悪くない いや、ひどく怯えているよ
夜は開けた。三人の人間が宿を出る。
黒いたおやかなローブを纏い一人の男が力強く地面を踏みしめ歩いていく。
典型的な野心家、成り上がり的な挙措であるが――だが、ヤシロ人はこのような人こそが世界を動かすと考えている――嫌味なものは無く、むしろその粗野が彼の誠実を表しているように思える。
その二歩後ろには、従順な使用人がかしこまった様子で控えている。従者もまた靴のように主人を映すという。その歩みの妙なるを見よ、彼が体現しているものを見よ。そこに傲慢はあるだろうか。そして最後に、彼の妻と思われる美しい女がその二歩下がって付いていく。端正な足の運び、横着の無い服装。幼稚で喧しい自己主張など微塵もなく、あるのは深い思慮、智慧。これが淑女。言うことはない。
完璧である。彼らは保守的かつ野心的と言われるヤシロの地に違和感なく符合し、存在していた。百年も千年も前から、この街に名士として存在してきたかのように。
「ええ、母の生まれはそうですが、僕の生まれは違うんです」
はて、こんな会話をどこでしたような。遠い記憶がぐるぐると回る。
―――――
「何も言うな。嘘を言ってはいけない。だが、本当を言ってやる義理もない」
家に招いて(フェルの作った)夕食を御馳走するという条件で、僕はアジュデビさんにご教授を願った。
彼を招待した日、到着の三時間前、僕は家畜小屋の老犬とともに鳥小屋に向かい、自分で四羽の鶏をしめた。
「黒色を着る。ちゃんと絹でいいやつを、だ。フェルちゃんはサテンの手袋ね」
鶏肉から零れる香料とチーズを床の上に落とさないよう苦戦しながら、彼は語った。
「はあ」
それだけ?
おそらく、使用人二人も同じ気持ちだったのだろう。
「……というのは誰もがわかっていることだとして……そ、そうだな。BC君はプレゼンテーションって得意?」
と、救いを求めるようにジージ、フェルと眺めた後、慌てて先輩は付け加えた。
「プ、プレゼーション? は、はあ。あまり経験はありませんが……」
先輩の顔は快晴になる。組んだ腕の肘を机の上に立て、身を乗り出す。
「BC君、俺のことをどう思っている?」
「そんな、急に言われましても……」
困惑した僕の表情に満足して、二度三度先輩は頷く。
「はは。言わなくていいよ。そうだ君に謝んなきゃ。俺は話を常に三割盛る」
「モル?」
アジュデビさんははにかみながら(恥入るというより照れた表情で)神に祈るようにして両手を結んだ。
「催し事を尋ねて回る的屋の倅でした、ワタクシはね。クボにも昔巡業で来たことあるよ。うん。大学どころか、民間初等学校も出てないし」
僕はひっくり返りそうになった。
「え。で、でも、カルナップ教授のもとで学ばれたんじゃあ……?」
「だから、盛ってんの。教授とは商売上の付き合いがあるけど、別に生徒ってわけじゃあない。だから俺は数学ができる君を本気で尊敬しているんだぜ」
ジージとフェルは僕が何故こんなにも狼狽しているのかと首をかしげる。
君たちがうらやましいよ!
「嘘はついたことはないぞ。俺に抱いていたイメージと『俺』は違ったかい? まあ、どうでもいいことだけどね。イメージとか『俺』とか。でも、こういうことだ。使いこなせば、色々できる」
絶句。
いたたまれず、僕は水をぐっと飲み干した。
名誉のための弁明によれば、「七割は真実」で、交易で一山当てたこと、そして失敗したこと、あの七色の玩具がそれなりに売れていることは「本当」だと言う。
―――――
ヤシロの喫茶店はアゴタ程の規模はなかったものの、施設は新しく、各発表者の待機室まで備え付けられていた。
十人中、九番目。あまり期待されていない順番である。
一人退出場含めて二十分、つまり三時間以上の待ち時間があることになる。何度も船上で繰り返した練習をもう一度繰り返しても時間が余った。その時間で、僕は使用人二人にこんな話をした――。
アゴタに興った帝国が膨張し、西海岸に辿り着いたころ、まだ製紙技術はなく、記憶媒体といえば、大柄で複製困難な粘土板しかなかった。それでも、僕らは刻まれた記録を読み、そして人々が何を考えたか感じることができる。僕が大学へ入学する三年前、四百五十枚近い粘土板がカタヒの道沿いの遺跡から発掘された。この考古学上稀にみる大発見は徹底的に研究し尽され、遂に僕が入学するのころには一般に公開されるようになっていた。
内容は日記……いや、詩だった。昔の野良詩人が戦勝の喜びを内から震える情熱とともに叩きこんだ、詩。文学的価値は微塵も無いらしいが、調子はあくまでも格調高く、擬古文、テンゲンタ語の歩みで。
紅き岸壁、炎上す。落つる首、巨石の谷間に消え。
人々眠らず。女子ら声を上げ、男らを待つに倦むことなし。
ヤシロの支配下にあったクボへ侵攻が行われ、捕えられた族長は処刑された。引きたてられ、カタヒの道を歩かされ、恥辱の限りを尽くされた後、軍団の凱旋を待つこともなく、興奮した民衆に斬首された。
その一連の様を想像し、僕はこう思う。きっと悲しかったのだろうな、と。
かの頭と僕はほとんど血の繋がりを持たない。だからこそ、他人行儀に話すことができるのだ。混血の結果だ。あの悲劇を背負う者はもうこの世界にはおらず、ただ風のまにまに吹かれているだけ。
「何とも思えませんねえ」
と、ジージ。
「Dさまのおっしゃる通り、今クボに住んでいる人たちと、当時の原住民はもう別の民族と言っていいでしょう。何とも思いませんよ。遠い遠い昔の話です」
ですが、と彼は言葉を付け加えた。
「もし彼らを憐れまなければならないとしたら、それはやっぱり私たちなんでしょうな。髪も瞳も黒い私達が」
フェルの胸元で蛍石の首飾りが揺れる。彼女自身が欲しいとねだったので、工場跡の木の根元から掘り起こしてきたのだ。女性に装飾品をねだられるというのは、僕の人生おいて初めての経験だったせいか、妙にドキドキしてしまった。まことに着飾るとは、素敵なことだ。まごうことなく、彼女は美人だった。半世紀前のイヤリングも指輪も腕の良い職人に研磨され曇りはなく、彼女の存在を引き立たせる。
その時、その腕の良い職人が頭を上げ、耳をそばだてた。
「し! 静かに。誰か来ます」
入ってきたのは皺だらけで背骨の曲がったおじいさんだった。歩くのもやっとな様子なのに、右手に長い蝋燭を後生大事に抱えており、バランスを崩して今にも転んでしまいそうだった。
「…さん……かい? 出番は…次ですよ……」
彼は蝋燭を僕に渡し、言葉を噛むように言った。蝋は暑さで柔らかくなっている。
「てっきり大分……お歳を…しておるかと」
彼の言葉は非常に聞き取りづらく、要領を得ない。
僕が聞き取れていないことを理解したのか、彼は胸ポケットから一枚の紙を取り出す。乱雑で判読難しい字面。
どうやら、様式から見るに彼が写した僕の申請用紙だった。読んで驚いてしまった。僕の名前が「クボ」になっているのである! 細心の用心を持って書類は点検したはずだ。
おそらく、このおじいさんが付添人の出生地(付添人は人数と出生だけを申請者名の脇の枠に書けばいい。もちろん、僕の出生は偽称だ)と僕の名前を間違えたのだ!
おじいさんはにこにこと微笑みながら、細めた眼で、僕の全身を舐めまわすように観察する。目を覗き込む。
僕の瞳は黒くはないだろう。あんたらと同じ、蒼さ。
「昔の……誰でしたかな…、ほら、クボを……征服した大将ですよ。功績を……讃えられあだ名になった。ほら……最近…芝居にもなった。観に行って…おられませんか……ねえ」
彼は詰まりながら、ゆっくりゆっくりと語る。どうやら僕の(誤った)名を昔の征服者のあだ名と捉えているようだ。
「ラティウスですか」
僕は適当に話を合わせた。
「私の祖父の…兄弟にも……そんな名の…者がいました……クボとか…タカシラ……とか。まあ……アゴタがこの街を征服する…以前の……なのですけどねえ……」
感傷の中のおじいさんは微笑みを焼きつけたまま、突然何かを思い出したかのようにえっこらよっこらと待合室を出て行ってしまった。
あまりに脈絡のない行動だったので、三人誰も反応できなかった。彼の頭の中では、僕の手を引いて舞台に連れて行こうとしているつもりなのかもしれない。
僕の掌で蝋燭が燃えたがっている。まだ時間はあった。訂正もできた。何の因果か。何故、僕がクボの征服者を名乗らねばならないのか。こんなこと、不条理でしかない。皮肉でしかない。
だが、結局訂正はしなかった。
面白かったからだ。
「僕が」
「島の征服者でしたとは」
彼が去って、クボ人しかいない待合室で、僕ら三人はけらけら笑った。
「実は今でも私は、Dさまは大陸にいるべきだった、そう思っているのです」
「そうか」
「お気になさらずに。さあ、私たちがお手伝いできるのはここまでです。御気分は?」
「悪くない。いや、ひどく怯えているよ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫さ」
二人は笑うのを止め、真剣な面持ちになった。そして何も言わず、順番に僕を抱きしめてくれた。海の匂いも、大陸の匂いもしなかった。日の浴びた小麦のような、二人の、家の、あの匂いだった。




