生活を送ってきたのかを忘れてしまう。十七年前、僕があの腕であやされていたという事実が、俄かに夢の中の出来事のように思えてきて現実味を失う。
この時間を捨ててまで、何故僕はアゴタに出たんだっけ?
幸福な時間だった。僕の求めていたもの……それは一体何だったのだろう?
食事は終わり、フェルは空いた皿を洗い場へと運んでいった。台車の滑車が軋み、不愉快な高音を鳴らしながら遠ざかっていく。再び部屋を支配したのは、沈黙。僕らはテーブルをはさみ、腕を組んで俯いていた。
時間が無意味に浪費されていく。
フェルの手が水瓶の水面を揺らす音。一秒、一分、一時間、一日……永遠?
それほどまでに長い時間、僕とジージは互いの視線を感じながら何かを推し量っていた。
しかし現実にはそう思えた時間も、六枚の皿を洗うのに必要な程度の長さでしかなかった。しばらくして、フェルは戻ってきた。
彼女の着席を確認して、ジージは嚆矢を放った。そもそもフェルは喋ることができないので、憎まれ役を担えるのは彼しかいなかったわけだが。
それは実に慇懃な語り口だった。
「それで、いつ頃まで、こちらに滞在されるのでしょうか」
ついに来たか、と思う。――僕は覚悟した。
「滞在? 変な言い回しだな。ここは確か僕の家だったはずだが」
「……失礼しました」
僕の強めの語気に押され、混乱し、一瞬だけ、ジージは卑屈な笑みを頬に表す。
フェルは悲しそうな表情を見せて、あまりジージを責めないで、という言葉を僕に目線で送る。だが、僕はそれを無視する。ここで容赦はできない。
「急かさないでくれよ。僕がここに何日いるかは、誰の意志に依るわけでもなく、僕自身が決めることだ。ここは僕の家だからね。それとも、あれかい? 僕にさっさと出ていってほしいのかな? 帰ってきてもらっては困ることがある?」
僕の言葉に反応し、眉が眉間によって盛り上がる。ジージは鼻の頭を撫でながら、何度もまばたきを繰り返す。それは久しく見ていなかった、彼の怒りの前兆だった。
ジージの怒りが僕に対する誠意の裏返しであることは分かっていた。そしてその誠意は必ず自制を促し、彼の感情と表情を曖昧にすることも。結局、彼は怒らないのだ。その代わり、ただ、目を落とす。そうだのだ。悲しいこと、腹が立つこと、胸に去来した幾多の感情を、彼は正視せずただ耐え忍ぶ。それが彼らのやり方……。長きにわたって踏襲されてきた涙ぐましい処世術。
再び開かれた瞼の奥からは、すっかり諦観しきった眼が覗いていた。彼は完全に元に戻ってしまっていた。
だが、それでは困るのだ。
「わがままはいけません。第一、Dさまには学校がおありでしょう。物事は段取りや手続きといったものが大切で、思い通り何でもできるというわけでは……」
「やめたよ」
「……なんと?」
いわゆる「耳を疑う」というやつだ。
間髪いれず畳みかける。
「大学をやめたと言ったんだ」
「……何ということを」
擦れた声で彼は唸る。
顎鬚をさすったまま静止した顔には、卑屈な笑みが浮かぶことさえなかった。
森のミミズクが間抜けな声で鳴き始めた。もう片方の拳が悔しげに机を揺らす。森から聞こえる場違いな歌を遮るように、ジージは荒々しく言葉を並びたてた。
「こんな島に閉じ込められる必要はなかったのです! この島を出ることなど、Dさまにとっては容易かったはずなのに!」
熱し難いはずの彼が激昂していた。彼の誠意。それこそが彼の弱点。分かった上でこんなことをやる僕はきっと卑劣なのだろう。
「Dさまは、我々と違い、頭が良い……。卒業してあちらに住んでくだされば、Dさまは思いのまま生きられた! お金も家庭も名声も自尊心も全て手に入れられた! なのに、どうして……。Dさまが自由に幸福に生活を送ってくださること、それが我々の一番の望みだったのに!」
「なるほど。それが僕の幸せらしいな」
「Dさまはまだお若いからお分かりにならないのです!」
「その通りかも。でも、知ってるぞ、それくらいは。僕は一生後悔するだろうね。それは確かに間違いないんだろう」
「なら、何故なのですか?」
「腹が立つからさ」
「何に?」
「さあ」
突然、彼は会話を打ち切り、ぶっきらぼうに立ち上がった。僕も話すのを止めたので、家には彼の木靴の音しかなくなった。後ろ手を組んで周回しながら、底の方で何かを考えている。髭をさすり歩く……歩く。しばらくすると、彼は何かを見つけたようだった。そして再び席に身を沈めときには、彼は肩をすくめ、笑い始めた。
彼は笑い続けた。それが終わり一息つくと、先程までの感情の高ぶりは彼の顔からきれいに消えていた。鳴き喚いた後の赤子のように、すっきりとした表情には、怒りも悲しみも、そしてあの諦観までも消えていた。
ただただ、嵐の後の穏やかで透き通った青空のようだ。
「Dさま、私たちのことなどどうでもいいと思ってらっしゃいませんか?」
言葉で答える代りに、ただ、おどけた顔をしてやる。
「変わられた? 成長された? それとも、いや……さあ、私には分からない」
「アゴタ人の影響かな」
「いえ、違います。思い出しました。お爺様そっくりなのですよ。Dさまは」
ガシャン!
その時、ジージの言葉を遮り、グラスが床に落ち、割れた。
動いたのはフェルだった。彼女は割れた破片を片付けようともせず、僕の瞳の奥をじっと睨みつけた。昔、酷いいたずらをしてしまった僕を叱りつけたときと同じように。目の奥の芯に力が入り、重圧が体を縛る。僕たちの会話に我慢がならなかったのだろう。彼女の両手は机にかけたままだったが、今にも身を乗り出しそうな気迫があった。
「フェル。Dさまはもう大人だよ」
鋭い眼光が今度はジージを捉えた。身じろぎもせず彼は続ける。
「Dさまのお父様が工場を閉鎖なさらなかったように、そして雇い続けてくださったように、Dさまもやめてくださらないさ」
岩を砕くように目に力を入れていたフェルだったが、しばらくすると、力なくうなだれ、そして椅子に座りこんでしまった。
背筋は伸び、品は保っているが、僕の体全身に圧し掛かっていたものが、一瞬にして消えてしまった。
そして僕には聞こえた。
でも、と叫ぶ彼女の声を。対して、ジージは答える。
「いいんだよ」
それでも、でも、と彼女は呻く。そう聞こえた。
「いいんだよ」
顔を手で覆い、彼女は泣き始めた。
「こいつが本当は何を考えているかぐらい、Dさまにはお見通しでしょう」
ジージは彼女の手を取ってその場に膝をついた。フェルも目をこすり、鼻をすすりながらそれに従った。
「Dさま。私たちを今まで通り使ってはいただけませんか。他の生き方をすっかり忘れてしまったのです」
二人は深々と膝の上に頭を下げた。彼らにどう声をかけようか迷ったが、やめた。彼らの気持ちを本当に尊重するならば、何もしないのが一番いいのだろうから。
――――――
次の朝、僕は玄関先の郵便受けに二通の手紙を見つけた。差出人の名は先生だった。赤線が引かれている。速達だ。片方は「2」と数字が書かれていたので、もう一枚の書かれていない方から読んだ。急いで書かれたせいか、うねるように乱れた文面で、次のような内容だった。
「突然の君の話に混乱している。そちらで君に一体どんなことがあったのか私は知らない。だが、他にもやりようはあるはずだ。諦めないでくれ。そして、おそらくだが、君は勘違いしている。私が君に入れこんでいたのは何も製鉄という産業を破壊したという負い目や罪悪感からではない。君には才能があった。そしてそれを開花させるのが私の教育者としての面において重大な義務に思えたからだ。君はそこで終わるべきではない。だから、退学するとは言わず、せめて籍だけでも残しておいてほしい。全てが落ち着いたら、もう一度戻ってきて勉強をやり直せばいい」
次の「2」は今朝に出されたようだった。
「先程の手紙は取り乱してしてしまって申し訳なかった。投函後に君のことを妻に話したら怒られてしまった。だから、今、こうして書きなおしている。先程の発言を撤回したい。私は君に失礼なことを言ってしまったようだ。だが、それも君を思ってのことだった。許してほしい。色々話したいことはあるがクボは遠く、また余白にも限りがある。だから、一つだけ。学問や事物、現実、あらゆる事象というものは複雑に絡み合った蔦のようなものだ。私の伝え得たものが君の前途に何かしらの形で役立つこともあるだろう。そうなること、そして君の幸運を祈っている。
――追記。やはり籍を消すことは受け入れられない。上手くやり繰りすれば十年は誤魔化せる」
末尾には筆跡の違う軽妙で薄い字が書き添えられていた。
「やり方の不味い方がカッコがいいってこともあるのよ。ただカッコがいいだけ、かもしれないけどね」
僕らは朝食を取ると坂を下って工場に入った。中は工作機械がうち捨てられ、がらんとはしていたが、寂しさはもう感じなかった。歩きながら思い出を手繰る。そのよすがは足元にごまんとあった。
話しあった結果、こちらの工場と土地は売却することにした。当座の生活はあるし、固定資産税という致命的な問題もあった。
工場の裏は一本から五駄も六駄も薪がとれる大きな木が手を広げており、その向こうは崖になっている。その木の陰に包まれ、遥に続く海が太陽に照らされているのが一望できた。透き通った瑪瑙色が幾重にも重なって青になるのだ。
風が木漏れ日をそよそよと揺らした。僕は母からもらった蛍石のペンダントを外して油紙で包み、その大木の根元に埋めた。土で山を作り、その上に石を置いて目印にする。
僕は誓い、祈る。
そして、工場の敷地を去った




