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D、もしくはクボの街々  作者: ベイズ335
眼窩の、蒼い瞳
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知ったこっちゃないね

 舞台裏の通路は鼠が走っていた。

 だが、落ち着いた。余りにもここ以外が清潔で、立派過ぎたていた。気後れしてしまう。そう、これでいいのだ。

 

 老人の歩みは遅く、すぐに追いつくことができた。

 漆喰壁を貫いて、騒ぎが聞こえた。

 

 幾重に声は重なり、揺れ、歓声とも、罵声ともつかなかった。だが、そこに何かを動かす力強さがあった。それだけは確かだった。

 

 舞台に立つだけならば、ここに来るだけならば誰でもできる。如何に振る舞うか。如何にその先を、その先を、見ず知らずの彼らに確信させるか。それが問題だった。


 通路は行き止まり、幕裏に出た。

 舞台には、ビロードで緑色の椅子が一つ、演壇が一つ、水差し、グラスが一つずつあるのが見えた。


 赤毛の青年が精悍な腕を機械のように振り回して何かを主張している。手をかざし、胸に当て、握り、そして、放つ。

 彼の視線は観客の方に注がれている。目を軸に、動き、叫んでいるかのような動きをする。だから、僕には彼の横顔しか見えない。唾は飛び散り、汗は滝のように流れる。だが、何を気にするでもなく、青年は話を続ける。


 黒のローブが踊りの衣装のように風を切って舞う。かっこよかった。一瞬で、憧れてしまった。


 彼は言葉を切った。

 凄まじい緊張だった。

 世界にこんな静寂が存在し得たのかと思うほど、彼の声の存在感は圧倒的だったのだ。


 彼が中央の演台に戻り、締めの一言を述べ、蝋燭の火を吹き消すと、どっとけたたましい拍手が湧き上がった。建物の中で反響し合い、豪雨に当てられるトタン屋根のような音だった。

 自分を求め渦巻く歓声を聞きながらも、上気した体を深呼吸で冷やし、感情を露わにせず、赤毛の青年は向こうの幕裏に颯爽と去っていった。水を替え、演壇を拭くために、従業員がぱたぱたと出てきた。


 僕の目の前にいたおじいさんがにやりと笑った。

「頑張ってらっしゃい」

 

 僕は地面を蹴った。

 僕は飛んだ。僕は空中で興奮していた。

 腹に思いっきり息を貯め、止める! 鼓動する心臓がある!

 これが緊張だ。

 

 僕は自分の限界を知っている。僕はあの赤毛の青年のような演説をぶつことはできない。奔流の行きつく先が、この吐き気だ。だが、これは僕の気持ちそのもの。どう目を背けられよう。


「ええ、頑張ります」

 胸がどきどきする。何度息を吐いても足りない。


――正直に言えば、僕は彼女の名をほとんど忘れてしまっていた。

 彼女が去ってから、舞台に計算器が運ばれてくるその瞬間まで、僕を取り巻く世界は余りにも慌ただしかった。

 

 僕は自分が舞台に立つさまを想像した。服はどぎつい照明で輝いて如何にも新調っぽく、髭の薄い顎や、眼鏡が実に頼りないし、指先にいたっては震えている。その哀れさといえば、見世物小屋の見世物たちのようだ。鼠が人間の女になった。でも、頭は鼠のままだから白痴みたいなものさ。二足で歩くこともできないぜ。見てみろ、尻を突き出し四つん這いで牛乳を舐めていやがる。

 

 思えば、スリルや道徳的嫌悪もあったが、結局僕は彼らを愛し、夢中になったのだろう。

 

 八年前の前謝祭。あれが僕と魔法の最初の邂逅。際限なく繰り出される不思議。神の御業ではないが、神秘に違いはない。それを否定することはできない。その証拠に、僕はつき動かされた。神秘をこの手で創り出してみたくなった。魔法を、数学を学んでみたくなった。そのためには? そのためには……そう、だからこそ僕は。


「島を出たかったんだな。裏切り者め」

 

 僕を呼ぶ声がする。

 もう一度目をこする。火を吐いて太股が痙攣する。


 幕を出ると、温度が違った。

 

 熱い。熱気だ。僕の足音、響きすぎじゃないか?


 頭の中で何度も繰り返した足の持っていき方で、中央まで行く。向き直り、ただ立つ。ただ立つ。これに馬鹿力が要る。並んだ円形テーブル、それを囲む男たち。辺りは薄暗く、はっきりと判別できるのは、目の前に足を組んでいるのは唐黍の毛のような髭を生やした男程度。


 表情を見るな。視線を上げ、照明がどこにあるのかを見極める。埃と煙が闇を裂く白光の中で揺れている。

 

 拍手がぱらぱらと鳴った。

 

 九番目だ。彼らからすればただの義理の拍手なのかもしれない。だが、僕は轟音を上げ迫ってくる輪車を思い出した。

 やめてくれ。と、僕は泣きたくなる。不安も緊張も希望も、何もかも混じって、吐き出したくなって、直前の興奮はどこへやら、そんな気持ちになる。

 

 僕はもったいぶった動きで、誰も見ず、鼻を擦った。

 彼らの声を聞け。聞くんだ。限界まで高めろ。そして、忘れてしまえ。

 どんな気持ちがそこにあろうと、泣くわけにも、膝を屈するわけにもいかない。

 

 拍手が鳴り止んだ。うんともすんともしなくなった。僕の言葉を待っているのだ。

 僕は蝋燭に火を点けた。


「これは私の友人の話です。彼の家は製鉄業を営んでいましたが、廃業しました」


 僕に問う声がある。

 何故か。何故だろうな。


「原因は単純です。アゴタの産んだ魔法です。あそこの連中が謎めいた数式を用いるだけで、製鉄に必要な熱が起こるのです。昔ながらの製法は、歴史の産物になってしまった。多くの従業員を抱え、彼の父は破産しました」

 

 君はどう思った。


「自然なことでした。彼の父は革新に対応できなかった。何故ならば、革新とは必然的に発生し、一見間抜けなふりをしたまま、瞬く間に世界に遍在するようになってしまうものだからです。私はこのことに、月がそこにあるような、人が死ぬような、厳命なるものに裏付けられ、予定されたものがある気さえするのです」

 

 声は驚くほど通った。円形の屋根に跳ね返り、山彦のように聞こえた。


「さて、私も皆さまに、皮肉めいて、無用に思える、発明をご紹介しましょう」

 

 照明がきゅっと細くなり、僕らの計算器に集中する。僕は計算器の乗った演台の脇に立ち、会場のみんなに呼び掛けた。


「二つ、数字を、なんでも良いです、言ってください。まずは加算をしてみましょう」


 何度も脳内で繰り返していた言葉を一旦吐きだし終えると、心に空白ができた。

 こんなに短い演説だっけ? 

 前の彼は輪車の計算用紙並みに言葉を並べていたぞ。目がぐるぐる動いた。どこにでもいてどこにでもいないような気分だった。

 

 すると、気付いた。

 暗闇の向こうで、何かが囁かれている。耐えきれず、僕は急かした。


「どなたかご協力いただけませんか? 何でも大丈夫ですよ」

「60と80!」

 ようやく会場から声が上がった。光線を横切る埃が揺れた。

 

 落ち着け。簡単だ。心臓を抑え込み、計算器に向かう。

 0、0、0、6、、0、クランクハンドル、0、0、0、8、0、クランクハンドル。

 

 がちゃり、がちゃり。歯車が回転する。答えは?

 ……140。よし。暗算ともあっている。


「140。お近くの方はどうぞご覧になって。この機械は計算器と言います。999999までの値ならば、皆さまの従順な僕となり計算をこなしてくれることでしょう。といっても、これは十二桁までの計算にしか役に立ちませんから、皆さまがこなすような複雑な計算の助けにはならないかもしれません。ですが、物は使いようです。皆さまは輪車を動かすのに何人の使用人を雇っておられますか。火を起こすには、豆を引く臼を動かすには、調理のための細やかな温度調整には? その程度の計算ならば、それほど多くの計算は要らないでしょう」


 組んでいた足を地につけ、何人かの男が身を乗り出し計算器の答えを見た。答えを見ても、彼らの鈍い顔は動かない。僕への関心が生まれない。


「さあ、問題を出してみてください。999999999999までなら、この計算器が見事解答してくれるでしょう」


 唐黍の男が痰の絡んだ咳払いをする。

 客の反応は薄い。まずい。


「何でも結構ですよ」

「111×111」


 そんな簡単な問題を問わないでくれよ、そんなことを思う。


「12321です」

 僕は12321を指し示している計算器の値を必死にアピールする。

 

 静かだった。

 閉塞感が場を支配していた。僕と彼らは分断されていた。

 

 この空気をどう打開したら良いやら見当もつかなかった。円形のテーブルをきちんと取り巻いて、闇の向こうで蠢き、投機家たちは秘密の言葉をこそこそと耳打ちする。僕の話をしているのか? していないのか? しているとしても、それは好意的なものなのか? 

 

 砂を搔くように、空を噛むように手応えが無い。反応が無い。会場の暑さに胸元から扇を取り出し、仰ぐ。その微風でさえ、僕の心をめちゃくちゃにしてしまいそうだった。


 扇を閉じる。

 骨が鳴る。ああ。


 僕は照明が差し込む元を見上げた。胸が苦しい。二階の自由公聴席隣りの照明室。投射士が計算を怠けて、新聞を読んでいるのが見えた。


 光は僅かに、だが確実に力を失ってきていた。


「             」


 問いだ。∑は少し面倒であるが、所詮、1+2+3+…10なのだから大丈夫。手が動いて、歯車がぎりぎりとなる。僕の目はまだ照明室に釘付けになっていた。


「           です」


 暗算で確認するのを忘れた。

 誰か教えてくれ。本当に僕は正解を導きだせているのか?

 しばらくして、また問い。


「             」

 がちゃり、がちゃり……。

 

 自由公聴席には子供がたくさんいるようだった。親に連れられてきたのか、あるいは学校の行事かもしれない。薄暗い二階の木組みの席から、僕が一体どのように見えるのか想像してみた。過度の緊張、離人症気味の顔。


 空気が薄かった。僕は引き攣った瞼を閉じねばならなかった。あの責任の無い場所で、安穏とこちらを観察している子供たちに、肢体を引き裂くような嫉妬を感じていた。

 

 ただ、子供に帰りたかった。


「           です」


 声が上がった。

「違うぞ、18だ!」


 会場がいまだない程にざわめいた。

「え?」


 意味が分からなかった。僕はもう一度、取り戻した心を使って、数字を示すダイヤルを見た。十二桁の枠が指し示すのはやはり――28だった。

「え?」


 落ち着け。考えろ。暗算だ。

 

 僕は考えた。考えた。

 会場は海のように揺れ、ぽつぽつと小さなざわめきが起こった。騒ぎを聞きつけ照明士がやる気を取り戻したのか、光が俄かにぎらつき、僕の深刻な顔を白日のもとに晒した。


 こればかりは避けなければなかった。

 失態だった。


 絶望的な光景が圧縮され僕の脳裏を一瞬で駆け抜けていった。脳がぐんぐん揺れた。困った、困ったぞ。

 最悪なことに、会場も困惑していた。僕は同情されていた。なあなあの、温く、ゆるやかな空気の中で、惨めにも。


 混乱した頭では暗算は行えなかったものの、結論は明らかだった。

 僕は間違っていた。正しい答えを導き出せていなかった。


 目が回る。目が回る。目が回って、頭が痛い。


「え?」


 その時、影の、靄の、遮る向こうで、一人の男が立ち上がった。

「何言ってんだ、いいんだぞ! 28で!」

 老いた男の声だった。絶え絶えで、ガラガラの声で、彼は主張した。


「え?」

 

 間違い? 

 何が?

 

 僕の喉から漏れた問いは、すぐ、会場から湧いた笑いにかき消された。


「そうだ、なに訳の分かんねえこと言っているんだ!」

「引き算なんて、10のガキでも解けるぞ!」


 しばらくすると、爆笑の中から、早とちり男の謝罪の声が上がった。

「悪い、28だった! ごめんよ!」


 ひょうきんで、憎めない声だったのが、会場が感じていた可笑しさを更に加速させた。

 10人もの濃い話を聞いた疲れや、緊張もあったのかもしれない。とにかく、笑いは誘爆を繰り返した。

 隅々まで広がり、二階の隅まで。会場は一つの生き物のように話し、匂い、動いた。僕や早とちりした男を対象にした嘲笑をするのではなく、カラカラとした、ただのオカシミを楽しみながら。

 

 よかった。まだ手が震えている。

 照明が逸れた隙に僕は胸を撫で下ろす。

 

 僕はアジュデビさんが教えを忠実に守った。つまり、騒ぎが落ち着くのを待った。

 

 いつの間にか汗が引っ込んでいることに気付いた。暑さは変わらないが、自分のものにすることができていた。胸の高鳴りは平常の鳴りになり、客観的なものの見方がある程度できるまでになった。

 一方で、会場はいつまで待っても落ち着く様子がなく(いつまで、と言っても実は数秒の話で、僕が長く感じていたのかもしれないが)、ざわざわ、ざわざわと。風になびくブナや洗濯物のようだった。

 

 その時だ。ある種、予感のようなものが舞い降り、僕がはっとしたのは。

 

 全身の神経が耳に集まり、何かを探し始めた。時間はかからなかった。実にあっという間に、驚くほど上手く、僕はそれを発見することができた。

 

 会場は暗く、照明は乱れていた。騒ぎが落ち着くのを待ち、僕は僕しかいない演台に立っていた。僕には彼女の声が聞こえていた。

 

 ニコの声だ。

 ニコの声だった。

 

 二階の薄暗い自由公聴席から、世慣れして、高慢で、耳に懐かしく、それだけで絵が描けるような声が聞こえたのだ。


 これは重要な意味を持っているように思えた。

 僕にとって、どうしようもないくらいに。


 何故、ここにニコがいる?

 理由は分からないが、それでも、あれはきっと彼女に違いない。


 そんな根拠のない確固たる確信が生まれると、笑いたくなってしまった。


 笑うな。頬を緩めるな。くすくすが漏れる。これもアジュデビさんの助言だったが、守れそうもない。会場を見ろ、皆はまだ笑顔。それでいいんだ。


 熱をはらんだ会場はいい塩梅に冷めてきた。ざわめきも静かになってきた。照明士はしっかりとした焦点を取り戻し、僕に乳白色の光を当てた。それにも関わらず、依然として声の主は高らかに笑い続けていた。屋根にぶつかり、煉瓦を埋めるモルタルにぶつかり、人の耳を掠め、再びざわめかせ、声は僕の下へ集まってきた。


 どこかで僕のことを聞きつけたか、見かけ、懐かしさに駆られて、来たのかもしれない。二階は窓があり風通しが良さそうだから、涼むつもりだったのかもしれない。それとも、特に理由もなく僕をあざ笑いに来たのかい?おい、そりゃあないぜ、ニコ。だが、それだって充分あり得るのだ。僕は嫌な気分にはならない。


 遂に、笑い声は一つになった。その主だけが笑っていた。僕はそれを強く感じた。誰もがその声を聴いていた。


 弾丸の嵐に先陣を切る旗持ちのように。

 果てない海を陸から陸へ越えていく渡り鳥のように。

 そして、ここにある全ての視線を受ける、僕のように。


 彼女は一人だった。

 あれは孤独な者の笑いとは思えないけれど、やっぱりそうとしか言いようがないのだろう。


 この出来事を僕は直感的に理解した。彼女と僕の人生が交差するのはこれで最後なのだ。悲しいことだが、仕方がない。他にしようがないのだから。


 僕はまた長口舌を始めなければならなかった。計算器について語るべきことはまだまだたくさんある。頭に叩き込まれた言葉一語一語が水飛沫で、海だった。

その最初の言葉を口にしたら、僕らを隔て、海は流れ始める。


 あいつの笑い声を聞くのは、もしかすると、初めてかもしれないな。

 どうでもいいことだ。

 

 冷静になれよ、きっと別人だぜ。

 知ったこっちゃないね。


 コンパスを北に合わせろ、ニコ。僕の血にも、お前の血にも、天気が流れている。遠くまで行ってみたくなる、同じ天気が。


「さて、皆さん」

 言葉が霧を払う。心地のよい緊張だった。


 どう、言いようがあろう。

 どう、伝えようがあろう。

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