表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/38

再会、D

『そう 私のいたことをいつまでも覚えていてはいけないよ

 忘れるんだ それが倖せというものさ

 君らのではない 私の倖せ

 忘れられることの倖せ』

 ――そう誰が歌っていた。


 船縁から見渡すと海には灰色の雲がたちこみ始めていた。島まであともう少しだが、時化が来そうだった。万が一、時化になった時の準備のために船員が甲板を走り回っている。そのうちの一人にここは危ないので中に戻るように言われ、僕は腐った手すりを取りながらぽっかりと空いた闇へと階段を降りる。夕暮れにはまだ早いのに、船倉は暗い。二つほど明り取りがあるがこの曇天では何の意味もない。


 乗り込む前から異臭がするなと不思議に思っていたが、それも当然、貨物船の船倉には悪臭漂う家畜たちがこれでもかと押しこまれていた。留学生の運賃免除はこういう形で割を食う。常人ならば貧乏でも、もう少しお金を払っていい船に乗るだろう。 

 

 それでも、船倉には一定の空間が確保されていて、そこに人間が座ることができた。よれよれのイグサでできた敷物が僕たちの床だ。しかし、乗り合わせたこの汚らしい船には似つかわない、主従らしき二人の若い女性に全面積を譲ったので、結果的には僕の寛ぐことのできる場所はささくれ立つ木の階段だけになってしまった。

 

 航海は酷く退屈だった。釣道具の一式でもあればよかったが、もちろん持ち合わせていない。

 話し相手を僕は探した。船員は忙しそうだし、女性たちは俯いて顔を隠し押し黙っている。駅馬車で体験した話を面白おかしく話そうと思ったが、そういう雰囲気でもないようだ。羊や牛たちはそれぞれの声で喚くが、理解できるわけもない。

 と言うわけで、この航海は僕にとって読書をする絶好の機会となった。盗難を免れた先生からもらった一冊の本がこの二日間の全てだった。ところが三日目。この暗さでは読書は諦めるしかない。僕は退屈を紛らわす方法の一切を失ってしまった。

 

 僕は内容を思い出そうと努める。その本はとある探検家が様々の民族の変わった風俗や習慣を採集し分かりやすく紹介しているものだった。成人すると眉毛を片方だけそり落とす民族、伝統的な楽器を吹きこなすことができなければ村を追放されてしまう民族、数年のうちに必ず誰かが発狂する民族――主に若い男が発狂し、手当たり次第に村の資産を破壊して森に逃げ込んだ挙句、何事もなかったように戻ってきて受け入れられるそうだ――等々。その中に僕のよく知った民族を見つけた。

 

 名前が無い民族――それがクボの人々だった。

 

 正確に言うと、無いわけではない。正式な名前は一応ある。執着しないだけだ。皆が好き放題呼ぶ結果、ある一人の人間に対していくつもの名前が付加される。僕にも正式な名前があったはずだが、両親さえも使わなかったし、忘れてしまった。

 

 その本には僕の家の製鉄所が例としてコラムに載っていた。これが、ブラウワー教授がこの本をくれた理由なのだろう。

 組合は製鉄所では従業員にその作業場内で使用する名前を登録させていた。父は工場内ではその名でその人物を呼ぶよう厳守させた。この「改革」以後、それ以前までは一人の人間に命令を下すまでに面倒な労力が割かれていたクボの工場経営は変身を遂げ、作業効率が飛躍的に高まった。

 この仕組みは今となってはどこでも行われている当然の話だが、それは今だからで、当時としては誰一人として思いつかなかないものだった。それだけ、常識、慣習は人を縛る。常識……。アジュテビさんの詩論にも通じるな、と僕は一人で納得した。


 外が騒がしい。

 いつの間にか僕は眠ってしまったようだった。

 窓の外は暗いが船が停泊しているのは分かった。階段を軋ませながら老いた船員が降りてきた。


「おい。まだいたのか。さっさと船を降りろ。もうクボに着いたぞ」


 僕はこの事を伝えようと彼の持っていたカンテラを借り女性たちを探したが、その姿はどこにもなく、敷物だけが残っていた。どうも僕が眠っている間にさっさと行ってしまったらしい。

 

 風神に吹き散らされたように、空からは分厚い雲が消え、群雲が薄く残っているだけだった。陸地に降りると、そこには船乗りを相手にする娼婦たちが群がっていた。

 

 これには困った。

 

 香水の匂いと熱気に揉みくちゃにされながら、やっとのことでその一群を抜けると、遊水地を挟み高い堤防が見えた。堤防の一部分はくりぬかれていて、水門――と言っても堤防に組み込まれた門で、陸上にあるのだが――がはめ込まれており、このように交易船が荷を下ろすと鉄製の板が持ち上げられ、通行が可能になり、津波の危険がある時には逆に閉じられるようになっている。

 

 一列に並べられた松明の赤々とした日に照らされながら、夜も更けているというのに、商人と思しき男たちの指揮の下、逞しい体をさらした人夫や馬たちが降ろした積荷を街の中へと運んでいる。突然、闇の向こうから労働蜂起権の上層委託を叫ぶ声が聞こえてきた。だが、誰一人として見向きもしないし、雇用主でさえ反応しない。僕は人の波に沿って水門の方へと歩く。

 

 水門の隣には非常用の梯子があって、堤防の上に上がれるようになっていた。堤防は高い。十メートルはあるだろう。見上げているうちに好奇心に火がついた。上がってみようという衝動に身を任せ、僕は梯子に手をかけた。

 カン。カン。カン。地面が遠ざかる。人が点になる。高い、高い。足が近くに見える。でも、ちっとも怖いと思わない。

 

 登りきると、風が強かった。帽子を丸めてポケットの中に入れ、僕は顔をあげる。

 

 雄大なシモクボ港のパノラマだ。

 

 シモクボは三方を低い山に囲まれ、一方が海に面している。わずかしかない平地には交易をする船乗りのための宿泊施設や事業所、商館やら歓楽街の看板が林立し、その奥には島の官庁街、一般の住宅は山の中腹から裾にかけて広がっている。海を背にした僕の眼には紺碧の空を背景に黒い山。それぞれの家から漏れる明かりが山を穿ち、全体で一つの城のような景観を作り出している。

 

 風に背を向けて歩きながら、僕は検討する。

 これからどうしようか。

 明日の九時に埠頭付近で、と言う待ち合わせだったが、まだ日も回っていない。だからと言って眠くもない。さっきの娼婦に尋ねて、潮風の届かないところへ行こう。

 

 下に降りて、母と言ってもいいぐらいの歳の女に事情を話すと、客のまばらで、しけた場末の酒場に連れて行ってくれた。僕はカウンターにいた男に銀貨を渡し、明日の朝には何か朝食を用意してくれるように頼み、また身の安全を約束させて、部屋の隅のじゅうたんに寝そべった。

 眠くはなかったので、僕は部屋の隅で聞き耳を立てる。何人かの男たちが立ち現われ、酒を飲み、話をして、笑い、少し愚痴をこぼし、消えていく。異国の話、女の話、愉快な仲間の話、アヘンの話、そしてクボの愚痴。明け方近くになると、親切にしてくれた先程の娼婦が戻ってきて、実入りを報告し、帰っていった。

 

 朝となって、通りから人が完全に消え、静寂が街を支配し始めようとする頃、鶏は鳴き、うち破られ、犬や猫が往来に湧く。店主の奥さんと思われる女性がすり潰した豆のスープを持ってきてくれた。

 

 礼を言って街に出たものの、まだ時間はあった。蒸し風呂屋に行って、下着を買い一週間ぶりに体を洗うと、ようやく待ち合わせの時間近くになった。九時前に埠頭についたので辺りを散策すると、僕の乗ってきた船は姿形も見えなかったが、別の大きな貨物船が錨を降ろしており、その近くで三十人ばかりの少年少女たちが指導者と思しき人の前に整列していた。これから彼らはそこに押し込められるのだろう。


「はい、皆さん。あと三十分ほどでヤシロに出発します。その前に持ち物調査をしましょう。隣の人の荷袋を確認してくださいね。クボの人形、お守り、女の子なら髪飾りもですよ。お母さんに持っていくように言われてはいませんか。だめですよ、この袋に捨ててくださいね。あちらで換金しますので、お金はこの袋に入れてください」


 胡散臭い男だった。赤い女物のガウンを着た男で、アゴタとナガイの語調を混ぜたおかしな訛りで話している。子供たちは素直に彼の言葉に従い、列を作って順番に袋に物を入れ始めた。初めは何かの詐欺かと思ったが、子供たちの楽しそうな様子を見るに違うのかもしれない。そんなことを考えていると後ろから肩を叩かれた。


「Aさま!」


 振り返れば、見るも恐ろしい偉丈夫がのっそりと立っている。


「何度もお呼びしましたのに……このジージの声をお忘れですか?」

「やあ…ジージ! 久しぶりだね。いや、その名前を久しく呼ばれてないからさ」


 鼻筋の通った彫りの深い顔に髭が伸び放題。山男のようなボロ服からは丸太のような腕。厚い皮で覆われた固い掌。親愛を湛えた太い眉毛がよく動く。何も変わらない。何かを言ってやろうと思うとき、頬筋がぴくぴく動く癖のような些細なことも……。


「あちらではどのように呼ばれていらっしゃったのですか?」

「黒猫、略してBCと呼ばれていたよ」


 彼は眉をひそめた。僕がいじめられていたのだと思ったのだろう。


「いやいや、違うよ。大丈夫。出自なんて大部分のアゴタ人は気にしないから。僕が懇親会で話しかけた友人皆にその夜不幸があってね。どぶに落ちたとか、犬に追いかけられただとか、財布を落としたとか。それで、不吉なやつ、になったわけ」

「ははあ。安心いたしました。あだ名ですね。私どももそうお呼びしましょうか?」

 

 なるほど、と彼は髭面の今にも綻びそうな頬を抑えながら、そう言う。どうしてだろう。わけもなくおかしい。再会とはこんなものか。笑みをこらえきれない。


「考えておいたんだ。A、BCときたから、Dと言うのはどうだろうか」

「Dさまですね。了解いたしました。これからはそう呼ばせていただきます」

 

 彼は遂に破顔した。焼けた顔の緩み方さえ三年前と全く変わってはいなかった。

※『』内の詩

「百年の帳尻」より

作 安藤元雄 「めぐりの歌」収録 思潮社 1999


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ