フィセロイ
ニコが盗んだ金をシモクボの役所に拾ったとすっとぼけて提出したのだが、調書の作成やら聞きとりなど、細々とした煩わしい手続きに時間を取られ、アジュデビさんの住む借家があるという地区につくころには四時を回ってしまっていた。
シモクボの住宅街は基本的に傾斜のきつい所に並んでいる。しかし、彼の家は更に奥まったところにあると言う。
剥き出しの岩肌に僅かにこびりついた細長い平地に沿い、蛇行するようにできた道を上る。
線路が二本敷かれていて、一本の上で鉱夫が馬を使って空になったトロッコを引いている。掘り出した銅を運ぶのだ。馬も男も隆々とした筋肉を西に傾いた日の下に晒していた。汗が焼けた肌を伝い、塩を吹く。輪車がなければ体を使うしかない。
進めば進むほど標高は高くなり、遮るものなどないので、はるか海の様子や陸地に並ぶ建物の並びを俯瞰することができた。
――あの高い木は何だろう。
さっきの役所の隣にあったはずなのに全く気付かなかった。あの西にある広い土地は牧場だろうか。道理で西風が吹く春になれば家畜の臭いが街に溜まるわけだ。紡錘形の黒々とした船が三隻、堤防の向こうに並んでいて、今入港しようとしている。あれは、果物だな。
束縛の無い鳥たちが滑空している。砕けた擂鉢の一片のようなこの街を見下ろし、見えてくるのは、知らない形、知らない色、知らない動き、知らない意味。
僕はこの島のことを嘲り、侮っていた。余すことなく知り尽くしたと思っていた。でも、それは驕りで、間違いだったのだったのだろう。
常に、何処かで、何かしらの意味が、生起するのだ。
僕の心がそぞろになるたびに、フェルは僕の肩を叩いて注意を喚起してくれた。一歩踏み外せば何処までも転げ落ちていくことのできる傾斜の上に僕たちはいた。
しばらくして鉱夫たちの集落についた。ちょうど終業の時間だったのか、数え切れないほどの鉱夫たちが集団となって坂を下って来ってくるところだった。
彼らを煉瓦積みの塀の外で出迎える妻や姉、娘などの女たち。あるものは白いエプロンを広げて彼らの稼いできた日当を受け取り、あるものは塀の内で彼らを裸に剥いてお湯でごしごしと洗う。そんな光景がずっと坂の先まで繰り広げられているのだが、一軒だけひっそりとした家があった。それがアジュデビさんの家だった。
一見、外観は他の家々と変わらない造り。つまり、赤煉瓦積みで、くすんだ白い木を所々にはめ込んだ一階建の建物だ。しかし、玄関先に細かい趣向の凝らされた鼈甲色のガラスペンダントライトが吊り下がっているあたり、やっぱりこの辺の人ではないと分かる。
塀の前に馬を係留して、僕は玄関の扉をノックした。
「こんばんはアジュデビさん。お世話になったBCです。いらっしゃいますか?」
………。
しばらく待つが、うんともすんとも返事はない。
僕はフェルにその場で待っているように言って家の裏に回った。
「こんばんはー」
家は巻金のように直角に曲がり、突き出した岩場を囲んでいた。その岩場と家の間には何も植えられていない庭があって、その向こうに古い小屋が物寂しい様子で佇んでいる。窓ガラスには紅く染まりつつある空と雲が反射していて、よく中は見えない。
「いらっしゃいますか。失礼します――」
その小屋の戸は二本の指で軽く押しただけで、音もなく簡単に開いてしまった。
中に人の気配はなかった。うっすらと卵の腐った――つまり、硫黄の臭いがする。
見上げるほど高い木棚。びっしりと詰め込まれているのは小瓶だ。ラベルによれば、銅、リン、ナトリウムにリチウム、ヒ素……等々。溢れたものが床に転がっている。
散乱するしゃくしゃに丸められたメモ書きには興味がそそられたものの手は出せなかった。静かだった。夏叢の陰にある静謐だった。窓から差し込む陽光の赤々とした帯が、のっぺりとした影を伴って、テーブルの長方形にちょうど掛けられたような形になっている。
僕はその赤の中に無数の穴が穿たれた握りこぶし程度の鉄塊が置かれていることに気付いた。奇妙な形。意識をすうっとその奥の方へと吸い込むような……。
「――ささ、降りて。お手をどうぞ。足元にお気を付けください」
柔らかく低い声が、僕の背後、玄関の方から聞こえてきた。
僕はこの声を知っている。現実感が俄かに帰ってくる。
「――どちらからいらしたので? そのお美しさから推測するにさぞかし立派な家のご令嬢さまなのでしょう。そんなに緊張なされなくても結構ですよ。そう黙っておられないで、ささ、どうぞご用命を申しつけください」
これは不味い。いや、本当に困っているのはフェルの方か。
「――それにしても、馭者はどちらに行かれたのですか? まったくとんでもないやつだ。こんなところにご主人を一人きりにして」
僕は慌てて走って戻る。フェルの困り顔をこっそり見てやりたいとも思ったが、そんなことを言っている場合ではない。
「アジュデビさん!」
「こら! そこで何をしているんだ……あれ? なんだい。BC君じゃあないか!」
先輩は僕を認めると、振り上げた腕を落とし、目をぱちくりさせながら言った。
「お久しぶりです。すみません。突然押し掛けてしまって」
「いやいや。こっちこそ悪いね。家を空けていて。いつでも来てくれと手紙には書いたけど、まさか次の日に来るとは思っていなかったからさ」
「事前に連絡をすることができなくて申し訳ありません。なかなか仕事の休みが自由にとれないんです」
「いや、いいんだ。大丈夫。上がってくれ。ちょうど隣組の会合があってシードルを一瓶もらってきたんだ。きっと美味しいぜ。飲んでいきな」
―――――
「クボは十五で成人だっけ? じゃあ奥さん? なら悪いことをしたな」
「フェルですか? いえ、ウチの使用人ですよ」
「あ、そうなの」
実に興味なさそうな口ぶり――だが、取り繕っている。
どうも、うちの使用人はもてるらしい。これは僕のささやかな自慢である。
時間も時間だったので、僕たちは夕食をご一緒することにした。フェルに台所に立ってもらう。今日久しく実感していなかったことだが、そう、僕が主人なのである。
「煤で汚さないようにね。勿体ない。せっかく洒落た服を着ているんだから」
「からかわないで下さいよ」
「いやいや、嫌味じゃないって。ホントの話。あっちではああいうのがまた流行り始めてんの。ホントだぜ。ホントの話だって」
先輩の家は四人一家が住むには狭いが、一人が住むには広すぎる、そんな家だった。きちんと整頓されていて、殺風景と言えば殺風景なのだが、どこか遊び心がある。
例えば、日よけ布がアゴタの伝統的な刺繍布で、バレージュを透かして見える綺麗な裏地が場を柔らかくしていたり、色白なオーク材を素材にした箪笥の上には精巧な鳥のガラス細工模型(深紅、大胆な色使いの朱鷺だ!)が本物らしく置かれていたりする。大学出の知識人らしい、子供の部屋でも大人の部屋でもない、素敵な部屋だった。
アーチ型の窓枠が付いた壁がコの字に突き出していて、その形に沿い座れるようになっていた。アジュデビさんに手招かれ、そこに腰をかける。ふと目を外にやれば、落日の最後の煌きが曇った窓ガラスに乱れている。晩飯時の賑やかさ。向かいの家の煙突からは白煙が昇り始め、子供たちの喚声が聞こえてくる。
天板は漆塗りで艶やかだった。その机の上に僕は持ってきた子袋を二つ置く。
「お借りした銀四枚です。本当にありがとうございました。それと……これもどうぞ。こちらはお礼です」
「別に気にすることもなかったのに。これは……なんだこれ? 玉葱の一種かな? 植物はあんまり詳しくはないが、珍しいンだろう?」
「フィセロイです」
「フィセロイ?」
手元が暗くなってきていた。アジュデビさんは袋から出した球根を凝視したまま部屋の中心に吊り下げられたオイルランプに火を灯した。
「その球根の等級ですよ。ただのチューリップなんですが、色々あるそうですよ。フェルが育てたもので綺麗な花が咲きます」
「あ、そうなの」
……。あはは。
顔を見れば一発である。意外と分かりやすい人なのかもしれない。
台所からほんのり漂ってくるのはにんにくの匂い。溶けだしたゴーダチーズの表層で気泡がはじけるのが目に浮かんでくるようだ。
「先物が流行った時分には、それ一個で家が建ったとか。今でも売って通貨に換えれば、肥えた豚が二匹は買えますよ」
「そいつは凄い! だが、金に換えたりしないさ。植えるよ。だって、綺麗な花が咲くんだろう? それこそ育てたあの人のように。ありがとう。あの裏の寂しい庭に一本だけ咲けばさぞかし映えるだろうよ」
先輩は球根を二本の指でつまみ、しげしげと眺めていたが、そのうちに棚から小さな木箱を取りだして、慎重に中に閉まった。
僕は少し驚いた。この花を咲かそうとする人を初めて見たからだ。その美しさを認識していても、大体は皆、球根のまま売却してしまう。その方が金になる。転売は繰り返され、いずれは島を出ていく。
その末路を聞くたび、フェルは悲しげな顔をしたものだ。先輩にあるのは、お金を持っている人特有の余裕、と言えばいいのだろうか。だが、いやらしくない。自然な、そして情緒を解する余裕。そんなものを僕は感じた。
「BC君はいつアゴタに帰るんだ?」
出し抜けにアジュデビさんはこんなことを問う。
「実は、もう帰らないんです」
予想外だったのだろう。僕の返事に先輩は慌てた。
「そ、そうか……まあ、詳しくは聞かないよ」
「それより、アジュデビさんはどうしてクボなんかにいらしたのですか? たしか、ナガイの方に行かれましたよね」
「どうも詩人になるには才能か運かが欠けていたようでね。駄目だった。黒い服も捨ててしまったよ。高貴さの演出だったが、すぐ見破られた。本当のことだ」
先輩はからからと笑う。
そういえば、来る途中、アジュデビさんは黒ずくめなんだぞ、とせっかくフェルを怖がらせてきたのに、今先輩が着ているのは少し奇抜なアゴタの伝統衣装である。
「それで二三日ナガイでふて腐っていたわけだが、こんなものを思いついた」
アジュデビさんはそう言って立ち上がると、ベッドの脚もとに落ちていた鈍色のボールを拾い、机の上に置いた。
その鉄球には見覚えがあった。さっき裏の小屋で見つけたものだ。
「こいつはね。炎色反応を利用した玩具だ。ここの穴から鮮やかな色彩の炎が吹きあがる。幻燈機から漏れる光のように綺麗なんだぜ。熱を奪って手で触れても大丈夫にした。光に手を浸せて楽しいぞ。クボには銅の鉱脈がある。いや、それだけじゃない。あまり知られてはいないが、この島にはインジウムやらリチウムやら資源がたくさん眠っている。本当のことだ。それを採集するためにこの借家を借りたわけだ」
「なるほど。面白そうですね。それは売るおつもりなのですか?」
「そのつもりだ。アゴタの喫茶店に送ったら、友人の株式仲買人が面白いと言ってくれた……。売れるとは思う。だが、問題もある」
「問題……ですか?」
「ああ。光の射出口が七つあるからそれだけ埋め込む式も計算も煩雑になってしまった。だいぶ努力はしたけど、まだまだだな。子供が遊ぶならせめて四則計算ぐらい簡単にしないと。今ん所、これで遊べるのは金持ちでちゃんとした教育を受けられる階級の子供だけでね。これじゃあ不平等だし、なにより儲からない」
「ナガイの大学に問い合わせてみればどうでしょう?」
「そうだな。そもそも俺はそんなに数学に学があるわけでもないし……。これからはあそこの文献を取り寄せて一日中睨むことになると思う」
その時、トレーに三つほど器を乗せてフェルがやって来た。会話の止まった僕たちの――というのも、アジュデビさんが口を噤んでしまったからだが――目の前に東の国から伝わったものだろう、淡い青鈍色の陶磁器が並べられる。盛られていたのは、香ばしく焦がし煮た穀物にゴーダチーズとホウレンソウをあえたものだ。アジュデビさんは、軽く鼻をすすり唾を飲み込むと、唇を指で撫でながら満面の笑みをフェルに向けた。
「貧しい残りものでよくこんな素晴らしいものが作れたねえ! 見たところBC君と歳は同じぐらいでしょ? 若いのに関心関心。良い奥さんになれるよ! ホントに!」
フェルはうろたえて、何とも言えないような笑みを浮かべる。先輩はずっ、と座ったまま横に移動して席を空けた。彼女は再び困って、僕の指示を仰ぐ。僕は目で合図して、彼の隣に座るよう彼女を促す。




