鮮やかな傘
長い航路を行く眠たげな舷燈が、ぽつりぽつりと水平線に現れ始め、水面で揺れていた。クボを出発し三日目、昼過ぎ頃には大陸が見えた。
いよいよ陸の喧騒も聞こえんばかりに近付いたとき、突然船尾で幼い歓声が上がった。続いて、短音の汽笛が三回。眺め見ると、豪華絢爛、金や宝石で飾り立てられ輝く手漕船が、あわや僕らの船縁にぶつかりそうな勢いで突っ込み、かすめ、ちょうど走り去っていくところだった。
この劇の首謀者であろう背の高い裕福そうな若者は一瞬だけ得意げな顔でこちらを振り返ると、軍人特有の発声で漕ぎ手たちをけしかけた。漕ぎ手たちは見事に応えた。手漕船は僕らを残してみるみる遠くへ小さくなっていき、そして視界から消えた。
僕とフェルが腰かけていた一等室客用の日傘の下に、ジージが滑り込んできた。彼はいつも来ているお古から着替えて、いたって地味な、人の記憶に残らない紳士服を着ていた。腹周りが若干窮屈そうだが、体を合わせてもらうしかない。
「いよいよヤシロです」
「そうだね」
接岸には時間がかかった。僕ははしゃぎ回るクボの子供たちを眺めたり、ジージとこれからの事を打ち合せたりした。麗美ではあるが肩苦しそうな服を着込んだフェルは、クボから出たことが無いはずなのに、不思議と落ち着いているようだった。
それで、黄昏の優雅な凪に、とうとう僕たちの船はアゴタに着いたのだ。船上での最後の昼食を取る。小さな揺れがあり、僕は食器を落とした。
数か月前まで僕はこの大きな陸地に住んでいたのだ。
感慨のような、後悔のような、不思議な溜息が洩れた。
あの時、クボに戻るという決断をしなかったら?
僕もあの若者のように自前の船に自前の漕ぎ手を用意できたのだろうか。
自分が嫌になる。
もはや笑い話でしかないのに、どうしても笑えないのだ。
上陸はすんなりとはいかなかった。消毒屋が事前の手続きを横着したのか、子供たちの入国審査は時間がかかっていた。
もたつく合間に彼らの顔が衆目に晒される。これでは何のための「消毒」なんだか分からない。
島から来たという事実を知られるわけにはいかなかったので、念には念を入れ僕らは部屋の中に引きこもり、子供たちの手続きが終わるのを待った。
夏のような日差しがようやく翳り始めていた。それ故だろう、窓からこっそりと外を眺めると、港では陽光から逃れるため、傘売りに人が群がっていた。アゴタほどの日差しはないものの、脱水、日中症は怖いし、女性には美容も重要な問題だ。赤、黄、青、緑。様々な原色が溢れている。日傘をさしている風景が、荒野に突如現れた花壇のようで面白い。
その中で、何かが倒れた。
老木が自らの死期を悟って風の致すところに任せるようになるように、ひっそりと、ゆっくりと。
次に、悲鳴が上がって、ようやく人々も足を止めた。目の悪い僕には眼鏡をかけていても良く分からなかった。
「どうしたんだ?」
僕はジージに尋ねる。彼は非常に優れた視力を持っていたが、何故か視力の悪い人特有の、あの目を細める動作をしながら答えた。
「男の子が一人倒れました。航海で体力と気力を使い切ってしまったんでしょうね」
一度止まった往来は何事も無く再び動き始めた。それぐらいは僕にも見えた。少年の死体は少し目を離したうちに消えていた。
「僕は可哀相とは思わないぞ」
「ええ、私もですよ」
僕は緊張した。厳粛な静寂があった。僕とジージは互いを見つめる。心の優しい、フェルの顔が視界の内に入らないように。
子供たちの手続きを待つうち、いよいよ夜になってしまったが、これは僕らにとって好都合だった。港や道から人は減り、面が割れる可能性が下がったからだ。
部屋の戸を叩く音が聞こえた。身支度して外に出ると、酒気を漂わす船員が虚空に向かってチップをねだっていた。相場違いの金を胸ポケットにねじ込んでやる。
「嘘をつき続けるのは辛いことですよ」
「だろうね」
頼りなく揺れるタラップに足をかける。近場にとっておいた宿に急ぐ。
クボの親たちから預かった金を持って繁華街へ消えた消毒屋に取り残され、未だ嗅いだ事のない大陸の香りの中、子供たちがうろたえている。夜の帳が、彼らをいよいよ目立たなくする。
彼らを無視し、進む。顔を伏せ、誰にも見られないように。
空いた船に代わりに乗り込むお腹の大きな女性たちとすれ違う。これも顔を伏せ、誰にも見られないように進む。物乞いを蹴散らし、哀れなる者を避け、群衆をかき分けろ、裏通りを進むのだ。黒い髪を僕らは無視する。白い肌を僕らは無視する。黒い瞳を僕らは無視する。
僕のおろしたての皮靴が異国の舗装用煉瓦を砕く。
胸を張れ。お前はクボの人間だ。
航海中宿泊したのが一等室だったせいか、特段、旅疲れの感覚はなく、借りた部屋で、潮の臭いを消すため香を焚き、柔らかな布団にくるまっても、すぐ眠くなることはなかった。次の日のため、睡眠が必要なことは明らかだった。
熱く甘ったるい夜。窓から入る風だけが心地よく、頭と耳にこびりついた熱を持ち去ってくれる。二人の寝息が聞こえる。
今自分が実行しようとしていることについて、僕は考えた。
組合の目標と僕の目標はそれぞれ悪ではないし、同じ方向を向いてさえいる。だがこの世界において、何故か両者は決定的に対立してしまう。
これがおそらく悲劇や喜劇と言うもの。意思ややり方などはどうでもいいのだ。問題なのは運命だけだ。それは恐怖でもある。例えばこんな想像、あらゆる些細な一所作にまでに無限の責任が内在している。――そんな闇を誰が歩けよう。不安と恐怖で満ちた未踏に轍をつける、もし歩こうとすれば勇気か捨て鉢な絶望が必要になる。
僕にそんなものがあるだろうか。
あの娘にはあったのかもしれない。
そして僕は夢を見る。
――夢を見ているとすぐ分かった。
固く一文字に結ばれた女性の口元。また、クボで「消毒屋」を営んでいたあの老婆だった。見えたのは口元だけ。他は全て闇であり、鐘の淵を撫でた様な音が反響していた。
僕は何故彼女を夢に見たんだろう。彼女に何を求めていたんだろう。事業体を作るには公証人役場に行く必要がある。信頼してもらうには証明が要る。おそらく、それと同じなのだ。彼女のような生き方に対しての証明や確信を、いつだって、僕は求めていた。
鐘の撫で声のような反響は遠く、眠りは深くなる。そして夢は消えた。




