着の身着のまま
白麻の着替えに袖を通すと、ようやく落ち着いた。体を拭いた布は真っ黒になった。
汚れた服を手探りで洗濯桶にほうりこんだ後、僕は食堂に戻らず、一旦ジージの部屋に向かう。あの少女について相談するためだ。
「あれはカミクボの子供ですな。それも海の近くじゃなくて、内陸の方に住んでいる。服はつぎはぎ、髪はぼさぼさ、泥まみれ」
「張り紙を見てやってきた。まあ、ありえない」
「土の臭いがすごかった。もしかすると……」
「例の子供かな? 金を盗んで森に逃げこんだという」
「おそらく。雨が降ってきたので堪らず逃げ込んできたのでしょう」
「一週間近くよく耐えたものだ」
「Dさま」
小さな炎が長い蝋燭の先に揺れもせずともっている。紅く円く薄まった闇の中で、ジージは目を伏せて一旦言葉を切る。
「正直、私は反対です」
「まだ僕は何も言ってない」
「いえ、Dさまの考えていらっしゃることぐらい、このジージにはお見通しです」
彼は苦笑する。
「ケシを栽培する農家に生まれた子供は、それ以外に生きる術を知りません」
「そう望むのだから、別にいいじゃないか。なにも偏見を持って決めつけなくても。例えそうだとしても、これから、教えればいいだろう」
「大変ですよ。慈善ではなかったんでしょう?」
「投資ということで」
「リターンはきちんとありますか?」
「さあね。どうかな。あんまり期待はしないつもりだけど」
「それはでは、投資とは言えません」
ジージのもっともな意見に、僕はただ肩をすくめ笑うしかなかった。
改めて見ても、彼女は咎人というには余りに幼かった。
「金? 色々必要だったからしょうがないでしょ。別に良い人間から取ってきたわけじゃないし。もっとも、森にずっと釘付けで使えなかったけどね」
「十二? だから? あと三年で成人じゃない」
「あーそうね。雨に濡れるのは嫌」
フェルの持ってきた食事をがつがつと食べながら、僕らの問いに対して少女はポンポンと軽口をたたく。スプーンを使い口へと運ぶが、上下逆に持っている。
テーブルの上は狭く感じられた。彼女の体は年相応の少女のもので小さいのだが、他を威圧する凄味があった。
クロスの上にスープの撥ねが飛ぶ。打合わされる食器は剣戟のよう。ジージもフェルもぽかんと口を開けながら、彼女のせわしない挙動を眺めている。
「君の家はどこにあるの?」
「カミクボの上の方」
やっぱりだ、とジージが目配せをする。
「家族は?」
「父さんは歯痛で死んじゃった。ちゃんと歯に叩き潰した猫の耳を三日貼っていたんだけど。兄さんと姉さんは大陸に出て、母さんは病気で寝ている、あとは弟が一人」
平気で言葉を並びたてていく彼女に圧倒されっぱなしだ。
それにしても表情のない子供である。目鼻筋が通っているので、可愛らしく着飾り、にこりと笑って見せれば、引けない少年の目はないだろうに。彼女の心は沈殿しているように見えた。
食事を夢中で胃の中にかきいれてはいるが、美味しいといった感情はこちらに伝わってこない。機械のようにこなす作業のようだ。
「考えたんだが、君を雇うことにした」
僕は手でジージが何か言おうとするのを制止する。僕の言葉に反応するでもなく、少女は黙々とスープをすすっている。
「すぐに契約というわけじゃない。試用期間ということにしよう。一ヶ月程様子を見る。それでいいかい?」
ジージは眉を歪ませ、渋い顔をした。
「分かりました」
こくこくとフェルも頷く。
ここらへんが落とし所だろう。僕の心の中に一片の同情もなかったと言えば嘘になる。だからと言って、契約をそのまま結ぶのも危険過ぎる。
話を聞いているのか聞いていないのか、肝心の少女は無反応だった。僕たちが黙っていると、ようやく食べ終わり、がちゃりとスプーンを置いた。舌で唇を舐めながら上目遣いで僕らを観察している。ひたすらに生きようとする目が鈍く光る。
「そうだな、君を、ニコリと笑ってくれるよう、ニコとでも呼ぼうか」
「うん、それでいいわ」
驚くほど重い緊張感が、仮でも一応の契約が結ばれという場なのに、僕とジージ、ニコ、三人の間に顕然として存在していた。腹の探り合いが始まっていた。そんな空気を必死で和ませようと、ただフェルだけが明るく振舞っていた。
ニコは僕たちにも劣らない獣のような臭いを振りまいていたので、家の風呂に入れることにした。本来の風呂場は三人で使うには広すぎるので、新しく人一人にちょうどいいぐらいの桶をジージに作ってもらっていた。
そこにお湯を入れて、という簡素な風呂。僕は入浴中の彼女をずっと監視するつもりだった。ジージの忠告である。もう既に何かを盗み出し隠した可能性さえもあった。だが、はずかしいわ、見ないでくださいな、等と歳に見合わぬ媚びた声で言ってくるので、止めることにした。
少女の目は笑っていなかった。この不敵さ、したたかさでは、フェルに任せては少し不安だし、ジージでは問答無用にそのまま追い出してしまいそうだ。
これは大変なことになったぞ。失敗したかもしれない。早くも頭が痛くなってくる。
まあ、と言っても他の連中だって十中八九大差はないのだ。
ブラウワー教授の言葉を思い出す。むしろ、こう考えるべきだ――楽しんでください、違いを。そこには何かがあります……と。
上衣はフェルに僕が昔着ていた服を探し出してもらい、下着はフェルのものを借りることになった。ニコはスレンダーな体型だったので、ワンサイズ下の男物の服がぴったりと体に合う。と言っても、違和感がないわけではないし、本来備わっているはずの魅力が削がれていることは確かだった。
空き部屋はたくさんあったので、ニコに割り当ててやる余裕はあった。既にフェルによってしつらえられていた部屋は、僕の部屋に近く、いざという時にはすぐに対処ができる理想的な位置にあった。
ニコを連れて二階へ上る。彼女は驚くほど歩くのが速い。
部屋に入った途端にニコはくしゃみをした。予定はなかったし、豪雨のためにフェルも換気ができなかったのだ。埃っぽいが、今日は我慢してもらうしかない。
晴れてさえいれば月明かりがなみなみと入る明り取りだが、今は暗く雨脚の走る空をうつすのみである。部屋の中には、昔辞めていった使用人の使っていた家具が一式残っていた。
柔らかな布を重ねて敷かねばとても眠れない固い寝台。古ぼけて黒ずんだ樫の机とその上にちょこんと置いてある銅の燭台。箪笥はないが、壁と壁の間に紐が通されてある。ここに服をかけてもらうことになる。
「藁以外のベッドに寝るのは……初めて」
ニコにとっては衝撃的な光景だったらしい。彼女は眼をぱちぱちさせながら内装の一つ一つを手で触れて確認していくと、最後には寝台の上に飛び乗った。重なった布を一枚ずつ弄くりながら包まり、芋虫のようになる。
仮面のような表情は相変わらずだったが、それでもわかった。彼女は純粋にはしゃいでいる。これがようやく見つけた少女らしい一面というやつだろうか。
「柔らかいものは何でも好き。昔、カミクボにでた見本市で大陸の毛の長いウサギを撫でたの。素敵だった。それに犬。犬も好き。ここの家にはいないの?」
顔にかかった前髪を振り払って、彼女はひしと布を握りしめた。
「コリーの血が混じった雑種が一匹、納屋にいる。いつも寝ている静かな犬だから、明日撫でに行くといい。蚤は少ないし頭は悪くない」
「毛はふかふか?」
「ああ」
「素敵!」
そう言って、彼女は寝台の上で露天を仰ぐように大の字になる。埃が舞い、少女は少女の顔に戻る。発展途上のほっそりとした体、それは十二才という年齢もあるが、決定的に栄養が足りていないのだ。肩のあたりで切り揃えられた髪は、赤味がかっていて、ごわごわしている。
ふと、彼女のお腹に目が行った。服に浮き出る羽のような膨らみがあった。
違和感。
それは初め、直感以外の何物でもなかった。
よく思い返せば、この服はフェルから預かり僕が持ってきたもので、その時にはあんなものはなかった。つまり、彼女が持ち込んだもの。着の身着のまま生きてきたこの野性の少女が常に持ち歩いていそうなものといえば何だろう。
そして、その形状は……。
やはり、絶えずに監視するべきだった。ジージの忠告が胸に響く。
ともすれば、それなりの覚悟は必要かもしれません。
「そのポケットに入っているものは?」
「なんでもないわ」
少女は消え失せ、彼女はニコの顔に戻る。すっとぼけるが、見え見えの嘘だった。
「いいから出せ」
肩をすくめながら、彼女がとりだしたものは刃渡り八センチ程度のナイフ。刃は錆び一つ無く、良く切れそうだった。冗談っぽい笑いを浮かべ、彼女は言う。
「穏便な解決ができないこともあるから」
「フェルのスカートをよくも掴めたな」
溜息しか出ようもない。分かっていた。彼女はそうやって生きてきた。
「そいつをよこせ。二度とこういうようなことをやるな」
「頼もしい。いいわね。私もそんな感じで守ってくれるの?」
「ニコ。それはこれから決めることだ」
それほどまでに、僕は同情しているのだろうか。
誰に、何に。分からない。




