ああ、私たちの距離は 遠く
壁越しに説明をする。
「マグカップの数と指定する温度をかけて二で割る。箱の側面にある白い枠があるだろう、値をそこに書いてある式に代入するんだ」
「……何度?」
「まあ、五十度ぐらいにしといてくれ」
………
どん!
榴弾が炸裂したかのような爆発音、ガラスが粉砕される音。まぜこぜの混乱。コップにお茶を注いでいたフェルの手元は狂って、僕はハーブティを全身に浴びる。
熱くはない。猫舌で本当に良かった、心からそう思う。
静かに立ち上がったジージは台所からニコの腕をつかみ引きずって戻ってきた。
「沖から……艦砲射撃でもされたかと思ったよ。大丈夫なのか?」
「けがはしていないようです」
台所を覗くと鉄の焼ける臭いが充満していた。それは僕の体から立ち上るタイムの臭いより強烈だった。一瞬で気体となって千七百倍に膨れ上がった牛乳により、加熱器の鉄蓋がふっ飛ばされ、向かい側の窓が突き破られていた。
「どうして計算ができないことを言わなかったんだ!」
ジージが怒鳴り、フェルが困り顔でまあまあと抑える。少女はむすっと機嫌が悪い。僕の指示が間違っていたのだ、とでも言いたげな顔である。
―――――
毎日の事だが、ニコに気を付けるようフェルに注意を喚起して僕たちは家を出る。肩にかけた背嚢を揺らし、ジージとのっそりのっそり坂を下る。
夏の盛りは終わりを迎え、風の冷たさも心なしか愁いを帯び始めてきた。足元に生える同郷の者たちの顔ぶれも変わっていく。
ニコが家にやってきて二週間。日々の慌ただしさはまるで落ち着く気配もなかった。
一言でいえば、彼女は意地っ張りだった。なんでも自分でやろうとして、及ばず、失敗する。ジージが言っていたように、彼女は何も知らなかった。
「今日の一ペケですね。まだ使用期間中ですが、不合格にしてしまいましょうか」
暁の輝く朝。通勤途中、ジージはそんなことを言った。
「自分から進んで仕事をしているし、一度間違えたことにもう二度目はほとんどないじゃないか。意外と誠実にやっていると思うけどな」
「二度目の前に家が無くならないといいのですが」
「ははは。大丈夫さ。今日のは効いただろう。それにしてもジージも歳をとって意地の悪い性格になったものだ」
「お忘れですか。私もあの子と同じ、生まれはカミクボの百姓ですよ。最初からねじ曲がっております。フェルには負担が増えてしまったのではないでしょうか」
「の割には最近元気だね」
「それは確かに不思議です。私たちがいないところでは意外とこき使っているのかもしれませんね。あいつはあいつで結構したたかなとこありますから」
「そんなものかな」
「Dさまも昔あいつに叱られたことがおありでしょう?」
「確かにまあ躾は上手だったけどさ」
ナガイの新興地主から大型の注文が入ったので、近頃楽器工房は猫の手でも借りたいほどに忙しい。材料の在庫が逼迫し、しまいにはカミクボにまで羊の死体を求めに行かねばならなくなってしまった。
現地で加工を施し、ナカクボに転送して、後はあちらが仕上げる。こういった流れである。ちょうど良かったので、この機会を活かし、一緒に転送局のポストに私用の手紙を二通投函しておく。
カミクボの方がナカクボより家に近いので、七時に家に帰ることができた。風呂に入り、着替え、食卓につく。
夕食は鯖とジャガイモをトマトで煮込んだものだった。酸味ある香りが鼻をくすぐり、腹が減る。湯気が立っていて美味しそうだ。
ふと、ニコが手伝ったのだな、と感づく。フェルの雄弁なにやにや顔を見ていたら、誰だって気付く。彼女は隠しごとの下手な使用人なのだ。
「ニコが作ってくれたのか? 美味しそうじゃないか」
僕が褒め言葉をかけると、皿の持ち運びを手伝っていた少女の機嫌がみるみる悪くなり、その結果、僕の皿が大きな音とともにテーブルに叩きつけられてしまった。どこからか、二ペケ、という声がする。
そんな様子を見て、フェルが苦笑いを浮かべながら手紙を渡してくれた。二通とも朝に出した手紙の返事だった。
「買い手がつくかもしれない」
「早いですね。工場の件ですか?」
「うん。景観がいいし街からも離れているから、ヤシロの商人が金の持った老人向けの保養地に開発したいらしい」
一通目は代理人からの返事だった。工場敷地に彼らが付けた値は僕らの考えていた値よりずっと安かった。
それでも、買い手がついただけマシ、なのだろう。
権利譲渡契約の細々とした条文を読みあげるとジージもフェルも悲しげな顔をした。
耐えきれなくなったのか、ジージが口を開いた。
「もう一通はどちらからでしょうか?」
「これ? たぶん……ああ、やっぱりだ。アジュデビさん。今回の帰省の旅でお世話になった人なんだけど……あら、今、シモクボに来ているんだ」
帰宅途中、死にかけたということは秘密にすることにしていた。そんなことを聞いてしまったらフェルが卒倒してしまうだろう。
アゴタ人らしい屈託のない文面、言葉遣い。大学に入りたては、この距離間の無い人間関係に困惑させられたものだが、三年も住み、そして離れた今はただ懐かしい。
「それではお礼に行かなければなりませんね」
「できればそうしたいけど、明日もカミクボだろう? こんなに忙しいのに休むわけにもいかない。何か送るしかないか……」
「今日は夕虹がきれいでしたから、明日は天気がいい。夏風邪で休んでしまいましょう。シモクボなら半日で往復できる距離ですから」
「うーん。でも……」
「穴埋めには私が二倍働けばいいだけの話です。この慌ただしさでは、一カ月たってもお礼に行けませんよ。使用人とは使うためにあるのです。任せてください。それに嘘をつくのは得意ですから。何たって、カミクボの百姓の倅ですよ?」
そり残した顎鬚をなでながら彼はにやにやと笑う。
耳を澄ませば、フクロウがほうほうと鳴いている。やはり明日は晴れるのだ。
―――――
そして、快晴。
時より一片の雲がゆっくり流れてくる。
きたぞ。ほら。可愛らしい積雲だ。
秋服の洗濯物を竿にかけていくフェルに網籠を持ってついていくニコ。僕は草に寝転びながらそんな様子を眺める。ジージに罪悪感がないわけでもないが、せっかくならば精一杯満喫するべきだろう。高い上空にぽつりと浮かんだ雲が太陽を包めば、東から走ってきた影がふいに僕たちを飲み込んでしまう。
九時。フェルの仕事も片がついたので、僕たちは出発することにした。ニコ一人に家を任せるのは不安だったが、彼女は彼女でナカクボにちょっとした野暮用があるらしく、鍵を閉めることにした。彼女には悪いが、正直、安心してしまった。
戸締りを確認し終えた後、僕は馬小屋の前でフェルを待つ。しかし、何に時間を取られているのか、なかなか来ないので、自分で出発の準備をすることにした。
おや、車軸が少し歪んでいるな。後でジージに直してもらわねば。
真鍮のランプを服の裾で磨いてやると、蝋がちびこけているのに気付いたので、新しいものと交換する。若い馬にハーネスをかけ、馬車とつなぐ。帰るのが遅くなるかもしれない。今のうち老馬用の馬槽を満たしておこう……。
それにしてもフェルのやつは遅い。女の仕度は時間がかかるというが、それ以前に僕は主人だというのに。
どれ、お姫様のお迎えに行ってやろう、と思い、家の裏の納屋の方へ向かえば、わんわんと珍しく犬が吠えているのが聞こえる。
「……! …! ………!」
そこには以前どこかで見たように、奇妙なステップで踊るフェルがいた。よそ行きを着て普段とは違った様子の彼女に驚いたのだろう。犬がフェルの足もとでぴょんぴょんと跳ねている。
それにしても、くるくるとつきまとわれることが得意な使用人である。僕に気付いた彼女は恥ずかしそうに赤面した。
フェルを助手席に乗せ、僕が手綱を取る。汚名返上と彼女は自分が運転すると主張したが、僕にも男の見栄というものがあるので許さなかった。
フェルは大きなビリジアンの日傘を開いて僕にかざしてくれた。
フェルの一張羅、後ろ腰がすっきりしていてトレースを持ち上げたバッスルスタイル。青と赤の線が走る腰紐は蝶結びでゆったりと前に垂れ、首周りのフリルはふんわりと風をたくわえる。何世代も前の流行服なので、今こんなスタイルの服を巷で着る娘などいないだろう。
本人も気にしているのか、暇を見つけてはちまちま手裁縫で後ろの膨らみを減らし、今風にしてきた。いっそのこと買い換えた方が楽だろうに。だが、フェルは僕の父に買ってもらった大切なものだと、はれ着を着るべき時や外に行く時には必ずこれを着ていく。
森に入り強い直射日光の心配が無くなったので、フェルは傘をたたんで後ろの荷台に置こうとする。レース帽子の庇がふわりとはためく。
「コンサティーナを弾いてよ。持ってきているんだろう?」
フェルは僕の顔を見て柔らかに笑うと、体をかえし、荷台にあった古い木製のコンサティーナを取りだした。正六角形の箱は黒ずみ、朱の塗装も禿げてしまっているが、音は良かった。たとえ喉が震えなくても、三列のボタンと蛇腹で彼女は躍るように言葉を語ることができる。
それは流刑に処され、この島にやって来た男の歌。僕は彼女の唇の動きを追う。
『クボよ 彼女は霧煙る海
ああ、荒ぶる海よ 遠く
赤毛の男が島にやってきた
ああ、私たちの距離は 遠く
クボよ
男は島の少女に恋をした
ああ、荒ぶる海よ 遠く
貴方はどこからやってきたのかしら
ああ、私たちの距離は 遠く
クボよ
誓って言おう 貴女を愛している
ああ、荒ぶる海よ 遠く
いつか連れていこう この海を越え
ああ、私たちの距離は 遠く
クボよ
族長は咎人の魂を嫌った
ああ、荒ぶる海よ 遠く
娘は決してお前のものになりはしない
ああ、私たちの距離は 遠く
クボよ
商人が族長に挨拶に来た
ああ、荒ぶる海よ 遠く
ただナツメグの甘い香だけが残り
ああ、私たちの距離は 遠く
クボよ
クボよ 君の声が聞きたい
ああ、荒ぶる海よ 遠く
恐ろしく唸り 広がる
ああ、私たちの距離は 遠く
クボよ』
『』内歌詞 参考「shenandoah」
トラッドのため歌詞にはバリエーションがあり、確定的ではありませんが、Arlo Guthhrieが1991年に発表したアルバム「Son of the wind」収録のものを参考にしております。日本語訳はオリジナルで、世界観に合うよう全体的に変換を加えております。元詞をなるべく残すよう努め、8割以上原型をとどめているはずです。(なお、曲調はどちらかというとKeith Jarrettの演奏を念頭においておりました)




