log関数、7秒の幻燈
盛りの過ぎた夏の暑さはどこかに人を誘う愛おしさを含んでいる。まるで酔った時に見る、心地よく、そして苦しい幻影だ。例えるならば、母親の腕に寝る安心感とそこから引き離され世界に投げ出されてしまう恐怖。相反する心理が曖昧に混じり合い僕の心は浮足立つ。
酔って手綱を握る手元が狂うといけないので、シードルをいただくのは一杯だけにした。フェルはグラス半分しか飲まなかった。僕に遠慮したのだろう。
シードルは氷室か井戸か、どこかで冷やされていて、口に含むと、心地よい冷たさが全身に広がった。まるで衣一枚剥ぎ取られてしまったかのような涼しさだ。爽やかなリンゴの甘み、爽やかな緑瓶、グラスの黄金色、そして涼しさ。言いようもなく爽快な気分。背凭れに体を預けると、羽毛の毛先が舞い上がる、そんな風が立った。
玄関を出ると夜だった。ペンダントライトが鼈甲色の光を投げていた。
「アジュデビさんが羨ましい」
ふと、僕の口から意図しない言葉が漏れた。
「どこら辺が?」
「なんというか……自由に生きているところが」
「まあ、そうでもないぜ」
「すみません。変なことを言ってしまって」
たぶん、僕は少し言い訳がしたいだけなんですよ。
「そんなものかね」
「ええ。では、またいずれ。僕のウチにも来てくださいね」
先輩は優しい笑みを浮かべ、そしてフェルの手をとってさよならの挨拶をする。
―――――
「すっかり遅くなってしまった。ニコとジージが喧嘩を始める前に帰らないと」
坂を下り、賑やかなシモクボの繁華街の裏を過ぎれば、ナカクボに到る。
言葉はすっかり途切れていた。
と言うのも、語りかけるべき、語りかけ得る僕の頭の中で、耳に優しいアジュデビさんの陶然とした声が何度も何度も繰り返し再生されていたからだ。
――曰く、
「――熱を作る魔法はあって、熱を奪う魔法もある。その知識を応用した加熱器があるのに、奪熱器はない。変な話だ」
「――つまり、象牙の塔に引きこもる学者は庶民の生活に興味なんてないし、庶民は庶民で『技術』に興味も知識もない。魔法という名こそ、それを指し示している。何時まで経っても彼らにとって魔法は遠い空想の『魔法』でしかないのさ」
「――だが、その深い溝にこそ……俺の金を儲ける場がある。俺は楽しく生きていける。そんな風にこの世界が歪だからこそ、ね」
「金を儲ける……ですか?」
――歪な世界、とは何のことだろう。
「ああ。少なくとも金で買える幸せぐらいは手に入れときたい。そんなに悪いことでもないぜ。本当のことだ。呆け防止にもなる」
少なくとも金で買える幸せぐらいは……。
それは確かに、そうだった。金がないために、面倒くさいことが起こる。
でも、それだけだろうか?
歪。この島にとって、もっと重要な意味を含んでいるのではないだろうか?
空気の重みが変わった。夜は闇へと変わる。森に入ったのだ。
「なあ、フェル」
もちろん返事はないが、聞いていることは確かだった。
暗い悪路を照らすためランプの明かりを前方に集中させていたので、フェルの体はこんなにも近いのに、姿は見えないし、表情を読み取ることもできない。
「この島に残ったこと、僕はまちがっちゃいないと思うんだよ。でも、正直に言えば、やっぱり後悔もしているんだ。どうしても別の自分を妄想してしまう。自分のことすら僕には分からない。僕の友達たちはきっと立派な職について、出世するぜ。そんなことを考えているんだ。フェルは僕の事を嫌な奴だと思うかい?」
しばしの沈黙の後、暗闇の中、ごとり、と護身用の短筒がスッテプに擦れる音が聞こえた。フェルは空いた両手で僕の右手を包み、自分の太股の上に持っていく。
そして、柔らかく握る。
返事をする。
「まだ迷っている。結論が出ているくせにまだ迷っているんだ。僕は卑怯だろう?」
僕の手に強い力が入る。僕はそれを握り返せない。
おそらく、話を変えるべきなのだろう。
そう、一度考えてそれで終わり……だ。
それができればいいんだけれども。
「今から何か冗談を言おう」
僕はもう十分考えた。
「はは、駄目だ、思いつかない。なあ、フェル」
僕の声の調子の変化を読み取ったのか、彼女の力はふっと消え、僕の手を包むのは柔らかな温かさだけになった。
「僕も……僕は、とりあえず金持ちになろうと思う。でも金で買える幸せだけじゃあ足りない。きっと足りないんだ」
「………」
「僕はもっと欲深い」
少しの空白。そして、僕には、
そうですか、
と、聞こえない筈の相槌が聞こえたのだ。確かに、奥の方から。それは死んだ母に似た声を伴っていて、ひどく懐かしく僕の心に作用した。
これ以上、自分の気持ちをフェルに細々と説明するつもりはなかった。
それでも、彼女は既に僕の言わんとしていることを全て、あまなく理解しているようだった。ただ、彼女は僕の手を強く握る。僕もそれに応える。
「そうだ。こんなのをもらったよ」
僕は上着のポケットに入れておいた鉄球を取りだして、フェルの掌に握らせる。アジュデビさんが一つ試作品をくれたのだ。
僕は馬車を停める。車輪が土を抉る音が消えて、一瞬の静寂の後、再び、森の命たちがさざめき始める。狐が草を踏む、ワシミミズクの飄々とした鳴き声、どこかで木の枝が折れ、落ちる。青い草が軋む。
「僕の手元を照らしてくれないか」
彼女はランプの中から蝋燭だけを取り出して僕たちの間に置いた。闇の中で、彼女の上半身がふわりと浮かびあがってくる。
「ちょっと待ってて」
先輩にもらった手引き曰く、
x = logab(a = 光源数 b = 継続時間)
f(x) = cx+dx+ex+fx….+zx (c,d,f,….,z = 各発光物質の量、g)
cx,dx,ex,fx….,zxの値を記入する。
………
(中略)
最後にf(x)を記入する。
「鉄球のダイヤルを6に七回合わせてくれ」
手引きに従って、計算を進める。対数関数。なるほど、これでは確かに庶民の子供は遊ぶことができないだろう。いつも懐に入れている鉛筆はちびこけているし、計算用紙は狭い。ミスをすると危険らしいので(といっても鉄球が熱を帯びてしまう程度らしいが)、b = 7として計算を簡単にした。
「最後に42だ。42と入力してくれ」
蝋燭に照らされ、黄と赤の火の色に染まった白い指が鉄球に42と入力する。
何も起こらない。
「変だな」
フェルも首をかしげる。
………
シュー……シュー……
どこからか何かが漏れる音、そして硫黄の臭い。
「! ………!」
パニックになったフェルが僕に飛びついてくる。
「落ち着いて。大丈夫だよ」
無理もない。その音、臭いは噴出する火山ガスのそれそっくりだったのだから。
街道はちょうど森と森の境、傾斜の緩やかな窪地にできており、ガスが溜まりやすい。噴気口が近くにあるとするならば、もう逃げられない。硫化水素で呼吸ができなくなり、死んでしまう。
事実、父が幼い頃、カミクボナカクボ間の街道が封鎖されたことがあったそうだ。遠足の帰りだったらしいが、不幸にもカミクボの初等学校生徒二十三名とその引率が巻き込まれた。彼らは近くて広いということで僕の家の工場に運び込まれ、並べられた。
ここはどこ? ここはどこなの? 知らない。
呻く子供と冷たくなった子供。異臭漂う凄惨な光景を己の目で見てしまった彼女の脳裏には、あの時の恐怖がまだ、生々しく刻まれているのだろう。
「大丈夫。自分の足元を見てみなよ」
そこには微かな光の帯びを纏って、振動する鉄球があった。音と臭いの元が分かったフェルは落ち着きを取り戻し、先程無意識に放り投げたそれを再び拾い上げる。両手でくるくると回し、観察する。
「………!」
ほっそりとした指と指の間から光が漏れ始める。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
僕たちは息をのむ。
発光が弱まったと思った次の瞬間、七色の炎が鉄球に穿たれた七つの噴出口から燃え上がった。フェルは動けなかった。炎は広がり、僕をも包む。
熱くない。
むしろ、水の中に入った時のように、何もかもから遠く、安らぎを感じる。
橙色に身を浸したフェルは鉄球を足元に置いて、光を掬うように手を動かす。
それは、泳ぐようでもあった。
その光はあらゆる方向に重なることなく湧きあがった後、混じり合い、7秒の継続時間を経て、闇の中に溶けていった。




