白々しい嘘
元々裕福な地主の家に生まれた祖父は安穏と一生を終える同じ身分の者たちとは違い、自ら体を動かした。鍬をふるい、屎尿を運び、船に乗って、モノを売り、買って、安酒を飲んで……。祖父は独自の哲学を持っていた。だからこそ工場経営を一代で為し得たのだ、とジージは言う。
この島に限れば、僕の生まれた環境はかなり良いものだった。下手に謙遜などすれば、どう非難されるか分かったものではない。しかし、甘やかされたわけでもなく、そういう伝統があったので、父も僕もそういう経験を決して多いとは言えないけれど積んでいる。つまりは慣れっこなのだ。
食っていくには金がいるが、金を得るには稼ぐしかない。工場も敷地も売りには出していたが、この不景気な島では買い手は容易につかなかった。投資や資本金どころの話ではない。手元には三人の生活が一カ月賄える程度の資金しかなかった。
まとまった金が入るまではとにかく働く必要がある。加えて僕たちは五里霧中。将来は未だおぼろげな像さえ成さず、今後の見通しは全く立っていなかった。
僕はこの島に残った。だが、何をするべきなのだろう。
僕とジージは街に働きに出た。つてのある人の紹介で、ナカクボのある楽器職人に手伝いとして雇われた。彼らは一族で工場を切り盛りしていて、弦楽器の制作を主に行っていた。質よりは量、そして安さが売りだった。
僕ら二人は五時に起き、早めの朝食取り身支度を整えて、六時には家を出る。七時前には仕事場について、日が落ち切って作業ができなくなるまで同じ作業を延々と続ける。帰って家に着くのは夜八時ぐらいで、その後、皆で夕食を取って寝る。
フィドルの一番太い弦。これを羊の腸の繊維を縒り合せて作る。三十メートルもある腸を傷つけないよう細心の注意を持って、僕よりも一回り小さい子供がそっと死んだ羊の腹を裂いていく。ここからが僕たちの出番だ。脂肪質の組織、筋肉、血管を手で削ぐ。腸から胆汁を絞りだす。
もちろん他の仕事もやらされた。死んだ羊を近所の牧場に回収しに行く。廃棄物を近所の森に埋める。尿をなみなみと注いだ桶の中で羊毛をひたすら踏み、油脂を取り除く……とにかく、僕らは常に汚物と悪臭にまみれていた。家に帰ることのできる時間になるころには、それはもう言葉では表現のできない恐るべき状態になっていた。
キツイ汚れ仕事。それでも運がいいことに組合の影響力が比較的強かったので、それに見合うだけの報酬を確実に受け取ることができた。その報酬こそが重要だった。
もし不動産が売れない状況のまま、いざ金が必要だ、となっても困る。少しでも多く稼げる方がいいだろう。
それは三人で納得して決めたことだったが、それでも時折、無性に焦がれることがあるのは事実だった。全ての筋肉が焼けつくように疲れた夜、いつの間にか蜘蛛の巣が張ってしまっていた部屋の天井を見つめ、僕の心はひっそりアゴタへと帰る。美しい娘たちと気のおけない友人。黒ずんだ計算用紙が舞う、輪車乗り場脇の喫茶店。あらゆるものが目まぐるしく創造される、あの街に。
ところが、二週間もしないうちに問題が発覚した。フェルの方が限界を迎えていたのだ。炊事、洗濯(僕たちの汚物まみれの服を毎日洗うのだ!)、掃除、機織、家畜の世話。ハーブ、そして、チューリップの栽培――クボの一部にしか咲かない珍種で、なかなかの金になった――家の細々とした仕事の全て。女手一つではきつくないはずがないのである。だが、手伝おうにも僕たちは僕たちで手いっぱいだった。
ある日の朝食――と言っても暁前だが――僕は疲れ顔のフェルにこう提案した。
「一人、お手伝いを雇おうか?」
彼女は大きく目を見開いて、頭を勢いよく左右に振った。自分は大丈夫だ、そう言いたいのだろう。努めて笑顔にするが疲労の色は隠し切れていなかった。
「でも、きつそうだ」
彼女はあたふたと何かを伝えようとする。ジージがそれを汲み取ってくれる。
「しかし、そうするともう一人分の出費がかさむことになりますよね。それをフェルは気にしているのですよ」
彼女は大きく頷く。
それはもちろんそうだった。
僕は空で計算をしてみる。収入がこうで、出費がこう。もう一人増えれば、効率がこう良くなり、支出がこう増え……。
「体を壊したらそれこそ金がかかるじゃないか。大丈夫。今僕たちがこなそうとしている仕事量から考えれば、もう一人雇った方が効率がいい。今、一週間で金一枚銀二枚入ってくるわけだけど、仮に住み込みの手伝いを一週間で銀一枚……いやクボなら二週間で一枚が相場かな? まあ、それぐらい払うとする……」
具体的な値を出して説明したところ、初めは半信半疑だった二人にもようやくその有効性を納得してもらえたようだった。
「さすがDさま! 数字に関しては並ぶ者がいませんな」
フェルも分かっているのかいないのか、嬉しそうに笑って、胸元で小さく拍手をしている。
ううむ。褒められるのは嫌いじゃないので、僕は何も言わないことにする。
結局、僕が工場から拾ってきた豆色の凧紙上に、ジージの小さくて細々とした文字、フェルの描いた可愛らしい仔馬の絵、それらがごちゃまぜになっていて、まとまりのない使用人募集の案内ができた。それを手作業で二枚複製し、合計三枚をジージと二人、仕事終わりにナカクボの人通りの多い辻の掲示板に貼りつけた。
――住み込みの使用人募集。仕事内容。主に家事の補助。報酬は二週間で銀一枚。場所……etc。
「若い女性募集! お酒を注いでお話しするだけ……」
「船乗り募集の案内。ヤシロとの一往復で金五枚を保証……」
派手な色で己を主張する求人の紙の中で、淡い豆色は逆に目立っていた。また、歩けば道が自然にできる僕たちも、ある意味目立っていた。鼻をつまみながら、皆僕らの傍を避けていく。もう嗅覚が馬鹿になってしまい、正確に分からないのだが、酸っぱい? そんな臭いに近い気がする。
ナカクボの街の作りはカミクボの街と大した違いがない。三つの街を結ぶ街道と垂直に交わる石畳の坂が海まで続き、両脇に背の低い商店が延々と続く。それぞれの辻には円形の盛り場ができている。裏には自然の力で段になった平地が掘削されていて、一般庶民の住居や畑、僕たちの勤めるような工場がある。
まだ通りには人が多かった。前方から雇用の死守、賃上げ交渉を叫び、看板を掲げ、団体行進してくる者たちがやってきた。僕たちはその中に楽器工場の組合専従者がいるのを見つけ、帽子を取り軽く挨拶する。彼らは役場まで行軍するのだという。
今日は雲行きが怪しいこともあり、仕事を早目に上がることができた。石の円柱が並んだ盛り場の休憩所には、普段は旅人や買い物に来た女性などが腰を休めるのだが、酷い匂いの僕たちのせいで誰もいなくなってしまったので、そこだけぽかんと穴が開いたようになってしまった。遠巻きに掲示板を眺めている者もいる。
「応募来るかな?」
「優秀な人材は望めませんが、それでも涎を垂らしてわんさか来るでしょう。それこそ畑が狭くて養いきれなくなった子供たち、それも次男坊三男坊や、少女たちが。貧しい人間なんて掃いて捨てるほどいますから。問題は誰を雇うかです。誰かを雇うということは誰かを切るということです」
「僕は慈善をやるつもりはないし、その余裕もない。ただ、こちらが必要なだけだ」
「彼らはそうは思いませんよ。事実、労働条件は酷くやさしいですから。ご注意を。なかには子供ながら、したたかなやつもおります。ともすれば、それなりの覚悟が必要かもしれませんよ」
坂の下からは冷たい嫌な風が吹いてきていた。そちらに目をやれば、灰色に染まった海。波が立っている。今にも雨が降りそうだった。
立ち込めた薄暗い雲に追い立てられて、霧が晴れるように人々は散り、自らがあるべき場所に消えていった。見知らぬ店の廂には、来るべき雨に備えもう子供たちが身を寄せ合っていた。
そして、ぽつり。一滴。僕らもまた頭を打たれ、急かされる。
「この様子じゃ、掲示が無駄になってしまうかもなあ」
「仕方ありません。また作りましょう。それよりも早く帰らねば」
僕らは北に向かって街道を進んだ。愚図つきながらなんとか持っていた天気だったが、あと一キロというところで、遂に本降りになってしまった。降り注ぐ雨脚の中を、泥をはねながら走る。下手に雨宿りするより、さっさと家に帰った方がまだ風邪を引く可能性は少ないだろう。手間代をケチらず、馬でくればよかった。
冷たい雨。木々はざあざあとさざめき、獅子の安らぐ竹藪は柔らかくしなる。
川に架かった綺麗な弧を描く石橋の手前で右折する。轟音。山の上の方ではずっと前から降っていたようで、川は増水し荒れていた。茶色く濁った溢水は踝を濡らすまで陸に上がっている。足の裏がむず痒い。浸水が道端の土砂を削り取り、小石が剥き出しになっているのだ。雨水は最後に海へと雪崩れ込む。その様を僕は横目で見た。
ぬかるむ坂を駆け上って、一息つくことができた。庭石が滑り、走るのは危険だったので、そこからは歩く。頭の先からつま先まで濡れた。早く着替えなければ風邪をひいてしまう、大変だ。家の窓には安らぎの光。フェルの影。彼女は――
「何でしょう。変だな」
踊っている?
―――――
カンテラは風に吹き落されようで、地面に落ち沈黙していた。日は落ち、風も雨も体温を奪っていく。含んだ雨水をぽたぽたと落とし、服を体に貼りつけながら、僕たち二人は玄関先の廂の下でフェルが着替えを持って来てくれるのを待った。
「おかしいですね。今日に限って寝ぼけるはずもないのですが」
「おーい。フェルー」
彼女は喋れない故か非常に耳が良い。いつもならば、呼ぶ必要もなく明かりを持って飛んでくるはずなのに。ところが今日は、どこかのドアが開く音さえ聞こえない。
「いるはずなんですけどねえ」
このままここに突っ立っているわけにもいかない。
体に付いていた血や臭いは、雨と泥のおかげで、ある程度は落ちていた。家の中に入ってもそれほど問題はないだろう。床が点々と濡れ、またフェルの仕事が増えてしまうことを除けば、だが。さて、明かりが漏れていたのは食堂だったはずだ。
「……!」
僕らは食堂へ向かう。扉の前に立つと、フェルが声にならない叫びを上げながら、動き回っているのが分かった。
「おーい……」
まさか本当にダンスというわけでもあるまい。声をかけながら扉を開ける。
彼女は僕の声と軋む蝶番の音に気が付いて、ようやく僕たちを認めた。驚きか羞恥心か。肩越しにこちらを見たまま人形のように硬直している。
もう一人いる。
フェルのスカートの広がった裾を掴んで、後ろに隠れながら、擦り切れそうな更紗の手拭で髪をまとめた少女がこちらを睨んでいる。鋭い野性の眼光、泥まみれの顔。
「その女の子は一体誰なんだ?」
「! ……! …!」
僕の問いにフェルは身振り手振り全身を使って経緯を説明する。手の十本の指を下に向け雨を作り、裏の森を指し、少女の動きを真似する。その間、少女はスカートにしがみついたままなので、フェルの動きは阻害され、奇妙な踊りのような動きになる。
「本人も知らない子らしいですね。雨が降りだす直前、裏の森の方から出てきたそうです。裏口から入ってきて、しがみつき、そのまま離れないとか何とか」
ジージは彼女が言いたいことを上手に汲み取る。伊達に共に四十年近く暮らしていないわけだ。
フェルは少女を指さし、箒を掃く動作をして首をかしげる。
「……これがお手伝いさんなのですか、と聞いていますが」
「うーん、それは……おそらく違」
「そのとおり」
それまで黙りこくっていた少女が、僕の言葉を遮って、そうはっきりと答えた。
「そう、私がそのお手伝い志望。雇って欲しいんだけど」
飄々と、実に白々しい嘘をつく。
これには困った。
「まあ、とりあえず、着替えてくるよ。話はそれからだ。フェル、ご飯をお願い。この子の分も」




