三段構えの櫓、オリーブとブドウ
シズヤ渓谷を抜けるころには日の出になった。馭者は気温が上がらないうちに到着しようと駅馬車のスピードを速める。
砂漠はもうなかった。視界は灰色と褐色、それと少しの灌木が群生する不毛な荒野で一杯になる。
なんだか朝日ばかりを見ているなと、ベーコンを挟んだ湿気た田舎パンをパクつきながら外を眺めていると、地平線に点が見えた。それは僕たちが近づけば近づくほどに高くそして横に広がり、僕の視界には収まらなくなっていった。
土塁の上にたてられた三段構えの櫓。そしてそれを隙間なく繋いでいる高い杭の防柵。何かの本で読んだ、密集陣形を組んだ重装歩兵たちが槍を天高く構え、盾で身を隠し前進してくる絵を思い出す。それらは全て黒く塗られて、他者をひたすらに拒み、僕たちを圧迫しているようだった。
三日の遅延の末に到着したヤシロはこの国の最も西に位置する港町である。アゴタから僕の故郷へ帰るにはここの港を経由しなければならない。
ヤシロ。人口二十三万。西海岸最大の港町。
この街は他の街とは違って、アゴタから強大な自治権と自前の軍隊を保有することが許されている。
そもそも独立した都市国家だったヤシロは、アゴタが侵攻してきた二百五十年前、女子供をも駆り出す壮絶なゲリラ戦闘を展開した。アゴタ側の被害は甚大。戦争の継続は愚策となり、和平交渉が一番賢明だと判断された。その結果の自治権、軍隊保有権である。この歴史は、時こそ過ぎたが、未だヤシロに住む人間の思考や感情に深く根付いている。
街が近づいて来るに従って、この街の周囲を囲む堡塁がその全貌をあらわす。黒一色、と思ったが、そこからにょきっとはえた旗の装飾の見事なこと。なにかしらの鉱物が散りばめられているのだろう、朝日を浴びてキラキラとはためいている。
巨大な城門の前には入国審査待ちの人々がたむろしていて、それ目当ての商人たちが自らの商売を活発に行っている。道化のような赤、黄、青、緑を配す楽しい服を着た呼売商人の盆には、芳醇な香りの酒、レモネード、満ちた腹を空かせてしまう綺麗な細工のお菓子に、鮮やかなオレンジ。彼の後をざらつく音をけたたましく吹き鳴らす管楽器奏者と土着的で謎めいたリズムを刻む打楽器奏者が追う。勇ましい。軍歌だったものを編曲したのだろうか。
串を通された子牛がくるくる回され丸焼きにされている。柄を持って回しているのは既に商人の風格を帯びた少年だ。先輩曰く、気を付けなければならないのは観光客をカモにするガイドやらお土産売りらしい。シルクやら麻、フェルトでできた服を着た木彫りの小さな人形で、お守りの一種だと言って押しつけてくる。だが、本物は宗教家が仕事の合間を縫って日に二個や三個しか作らないものであり、二束三文の値段で買えるものではない。人間とはたくましいものだと思う。
僕らの乗った駅馬車は既に許可を取っていた。簡単な手続きの後、赤い羽根のついた兜を被り簡素な鎧で身を包んだ兵士に誘導され、僕たちは並ぶ他の人を抜いて壕にかけられた橋を渡る。僕は下を見る。壕には海水が入れられているが、濃度が非常に高くなっていて土塁に塩がふいている。うかつに飛び込めば失明してしまうだろう。
「まあ、確かにいまとなっては街の防衛にはこれだけあれば十分だわな」
アジュテビさんはこの堡塁が人口の増加によって拡大した街を防衛するために作られた出来合いのものだということを教えてくれた。七十年も前に作られたものらしいが、戦争もないので改修もされずそのまま残っているらしい。確かに城門をくぐるとそこから直線に引かれた道の先に石でできた堅固な城壁が見えた。
堡塁と城壁の挟間にある郊外は主に農地として使われているようだった。丘陵を削って造られたと思われる凹凸の少ない整備された道を四キロほど走らせ、第二の城門に至る。その高さは先程の堡塁で土塁と防柵の高さを足したものと同じぐらいだが、先程既に驚いてしまったので、それほどの驚嘆はない。こちらの門は内側に常に開け放たれていて衛兵もいなかった。隙間なく積み上げられた岩の表面はひんやりとして気持ちがよさそうだ。鉄製の門にはそれだけでは平面を埋められない連続した五角形が彫られおり、軒瓦には古語で「アゴタに死を」と刻まれている。
石でできた城壁は海を始点に半径七キロメートルの半円を描き、雑多な二階建ての住居、商店、公共施設を抱えている。これは港――交易、漁業、軍事拠点であるが――つまり、ヤシロの核となる施設を地上の侵略から守っている。
岩石のアーチを再びくぐるとすぐに路面から伝わる震動が変わった。石でなく、普通の地面になったのだ。こうして街は始まる。その様子は建築材が限られているせいか、皆一様な造り、趣向、色で、全体として奇妙な調和がある。
馬の歩みが速歩から常歩に。そして遂に駅馬車はほとんど動かなくなってしまった。蹄の音と引き換えに立ちあがってきたのは騒々しいまでの喧騒。外に見えるのは、人、人、人……。道は狭く、人が老若男女問わず溢れかえっている。がっちりと嵌った駅馬車は遅々として進まない。沿岸にあるというヤシロ営業所へ今日中に到達することはできるのだろうか? これでは到底不可能と言わざるを得ない。
「すごい混みぐあいだな」
「クボの島から港にオリーブやらブドウが届いたんですよ。買いつけたものを酒造屋や卸たちがそれぞれ店に持ち帰ろうとしているんでしょう」
アジュテビさんの言葉に馭者が答える。外を見れば確かに、山のように(底の方が潰れないのだろうか?)ブドウを積んだリヤカーを引く男がのろのろ往来で立ち往生していた。彼の前で奥さんと思われるさっぱりとした服装の女性が人込みをかき分け、彼のために道を作ろうとしている。微かな風が彼の荷と僕らの馬車を繋ぐ。
ああ、ブドウの甘く爽やかな匂い。
斜面にできた緑の畑、海に落ち込む、風が雪崩れる。
その時である。僕の目の前で、人込みの中から白い腕が一本飛び出した。その手は積み上げられていたブドウの一房を、息のつく間もなくさっとくすねた。
男も奥さんも気付かなかった。しかし、周りにいた誰かが気付いたようだった。
甲高い女性の喚声が上がる。
「泥棒だ!」
世界の終りが来たかのようだった。大混乱が巻き起こる。僕の幻は消し飛び、馬が興奮して鳴く。もともと混沌としていた景色が更に入り乱れ、収拾がつかなくなる。
「見つけたぞ! こいつだ!」
「この流民の分際で!」
泥棒は捕まったようだった。
怒声、罵倒、嘲り。極限まで達した熱は一振りの拳となり、うち落とされ、後には冷ややかな達成感が満ちた。調和が戻り始める。先程までの混乱はどこに行ったのか、全てが終わると人々は整然と移動を始め、道からはけていった。リヤカーも僕たちもやっと進めるようになった。
馬主は手綱をとる。アジュテビさんは帽子を目深にかぶり表情が分からない。ゆっくりと遠ざかる馬車から打ちのめされた盗人のうずくまる姿が見えた。小さく、汚れて、哀れだった。アゴタなら土煙が立ちあがって彼を隠してくれるのに。僕はただただ憐れんだ。その他にやりようはなかった。
――――――
営業所につくとアジュテビさんが乗るべき船があと一時間で出るということだったので、先輩は一服をする間もなく大慌てで手続きを済ませる破目になってしまった。
この街には漁業用の港、交易、旅行用の港、軍事用の港、三つがある。といってもその区切りは曖昧であり、交易、旅行用の港が荒れていて停泊できないとなると、その貨物船が漁業用の港に泊まったりもするらしい。理由は分からないが、アジュテビさんの船はその漁業用の港にあるということだった。
再び馬車に乗り込み急ぐ。馬主も現在の状況を了解していて、馬車が左右に揺れ転覆するのでは、と危惧してしまうほどまで飛ばしてくれた。
朝日を浴びて美しい漁村を突っ切る。男たちはもう漁に出てしまったようで、子供たちが走り回って遊んでいるのが見えるだけだった。
港には二隻の船が停泊していた。一隻は先輩が乗る南に向かう帆船。もう一隻はその巨大な体と砲台から軍艦ではないかと思われた。
馬車から下りても僕らは急ぐ。海鳥たちが桟橋を踏み鳴らす僕たちに驚き、空へと逃げ去って旋回している。
魚だろうが、鳥だろうが、海だろうが、空だろうが、ここでは皆、青を泳ぐのだ。そして、僕らもそうだ。海面が日光を乱反射し僕の眼は眩む。
ああ。懐かしい。潮騒だ。
別れ際、桟橋で先輩は僕の掌に銀貨を四枚握らせた。
「いいからもってけ」
「そんな。こんなにたくさん。でも……」
「無一文なんだろう? 後で利子付けてここに返してくれればいいさ」
先輩は肩にかけた麻袋を叩く。
『おお 敵はおきる
ねぼけまなこで
ベッドからふるえ出て 夢かとおもうだろう
自分をつねって 悲鳴をあげ
夢ではないことを知る
船がはいってくる そのとき』
「何の詩ですか?」
先輩はバリトンの美声でハミングしながら、僕に向かってにっこり笑った。
「いいだろう?」
「ええ。いい歌ですね」
顔の笑みが一層にこやかなものになる。
「俺が作ったんだ。本当のことだ。ああ、なんとなく、ね」
※『』内の歌詞
「when the ship comes in (船が入ってくるとき)」より
作詞作曲 Bob Dylan 日本語訳 片桐ユズル 「The Times They Are A-Changin'」収録 1963




